第6話
翌日。放課後。
荷物を担ぎ上げた
「野球部か?」
「うん、そうだよ」
「あー、その」言い淀みながら、俺は頭をかく。「……俺も行っていいか」
柚樹はにっと笑った。「もちろん」
夕焼けがきれいに見える日だった。ぼやけることなく、太陽の輪郭がくっきりとしている。グラウンドには運動部のかけ声が響く。各部活動が所狭しとグラウンドを埋めている。野球部が活動している場所は、連絡廊下をはさんで武道場の反対側あたりだ。グラウンドの外縁に沿って「L」字に設置されている吹き抜けの連絡廊下を歩いていく。
武道場前に着くと、「よっ。来たな、大森」と
俺は首をかしげる。この二人に今日野球部の練習を見に来ることを伝えた覚えはない。むしろ、勧誘を蹴ったときに野球をやるつもりはないとまで言っていたはず。その割には、俺が今日ここに来たことを二人が疑問に感じていないような気がする。……いや、そういえば柚樹もそうだったか。
「知ってたのか?」俺は三人に問う。
「なにを?」
「俺が今日来るってこと」
「ああ」と小南はうなずいた。「
亜弥瀬? ええと、……ああ。
「
下の名前だけじゃ、すんなり顔と一致しなかった。ここにいる二人と彼女は知り合いなんだっけ。というか、だいたいあの子にしか話した覚えはないのだから、容疑者は自ずと彼女一人だ。
「一般的に見て亜弥瀬はかわいいしな。誘惑に逆らえなかったのはまあ、男子高校生として健全だと思うぜ」
小南がなにを言っているのかよくわからない。俺は松橋さんに誘惑されてなどいない。なので、怪訝な顔になってしまう。
すると、河野まで呆れた声音でなにやら言い出す。
「まさか、松橋に協力してもらえたからってこうも簡単に話が運ぶとは思わなかったぞ。女子になびくのが悪いとは言わんが、半端な気持ちじゃ困るからな」
なんだなんだ。俺は、いつの間にか呆れられるようななにかをやらかしてしまっていたのか? まあ確かに、一度はっきりと断っておいての心変わりなのだから、呆れてしまうものなのかもしれないが。
それに、半端な気持ちと河野は言ったが。
「悪いけど、まだ半端な気持ちだよ。今日練習を見てみて、やる気になれそうにないなら、やっぱり野球をまたやるつもりはないしな」
河野が訊いてくる。「今日は見学だけか? 体を動かす気は?」
「いや」と俺はかぶりを振った。「いちおう、着替えと中学のときに使ってたグローブとスパイクは持ってきてる」
「じゃあ、さっさと着替えろ」河野は初めて笑みを見せた。「久しぶりのキャッチボールは想像以上に爽快だぞ」
キャッチボール。言われて、いまやもう、懐かしい感覚を想像してしまった。それだけで、なにか体にぞくりとするものがあった。
これはまずい。そう直感して、「やっぱり俺、帰――」と言いかける。しかし。
「おっと」柚樹が俺の進路に、ドン、とスポーツバッグを置いた。「ハル。いまさらそれはないんじゃない?」
「……」
まあ、確かにいまさらだな。一度は覚悟を決めたのだ。なら、観念するしかない。
「わかった」
基本的に、平日のウォーミングアップの方法は部員それぞれに任せられているらしい。そのかわりといってはなんだが、顧問の先生からは「準備不足で怪我をしたら許さん」と厳命されているのだとか。
俺は言った。「『許さん』とか言うくらいなら、初めからメニューを決めてればいいんじゃないのか?」
「だから基本メニューというか、テンプレートみたいなのはあるよ。ただ、より自分に向いたアップのやり方があるのなら、律儀にテンプレをなぞる必要はないって感じ」と柚樹。
河野が補足する。「印象じゃ、一部メニューを変えている先輩が多いな。投手なら肩回りのストレッチを増やしたりとか。もちろん、テンプレ通りにやるひともいるが」
「ふうん」
最低限のストレッチをしてから、俺たちは校門に向かっていた。どこに行くのか知らないけれど、とりあえず三人に合わせて歩いている。
