第5話
ひとはきっと、人生の大半の時間は取るに足らないことを考えて生きているのだと思う。それが人間の習性のひとつであることに、もはや疑いの余地はない。例外と言えば、俺の知り合いに気象台の
まあ石本さんのことはともかく、その人間の習性に基づきそのとき俺が考えていたのは、「カレー臭と加齢臭の音の類似が偶然なったものだとは思えないよな」ということだった。弁当をつくってもらっておきながら家のテーブルの上に置き忘れてきたので、購買でカレーパンと明太フランスと野菜ジュースを入手し、教室の自分の席でもそもそと食べていると男子の制服のズボンが視界に入ってきた。
顔を上げる。そこにあったのは、懐かしい顔だった。記憶よりも顔つきが引き締まって精悍になっているが、軽薄な印象を与えてくるのは相変わらずだ。
「よう
なにを言っているのだろう、このひとは。人類史上、ひとの脳細胞間を行き来してきたありとあらゆる思考の中で、俺がいましがた考えていた事柄以上にくだらないものはきっと存在しなかっただろう。
俺は咀嚼していたパンを飲み込んでから言った。「……久しぶりです。向井さん」
ふとまわりを見ると、ちらちらと視線を向けられているのがわかる。上級生がこの教室にいるのが珍しいのだろう。
……ううむ。なんの用だろう。教室の中で目立っているし、当時すでに向井さんは卒業していたとはいえ中学の野球部を中途退部した俺だし、いろいろと気まずいので可及的速やかに退出いただきたいところである。
聞いてみる。「なんか用すか?」
向井さんは机の上のパンの袋が空なのを見ると言った。「昼は済ませたみたいだな。ちょっと顔かせよ」
なんだなんだ、後輩いびりか?
「ま、まさか、ひと目につかない校舎裏にですか」
「おい」向井さんがまわりを見回すと、視線を向けていたクラスメートたちがさっと視線をそらした。「お前な。ほかの一年に俺の怖いイメージつけようとしてんじゃねーよ」向井さんはため息をついてから、「けどな」と不敵に笑った。「お前がいいんなら、衆人環視のもとで話を切り出してもいいんだぜ?」
「……内容によりますね」
「決まってるだろ」向井さんは次の部分だけ小声で言った。「野球部の話だ。中学の」
今度は俺がため息を吐き出した。
「わかりました」
移動したのは、理科棟の非常階段の最上部だった。コンクリートの階段で、首の高さあたりの壁がある。
「ここ、あんまり知られてない場所なんだよ」言いながら、向井さんはその壁の縁に腕を乗せた。
俺は四段ほど下から見上げている。
「で、なんの話すか」
「ああ」向井さんは短く言った。「お前さ、野球部入れ」
「え」
「お前は、野球部に入ったほうがいいよ。まあ必ずしも野球部じゃなくてもいいけどさ。このままじゃ一生後悔する」
なぜかはわからないけれど、胸に広がってきたのは諦念だった。「……向井さん、やっぱり知ってたんすね。俺が、野球部やめてたこと」
「やめてたこと自体は、わりと早く知ってたよ。けどやめた理由を知ったのはそのだいぶあとだな」
「だれに聞いたんですか」
「言えないな。それぞれに立場があるし」
……なるほど。向井さんにリークした人物のことを考えるのなら、だれにも、俺にさえ教えるべきではないだろう。
「用件はわかりました。でも、悪いですけど、俺もういいです。本当に」
「
少し心が揺れる。まったく迷わないとは言えない。でも。
俺は笑う。笑ったつもりだ。「ええ。本当にいいです。どうせまた、肝心なところでやらかす気しかしないんで」
「そうか」
「はい」
ふう、と向井さんは息をついた。やや沈黙があって、「小南な」とぼそりとつぶやいた。「
なんの話だろう。深く考えずに俺は、「はあ」と生返事をする。しかし、生返事をしてから気づく。「……えっ?」
いまなんて言った? 大阪誠翔?
