第44話「約束の買い物」


 綾音は気分転換にドライブをしていたが、気分転換どころか苛々するばかりで車を路肩に止めた。


「何なのあの筋肉馬鹿は! 体は凄いけど他はザルじゃない! 夜になる度に体が火照って騙され続けて来たけど、もう我慢の限界だわ! はぁ〜、浩司が懐かしい……。今思えば、浩司の方が男らしいじゃない。なんか、すっごく会いたい。──そうだ! 電話すれば、よりを戻せるんじゃないかしら? 浩司のことだから、『綾音あやねん、やっぱり俺のこと忘れられないのか!』なんて言うんじゃない? 善は急げだわ、電話しよ!」


 プルルル……プルルル……


「こ、浩司こうくん! 私、綾音よ!」


 ─『はぁ? 綾音? 誰だっけ?』


「いやだ……綾音よ、あ・や・ね。──あのね、私……浩司こうくんのこと忘れられないの。あんなコトを言って出て行ったけど、私には貴方が必要だって分かったのよ。馬鹿なことを言って出て行ってごめんなさい……。私達、やり直せない?」


 ─『何を言ってるのかよく分からんし、誰かも分からん。イタズラ電話は止めてくれ。忙しいから切るぞ』


「あっ、ま、待って! また電話するね。出来れば会って話を───切れちゃってる。浩司こうくん、照れてるのね……きっとそうよ。いや〜ん、本当に可愛いんだからぁ。電話なんて言ってないで、直接会って色気を使った方が良さそうね。浩司こうくんは私の体を求めてたんだから……。よし、予定を変更して、今日は近くのジムで体を引き締めて、明日は馬鹿勇夫と買い物に行って帰ってからエステに行って、日曜日に浩司こうくんに会いに行こ! 会う時は胸の開いた服とミニスカートがいいよね? なんかワクワクしてきたわ!」




 ❑  ❑  ❑




 ─ 土曜日 ──




 勇夫と綾音は約束をしていた買い物に出掛けていたが、今日は生憎の雨。車を走らせる勇夫が口を開く。


「何だこの道路の泥は? ──あー、あの数台前を走ってるダンプが砂をこぼしてるんだな? お陰で道路が泥々じゃないか……」


「きゃっ! ちょっと、今滑ったでしょ? 注意して運転してよ!」


「五月蝿い! 道路が泥々でハンドルを取られただけだ!」


 綾音に文句を言われ、苛立つ勇夫が車を運転しながら思った。



 ──糞女め! あー、昨日香織の声を聞いてから、ますます想いが強くなってしまったぞ。俺としたことが大失敗だ! こいつと一緒になったのは、完全に大の大失敗だぞ! こいつと一緒に居ると、香織の素晴らしさが身に沁みて分かる。俺は取り返しの付かない事をしてしまったらしい……。いや、今からでも遅くない筈だ。香織に謝って俺は心を入れ替えたと言えば、元の夫婦に戻れるだろう。何と言っても俺は真琴の父親だからな! こんな女と一緒に買い物なんかに行ってる場合じゃないぞ! これは早急に何とかしないと……。



 そして、綾音も助手席で流れる景色を見ながら心の中で思う。



 ──初めてこいつの筋肉を見た時に、興奮したのが間違いだったわ……。趣味が合うだけじゃやっていけないのね。私には浩司こうくんがピッタリ嵌ってたのよ。今更気付くなんて、私って馬鹿よね……。あぁ、浩司こうくんが愛おしいわ。昨日電話で聞いたあの優しい声を耳元で聞きたい。愛情たっぷりの手で色んな所を触って欲しい……。あの電話の感じだと、私が謝れば浩司こうくんは許してくれる筈よ。うん、こんなヤツとは別れて、浩司こうくんとまた一緒になろう! 待っててね、浩司こうくん



