第五食 つまようじは見張ってないと、誰のかわからなくなる

「何だ?」

 衣素と掌が、戸を開けて外を見る。

 道で男が、高校生くらいの女の子からバッグを奪おうとしているのが目に映った。

「おい!」

 衣素が階段を駆け降りる。掌もそれに続いた。

 道には食品や日用品が転がっていた。買い物帰りを襲われたのだろうか。

「どうしたの?」

 背後からアゲの声が聞こえる。様子を見に来たのだろう。

「やめろ!」

 衣素が男につかみかかり、蹴りを入れる。男は後ろに飛ばされた。

 掌は見ていることしかできない。

 男は立ち上がると、衣素に向かって殴りかかるが、彼はその拳を軽々避ける。

 いつの間にか降りてきていたアゲは、地を蹴って飛ぶと、男の首に噛みついた。

「うっ!」

 男は声を上げてうろたえたが、アゲを片手でつかむと力を込めた。小さなアゲの体はじわじわと締められ、今にも握りつぶされそうだ。

「アゲ!」

 衣素が慌てて駆け寄る。

 男はニヤリと笑うと、天高くアゲを放った。

 衣素は飛び上がり、両手で落ちてくるアゲをつかむ。着地した隙を突いて、男が拳を衣素の腹に打ち込んだ。体勢を崩した衣素はうつ伏せになり、アゲは地に転がる。

 男は衣素を貫くかのように、片足で彼の背を踏みつけた。アゲも息を切らしている。

 掌はなおも、立ち尽くしていた。この一連の攻防に頭が追いつかない。体も動かなかった。

「掌、サーモン食え!」

 衣素のその言葉で我に返る。彼が指差す先には、寿司のパックが転がっていた。女の子が買ったものだろう。

 この状況で衣素が食事を摂らせる意味。それはわかっていた。

 今の自分には、喚食属膳を操ることができるはずだ。しかし、あの時の苦しみを忘れることはできない。正直、もうサーモンを見るのも辛い。

 だが……。地に伏せる衣素とアゲが目に入る。


 ――迷っている時間はない。


 掌は、パックを閉じているテープを剥がす。中からサーモンを手に取ると、シャリごと口に放り込んで咀嚼そしゃくし、飲み込んだ。

「右手から属膳を引っ張り出せ!」

 衣素は声を絞り出している。

 昨日の衣素を思い返し、右手の人差し指の下――歪な五芒星があるあたり――を左手でつまむ。

 五芒星は青くなり、その周囲は薄い青色になった。

 意を決して、箱からティッシュを取るようにつまむと、一本の爪楊枝つまようじのようなものが現れた。青い色をしている。

「何これ!」

 思わず声を出す。考えていたようなものとは違った。こんなもののために、自分は狙われていたのだ。希少な線だというから、銃のひとつでも出てくるのかと期待していたが――それはそれで恐ろしいが――当てが外れた。