「すごいよな、あいつ」
「それ、本当ですか?」
「俺はバレる嘘はつかない」と向井さんは胸を張る。なおさらたちが悪い。
俺は絶句した。大阪誠翔は昨年の選手権大会優勝校だ。ここ最近あまり高校野球を注意して見ていなかった俺でも知っている強豪中の強豪。
「どうも河野がここに来るからってうちに来た節もあるんだけどさ、結果、同期が三人しかいないって状況になってるんだから、小南もツイてないよな」
ツイてないなんて言葉だけじゃ済ませられないだろう、それは。人生が変わったと言っても過言ではないと思う。
「野手は、河野や小南がいればほかはまあ、そこそこのレベルでもなんとかなるんだよ。でもな、エースが足りない。あいつらさえ打てばチームを勝たせられるような、エースのポジションにいるべきやつが、あいつらにはいないんだ」
河野と小南から「甲子園を目指したい」という話を聞いたときと同じで、どくん、と心臓がひとつ鳴った。
俺の心情を見透かしたように向井さんは続ける。
「お前、最近ボールには触ってるか?」
「いえ」とかぶりを振る。
「そうか。じゃあ、爪のケアは?」
はっとする。親指で人差し指の爪をさすると、つるつるとした触感だけが返ってくる。
「欠かしてないみたいだな」向井さんは笑った。
「……これはもう、癖なので」
「一回、野球部に顔を出してみろよ。それでお前がやる気になれないなら、俺ももう来ないからさ」
昼休みが終わっての五限の授業中、俺は昔のことを思い出していた。
中学一年、初めて練習試合で登板したときのことだ。試合途中で爪が割れて人差し指が血まみれになって、見かねた先生から降板を告げられた。せっかくの試合だったのにもったいないことをしたと、少なからず落ち込んでいた俺に声をかけてくれたのが向井さんだった。
『お前、中学から投手始めたんだっけ?』
『……はい』
『そんな連投でもないのにそうなるってことは、たぶん爪の形が良くないか、負担のかかる指先の使い方なんだろうな。ちゃんとケアしておいたほうがいいぜ』
オイルなどを使っての保湿まではさすがにもうしていないが、爪を切ったあとの感覚にどうも違和感がぬぐえなくて、爪を切るのではなくやすりで削るのが習慣化してしまっていまでも続けている。
先ほどのやり取りがぐるぐると脳内をまわる。
小南が全国制覇した高校にも誘われたような実力者で、そして、今現在同じ代のエースがいなくて。
「……大森くん」
頬杖をついて、窓の外を見る。
胸がざわざわとする。一度だけ野球部に顔を出せばそれだけで、向井さんはあきらめてくれるらしい。たったそれだけでもう煩わしい思いをしなくて済むのなら。この胸のざわめきを忘れられるのなら。
「大森くん!」
はっとする。「え、あ、はい」慌てて振り向く。
いまは現代文の授業中。先生がにっこりと微笑んで、「どうぞ」と俺になにかを促す。
いや、どうぞと言われても。
「えーっと……すみません。聞いていませんでした」と謝るしかない。
「しばらく立っていなさい」
「……はい」
ダメだ。ほかのことが手につかない。
後ろからコツンと軽く椅子を蹴られる。
放課後になって、とりあえず野球部のことを頭の片隅に追いやり、俺は図書室に向かった。俺は一年十組の図書委員なので、今日の放課後に開かれる図書委員会に参加しなければならないのだ。事前に、一か月後くらいにある文化祭の準備内容について説明があるとだけ聞いている。具体的な段取りの取り決めはまた後日で、例年はこういう流れでやっている、というのを早いうちに共有しておきたいらしい。
図書室があるのは別館だ。別館の玄関の天井は二階の高さまであるので開放感がある。壁面に張り付けられている『図書委員おススメの一冊』のA4紙を横目に、緩やかに弧を描く階段をのぼる。
扉は開けられたまま滑り止めで固定されている。手前に新聞や雑誌類。左手にカウンター。正面から右手にテーブル。奥に書棚。ほこりっぽい空気と絶妙な空調設定。いくつか並べられた四人掛けのテーブルの座席はすでにほとんど埋まっている。
「空いてるところに適当に座ってね」とひとりだけカウンターのところに腰掛けている女子生徒に言われる。図書委員長だ。
はい、と返事はしたものの、空いているテーブルは三つ。ほかのテーブルはきっちり四人ずつ埋まっており、俺はたったひとりで四人掛けのテーブルを占有することになりそうだ。もうひとりの一年十組の図書委員の女子生徒は、他クラスの友だちだろうか、同じテーブルについている俺の知らない女子生徒と親しげに話している。ふつうは同じクラスの生徒どうしで同席するものだろうけれど、俺にはわかる、彼女の目が俺という存在の認識を拒んでいると。
まあそれは被害妄想として、ひとりならひとりで、雑談でもしたほうがいいのかしらなどと気を遣うこともなく、野球部へ見学に行くか否かを存分に悩むことができるので構わない。今日は図書委員会があるので、行くなら明日だ。こういうのは悩む時間が無駄なので決断は早いほうがいいということくらい、俺ほど聡明な人間ともなればちゃんと心得ているのだ。
しかし、でもな、と後ろ向きな気持ちが頭をもたげる。
やはり億劫なのだ。どうしてこんなに、もう一度グラウンドに近づくことをためらってしまうんだろう。
