第35話「封印」


 浩司がおもむろに話し出した。


「あの、ぼ、僕……本当は香織さんとこうやって会って話したり、外でご飯を食べたりしたいんですけど……」


 浩司の意味ありげな話し方に、生唾を飲み込む香織。


「う、うん……」


「香織さんと会う度に、その……惹かれる、と言うか……心が締めつけられる、と言うか。──ん〜、端的に言うと……す、ス、すす……」


 『す』を連呼する浩司につられて、香織も口を尖ら。


「す……ス……すす?」 


 そのまま黙ってしまった浩司に、香織が業を煮やし。


「す……が何!」


 と叫んだ。


「あ〜! 駄目だ! 言いたいけど言えない……これを言ったら駄目ですよね?」


 浩司の突然の問い掛けに香織が困惑する。


「駄目ですよね? って言われても、何を言いたいのか分からないから答えられないわ……。駄目って、どうして駄目なの? 何でも言ってよ。駄目な事なら、他の人には黙っておくから」


 香織に諭された浩司が、体ごと香織の方を向いて、両手を香織の両肩に置き重い口を開いた。


「──そこまで言われたら、もう抑えきれそうにないです。こんな事を言えば、香織さんが僕の前から居なくなるかもしれないけど……もう、言わずにいられない。──香織さん」


 浩司の言葉と真剣な眼差しに、両手で胸元の服を握る香織。


「は、はいっ!」


「──僕」


「……」


「──香織さんが好きだ!」


 一瞬で顔全体が真っ赤になる香織。


「私……」


 香織は、声を出した途端に涙を流した。


「私は、浩司こうくんと仲良く話が出来るようになってからずっと……浩司こうくんが気になってた……。その気持ちが段々大きくなって。──今は私もハッキリと言えるわ、浩司こうくんのことが好きだって」


 浩司が香織の頬を濡らす涙を親指で拭い、優しく微笑んで語りだした。


「既婚者の僕が、同じ既婚者の香織さんを好きになるなんて駄目だって……ずっと自分に言い聞かせてた。でも、香織さんが襲われてるのを見た時に、必要以上に頭に血が上がたっ事で、自分の気持ちにハッキリと気付いた。普通の友達なら、あそこまで怒りが込み上げて来ることはないから。だから、僕は香織さんが……好きなんだって、もう自分に嘘は付けないってね。──そう想うと、余計に田口が許せなかったし、香織さんを守る事しか雀頭になかった。こんな感情は初めてだよ。既婚者同士だから、許される事じゃないけど……僕は、香織さんが好きだ」


「私も、浩司こうくんのことが好きよ」


 二人が見つめ合う。


「綾音と勇夫さんが浮気してたと分かった時も、勇夫さんに対して、僕の綾音を……って怒れなかった。それどころか、綾音が香織さんに迷惑を掛けてるって思うと心が苦しかったんだ」


 浩司が香織の手を握って話を紡いだ。


「──夫婦間の些細な喧嘩とか、自分の気持ちを何で分かってくれないんだ……って思う事が沢山重なって、心が綾音から離れて行ってたんだと思う。今思えば結婚してからというより、それは結婚する前からあったんだろうな……。自分でも気付かないうちに、ストレスが溜まってたんだ。そんな心情で気が合った香織さんと会ってると、段々と惹かれていつの間にか好きになってた……」


 香織は浩司の話に耳を傾け、浩司を見つめている。


「でも、香織さんには真琴ま〜くんがいるし、あんな人でも夫がいる。そして、僕にも妻がいる。僕は、香織さんの家庭を壊したくはない。──出来ることなら、夫婦は仲良くしたほうがいいに決まってるからね。離婚なんてしたら誰が可哀想って、真琴ま〜くんが一番可哀想だから……。それに、あの二人も時期に目が覚めると思う。まあ気持ちが元に戻るかは分からないけどね。──香織さんのことを好きだなんて言っといて勝手だけど、お互いにこの気持ちは封印しよう。勿論、香織さんとはこれからも仲良くしたいと思ってる」


