第26話「香織を救うメール」


 勇夫と浩司のやり取りを離れて聞いていた綾音が、ふとベッドに目をやった。そのベッドの下には自分が隠した下着が丸見えになっており、心拍数爆上がりの中、考えた。



 ──ちょっ、ちょっと待って……あれ、私の下着じゃない! って事は……履いてないわ……。汗を拭いて乱れた服を整えて、下着を履い……てないじゃない! 浩司にバレる? 浩司がいる角度からなら見えないよね? え? そこを動いちゃ駄目よ! ど、どうしよう……。そうだ、ベッドを整えるフリをして下着を奥に蹴る? 駄目駄目! ベッドを整えるって、このタイミングでやったら可怪しいじゃない! も、もう祈るしかないわ……。



 あんな所にある脱ぎ捨てた下着が見つかれば、疑われる事必須の絶体絶命の中、綾音の背中に冷や汗が流れた。綾音は、視線を浩司から離さずに天に祈りを捧げている。



 ──神様! どうか、どうか浩司にあの下着がバレませんように!!



 そんな綾音の願いも虚しく、浩司が振り返るとベッドの方に向けた目を開けたり閉じたりしている。その様子を見ていた綾音は、手が汗ばみ唾を飲み込んだ。すると、浩司が目を泳がせながら綾音に近づいていく。綾音は全身の力が抜け、言い訳を考えるでもなく只呆然とした。



 ──バ、バレちゃった……。



 勇夫が、寝室の壁に掛けられている絵画に目を奪われている隙に、浩司が綾音に小さな声で耳打ちした。


「綾音、ベッドの下に洗濯物のしまい忘れの下着があるぞ。僕が勇夫さんを外に連れ出すから、綾音はソレをしまって」


 浩司の言葉に汗が止まり、全身に力が戻ると綾音が笑いを堪えながら頷いた。



 ──馬鹿で良かった。



 

 ❑  ❑  ❑




 ─ 浩司の仕事部屋 ──




 勇夫も家に帰り、長い一日が終わった。

 後は寝るだけとなった夜。綾音は先に就寝し、浩司は残っていた仕事を片付けてしまおうと、自分の仕事部屋にやって来た。


「はぁ〜疲れた。さっさと、仕事を終わらせ……んなっ!!」


 浩司の目に飛び込んできたのは、大切にしていたバイクのプラモデル。その、立てて飾っていた筈のプラモデルが倒れていた。


「は、は、は……ハン、ハンドルが、折れてる……」


 折れたハンドルを手に、怒りの表情を浮かべる浩司。


「この壁の向こうは……寝室だ。そう言えば、あの時大きな音がしてたな。あの男が逆立ちをした時に、壁に勢いよく足がぶつかったせいでこの机が揺れてバイクが倒れたのか……」


 浩司は余りの怒りに立ち上がり八木家に向かおうとしたが、頭を横に強く振り呼吸を整え深く深呼吸した。


 そして、胸に手を当てて思考を巡らせる。



 ──ここで勇夫さんに怒鳴りに行ったところで、良くて『すまんな!』、悪くて『そんな事は知らん!』だろうな。勇夫さんに悪気が無いことは確か。でも、このバイクのプラモデルは……。ん゛ー、僕がここで切れても損をするだけだ。八木家には行けなくなり、勇夫さんと仲良くしている綾音にも恨まれる。何より香織さんと話が出来なくなるのは避けたい。僕が我慢すればいい事だ。ふぅ〜……忘れろ浩司。折角の機会だ、修理して埃を落として綺麗にしよう。



 仕事のことは忘れて、プラモデルの修理に没頭する浩司であった。




 ❑  ❑  ❑




 数週間が過ぎた頃。浩司と香織は顔を合わせばよそよそしく頭を下げるだけで、言葉を交わす事はなかった。


 スマホでのやり取りはたまにしていたが、あの出来事がお互いの心にブレーキをかけさせていた。



 そんなある日、香織に一本の電話が入る。


 プルルルル…… プルルルル……


「はい、もしもし」


 ─『香織! 私、栞里しおり!』


「そんなに慌ててどうしたのよ?」


 ─『私、旦那と別れる!』


「ええっ!? 何よいきなり」


 ─『あいつ、浮気したのよ! 許せないわ!』


 浮気という言葉に、少し鼓動が早まる香織。


「そ、それは間違いないの?」


 ─『うん……。香織、今一人で居るのが辛いの。お願い、一緒に居て!』


「そんな事いきなり言われても、真琴ま〜くんが……」


 ─『そこをどうかお願い! 真琴ま〜くんは誰かに預ければいいでしょ? 子供がいたら話が出来ないもの。ねっ? いつものカフェに居るから……お願い!』


 一方的に電話を切られ、困惑する香織。


「もう〜、お願いって……。勇夫は綾音ちゃんのジムだし、今日はお母さんもいないし……真琴ま〜くんを預けられる人なんていないのに。──でも、栞里しおりは大切な友達だし、どうしよ〜……」


 そんな折に一通のメールが入った。


『香織さん、お久しぶりです。急なメールすいせん。どうしても我慢できなくなって……また前みたいに話したいです!』


 簡単な一文だったが、香織には十分過ぎるものだった。


浩司こうくん……ありがとう。私も前みたいに話したいよ。──そうだ、浩司こうくんに頼んでみようかしら? 私から浩司こうくんに話したいってメールをする勇気が無かったのに、浩司こうくんはメールをくれた。次は私の番よね。このお願いを頼む事で、前迄の雰囲気に戻れる気がするわ。メールをもらって直ぐに虫の良いお願いだけど、非常時はお互いの距離を埋めるって言うし……家に居るか電話で訊いてみようかな?」


 香織は、浩司からのメールに救われた。あの一件は自分が誘導して起きた事だったので、また自分から話したいとは言いづらかったのだ。


 浩司も自分と同じ気持ちでいてくれた事に嬉しく思い、勇気を出して電話することにした。


 プルルルル…… プルルルル……


 ─『香織さん!』


浩司こうくん……あっ、駄目。涙が出てきちゃった……」


 ─『え〜!? 僕の声が耳に障りますか? やっぱり話すのは不味いですか?』


「違うよ……浩司こうくんの声が聞けた事が嬉しくて。ごめんね、私泣き虫なの」


 ─『なら良かった……。そんな香織さんも、可愛くていいです』


「ふふっ、浩司こうくんは何でも良いように言ってくれるのね?」


 ─『それは当たり前ですよ。良い事は良いに決まってますからね。──それより、僕のメールを見て電話をくれたんですか?』


「あっ! 浩司こうくんと話してる事が嬉しすぎて、本題を忘れてたわ」


 ─『そんな風に言われると余計に嬉しいですね。それで、本題って……』


 浩司の問い掛けに、香織が話し出す。

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