第36話「さようなら……」



  ─ 八木家 ──




 一週間後の日曜日の朝。


 今日勇夫は、ジムに行く予定を変更せざるを得ない仕事が急遽入った。その仕事は、昼前に家を出て夜遅くまで時間が掛かる為、ジムに行く……ひいては綾音に会いに行く暇が作れずに苛々していた。


 そんな勇夫の相手を朝からしなければいけない香織。一人で忙しく家事をこなしながら、何もしない勇夫に爆発寸前になっていた。


「いたいよ〜!」


 そんな時、真琴がいきなり叫んだ。


「勇夫! ちょっと真琴ま〜くんのこと見てあげて! 私、手が離せないのよ」


 香織の声を聞いた勇夫が即答する。


「無理だ! 今、テレビを見てる」


「テレビって……。テレビと真琴ま〜くんとどっちが大事なのよ!」


 勇夫がテレビを見たまま言う。


「そりゃあテレビだろ!」


 香織がため息を付き、遅くなった朝ご飯の片付けのために茶碗を洗っていた手を止めて、真琴の様子を見に行った。


真琴ま〜くんど〜ちたの?」


 香織が真琴のところへ行くと、真琴の機嫌が直り笑い出す。その様子を窺っていた勇夫が、視線をテレビに戻して真琴を抱く香織に怒鳴った。


「痛くなんかないんだ! 構って欲しいだけだろ? お前が甘やかすからそんなヤワな男になるんだぞ! 少しは放っておけ!」


 香織は返事をする気力も無く、黙って真琴の相手をしていた。そんな返事をしない香織に、勇夫が毒づく。


「ちっ、何なんだこの女は……気分が悪いな! 俺の知ってる誰かさんとは大違いだな!」


 その勇夫の言葉に腹が立った香織。


「いい加減にしてよ! 毎日毎日、筋トレばっかり。家の事も真琴ま〜くんのことも何もしないし、私とだって話もしないじゃない! 夜の営みなんてもう随分ないよね? 私は勇夫のお手伝いさんじゃないのよ! それに、俺の知ってる誰かさんって誰のことよ!」


 我慢の限界に達した香織が怒鳴った事に対して、勇夫がスマホを見ながら失笑する。


「ふんっ……なんだお前、そんなにヤリたいのか? 余程ベッドの上が好きらしい。いやらしい女だな!」


「ちょっ、違うわよ! なんて言い方するの? 愛し合った夫婦なら当然する行為じゃない! 今勇夫としたいとかじゃないでしょ!」


「面倒臭いヤツだな……。じゃあ俺達は愛し合ってないって事なんじゃないか? ──ふんっ、俺の知ってる誰かさんって誰のことよっ……ってか? そんなもん、俺の知ってる誰かさんに決まってるだろ! クソったれ! もういい、お前はもう黙ってろ! 俺は風呂だ!」


 勇夫がそう言ってスマホをテーブルに置き、リビングを出て行った。


「い゛〜、ムカツクーー!! 何が、じゃあ愛し合ってないって事なんじゃないか? よ! も〜、最低!」


 苛ついた香織が、テーブルの上に置きっぱなしの勇夫のスマホを掴み、放り投げようとしたその時、勇夫のスマホから通知音が鳴った。


「ん? 誰かしら?」


 いつもなら勇夫のスマホが鳴っても気にしないが、この日はたまたま手に持っていたので画面に目をやる香織。


「なになに、誰よコレ? 筋トレちゃん? もうムカツクから見てやるんだから!」


 勇夫は香織に腹を立てていたので、見ていたスマホをロックせずに席を立っていた。


 香織が筋トレちゃんという名前で来たメールを開いてみると、相手は直ぐに分かった。


 それは綾音からのメール。


 そこには、香織と浩司を馬鹿にした内容が綴られており、『この間の写真はエッチだったね』という文字も添えられている。


「やっぱり……。勇夫、綾音ちゃんと……浮気してたんだ。何、このメールの内容? あの綾音ちゃんがこんな事を言うの? それに、エッチな写真って……」


 香織は、二人が浮気をしていたと分かっていたとはいえ、証拠のメールを目の当たりにすると残念な気持ちで押し潰されそうだった。そして、この事実を浩司にも告げないといけないと思うと、浩司の悲しむ姿を想像して胸が痛くなった。


浩司こうくん……。浩司こうくんには黙っててあげたいけど、言わない方が酷よね。でも、浩司こうくん優しいから、『そんなの分かってたんで、僕は大丈夫です。あの二人も、そろそろこんな事してちゃ駄目だって気付くんじゃないですか?』、とか言いそう……。それでも、一応このメールを写真に撮って見せなきゃ。ついでに、エッチな写真ってやつも証拠として……」


 そう言いながらギャラリーを見てみると、二人の不埒な画像や、二人が裸で絡み合った画像が何枚もあった。


 その画像を見た香織の目から涙が溢れる。


「ぐすっ……。も、う……最低……。心、が完全に折れ……ちゃった」


 泣きながら全ての写真を自分のスマホのカメラで撮り、証拠として保存した。


 勇夫のスマホを、二人が裸で絡み合った画像を開いたままにしてテーブルに置いていると、勇夫が風呂から上がってくる。


「あー、シャワーを浴びたらすっきりさっぱりした! おい! 茶だ!」


 香織は勇夫の言葉に返事もせずに、俯いたまま動かない。


「──無視か! この役立たずが!」


 勇夫が自分でお茶を入れにキッチンへ向かう途中で、自分のスマホの通知音が鳴った。


 勇夫はキッチンへと向かう足を方向転換させて、無言でテーブルにあるスマホに手を伸ばした瞬間、開かれた画像が目に入った。


「んなっ!? お、お前! 俺のスマホを勝手に見たのか!」


 香織は黙って頷く。


「ちっ、泥棒と同じだな……。ふっ、まあいい。どうせいつか言うつもりだったからな。タイミングが今になっただけだ! ──分かるだろ? そういう事だ! 俺の知ってる誰かさんとは綾音のことだ! 俺はお前と離婚して、この家も売るぞ! 明日、俺の荷物を全て運び出す。俺は優しいからな、一月ひとつきは待ってやる。その間にお前も新しい家を探せ! この家はその後に解体する! 土地を売って入った金は全部養育費としてくれてやるから文句は無いだろ!」

 

 香織は、勇夫の言葉に口を開かなかった。


「返事が無いって事は、了解って事だな。もう隠す必要も無くなったから言うぞ。今から綾音に会いに行く! 離婚届は明日持って来るから、その時にサインしろ! 裁判だのは面倒だから、財産は半分以上くれてやる。お前は卑しいから慰謝料も請求するだろ? 三百万だ!! それ以上は払わん! 勿論、子供は要らん!! お前と話す事はこれでもう無い! じゃあな!」


 勇夫が、自分が言いたい事だけを言い放つと、わざと音を大きくたてながら家を出て行った。


 見えなくなった勇夫に香織が言葉する。


「さようなら……」


 永遠の別れを告げる言葉が、香織の口から発せられた。

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