第二食 ご飯は食べたい時に限って食べられない

 気がつくと、背もたれのついた椅子に縛られていた。薄暗い空間の中で、小さな電球が天井から垂れている。

 どこかの倉庫だろうか。夕方にあの店に入ったはずが、窓から見える景色は暗闇。すっかり夜になってしまったようだ。

 掌が困惑していると、足音が聞こえた。こちらにやって来る。

「何であんたが……」

 いつもの割烹着姿ではなかったが間違いない。この二ヶ月通い続けた寿司屋の大将が、そこに立っていた。

「これ何だよ!」

「安心しろ。毒なんて入れちゃいねえよ。今度はサーモンだけじゃなく、好きなものを好きなだけ食えるだろうよ。その右手で奴らの期待に応えることができればな――」

 掌の右手を指差す。

「右手?」

 まさかこの男は、この手相を狙っているのか。手に刻まれたこの線を……。

「まさか、こんな珍しい属繊ぞくせんが拝めるとは」

 何を言っているのか、さっぱりわからない。

「二ヶ月近くかけて属膳ぞくぜんも解放させたし、これで俺に大金が……。お前を引き渡すまで、まだ時間がある。このままそこで大人しくしてろ」

 掌の疑問にろくに答えず、大将は奥の部屋に消えていった。

「おい、待てよ!」

 力を込めて縄を解こうとしたが、思いどおりにならない。しばらくじたばたして、どうにもならないと諦めた。

 すっかり騙された。思い返せば、あれだけの量を間違えて仕入れるはずがない。無料というのもうますぎる話だ。

 奴が何のために自分を監禁しているかはわからない。しかし、危険な状況であることは理解できる。一刻も早くここから抜け出さなければ。

「なあなあ、さっきの話さ、もう何食べるか決めた?」

 突然、背後から声がしたため驚いた。声を上げなかった自分を褒めてやりたい。

「俺はナポリタンがいいと思うんだけど――」

 身長百八十センチくらいの金髪の男が、唇に人差し指を立てながら近づいてくる。

「静かにしてほしいなら、急に話しかけてくるなよ……。っていうか、誰?」

「大丈夫。俺は味方さ。お前を助けに来たんだ」

 ナポリタン男はそう言うと、掌を拘束している縄を手際よく解いた。

「え、でも何でナポリタン?」

「俺、ナポリタン好きなんだよ」

「それ、あんたが食いたいだけじゃねえか!」

 つい、声を荒らげてしまった。

「だいたいあんたに関係ないだろ」

「リラックスさせようと思ったんだよ。こんな状況じゃ、何か別のことにでも集中しないとやってられないだろ?」

「できれば、俺を助けることに集中してほしいんだけど……」

 男は服のポケットから、タバコの箱くらいの大きさのケースを出した。そこから何かを取り出すと、口に入れて噛み始めた。

「え……それ、何食ってんの?」

「カツ」

 カツをわざわざケースに入れて持ち運ぶ人間など見たことがない。ケースは、弁当というにはあまりにも小さい。

「見て――」

 男は左手を掌に見せてきた。

 掌は言葉を失う。

 この男の手のひらにも、掌の右手にある紺の線が刻まれていた。形こそ違うものの色はよく似ている。

 左手の中央あたり、アルファベットのIの文字の両端に、Uの文字を二つくっつけたような線。スパナのような形だった。

 その線は赤くなると、その周りが薄い赤色になる。男はその赤い手相のあたりを右手でつまむ。そして、そこから赤い何かを引き抜いた。二、三十センチくらいの包丁の刃のような形をしている。

「何これ? 血? 大丈夫か?」

 手品でも見せられているような気分だった。

「初めて見る奴には、そう見えるかもしれないな。問題ない。怪我じゃないから――」

 男はもう一度、同じ要領で赤い刃を出す。

「どうなってんだ? あんた、一体――」

「どうだ? 驚いて声も出ないだろ?」

「いや、『どうなってんだ?』って言いましたけど――」

 その時、正面の扉が勢いよく開いた。

「誰だお前!」

 大将が怒鳴りながら、部屋に入ってくる。気づかれた。

「まずい!」

 ナポリタン男は自身の左右の靴底に、一つずつ赤い刃を当てた。刃はぴったりとつき、男の靴はアイススケートのシューズのようになった。

 男は掌に背を向ける形でしゃがむ。

「背中に乗れ!」

「え――」

「とにかく!」

「あ、ああ――」

 言われたように、掌は彼の背に乗った。

「貴様、まさか膳繊手ぜんせんしゅ――」

 大将の言葉が聞こえた瞬間、掌は風を感じた。思わず目をつむる。

 突然のことで驚いた。恐る恐る目を開ける。掌を乗せたナポリタン男は、高速で移動していた。男はそれこそ、スケート選手のように地面を蹴って移動している。人間にはありえない速さの移動だ。いくつもの角を曲がり、道を進んでいく。

 背後からバイクの吠える音が聞こえてきた。振り返ると、後方から大将が追いかけてくる様子が目に映った。しかし、差は一向に縮まらない。むしろ、こちらが差を広げているようにさえ感じられた。

 

 ――逃げ切れる。

 

 そう思った時だった。

 目の前の角から、一匹の犬を連れた女性が現れた。その女性を避けようとして、ブレーキをかけたのだろう。

 男は勢い余ってバランスを崩し、転がった。掌も投げ飛ばされる。

 体に痛みが走る。

 その拍子に、男の右足の靴に張りついていた赤い刃が砕け、破片が散らばった。

 男は仰向けに倒れたまま動かない。

 大将の乗ったバイクは音を立てて近づいてくる。

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