第37話「負かす女と負かされる女」



 ─ ヤッセスポーツジム ──




 ジムを開けてから数時間後、一人の女性がジムの出入口のドアを開いた。


「いらっしゃませ!」


 スタッフの元気な声が店内に響く。


 その女性が受付に右手を着き、辺りを見渡している。


 その様子を見ていた美香が、足早に受付にやって来た。


「いらっしゃ───」


「滝野綾音さん……いらっしゃる?」


 美香の言葉を遮り、綾音のことを訊く女性。


「あ、は、はい。滝野綾音はこのジムのスタッフですが……」


「──知ってるわよ。今日出勤してるかって訊いてるの……。貴女、面倒臭いわね」


 その女性の目は冷ややかで、相手を見下すように顎を少し上げている。


 そんな女性の態度に顔が強張る美香。


 その女性が軽く眼鏡を上げると、美香に向かってため息を付き、声を発した。


「居るの? 居ないの? もし居るなら、早く呼んで下さらない?」


「は、はい! 少々お待ち下さい!」


 美香は受付から離れ、綾音を探しながら思った。



 ──何よあの人、超怖いんですけど……。先輩に何の用かしら? あの態度からして、何か文句を言いに来たのかな? 先輩の困った顔が見れるかも? 何かワクワクしてきちゃった!



 美香は綾音が嫌いだったので、綾音を呼べと言うその女性を勝手に応援しながら走っている。


 後から聞こえる足音に綾音が振り返ると、走ってくる美香が視界に入った。


「あっ、先輩! 何か変な人が呼んでますよ」


「変な人?」


「はい。滝野綾音を呼べって言ってました……」


 それを聞いた綾音が、首を傾げながら受付に歩いて行った。


 受付に後ろ向きで立っている女性が見え、綾音が声を掛ける。


「お待たせしました。あの、何の御用でしょうか?」


 綾音の声に振り返る女性。


「あっ! 勇夫……さんの会社の方ですよね? 確か……社長秘書の稲持燐々いなもちりんりんさん」


「そうです、よく憶えていましたね。今日は折り入って話がありまして」


「話……ですか? それじゃあ中へご案内し───」


 燐々りんりんは髪をかき上げ、綾音の言葉を遮った。


「ここで結構よ」


 燐々りんりんの威圧的な表情にたじろぐ綾音。


「貴女、社長に近づくのを止めなさい。新婚のくせに何を考えてるの?」


「えっ? 勇夫さんはお隣さんで、ジムのお客様なので、近づくも何も……」


「お黙りなさい。調べはついてるのよ? そのお隣の旦那様を寝取るなんて、非常識にも程があるわ。貴女が金輪際社長に近づかないと約束するなら、このまま帰ります。──でも、約束しないなら……貴女の夫に全てを話すわよ?」


 綾音が首を傾げながら言う。


「勇夫さんの奥さんに言われるならまだしも、稲持いなもちさんにそんなことを言われる筋合いは無いですよね?」


 燐々りんりんが冷笑した。


「悪びれもせずに、よくそんなに堂々としてられるわね? 悪い事をしてる自覚あるのかしら?」


 燐々りんりんの言葉に、逆に綾音が鼻で笑った。


「悪い事? 何が悪いんですか? 悪いのは、勇夫さんにをさせている奥さんと、私にを言わせてる私の夫ですよ。その二人に魅力が無いから、勇夫さんと私が惹かれ合ったんです。私達は結婚する位相手を好きになったのに、その相手に裏切られたんですよ」


 燐々りんりんが綾音の話を聞いて、両手を上げて呆れている。


「貴女どうしようもないわね……。良い事と悪い事の区別もつかないなんて。どんな理由があろうと不倫が正当化される訳ないでしょ? ──私が貴女の夫にこの事をバラしたらどうなるかしら?」


 燐々りんりんが不敵な笑みを浮かべてそう言った。


 それに対し、綾音が片方の眉を上げて言葉する。


「はぁ? どうなるかしらって……そりゃ喧嘩になって離婚の話が出るんじゃない? そんな事も想像出来ないなんて、貴女賢そうに見えるけど意外と馬鹿なんですね?」


 燐々りんりんが受付のカウンターを強く叩き怒りを露わにした。


「馬鹿は貴女でしょ! そうなると分かっててわざと訊いてるのよ! もういいわ、話にならない。全てを貴女の夫に話して、貴女の生活を壊してあげる!」


 勝ったような顔で吠える燐々りんりん。そんな燐々りんりんを、綾音が嘲笑うような眼で見ながら言葉を吐いた。


「ご勝手にどうぞ。自分で夫に不倫してるなんて言うのも可怪しいというか、面倒だったから言ってないだけなので……。もう夫と一緒に生活する意味もないしね。──貴女って意外と良い人ね? 友達でもない私を心配して、手伝ってくれるなんて……。あ・り・が・と・ね」


 燐々りんりんが髪をくしゃくしゃにしながら言う。


「キーッ! なんなのアンタ! ムカツク女ね!」


 そんな燐々りんりんを見て綾音が。


「うふふっ、面白〜い! 貴女も勇夫さんのことが好きなんじゃない? 可哀想に……。貴女秘書なんでしょ? 毎日勇夫さんの近くにいるのに相手にされないなんて。ご愁傷様です! お・ば・さ・ん」


 この二人の言い争いを陰で耳を傾けて聞いている美香。綾音が話し終わると心で思った。



 ──何よ、あの稲持いなもちって女は! 見た目は強そうなのに、全然駄目じゃない。言い負かされるなんて、何やってるのよ! 先輩が泣かされるとこ見たかったのに……。でも、夫に言うと言っても動じないなんて、先輩の中ではもう離婚確定してるじゃん。あ〜ん、この先輩に天罰が起きる事はないの? なんか悔し〜!!


 

 綾音と燐々りんりんが言い争っていると、ジムの出入口のドアが開いた。だが、二人はその事に気付いていない。

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