 しかし、今はこれで戦うほかない。

 痛めつけられている衣素を救うべく、掌は走り出す。男の肩のあたりを目掛けて、青い爪楊枝を刺そうとした。しかし、男が手で払うと、心許ない武器は飛んでいってしまった。

「痛っ!」

 男が声を出す。手で払った時、先端に触れたのだろう。無駄に挑発してしまったようだ。

「何だよ! お前も何か文句があんのか!」

 男は掌をにらみつける。衣素から足を離すと、掌に向かって近寄ってきた。

 後退りする。掌は両手を広げて、背後にいる女の子をかばおうとした。こんなことをしても、気休めにもならない。

 男は掌の胸ぐらをつかんだ。

「なめてんのか?」

 その時だった。

「ぐっ!」

 男が苦しそうに頭を抱える。

いてえ!」

 男は叫びながら、あたりをうろうろしている。地面に膝をつき、涙を流した。

 その様子を見て、衣素が立ち上がる。男を押さえつけ、両手を背に乗せて拘束した。


 警察に男を引き渡し、事情を説明し終わった頃には、すっかり昼になっていた。予想どおり、女の子は買い物帰りに突然襲われたようだ。

「ありがとうございました」

 掌は女の子に頭を下げられる。礼を言われても、自分が助けたという実感はない。衣素の指示がなければ、あの状況に戸惑っていただけだ。

 掌がどう返してよいかわからずにいると、衣素が口を出してきた。

「いやいや、僕は何も。全部、この宮浜沢衣素とアゲダママルのおかげですから」

「そういうの普通、助けた本人が言うんじゃないの?」

 そうは言ったが、衣素の冗談は本当のことなので、強く否定することもできない。

「ありがとうございました」

 女の子は衣素にも頭を下げる。

「あなたもね」

 彼女はアゲダママルの頭を撫でる。

 アゲダママルは何も言わず、尻尾を振っていた。家にいる時とは違い、四足歩行になっている。


「散々だよ。昨日は誘拐されて、今日はひったくりと戦うなんて。この町おかしいんじゃないか?」

「あ!」

 掌がぼやいていると、衣素が大きな声を出した。

「何?」

「もうこんな時間じゃねえか! 急ぐぞ! 掌も手伝ってくれ!」

「え? 何?」

 衣素に促され、一旦、二階に行き、中から一階に降りる。一階の扉の上に掲げられた『衣素食道』と書かれた看板を外で見かけた時から、察しはついていた。

 厨房、カウンター席、テーブル席、テレビ……。彼は食堂を開いているようだ。

「ここがうちの食堂。掌は俺がつくった料理を運んでくれればいいから」

「俺、そういうのやったことないけど――」

「大丈夫、大丈夫。そんな難しくないからさ」

 店員は衣素と掌の二人だけ。いつもは衣素が一人で店を回しているのか、客もそのことはわかっているようで、効率を求めているような様子はなかった。しかし、慣れない仕事は疲れるもので、ランチタイムの一、二時間動いただけで、掌はへとへとになった。

 午後二時過ぎ。掌への説明が残っているからと、衣素は店を閉めた。そんなに簡単に営業時間を決めてよいのか疑問だったが、問いただす気力はない。

「お疲れ。急に悪かったな」

 二階のソファに腰掛ける。

「いや、それはいいけど。結構、大変だったな」

 掌がぐったりしていると、二人の帰りを待っていたアゲが盆にアイスの袋を二つ乗せて歩いてくる。

「お疲れ様。どうぞ」

「ありがとう」

 一つを手に取る。

「衣素も」

「サンキュー。アゲは気が利くな」

 衣素が頭を撫でると、アゲダママルは耳をパタパタさせて喜んだ。

 アイスを口に入れながら、掌は疑問をぶつける。

「そういえば、お店の名前『衣素食道』って書いてあったけど、ドウの字違くない? 何で?」

 食堂を表すならの字が正しいはずだ。

「そのことなんだけどな。俺、おっちょこちょいなんだよ。普通に間違えた」

 この男、大丈夫なのだろうか。

「掌、うちでバイトしないか?」

「え……」

 衣素という男は読めない。何を考えているのやら。

「このままだと、また昨日みたいな目に遭うかもしれないだろ? 今住んでる家は危ない。これからは、うちに住んでもらっていいからさ。アゲはいい?」

「アゲはいいよ」

 耳をパタパタさせている。歓迎されているようだ。

「給料も、普通のところよりは多めに出せるからさ」

 丁度、働く場所を探そうと思っていたところだ。住む所まで与えてもらえるのはありがたい。

「今住んでる部屋の手続きも、こっちでやっておくから」

「そんなことできるの?」

 掌が警戒していると、それを察したのか、衣素が返してくる。

「いや、別に怪しくなんかないよ。あはは……」

 昨日の大将の裏切りが頭から離れない。衣素を信用しないわけではないが、信用するには日が浅い。昨日の今日だ。

「あの……一回、考えさせてもらってもいいですか?」

「まあ、そうだよな。疑うのも無理はない」

「っていうか、バイトって、さっきみたいに皿運んだりテーブル拭いたりするだけじゃないよね?」

 この男の狙いは……。

「ああ。膳繊手としても、しっかり働いてもらうぞ!」

 衣素は親指を立てる。

「やっぱ、怪しいじゃねえか! 俺、犯罪に利用されるところだったの?」

「違うって! むしろ逆だよ!」

「逆?」

「俺たち植瑠暖ウェルダンは、昨日のあいつみたいに膳繊流ぜんせんりゅうを悪事に使おうとしている奴らから、人を守るのが仕事なんだから!」

 衣素は真剣だ。しかし、それでもまだ決心がつかない。掌は言葉を失う。

「今日の夜、丁度仕事がある。職場体験ってことで、お前にも参加してもらいたい。決めるのはそれからでいいから」

 今夜も穏やかでない何かに付き合わされるであろうことだけは理解できた。

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