 二人が同時にそう思った直後、お互いに相手の顔を見た。


 先に勇夫が声を出す。


「この買い物でお前とのお出掛けは最後だ」 


 それに対し、綾音が反撃する。


「こっちのセリフよ! 自分から振ったみたいに言わないでちょうだい!」


 綾音の言葉に顔を真っ赤にして怒りを露わにする勇夫。


「貴様! もう我慢ならん!」


 勇夫がそう吐き捨てるように言うと、運転しながら綾音に手を伸ばした。


「きゃー! 止めて! 触らないでよ! 力を使うなんて卑怯じゃない!」


「五月蝿い! 貴様の声はもう聞きたくない! 殴ってやるからこっちに来い!!」


「嫌ー! 馬鹿じゃない! 殴るって言われて、はいどうぞって言う人なんていないでしょ! ──あっ! ま、前見て!!」


 綾音が勇夫の手を払いながら前方へ目をやった。


「何が前見て、だ。貴様の言うことなど聞かん!!」


「馬鹿!! そんな事言ってる場合じゃ……前! トラックが……ぶ、ぶつかるわよ!!」


 ここでやっと勇夫が前方を見た。


「うわっ! ト、トラック!? くそっ、ど、泥でタイヤが滑っ……な、何? ブ、ブレーキが効かんぞー!」


 トラックからホーンを鳴らされ、ハンドルを切る勇夫だったが、道路の泥でタイヤのグリップが効かない。しかも、何故かブレーキまでスカスカの状態だった。


「何してんのよ! ブレーキが効かないならハンドルを切りなさいよ馬鹿!!」


 綾音の言葉に怒りが度を超えた勇夫が、ハンドルを力の限り回すと。


「うるさーい! ふんぬっ!!」


 スポンッ……


「うおーっ、ハッ、ハンドルが取れ───」

「ぎゃーー───」


 ガッシャーーン!!




 ❑  ❑  ❑




 ─ 産婦人科 ──




「うん、問題無しね。とても順調に育ってますよ〜。奥さんはいつもニコニコしてますね」


「はい! とっても嬉しくて」


 香織はそう言って、後ろに立っている浩司を見上げた。


「旦那さんが優しいから、お子さんも優しい子が産まれてくるんじゃないかしら?」


 産婦人科の先生の言葉に、浩司が照れている。


「僕、初めてなんですよ。ちゃんとお父さん出来るかなぁ……」


浩司こうくんはもうお父さんじゃない。真琴ま〜くんも凄く懐いてるし。大丈夫よ」


「いや、真琴ま〜くんくらい大きい子なら大丈夫なんだけど、産まれたての赤ちゃんは触った事もないから……。おしめ替えたり、お風呂に入れたり、ミルクを作ったり、後は……ゲップをさせたり! はぁ〜、不安だ。──帰りにクマのぬいぐるでも買って練習しようかな……」


 産婦人科の先生と香織が笑う。


「お父さん、大丈夫よ。初めはみんな不安なの。育児に積極的に関わっていれば、直ぐに慣れるから心配いらないわ」


 先生の話に少し不安のとれた浩司が言う。


「先生、僕、育児休暇を取ろうと思ってるんですよ」


 これには香織も驚く。


浩司こうくん、本当に?」


「ああ、本当だよ。驚かせようと思って黙ってたんだ」


 先生が拍手をして。


「素晴らしいわ。最近はそういう話も聞くようになったけど、実際に育児休暇を取る人は微々たるものですもの。貴方偉いわね。私にもその愛情を分けて欲しいわ。家の旦那なんて、寝転んで屁ぇこいで酒のんで……。あらやだ、可愛い旦那さん見てたら愚痴っちゃったわ。オホホホホッ」


 浩司と香織が苦笑いしている。


「さあ、それじゃあまた一月ひとつき後に来て下さいね。後もう少し頑張って!」


「「ありがとうございます!」」



 真琴を抱いた浩司と香織が病院を出て傘をさして歩き、車に乗ろうとしたその時。


 ガッシャーーン!!


「うわっ!」

「きゃっ!」


 病院の前の道路で事故が起きた。


「ちゅごいおとー! ブッブー、どか〜ん」


「あれはヤバいんじゃないか? 乗用車がグチャグチャになってる……」


「ほんと……。運転してた人……大丈夫かしら? もしかして、助からないんじゃ……」


 浩司が、真琴を抱く手と反対の手でポケットを探り、スマホを取り出した。


「と、とにかく、救急に電話しないと!!」

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