にわかなり、ニワトリ。

池田(ちゃぬん)

うまれる

 とにかく、何かを変えたいと思っていたのだ。

 そのために始めた、日課の腕立て伏せだった。

 来る日も来る日も、何があっても、三十回を三セット。私は黙々とそれをこなした。今思えば、それはまるで祈りの一種だったと言えるかもしれない。

 とにかく、何かが変ってほしいと思った。

 容姿はパッとしない。

 さりとて頭が良いわけでもない。

 その結果として、金も無い。

 それを補うような特技があるわけでも、ない。

 だから浮かぶわけでも沈むわけでもない。

 そんなナイナイ尽くしの人生に、一応納得はしていたつもりだったのだけれども。

 だけどある時、振り返ったこれまでの人生と、思い描ける未来の景色が同じような荒野に見えてしまったとき、私の胸に初めて風が吹いたのだった。寂しさと脱力感を混ぜたような色の風が。

 この際自分の人生が荒野でも、まぁいい。

 だがせめて、花の一輪くらいは咲かせたい。

 そう思って始めた、腕立て伏せだった。

 とにかく、何かを変えたいと思ったのだ。

 そして結果から言うと、その願いは成就した。何もかもが変わってしまったのである。


 それはある日、最後の三十回を完遂せんと息を喘がせていた時に訪れた。

 いつもは青息吐息の六十一回目。だがその日は違っていた。妙に腕に力が入る。落ちていくはずの速度が、逆にどんどん増していく。調子に乗ってぐんぐんと体を上下させていると、意識が朦朧としていった。

 体の輪郭が変わっていくのを感じる。

 上げた胸は反り上がり、後ろに伸ばした足は長くなっていく。力強く地面を押す腕は、いつの間にか足に変化していっているようだ。

 そしてちょうど九十回。三セット目が終わった時、ふと部屋の隅に置いてあった姿見を見た。

 そこに腕立てをする人間の姿はなかった。代わりに現れたのは、人間大の雄鶏が、スクワットをしているという光景だった。


 何度見ても、ニワトリだった。

 立派なトサカと肉垂。鋭い嘴。綺麗な褐色の羽毛。その何を考えているかわからない目つきは、人間だった頃よりもちょっと凛々しいような気がする。

 駆け込んだ洗面所の鏡に映る、ニワトリ。

 サイズだけが明らかにおかしい、ニワトリ。

 間違いなくそこにいる、ニワトリ。

 それが自分自身であることを、私はまだ受け入れることができない。

 ニワトリ。

 ニワトリ!

 何故にニワトリ!

 どうして?

 頭の中で疑問を渦巻かせながら、私は私の形をふかふかと触って確かめた。

 脈絡もなくこの世でもっともポピュラーな家禽になってしまった。あまりにも不条理な事態に思わず叫びそうになってしまったが、ぐっとこらえる。叫んだ声が「コケコッコー」だったら、もうどうしようもなくなってしまう。さらに付け加えるなら、私が住んでいるのは賃貸だ。夜中に大声を上げて苦情が入るのはなんとしても避けなければならなかった。この物件はペット不可だからである。

 神の悪戯か。それとも悪魔の所行か。どちらにせよ、元の姿に戻る手だては何一つ思いつかない。


 明日から自分はどうすればいいんだ!


 絶望すると同時に、それ由来の怒りのようなものがふつふつと湧いてきた。喉の奥がカッと熱くなり、ダメだとわかっていても何事かを言ってやりたくなる。

「くそったれ! あっ、普通に喋れる」

 すかさず隣人によって壁が殴られる。

 そこでやっと、私は冷静さを取り戻した。そうだ、少なくとも喋れはするらしいじゃないか。ならばまだ、やりようはある。根拠はないが、そんな気がする。

「……すんません」

 隣人が殴ったであろう壁の一点を見ながら、私は届くはずのない謝罪を述べた。

 すまない、隣の人。お願いだから大家へ告げ口はしないでいてくれると助かる。さすがにこの姿を見られたらおしまいだ。


 ◆


 翌朝。職場に休む旨を伝えて、私は通話を切った。受話器の向こうで対応してくれた事務員さんは、私の言葉を一字一句違わず受け取ってくれた。つまり、コミュニケーションにおいてはまったく生活に支障がないというわけだ。

「対人コミュニケーションには問題なし、と……」

 昨夜作ったリストにチェックを入れる。できそうなこと、できなさそうなことを思いつく限り書き出したものだ。元に戻れる未来が全く見えない以上、この姿でどう生活するかを考えていくしかない。ずらっと並んだチェック項目が私を待ち受けている。

 その数にため息をつきつつ、少しだけ口元――それとも嘴と言った方がいいだろうか――が緩むのも感じていた。

 とにかく、何かを変えたいと思っていたのだ。

 その願いはどこかに通じたとも言えなくもない。まさかこんな形で成就するとは思ってもいなかったが。

 私の胸を空しく鳴らしていたやるせない風は、今やその向きを変えていた。それはまるで、春の潤いと暖かさを湛えたような、そんな風へと変化して。


 やれないことは、ない。


 私は伸びた背筋を更に伸ばして、僅かにカーテンを開けた。

 細い朝日が顔いっぱいに降り注いで、眩しい。

 溢れんばかりの白い光の中で、どこかの家の風見鶏がくるくる回っているのが見えた。


 おわり。

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にわかなり、ニワトリ。 池田(ちゃぬん) @jmsdf555

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