第10話「昼食の誘い」



─ ヤッセスポーツジム ──



 


 ここは、綾音が働いているスポーツジム。今は日曜日の午前十一時。


 昨日の歓迎会で浩司が勇夫に、綾音が勤務しているジムに通うことを勧めた。


 その時に綾音が「私、明日出勤なんですけど、勇夫さんはお仕事ですか?」と勇夫に訊くと、「いや、明日の日曜日は休みだ! 善は急げだな! それじゃあ明日お邪魔してもいいか?」となり、その約束の時間を迎える。


 自動ドアが開くと、長袖の白いYシャツに綿パンというラフな姿で現れた勇夫。中に入ると受付へと直行し、カウンター越しに立っている女性に話し掛けた。


「すいません、入会の手続きを頼みたいのですが?」


「いらっしゃいませ! 入会のお手続きですね? お客様、入会の前に一日体験コースというものが御座いましてですね、入会の前に一度体験なさってはどうですか?」


「何? 入会したいという人に体験コースを勧めるとは……なんて親切なジムなんだ!」


 勇夫が受付でそんなやり取りをしていると、綾音がやってきた。


「美香ちゃん、私の知り合いだから受付変わるわ。あそこの人のサポートをお願い出来る?」


「はい、分かりました」


 美香という綾音の後輩が受付を離れる。


「勇夫さん、ようこそヤッセスポーツジムへ!」


「はっはっはっ、仕事モードの綾音ちゃんもいいな!」


「ふふっ。入会手続きをしちゃうと、体験コースに参加出来なくなるから損なんですよ。このコースに参加された方のおよそ九十%が入会されてるんですよ」


「凄い入会率じゃないか! それは楽しめそうだな。全て綾音ちゃんにお任せする!」


 綾音が勇夫の開いた胸元に目をやりながら微笑んだ。


「それじゃあ、この用紙にご記入お願いします」


 綾音がカウンターの上にそっと用紙を出した。その用紙を押さえるように手を出した勇夫。その勇夫の手に、指先が触れるように手をカウンターに置く綾音。


 綾音のその行動に、勇夫が自分の手を滑らせるように綾音の手の上に重ねた。口は開かずそままの状態で、勇夫は淡々と用紙を埋めていく。


 そんな勇夫を上目遣いで見つめる綾音。


「よし、これでいいかな?」


「は、はい。これで大丈夫です。この体験コースはお昼付きですので、かなりお得ですよ。それではロッカールームへご案内します」


「ちょっと待ってくれ。お昼付きなら、家に電話を入れとく。昼ご飯は家で食べると言って出てきたから、香織に連絡しとかないとな!」


 勇夫はそう言って、綾音の手を離し電話を掛け始めた。


「ふふっ、勇夫さんは優しいんですね?」


 勇夫がスマホを耳に当て、綾音に顔を近づける。


「俺の優しさはこんなもんじゃないぞ? 試してみるか?」


 勇夫の言葉に、綾音の顔が真っ赤になった。




 ❑  ❑  ❑ 




 ─ 八木家リビング ──





 香織のスマホが着信を知らせるダンスを始めた。小刻みに震えるスマホがゆっくりとテーブルの上を移動している。その光景を見ている真琴が、体を動かしながら声を上げ喜んでいる。


「ブルブル、ブルブル」


「ふふふっ、真琴ま〜くんダンス上手だね〜」


 香織が真琴を褒めながらスマホを取り、着信画面を見ると。


真琴ま〜くん、パパからよ。もう入会手続きが終わったのかしら?」


 勇夫が家を出てからあまり時間が経っていないので、不思議に思いながら電話に応答する香織。


「は〜い」


 ─『香織か?』


「そうよ……って、私の番号に掛けたんでしょ?」


 ─『その通りだ。今、ジムなんだが、入会手続きをしようと思ったら体験コースなるものがあると言われてな』


「ふ〜ん、そんなのがあるんだ」


 ─『ああ。綾音ちゃんが、入会するなら体験コースから始めた方がお得だって教えてくれてな』


「そうなの、綾音ちゃが言うなら間違いないわね」


 ─『ああ、そうだろ? ──その体験コースに昼ご飯が付いてるそうだから、俺の分は作らなくていいぞ』


「それはお得ね……分かりました。じゃあ、真琴と適当に食べとくね」


 ─『ああ、そうしてくれ』


 話し終えると即座に電話を切る勇夫に、香織は顔を渋らせた。


真琴ま〜くん、パパお昼いらないんだって」


「パパごはんいらない?」


「ふふっ。そうなんだって」


 リビングの床で積み木遊びを楽しんでいる真琴を見ながら、香織はソファに座った。


「そっか〜、勇夫お昼帰ってこないんだ……。綾音ちゃんも勇夫と一緒だから、浩司君はお家かな? ご飯は沢山で食べた方が美味しいもんねぇ、真琴ま〜くん


「こ〜うくん、くる?」


真琴ま〜くん、浩司君の名前覚えたんだ〜。そう、浩司こうくん。会いたいねぇ」


 真琴が笑顔で積み木をカンカンと打ち合わせた。


「こ〜うくん、くる?」


真琴ま〜くん浩司こうくんに会いたいんだ。──昨日連絡先の交換をしたから……呼んじゃおうか? お家に居たら来てくれるかもね」


 香織は少しウキウキした気持ちで、浩司に電話を掛けた。


 プルルル……プルルル……


「早くでろ〜……ふふっ、なんかドキドキしちゃう。結婚してから勇夫以外の男の人に電話するのって初めてかも?」


─『は、はい! 浩司こうくんです……あわわっ、違う違う、浩司です!』


「いや〜ん、浩司君可愛い〜」


 ─『すいません……。香織さんからだと思ったら緊張しちゃって……』


「ふふっ、嬉しいこと言ってくれるのね? 私もドキドキしながら電話してるよ?」


 ─『え〜、茶化さないで下さいよぉ。あっ、昨日はご馳走様でした! 僕から電話しないといけないのに、すいません。──今日はどうしたんですか?』


「あん、いいのよそんなの。私達も焼き鳥ご馳走になったしね。──ところで、浩司君は今暇ですか?」


 ─『めちゃくちゃ暇です!』


「あ〜、浩司君は嘘つきさんだな? 引っ越しの片付けで忙しいって言ってなかった?」


 ─『あ〜、言ってたような、言ってないような……。こんなの何時でもいいんですよ。香織さんが相手してくれるんなら、来週でも再来週でも、ね』


「嬉しいこと言ってくれるわね? じゃあ、今から家に来ない? お昼一緒にどうかと思って。真琴ま〜くん浩司こうくんに来てほしいって言ってるよ? 『こ〜うくん、くる?』 聞こえた?」


─『真琴ま〜くんだぁ。もちろん行きますよ! 直ぐに行きますんで、鍵開けて待ってて下さい!』


「鍵開けてたら変な人が入ってきちゃうじゃない」


 ─『大丈夫ですよ。僕が直ぐに行くんで、そんなヤツいたらやっつけてやりますから』


「きゃ〜、浩司こうくん格好良い! じゃあ、鍵開けて待ってようかな?」


 電話を切った香織は、電話を掛けた時よりも気持ちが高揚している自分に気付いた。


「鍵を開けて待っててだなんて……嫌だ私、初めてデートする時みたいに胸がドキドキしてる……。なんでだろ? ──お化粧直ししなくちゃ!」

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