第20話「美人秘書」



 ─ マチョキンホーム ──





 ここは勇夫が社長を務める不動産屋、マチョキンホーム。ここの従業員は、社長の勇夫と営業の新谷敏郎しんたにとしろう三十三歳、営業の中西直子なかにしなおこ二十七歳、事務の高橋真由たかはしまゆ二十五歳、秘書の稲持燐々いなもちりんりん二十九歳……以上の五人である。


 皆スポーツ好きという、体育会系が集まった会社である。勇夫が面接の時に、スポーツ好きだけを狙って採用したのかは定かではない。


 この日は月曜日。毎朝行われる朝礼が終わり、皆が仕事にとりかかった。


燐々りんりん、俺の今日の予定はどうなってる?」


 勇夫の問い掛けに、タブレットを素早く操作する秘書の稲持燐々いなもちりんりん


「社長の今日のご予定は……五件ですね。──午前中に三件の内見、午後からはハウスメーカーの重役と会食、それと……怪我で入院されているマンション・コンドイ・コーナのオーナーの御見舞となっております」


 燐々りんりんが話し終えると、勇夫が沈黙し熟考している。



 ──会食までの仕事は外せんな。ん〜、コンドイ・コーナのオーナーの見舞いは別日でもいいだろ。



 結論を出した勇夫は、燐々りんりんに指示を出す。


燐々りんりん、最後の見舞いは後日にしてくれ」


「かしこまりました。では、他はご予定通りに」


「ああ、それで頼む」


 秘書の燐々りんりんは出来る女であった。手入れが行き届いた黒のロングヘアに細目の眼鏡を掛け、上は白のブラウスにジャケットを羽織り、下はスリットの入った少し長めのタイトスカート。スリットから覗く奇麗な脚がセクシーさをより際立たせている。


 美人秘書と囁かれる事に、誰もが納得する人物であった。



 ❑  ❑  ❑



 勇夫は順調に仕事を進め、午後から始まったハウスメーカーの重役との会食が終わると、燐々りんりんが運転する車に乗り込んだ。


 勇夫は流れる景色を車窓から眺めながら、燐々りんりんに話し掛ける。


燐々りんりんも家で筋トレしてるんだろ?」


 勇夫のその問い掛けに答える燐々りんりん


「ええ。たるみのない体を維持するのは、秘書の努めですので」


「良い心がけだ! 実はな、昨日からジムに通い出したんだ」


 ハンドルを操る燐々りんりんがバックミラーに目を向けた。ミラーの端に見える勇夫と前方を交互に見ながら声を出す。


「社長らしくないですね?」


「はっはっはっ! 燐々りんりんならそう言うだろうと思ってたぞ。通っている自分が驚いてるからな!」


「何か事情がおありなんでしょうか?」


 勇夫が一呼吸置き話す。


「家の隣に引っ越してきた若い夫婦と仲良くなってな。歓迎会と称して一緒に飯を食べた時に、その若夫婦の奥さんがジムのインストラクターをしていることが分かったんだ。その日に俺が保有するマシンを見てくれて、使い方の指導をしてもらったんだが……目から鱗が落ちたよ。素人とプロの差を実感した瞬間だった。その出来事が切っ掛けで、もっと体がデカくなるならジムに通うのも悪くないと思った次第だ」


 勇夫の話に耳を傾けていた燐々りんりんが、赤信号に捕まりブレーキペダルにゆっくりと圧力を加えながら口を開いた。


「──そうですか、それは社長らしい考え方ですね」


「今日は今からそのジムへ向かう。燐々りんりんも、そのジムの場所を覚えておいてくれ」


「かしこまりました」


 信号が青に変わり、踏んでいたペダルを隣のアクセルペダルに踏み変え、勇夫の指示に従ってジムに向かって車を走らせる燐々りんりん


 二十分程車を走らせた所で。


「そこを右に曲がった所だ」


「あの交差点ですね」


 勇夫の言葉に右にウインカーを出した燐々りんりんが、対向車を見計らいハンドルを右に切ると、ジムの文字がある看板が掲げられているのが見えた。


「あの一階がガラス張りの建物ですね?」


「ああ、そうだ……おっ! 綾音先生がお出迎えしてくれているじゃないか!」


 勇夫の少し興奮した声を聞いて、燐々りんりんは思った。



 ──声色が変わった……社長のテンションが上がったわ……。ジムのインストラクターがお出迎えなんて可怪しくない? これは怪しいわね。私も、その先生とやらにご挨拶しとかないと……ね。



「社長、私もその先生にご挨拶させて頂いても宜しいでしょうか?」


「ああ、もちろんだ。俺が紹介する」


「宜しくお願い致します」


 燐々りんりんがジムが入る建物の近くに車を寄せて止めると、二人は車を降りた。


「あっ! 勇夫さん!」


 勇夫を見つけた綾音が手を振っている。それを見た勇夫が手を振り返す。


 勇夫と一緒に歩いている燐々りんりんに目を向けた綾音は思った。



 ──何、あの女は? 勇夫さんが乗ってた車の運転手でしょ? 何で勇夫さんと一緒に歩いてるの?



 勇夫が女性を連れて来たことが気に入らない綾音が、わざと勇夫に駆け寄り腕を引っ張った。


「待ってましたよ! 今日も頑張りましょうね!」


「ああ! 張り切って行こうか! ──綾音ちゃん、先に紹介しとく。この女性はうちの会社の秘書をやってもらってる稲持燐々いなもちりんりんさんだ」


 燐々りんりんが一歩前に出て頭を下げた。


「ご紹介に預かりました、社長秘書の稲持燐々いなもちりんりんと申します」


 綾音が幾分ホッとした表情を浮かべ。


「あっ……秘書の方だったんですね。初めまして、私はこのジムでインストラクターをやってます、滝野綾音です。宜しいお願い致します!」


 頭も下げず、勇夫の腕を掴んだままで挨拶をする綾音を見て燐々りんりんが心の中は思った。



 ──礼節をわきまえないただの小娘……。でも、私の直感が言ってる。この二人はインストラクターと生徒の関係じゃない……。社長も私という女が側にいるのに、こんな小娘を相手にするなんて、少々苛々するわね。社長に近づく愚かな小娘の登場……ってことは、社長婦人はもう敵じゃないって思っていいのかしら? それともこの小娘はただの遊び? どっちにしても、ターゲットを小娘に変更する必要が有りそうね。



 心の中とは裏腹に、姿勢を正し口角を上げて返答する燐々りんりん


「此方こそ宜しくお願い致します」


 燐々りんりんが綾音に一礼すると、勇夫に体を向けた。


「社長、私はこれで失礼します」


「ああ、ご苦労だった」


 燐々りんりんが勇夫に挨拶を済ませると、凛とした姿勢で歩き出し車に乗り込むと、エンジンを始動し去っていく燐々りんりん


 車を発進させた燐々りんりんは、バックミラーに映る綾音を見た。前方に視線を移すとハンドルを操作しながら考える。



 ──さ〜て、相手が社長婦人じゃないのなら、遠慮することないわね。取り敢えず……小娘の情報を集めて、ジムの内情をスパイを使って偵察しようかしら。二度と社長に近づこうなんて思えなくしてやるわ。ウフフッ。

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