第三食 三十過ぎると脂は辛い

 大将はバイクから降りると、服のポケットに手を突っ込み、リンゴを取り出した。それを口へ運び、かじる。

「危ないじゃないの!」

 五十代くらいのその女性は、倒れている掌とナポリタン男の心配などせず、不満をぶつけていた。

「うるせえ!」

 大将は右手の手のひらを突き出す。親指の付け根あたりに、ナポリタン男と同じ手相が見える。位置こそ異なっているものの、あの男と同じ形をしていた。

 その線は黄色くなり、その周りが薄い黄色になると、一本のロープのようなものを吐き出した。黄色いそのロープは、女性が連れていた犬の首元に巻きつく。まるでリードのようだ。


 ――何なんだ、こいつらは。

 

 それまで大人しかった犬は大声で吠え始めた。飼い主のもとから離れ、大将の所へ駆けていく。

「ラングドシャちゃん!」

 飼い主の女性は驚いて声を出した。

 大将は右手を掌に向ける。その瞬間、犬が掌に向かって走ってきた。ギリギリのところで止まってはいるが、今にも噛みつきそうだ。

「お前ら二人とも動くなよ!」

 大将はナポリタン男の方を向く。

「少しでも動いたり、さっきみたいに属膳ぞくぜんを出したりすれば、この小僧がどうなるか――」

 この男、見知らぬ犬を操れるのか。犬は掌をにらみつけている。明らかに先ほどまでと様子が違う。

「しかし、まだその左足の属膳は無事のようだな」

 大将は男の左足を見ている。靴の裏に取り付けられた赤い刃のことだろうか。

揚属膳あげぞくぜんは、そのスピードが厄介だ。小僧を連れていった後で追いかけられるのは面倒だからな。まずはその揚属膳あげぞくぜんを破壊して――」

 大将が悪い顔をする。

「いや、足ごと使えなくしてやる! 行け!」

 大将が男の方へ右手を向けると、掌の目の前にいた犬が男に向かっていく。

「ちょっと待て!」

 掌は気がつくと叫んでいた。犬の動きが止まる。

「何だ小僧!」

「あんた、俺を捕まえに来たんだろ? もういいから――」

 掌は這うようにして、大将の方へ向かう。まだ体が痛い。

「あんたの言うとおりにするからさ、その人は傷つけないでくれ。頼むから。俺のせいで誰かに迷惑かけるのもう嫌なんだよ……」

 掌は右手の手のひらを見つめる。

「おい、命拾いしたな!」

 大将は男に向かって叫ぶ。

 男は悔しいのか、拳を握りしめていた。

 掌は重たい体を引きずり、なんとか大将の近くに着く。

「だがな――」

 嫌な予感がした。

「俺はそんな甘くねえんだよ!」

 犬が大きな口を開け、荒れ狂った牙が男の足へ向かう。


 ――どこの誰だか知らないけど、申し訳ない。結局、俺のせいで……。


 その瞬間、黄色のリードがプツンと切れた。犬の勢いが弱まる。

「な――」

 大将は言葉を失っている。

 掌も何が起こったか理解できなかった。

「そうさ。揚属膳あげぞくぜんは、スピードが取り柄なんだよ――」

 男はサッと立ち上がる。右足を上げ、左足だけで立つと一瞬で大将に近づいた。右足を蹴り上げ、大将の頭に直撃させる。大将は倒れ込み、気を失った。

 先ほどまで暴れていた犬は、何事もなかったように女性のもとに戻っていく。


 ――一体、何が……。

 

 掌は、大将の足元に小さな何かが転がっていることに気がついた。男が転倒した時に砕けた赤い刃の破片だった。

「お前が身をていして、こいつの視線をそらしてくれたおかげで、破片を拾うチャンスができたよ」

「もしかして……」

 あの時、このナポリタン男が拳を握りしめていたのは、赤い破片を隠し持っていたから。犬の攻撃を受ける直前でそれを投げ、リードを切断したのだ。

 男は携帯電話を取り出し、操作すると耳に当てた。誰かを呼んでいるようだ。

「……それじゃあ、よろしくお願いします」

 通話を終えると、掌に向かって言った。

「後は任せたから、もう大丈夫。お前は俺の所へ――」

 その瞬間、男はしゃがみ込んだ。苦しそうにうつ伏せになる。

「大丈夫か!」

 怪我でもしたのだろう。減速していたとはいえ、あれほどの勢いで転べば無理もない。

三十歳さんじゅうになると、さすがに脂っこいものは辛いんだよ……」

「え……ああ、さっきカツ食べたから?」

 胃もたれ男はしばらくの間、ぐったりとしていた。

 掌も拍子抜けして、ぐったりとしていた。

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