第40話「嵐の前の静けさ」


 綾音が出て行き暫くすると何度か大きな音が鳴り、タイヤのスリップ音を残して車のエンジン音が小さくなっていく。


 時計は夜の十時を回っていた。


「行ったか……。束の間の楽しみを味わっとけよ? ──香織さん、大丈夫かな?」


 浩司が香織の心配をしていると、スマホから着信音が聞こえてきた。


 浩司がスマホを手に取り画面に視線を落とすと、香織からの着信だと気付く。


「──はい、もしもし」


 ─『浩司こうくん、さっきの車の音って……そうよね?』


「はい。二人でどこかに行っちゃいました」


 ─『やっぱり……。浩司こうくん大丈夫? 私、心配になって電話したの」


「あんな格好悪い姿見せちゃったから、心配させちゃいましたね……僕は大丈夫です。──香織さんには悪いなって気持ちがありますけど、綾音に対してはそんな気持ちないんで、ちゃんと話出来ましたよ」


 ─『良かった。もし浩司こうくんが気落ちしてたら、私が浩司こうくんを元気付けなきゃって思ってたの。──浩司こうくんが元気なら、言ってもいいかな……』


「どうしたんですか? 遠慮なんかせずに、何でも言って下さいよ。僕に出来る事なら力になるんで」


 ─『──こんな時に悪いなって思ったんだけど……お言葉に甘えて、言っちゃおうかな……。あの〜、今から泊めてもらえないかしら? ──唐突にごめんね。明日ね、勇夫か荷物を取りに来るらしくて、顔を見るのが嫌だから家に居たくなくて……。夜中に来られるのも怖いし、親に頼むと心配させちゃうし、友達はみんな結婚してるし……。浩司こうくんしか頼れる人がいなくて……』


「何だ、そんな事だったら全然構わないですよ。移動するのも大変だろうから、今からそっちに行きますね」


 ─『ごめんね浩司こうくん、こんな時に無理言って』


「いいですって。こっちの話も終わったし、全然大丈夫ですよ」


 電話を切った浩司は、そのまま玄関へと向かい香織の家へと急いだ。隣まで走ると、玄関のドアが少し開いている。ドアを開けて玄関先から真琴が寝ている事を想定して、当たり障りのない声で香織を呼んだ。


「香織さ〜ん……」


 浩司の声が届いたようで、二階から顔を覗かせる香織。


浩司こうくん……。 こっちこっち……。鍵を閉めて上がって来て……」


 香織も、叫びながらもなるべく小さな声を意識して出していた。浩司が玄関のドアの鍵を閉めて二階へ上がる。


「香織さん、このバッグ一つだけですか?」


「うん。一泊だし……。本当に、浩司こうくんには悪いなって思ったんだけど、真琴ま〜くん浩司こうくんに懐いてるし、お願いした次第なの……」


「一泊と言わずに、もっと居ればいいのに……」


「えっ? 今何て言ったの?」


「ん〜ん、何でもないです。──さぁ、行きましょう」


 浩司が、「もっと居ればいいのに……」と声に出した言葉は、余りにも小さな声だったので、香織の耳には届かなかった。




 ❑  ❑  ❑




 翌日の朝。


「ふわぁぁ〜! 寝たのか寝てないのか……なんか体がダルいな」


 昨晩は寝室を香織と真琴に提供したので、仕事部屋で寝ていた浩司。


 二人を起こさないようにと、足音を殺しながらリビングへと歩を進める。階段を半ばまで下りたところで、リビングから漏れた光が見え、お腹に優しい音が聞こえてきた。


「くんくん……お味噌汁の匂いだ〜。起きてきた時にまな板を包丁で叩く音を聞いて、お味噌汁の匂いを嗅ぐなんて久しぶりだなぁ」


 浩司はその匂いに誘われ、顎を上げて鼻をひくつかせながらリビングに入ると、香織がリビングから出るところだったようで。


「きゃっ! 浩司こうくん! なんて顔してるのよ。──ふふっ、おはよ〜。浩司こうくんって面白いわね〜」


「香織さん……いや、美味しそうな匂いがしてたんで、つい変な顔になってしまいました。──あっ、おはようございます。朝ご飯作ってくれたんですね。メチャ嬉しいです! ──でも、僕のこと面白いって笑ってる割には、暗い顔してますね?」


 浩司の言葉に香織が肩を落としてため息を付く。


「うん……今日勇夫が荷物を取りに来るって言ったでしょ? もし、ここに来たらと思うと憂鬱で……」


「そっか〜……香織さんがここに居るとは思わないと思いますけど。──よし、決めた! 僕、今日は仕事休みますよ」


 浩司の休む宣言に、香織が慌てる。


「だ、駄目よそんなの」


「いいんですよ。今日は特にお客さんのとこに行く用事もないし、今月のノルマはもう達成してるし、有休取れって上司に怒られてたから、丁度いいんですよ」


「でも……」


 申し訳なさそうに俯いてしまった香織に、浩司がテーブルの方へと強引に背中を押して行く。


「きゃっ」


「そこで申し訳なさそうにされたら、僕達実は遠い間柄なのかと不安になっちゃうな」


 そんな事を言う浩司に、香織が訂正する。


「そんな……遠い間柄なんて浩司こうくんに思われたら、悲しくなっちゃうわ」


「でしょ? だからそんな事言ってないで、ありがとうって言ってくれなきゃ。それとも、香織さんは僕を悲しませたい?」


 背中を押されていた香織が急に振り返った。


「わっ!」


 急に振り向いた香織と足を前に出していた浩司が密着する。すると、香織の腕が浩司の背中に回り、力強く抱きついた。


「香織さん?」


「ありがとう。──浩司こうくんは嬉しいことばかり言ってくれるし、行動にも移してくれるんだね。そんな浩司こうくんに、私は何にもしてあげられないわ……」


 今度は浩司が香織を優しく抱きしめた。


「なに言ってるんですか。僕が辛い時に、こうやって一緒に居てくれてるじゃないですか。それだけで十分ですよ」


 浩司が話し終わると、浩司に抱きついている香織の腕の力が一段と強くなった。


「ぎゅ〜っ! ふふっ、誰にも遠慮せずにこうやって出来る。──私も、離婚になった事は凄く悲しいけど、今思い返せば、浩司こうくんに出会って仲良くなってから、ずっとこうしたかったのかもしれないわ。心の中では、勇夫との関係なんてとっくに終わっていたのかも……。こうやってると、昨日の夜が嘘のようだわ」


「お返しに、ぎゅ〜!! ──僕も香織さんと同じです。綾音と結婚したことは後悔してない。離婚は……想定外だったけど、こうなってしまったものはしかたない……。昨日は僕達が隣に越してきた《せい》でって言ったけど、ここに越してきた《お陰》で香織さんに出会えた。──もしかすると、僕達はこうなる運命だったのかもしれないですね」


 浩司の意味深な言い方に、香織が問い掛けようとしたが、それを躊躇ためらった。


「さっ、香織さんが作ってくれた朝ご飯が冷めちゃいますよ。早く食べましょう」


 浩司が、香織を抱きしめていた手を今度は香織の両肩に置いて、香織の顔を見ながらそう言った。

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