「ちなみに顧問ってどんな感じの先生なんだ? 厳しいのか?」
「いや?」柚樹が即答した。「いつも眠そうな顔してる」
「あ、そう」
とりあえず、いつも三人は外周から始めているみたいなので、俺もそれに合わせる。コースを一周。だいたい一・五キロほどらしい。
一・五キロだから、ちゃんと走ればだいたい五分くらいだろうか、六分はかからない。でもアップの時点でさすがにそこまではしないだろう。
などと思っていたら、スタートダッシュで思いっきり出遅れた。
おいおい。
まじかあいつら。
慌てて俺も追う。しかし百メートルも走らないうちに、俺ではついていくことが無謀だと悟る。
はっ、はっ、と小刻みに喘ぐ音が漏れる。
やばい。もうすでに息が切れそうだ。
でも、置いていかれるわけにはいかない。いや、「あいつらには負けたくない!」みたいな立派な理由ではない。置いていかれたら、外周のコースがわからなくなるのだ。
「くっそ。ふざ、けんなよ、あいつら」
ただただがむしゃらについていった。
やけにアップダウンが激しいコースだったのはおぼろげに覚えている。スタート地点の校門に戻ってきた瞬間、俺は世界陸上で八百メートル走を終えた選手のごとくコンクリートの上に倒れこんだ。
「大丈夫かよ?
「全然、大丈夫、じゃない」俺は息を荒げながら言った。吐きそうだ。あと五十メートルあったら、確実にゴールできていない自信がある。
「そういえばお前、『二年くらい野球をやっていない』って言ってたな。もしかして、まともな運動もあんまりしてなかったのか?」と河野。
少し呼吸が整ってくる。情けなくてみじめな気分になってくる。
「……まあ、そうだな。たぶん、体育、くらいだった」
「はあ。前途多難だな」河野がため息をつく。
「まったく情けない」と柚樹もやれやれとばかりに続く。
こいつら……。だって仕方がないじゃないか。中学のとき野球部をやめて以降、体を鍛える目的もなかったんだし。第一お前らのペースに遠慮がないのも悪い。よほど言い返してやりたかったけれど、みじめになるだけなのでやめておく。
まあ、俺の運動不足はさておき、外周の次はグラウンドに戻ってきてストレッチ。肩甲骨、股関節まわりを重点的に。ただここでも俺の関節のかたさが際立ってしまう。
「大森、そんだけしか前にいかないか?」
股割りをする俺の背中を小南が押してくれるが、一向に前に傾かない俺の上半身。さらにぐっと小南が力を入れると、「いてててて」と俺は関節技を決められた柔道選手のごとく小南の腕をタップする。
「うっわあ。ハル、もうじいさんじゃん」と柚樹。
それはいくらなんでも言い過ぎだろう。しかし……ちょっと反省だな、これは。ここまで衰えているとは思わなかった。今後の人生で、最低限の運動を日課にしようと俺は心に強く誓った。
ストレッチが終わると、ダッシュを何種類か行う。そのあとは、体幹などの補強運動を軽く。
これでようやくアップが終了だ。三、四十分程度の運動でここまで疲れるとは。
多少息を整えて改めてグラウンドを見渡すと、すでに上級生たちは練習を始めていた。ぱっと見た印象では、だいたい二十人くらいだろうか。
全体練習というよりは、少数グループに分かれて内野ノックやバッティング練習、フィジカル系の練習をそれぞれやっている感じだ。
俺は訊いた。「一年はいつもどうしてるんだ?」
河野が教えてくれる。「先週は練習に参加できる日もあったが、次の土曜から九州大会だから今週は無理だな。端っこで適当に時間を潰すしかない」
「へえ」
ずいぶん冷たいというか、放っておかれているな。だから新入部員がこれだけしかいないんじゃないだろうか、とつい邪推してしまう。というか。
「福岡南って九州大会に出るのか」
「なんだ、知らなかったのか」
「うん」
