胃もたれ膳繊(いもたれぜんせん)

旋架

第一食 空腹であればあるほどたくさん食べられるイメージあるけど、実際、少しは腹に入れておかないとそこまでは食べられない

 海堂かいどうてのひらは、首元を押さえながら必死で口を開いた。

 空気が入ってこない。苦しい。

 毒でも入れられたのだろうか。きっとそうだろう。そうでなければ、飯を食ってこんなに苦しむことはないはずだ。

 不慣れな土地で新生活を始め、疲れていたのだ。いつも慎重な自分がこんな目に遭うとは。

 混乱の中、意識が薄れていく……。


 四月。

 掌は大学への進学を機に、大都市――糖ドで一人暮らしを始めることになった。

 キャンパスライフに憧れはなかった。大学もなんとなく決めた。だから、キラキラした眼差しをあちこちに向けている同じ一年生が、別の世界の人間のように感じられた。

 入学から一週間ほど経過したある日、掌は大学から自宅への帰り道、小さなテーブルと椅子を出して座っている男性を見つけた。

 占い師だろう。『30分500円』と書かれた立て札を見て、そう思った。

 これから自分の未来はどうなるのだろう。今の自分にやりたいことなんてない。これからも見つかるのだろうか。高校時代、あれほど熱中した料理部も、結局は辞めてしまった。もう何かに取り組む意欲はなくなっていた。

 自分の未来の鍵を、この男が握っているわけがないのだが、家に帰ってやることもない。占いの類は信用していないが、キャンパスで誰かと会話した時、話のネタになればいいと思った。

 男に話しかける。

「すみません……」


 玄関の扉を開く。靴を脱いで揃え、部屋の明かりをつけてリビングの床に寝転がった。

「何やってんだろ……」

 久々に発した声が、整理整頓された部屋に散る。

 あの占い師。嘘つきと評するには、判断材料が少ない。しかし、腕がよいのかと問われれば、首を縦には振れない。手の線をのぞき込まれ、当たり障りのないことを言われた。それだけだった。

 

 ――近いうちに幸運なことが起こりますよ。


 そんなことを言って大丈夫なのだろうか。

 顔は覚えた。このままこちらに何も起こらなければ、奴も合わせる顔はないはずだ。

 それともたった五百円を手に入れるためだけに、あちこち場所を変えて商売をするのだろうか。

 いずれにしても、今日は随分と高い買い物をさせられてしまった。

 右手の手のひらを見つめる。

 人差し指の下のあたり。手相と呼ぶには色の濃い、星形の線が彼の手にはあった。紺色に近く、血管と見間違えられることもある。少しいびつだが、この形は『五芒星ごぼうせい』というらしい。

 今日の占い師も、物珍しそうにこの線を見ていた。

 『手のひらに珍しい手相があるから、あなたは幸運な人間ですよ』ってか。俺にとっては、この星マークこそ不幸の元凶なんだよ。


 翌日。誰とも話すことができず、昨日の一件もネタにできなかった大学からの帰り。例の占い師を確認する。案の定、彼はどこかに消えていた。 

 家に着き、郵便受けを確認する。一枚のチラシが入っていた。近くの寿司屋だ。

「信じらんねえ。これだけ食べてもこの値段か……」

 自炊もよいが、たまには誰かのつくったご飯をいただくのも悪くない。リーズナブルで、味がよければ万々歳だ。

 

「お兄ちゃん、そんなに食べて太らないのかい?」

「大丈夫。俺、昔から食べても太らないから――」

 会話している時間が惜しい。誰が奪うというでもないのに、あまりのうまさに、掌は次々と寿司を口に放り込んでいた。チラシに書いてあったとおり、ネタを選ぶことはできなかったが、何が出てきても満足だった。

 大会に出場できるような大食いというわけではなかったが、人並みには食べられる。それでも体型は細身のままで、体重管理などしたことはなかった。痩せるために食事制限をする者のことが昔から理解できない。

 次々に出てくる寿司を残さず食べる。流し込むようにお茶を飲み、一息ついた。

 平日だからか、この日の客は少なく、店内はいつの間にか掌と大将の二人だけになっていた。カウンター越しの大将と二人きりの時間が続く。

 店の雰囲気も気に入った。大将は気さくで、愛想がよいが、おしゃべりというわけでもない。こちらの話を丁寧に聴いてくれるが、余計なことは言わない。気が楽だ。大学に入ってから、まともに会話をしていなかったので楽しかった。寿司も美味で、明日も明後日も来たいと思った。

「いや〜、ホントによく食うなあ。ちょっと待ってな――」

 大将が店の裏へ行く。何かを確認したのか、戻ってくると続けた。

「兄ちゃんに頼みがあるんだけどな……」

 大将の声が小さくなる。

「実は先の数ヶ月の仕入れをミスしちまってな。サーモンが大量にあって困ってんだ。他のお客さんに内緒にしてくれるんだったら、毎日来てくれていいからよ。お代も要らない」

「いや、でも――」

「大学入ったばかりじゃ、食事を用意するのも一苦労だろ? お金だってかかるんだし」

 正直、ありがたい話だった。サーモンは好物だし、店も気に入った。毎日同じものを食べても飽きるほどわがままな舌でもない。

 断る理由が見つからなかった。


 それから毎日のように、その店に通った。一日で二十貫程度、多い日は三十貫。

 そして五月末。

 いつものように店の扉を開け、席に着く。掌と大将以外には誰もいない。この約二ヶ月、客は多くて数人だった。ある程度の人数が集っても、騒がしくなることはなかったが、それでも二人きりになると静かなものである。

「いただきます――」

 出されたサーモンを一貫ずつ口に入れては飲み込む。今日も変わらず、この店の寿司はうまい。

 十貫目を食べ終え、十一貫目に手を伸ばそうとした時だった。突然、息が苦しくなり、視界がぼやけた。呼吸が乱れ、掌は椅子を倒して床に転がる。

 海の底に沈められているような感覚に襲われた。

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