考え込みながら、時計を見る。すでに十六時半をまわっている。まだ始まらないのか。そう思って図書委員長を見るけれど、彼女は椅子に座ったまま本を読んでいる。入室した際にちらと見えたのは『フョードル・ソログープ』というカタカナ。
日本語的発音が一瞬わからないけどわかるんだよな。などと早くも思考が脱線しかけていると、「すみません。遅れました。一年一組の図書委員が今日二人ともいなかったので、代理で来ました」と女子生徒が入室してきた。
やや小柄。あどけなさは一般的な高校一年生と比べて幾分多く残っているが顔立ちは整っている。前髪は短く切りそろえられ、少し癖毛なのもかわいらしい印象を与えてくる。
どこかで見た覚えがあるような、ないような。思い出せない。いや、やっぱり知らないひとだ。
女子生徒は俺のいるテーブルに向かって歩いてくる。近づいてきて、目が合う。
彼女は驚いたように、「あ」と少しだけ口を開けた。
俺は首をかしげる。やっぱり知ってるひとだっただろうか。まずいな。ひとの顔を覚えるほうじゃないけれど、顔と名前が一致しなくても知ってるか知っていないかの判別くらいできるつもりだったんだが。
「ええと。代理ですけど、お願いします」
隣の椅子を引きながら、こちらの様子を窺うように言ってくる。
「え、ああ。こちらこそ」
えーと、どっち? 俺はこの子を知っているべきなのだろうか、初対面であるべきなのだろうか。まずい。知っているべきなのに初対面として接すればとても失礼になるし、初対面であるべきなのにさも知っているふうに接すればとても気持ち悪い。
「……」
「……」
結局、無言。
一般的には、「失礼」より「気持ち悪い」のほうが精神的外傷が大きいはずなので、こうなるのは仕方がないだろう。決して俺のメンタルが脆弱だからではない。むしろ、強靭だからこそ、「気まずいのは俺だけだろうか」と気になって、ちらと隣に目を向けることができたのだ。そして、また目が合ってしまった。
そこで、彼女は意を決したように口を開いた。「あの、大森くん、だよね」
危うく天を仰ぎそうになった俺の心情をどうか察してほしい。
「そう、だけど」そういうあなたはどなたですか、とはとても聞けない。「えーっと」と意味もなくつぶやきながら頭を高速回転させる。
「ごめんなさい。大森くんはあたしのこと知らないと思うんだけど、河野と小南の知り合いみたいだったから」
「へ?」間抜けな声が出た。高速回転がストップする。
「えっと、ほら、昨日一組の教室で」
「あー、……あっ!」
思い出した。めちゃくちゃ思い出した。昨日、確かに河野たちと一緒にだれかがいた。そう、この子だった。
「昨日の昼休み、二人と話してた……」
「そうそう」
はいはいはいはい。よーくわかった。それで見覚えがあるような気がするけど知り合いではないと俺は判断していたのか。それで正しかったのだ。見かけたことがあっても、知り合いではないのだから。
「
「あ、えーっと、
改まって自己紹介するというのも、なんだか恥ずかしい。
「では、全員そろったので委員会を始めますね」と委員長の号令がかかる。
委員会の間にも、松橋さんと俺は小声で雑談をしていた。
「それでハル、なんだ。ね、なんで図書委員?」
「ん? うーん」俺は記憶を探る。「……なんでだっけ?」
「あはは、覚えてないんだ」
「とりあえず、学級委員とか応援団とか文化祭実行委員とか、いやな役割を避けてたら、図書委員になってたってことの気がする」
質問されるばっかりじゃ薄情な気がして、いちおうこちらからも訊いてみる。
「松橋さんは代理だから、図書委員じゃないんだよな」
「うん。ホームルームのとき、代理でだれか図書委員会に参加できないかって話になって断り切れなかったんだよね」
「ふうん」難儀なことだ。
「そこー、ちゃんと聞いてるー?」と図書委員長。
「あ、はい。とりあえず目先は広報の仕事優先で、集荷した本は司書室に保管。文化祭が近づいたら図書室と借りる予定の教室の模様替えってことですよね」
「ん。聞いてるならよろしい。でも静かにね」
「はーい」
俺と話しながらも、委員長の話はしっかり聞いていたらしい。まあ、俺も耳は傾けていたけれど。
それでも、注意された以上は真面目に聞いているふうを装う。前を向いたまま、松橋さんがぼそりとつぶやいた。
「そういえばさ、野球、やらないの?」
「え」
まるで予期していない質問に、俺は思わず彼女の目を見た。すると、彼女も意志の強そうな瞳をこちらに向けていた。
「ごめん。河野たちが勧誘して断ったっていう話は聞いてたんだけどね。なんとなく、気になって」
ああ、あの二人から聞いたのか。
気づけば俺は、言っていた。
「さあ、やるかどうかはわからないけど。でもまあ、とりあえず明日野球部に顔を出してみるつもりだよ」
「えっ、そうなの?」
え? ……あ。
そうだ。俺は明日行ってみるかどうかで迷っていたのだ。なにも考えずに受け答えしていたら、つい言ってしまった。
……うん。
でもまあ。
言ってしまったものは仕方がないか。
思いのほかすんなりと覚悟が決まったことに、我ながら驚いた。
「うん。とりあえず、一度だけ」
なぜか松橋さんは、納得しかねるといった顔で首をかしげていた。
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