「昨秋こそ振るわなかったが、春の県大会では準優勝だ。今年のチームはかなり強いぞ」
「へえ」と俺は本気で感嘆を漏らした。
決して部員数も多くは見えない。石がいくつも転がった白い砂のグラウンドをほかの部活と分け合って使っているように、練習環境だってよくない。
それでも、強い。
なんだかんだ言って、やっぱすごいんだな、あのひと。正面からボールをもらってティーをしている
「大森、せっかくだしキャッチボールしようぜ」
振り返ると、小南は手にグローブを持っていた。少し色あせた黒。見た目にも使いやすそうな、柔らかい感じがするグローブだ。
「わかった」
俺も自分の荷物のところにかがみこんで、グローブを取り出す。昨晩押し入れから引っ張り出してきた軟式用のグローブ。硬式を始めるならじきに使うこともなくなるだろうが、手にはめると左手によくなじんで、愛着を思い出す。
グラウンドに出る。小南が小走りで距離をとる。だいたい、塁間の三分の二くらいの距離。河野と柚樹もグローブを手に持っているけれど、まずは小南と俺のキャッチボールを観察するつもりらしい。
「行くぞー」
声をかけられて、俺はグローブを頭の高さに上げる。小南がボールを投げる。リリースのタイミングが早く、手首のスナップを活かした野手の腕の振り方。
真っすぐ、胸元に投げ込まれたボールを受け止める。深いところ、グローブの芯で捕球した。パンッと音が鳴って、人差し指の付け根のあたりに懐かしい痛みを感じる。
「っしゃ、来い!」
左足を少しだけ浮かせる。右手に握ったボールを右腿のところで持つ。そして後ろに右腕を回し、前に体重を移動させながら右腕を振る。意外とフォームを覚えている気がする。そして肩が軽いことに驚いた。
俺の投げたボールは、小南の胸元にきれいに届く。
パンッと小南のグローブが高い音を鳴らした。
「お、いいじゃん、大森」
ああ、そうか。
こんな感覚だった。
まだ覚えている。
忘れられるわけがない。
えもいえぬ高揚感が足元から全身を巡っていく。
ダメだな、これは。
何球かキャッチボールを続けていると、声をかけられた。
「よっ、来たんだな」
軽薄な声でわかる。向井さんだ。
「……どうも」
「楽しいだろ? キャッチボール」
「……ええ、認めます」俺は顔をそむけたまま答える。
「やっぱさ、お前は俺たちと同類なんだよ」
ボールを小南に向けて投げる。返球が来る。ただただそれをひたすら繰り返す。
「かもしれません」
ふっと息が吐き出される。ちらと見ると、向井さんはにやりと笑っていた。
「断言してやるよ。中学のときみたいなことには、ぜったいにならねえ。俺たちのチームはそんなチームじゃねえ」
「……」
「おい、河野!」と向井さんは呼びつける。
河野が慌てて返事した。「は、はい!」
「お前、大森のボール受けてみたいんじゃないのか?」
河野は目を見開いた。そして俺に目を向けると、「いいのか?」と問うてくる。
俺は苦笑した。「そりゃ全然いいけど。でも」
風が吹いた。砂埃が巻き上がる。
「期待はするなよ」
※※※
マウンドからホームベースまでの距離を目測でとると、
何球かキャッチボールをしてから、「もういいぞ」と寿々春に言われて大遥は座った。
大遥は唇をなめる。楽しみであり、怖くもあった。あいつが、あの
寿々春が左足を胸元まで上げる。同時に、少し体を後ろ向きに巻き込んでいる。野球から離れていた時期が長かったせいなのか、少しだけぎこちない。でも、不思議と雰囲気は感じさせる。そして体重移動。上半身にはまるで力感がなく、しかし腕は鋭く振り抜かれる。
球速はさほどない。そう思った瞬間、ボールがぐん、と伸びてきた。
このスピン量、回転軸の角度――。
ぎり、と奥歯をかみしめる。かろうじて、ボールを上から抑えた。危うくミットが流れそうになる。