 浩司の話が終わると、目に涙をいっぱい溜めた香織が口を開いた。


「そう……よね。──うん、そうだよね。それがいいに決まってるよね。自分の我儘わがままを通して家庭を壊してまで一緒になったとしても、関係のない真琴ま〜くんから本当のお父さんを取り上げたっていう罪悪感が残って、後から絶対に後悔するよね。──浩司こうくんの意見に賛成するわ。でも、お互いに気持ちは封印するとして……一つ、私の我儘を聞いてくれない?」


「勿論。何でも言ってよ」


 浩司の言葉を聞き終えた香織が、ゆっくりと目を閉じ唇に軽く力を入れ窄めた。浩司は香織の顔を見て、香織が言う我儘に気付き、その魅力的な香織の唇に目をやった。


 そして、ゆっくりと自分の唇を香織の唇に近づけていく。その距離が徐々に縮まっていき、唇と唇が重なり合う刹那。


「うわぁぁん!」


 静かな部屋に突然大音量の声が響いた。その声に驚いて飛び上がる二人。


「うわっ!!」

「なにっ!!」


 直ぐに真琴が目覚めて泣いていることに気付く二人。大きな目を開けたまま二人は顔を見合うと、吹き出し大笑いする。


「ぷっ!」


「はははっ!」


「「ははははははっ!!」」




 ❑  ❑  ❑




 ─ ヤッセスポーツジム ──





 綾音は日曜日も出勤の為、朝からジムにいた。


「おはようございます!」


「おはよ〜」


 綾音の後に美香が出勤してきた。出勤早々に美香が綾音に話し掛ける。


「先輩。昨日の帰りに、久しぶりに浩司さんに会いましたよ」


「ああ、浩司も美香ちゃんに会ったって言ってたわ。昨日はたまたま迎えに来てたのよ。要らないって言ったんだけどしつこくてね」

 

 綾音の言葉に、美香は思った。



 ──何よこの人……。浩司さんに嘘付いた癖に、迎えに来てくれた浩司さんのことそんな風に言うなんて……最低な女ね。浩司さんには勿体ないわ。この浮気女! あ〜、昨日やっぱり浩司さんに教えてあげれば良かった……。雅人には悪いけど、こんな女より私が先に浩司さんと出会えてればなぁ……そしたら私が浩司さんを幸せにしてあげたのに。可哀想な浩司さん。



 美香が綾音の言葉に何気ない顔で返した。


「それは惚気のろけてます?」


 美香のその言葉に、綾音が失笑する。


「ええ? 全然。──惚気のろけてる訳ないじゃない。そんなラブラブじゃないわよ? 私達」


「そうなんですか? 少し前までは仲良さそうだったのに」


 綾音は仕事の手を休めることなく、美香に問い掛ける。


「美香ちゃん、彼と結婚するの?」


「はい、そのつもりで付き合ってますけど?」


「そうなんだ。──なら、先輩として五七五で助言してあげる……?」


 綾音がそんなことを言い、下を向いて笑っている。美香が下を向いている綾音を睨みながら訊いた。


「綾音さんは、結婚した事を失敗したって思ってるんですか?」 


 美香の質問に、綾音が即答する。


「ピンポーン! まあ、結婚してなきゃ出会えなかったけどね」


 美香が首を傾げる。


「誰にです?」


「ん〜? こっちの話。──さあ、仕事仕事! 今日は忙しいから、美香ちゃんも頑張ってね」


「は〜い」


 美香はロッカールームへ向かいながら思った。



 ──あ〜、腹立つなぁ……何がピンポーンよ。あれは浩司さんのこと馬鹿にしてるのよね? あ〜、浩司さんを救ってくれる人、誰がいないのかな? あんな女に浩司さんは勿体ないよ。何が結婚してなきゃ出会えなかった、よ。どうせあの勇夫とかいう黒い筋肉マンのことでしょ? でも……あんな女に限って幸せになるのよねぇ。あ〜、嫌だ嫌だ。



 美香は眉間にシワを寄せて舌を出し、綾音に見えないように中指を立てて小さく呟いた。


「地獄に落ちろ……馬鹿女」

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