第22話「苛立ち」



 ─ 滝野家 ──





 今日は滝野家に八木一家を呼んでの食事会。いつもの如く週末なので綾音は仕事の為、浩司がカレーを仕込んでいる。


「今日は久しぶりに香織さんに会えるなぁ。皆で会うから大丈夫だよな? 香織さんと二人だと、雰囲気に呑まれそうになるから……って、それは僕の気持ちが弱いのが悪いんだよな。でも、妻との仲が不安定な時に、美人で尚且つ気が合う人と会って、何とも言えない雰囲気になったら、誰でも呑まれるんじゃないか? いや、精神が強い人は、そうはならないのかな……」


 浩司は独り言を呟きながらカレーを仕込んでいたが、いい塩梅になってきたので鍋の火を止めた。


 ピンポーン♪


「おっ、香織さんだ!」


 浩司は、インターホンも見ずに玄関へと走った。


「こんばんは〜!」


 そう言いながら玄関のドアを開けた浩司。だが、そこには誰もいない。


「あれ? 誰もいない……」


 浩司が靴をきちんと履き、外へ出ようとした時。


「こ〜くんち、はいる!」


 ドア向こうの見えていない所から、真琴の声が聞こえてきた。


「そこか!」


 浩司が体を外に出してドアの裏側を覗くと、そこには真琴を抱いた香織が立っていた。


「こ〜くんだぁ!」


「見付かっちゃた! も〜真琴ま〜くん、声を出しちゃ駄目じゃな〜い」


 香織がそう言って真琴をくすぐった。


「こちょこちょこちょこちょ!」

「きゃはははっ!」


 真琴が香織のくすぐり攻撃から逃げようと、浩司に向かって両手を伸ばす。


真琴ま〜くん浩司こうくんが助けるぞ!」


 浩司が真琴を香織から救うと、急いで玄関に入った。


「私を置いてっちゃ駄目!」


 香織が笑いながら、浩司に続き滝野家の玄関へ。


真琴ま〜くん、ママ星人が追っかけて来たぞ! さっきのお返しをしよう!」


「うん!」


 浩司は真琴を左手で抱き、真琴と二人で香織に手を伸ばした。


「ママ星人覚悟!」

「ママせーじかっご!」


「やめて〜!」


 香織も芝居に乗っかり、真琴がくすぐり易いようにわざと両手を上げた。


「こちょこちょこちょこちょ!」

「キャハハハっ!! 駄目、本当にくすぐったい! 参りました!」


「やったぞ真琴ま〜くん! ママ星人をやっつけたぞ!」


「ま〜くんのカチ〜!」


 真琴が両手を上げて喜び、それに応えて浩司が右腕を上げようとした時。


「ママやられちゃった〜……」


 香織もそこに交ざろうと、浩司の右腕にしがみつき、顔を胸に埋めた。


「ママのまけ〜!」


 真琴は嬉しそうに目の前にある香織の頭を撫でる。浩司は色んな事に耐えながら、無言でその時を過ごした。


 香織は浩司の腕から離れずに浩司を引っ張り、家の中に入ろうとする。


浩司こうくん、中に入ってもいい?」


「も、もちろんですよ」


 緊張気味の浩司が家の方へ向きを変え、香織を伴って中に入り、リビングのソファの前までやって来た三人。


 ここに来るまでずっと赤い顔をしている浩司に、香織が耳元で囁く。


浩司こうくん、このまま抱きついちゃってもいい?」


 耳元に香織の息が掛かり、背筋を伸ばし硬直する浩司。


「そ、それは……ま、真琴ま〜くんが……」


 その浩司の態度に香織が笑った。


「フフフッ、本当に真面目なんだから。そんなだからいいんだけどね?」


「香織さん、からかわないで下さいよ〜」


「からかってないも〜ん!」


 香織がそう言って浩司の背中を軽く叩き、ソファに座った。


「はぁ〜。真琴ま〜くん浩司こうくんの代わりに意地悪するママをやっつけちゃって」


「いいよ〜!」


 真琴が嬉しそうにそう叫ぶと、浩司が抱いている真琴をソファの上に下ろした。香織と真琴がじゃれ合う姿を見ていた浩司が、ポツリと呟く。


「いいなぁ〜……」


 そんなことをしている内に、外から車のドアが閉まる音が聞こえてきた。


「あっ、帰ってきた」


 暫くすると、玄関の方からドアの鍵が開く音が聞こえる。


 ガチャ……


「ただいま〜」


「浩司君! お邪魔するぞ!」


 綾音と勇夫の声がリビングまで届くと、浩司が玄関へと歩いて行った。


「勇夫さん、どうぞ上がって下さい。──綾音あやねんお帰り」


 浩司は二人を待たずにリビングへ入り、夕食の準備に取り掛かった。



 ❑  ❑  ❑



 夕食のカレーを食べ終え、綾音と香織が食器を片付けている最中。


「あっ!」

「きゃっ!」


「ご、ごめんなさい! 大丈夫ですか、香織さん!」


「う、うん、平気よ。綾音ちゃんは大丈夫?」


「私は大丈夫ですけど……香織さんのズボンにカレーが……」


 綾音が落としたお皿にはカレーが残っており、そのカレーが香織のズボンに掛かってしまった。


 香織はキッチンペーパーを綾音に借りて拭き取ったが、もちろんシミは残っている。


「何をやってるんだ! ドジだな、お前は!」


 勇夫の罵声が飛び、香織は困惑しながらも思った。



 ──何よこの人。普通は心配するもんじゃない? 「どうしたんだ、大丈夫か?」って……。二人がいる前であんな言い方ないじゃない。はぁ〜、でもここで私が怒鳴ると、雰囲気が悪くなっちゃうわよね……我慢しなくちゃ。



「そんなことを言われても……私は立ってただけよ?」


 香織は怒鳴ってやりたい気持ちをグッと抑え、落ちたお皿をシンクに置いて、汚れたマットを拭こうとしている。そこに浩司が割って入った。


「大丈夫ですか、香織さん。そんなことしなくていいですよ」


 キッチンに回った浩司が香織にそう声を掛けると、カレーがこぼれて汚れたマットを捲り取った。


 浩司の横で立ち尽くしている香織を、隣で手伝いもせずに見ている綾音は思った。



 ──ふふっ、面白〜い。わざとやってやったのに、この人全然気付いてないわ。あんな奥に置いてあったお皿が落ちる訳ないじゃない。馬鹿ねこの女。あ〜、もう勇夫さんは貴方に愛は無いって言ってやりたい。



 綾音はそう思いながら、邪魔な香織を家に帰らせようとする。


「香織さん、家に帰った方がいいですよ。そのシミ早く取らないと残るんじゃないですか?」


「ああ、早く帰れ! もう戻って来なくていいぞ!」


 勇夫の冷たい言葉に浩司は思った。



 ──おいおい、自分の妻だろ。なんだよその言い方は! こいつ、ムカつくっ!



 苛々が顔を出そうとしていたが、ここは何とか抑えながら声を出した。


「いや、勇夫さん、そこまで言わなくても……」


 勇夫は浩司の言葉など聞く耳を持たない。


「香織! 綾音ちゃんが折角そう言ってくれてるんだ! 早く帰れ!」


 香織の表情が明らかに曇り、声を出す気力も無くなったのか、口をつぐんだままゆっくりと足を動かした。


 浩司は、夫の勇夫の前で香織に寄り添う事も出来ず、勇夫に対して強く言う事も躊躇ためらった。


 玄関へとゆっくり歩く香織の後ろ姿を見て、歯を食いしばる事しか出来ない自分に苛立ちを覚えていた。

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