やや鈍い捕球音がした。大遥は顔をしかめた。くそ、初速がたいして感じられなかったせいで油断した。きれいに捕球しきれなかった。ほう、と近くで見ている
同じくそばで見ていた
おそらくそのつぶやきを聞き取ったとして、実際に捕球した大遥以外にはだれも意味が分からなかっただろう。
真っすぐの回転軸。寿々春の真っすぐは、それがほぼ水平だった。純度一〇〇パーセントのストレート。
ぞくりと武者震いがした。
本物、かもしれない。俺の選択は、間違いじゃなかったかもしれない。座ったまま、返球する。
「もう一球頼む」
「わかった」
頭の中で軌道を反芻する。寿々春が投げ込んでくる。
パアンッとミットから乾いた音が鳴った。今度は大遥もしっかりとミットを止めた。ただ、いまのはさっきの一球目の真っすぐほどにいいボールじゃなかった。
本人もいまの一球には納得しなかったらしい。
「悪い。もう一球頼む」と今度は寿々春のほうから要求してくる。
その後十球ほど投げ込んだが、手ごたえが感じられたのは最初の一球だけだった。
とはいえ、大遥は落胆するどころか、ずいぶんと気が楽になっていた。二年も空いてることを考えれば、これだけのボールを投げ込めるだけでも御の字だ。しかし寿々春は、「なんか、硬球だと違和感あるな」としきりに首をかしげていた。
当真が苦笑しつつ言った。
「硬球ってだけじゃなくて、ブランクだってあるだろ。そんなもんだよ」
「はあ」
「それより、変化球も投げてみろよ。な、河野も受けたいだろ?」
「もちろん」大遥は当然とばかりにうなずいた。「大森がいいなら、受けてみたいですね」
「だってよ」
当真に水を向けられて、「わかりました」とため息交じりに寿々春はうなずいた。「じゃあ、カーブ投げるな」
「はは、そういやお前、よくカーショウの真似してたな。左右ちがうのに」
「べつにちがくたっていいでしょう」
「べつに悪いとは言ってねえじゃん」
軽口をたたきあいながら、寿々春がモーションに入る。初めて見る変化球を受けるのは、真っすぐとはまたちがう楽しみがある。
リリース。
高めの軌道。
ここから。
落ちてくる。
軌道を見極めてミットを構える。
が、さらに降下してくる。
「……っ」
喉の奥からくぐもった声が出る。低めいっぱいのストライク。なんとかミットの移動が間に合った。くそ、と大遥は内心で自分に対して毒づく。いくら初見とはいえ、捕手として、捕球だけにここまで苦労させられるというのはあまりにも情けない。
返球する。
「もう一球頼む」
「わかった」
言いつつ、寿々春はどこか物珍しそうに硬球をいじっている。そして、カーブが来る。
さっきとほぼ同じ軌道。
高め。
ここから低めいっぱいに。
大遥はミットを動かす。しかし今回は、さらに落ちた。
余裕がなかったせいか、その必要もないのについついとっさに体で止めに行ってしまった。
ワンバウンドしたボールが腹に当たる。当然プロテクターなどつけていない。
「いってぇ……」大遥は顔をしかめた。
「そこまでしなくても」剛広に呆れたように言われる。
「わ、悪い。調子に乗って回転かけすぎた」と寿々春。
「いや、大丈夫だ」
大遥は痛みをこらえながら返球する。受け取ったボールをしげしげと見つめる寿々春に、当真が話しかける。
「合いそうか? 硬球」
「……悪くはないです」
「まあ、どちらが曲がる曲がらないは俺の経験上完全に個人差だけど、指先で回転数を調整する余裕があるなら硬球でも問題なさそうだな」
「ハル」と柚樹がからかうように言った。「楽しそうだね。笑ってるよ?」
見ると、寿々春の口角が確かに上がっていた。柚樹に指摘されて慌てたように口元を引き締める。
大遥は思った。
なんだ、やっぱりこいつ、野球が好きなんじゃないか。
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