第9話「イケない恋」


 ─ 勇夫のトレーニング部屋 ──





 勇夫の「付いて来てくれ!」という言葉に、綾音が満面の笑みで「はい!」と返事をし後、二人は急ぎ足で八木家の二階に上がってきた。


「ここが俺のトレーニング部屋だ!」


 勇夫がそう言いながらドアを開けると、そこは洋室の十畳間。トレーニングマシンが所狭しと置かれている。


「す、凄いですね……。さすが社長さんだわ」


 置かれていたマシンに圧倒される綾音。床にはダンベルやバーベル、縄跳びにゴムチューブまで完備されていた。


「ベンチは勿論、ストレングスマシンが沢山ある。ショルダープレスに、チェストプレスにレッグプレス、それにアップライトバイクまで……」


 綾音がマシンの名前を淡々と口にしていく。それを横で聞いていた勇夫が。


「さすがプロだな! マシンの名前をスラッと言えるとは……。色んな本を読んで俺なりに使ってるんだが、恐らくきちんと使いこなせてないだろう。何せジムに行った事がないからな!」


 自慢でもない話を自慢気に話す勇夫に、綾音が小さく手を上げた。


「一つ質問いいですか?」


 勇夫が綾音を見て腕を組み、口角を上げる。


「十でも二十でもいいぞ!」


 冗談なのか本気なのか分からない勇夫の返事に、香織は気にすることもなく質問する。


「どうしてジムに行かないんですか?」


「フッ、簡単な質問だな。答えは行く気が起きないからだ! 俺は一人で黙々とやるのが好きなんだ!」


 綾音がそれを聞いて頷いている。


「そういう人もいますよね。──じゃあとりあえず、レッグプレスの説明をしますね。──レッグプレスは下半身全体と大臀筋の強化です。使用方法ですけど、脚を置く位置によって強く働きかける部位が変わってくるんですよ。両足を高い位置に置くと、大臀筋やハムストリングスに効果的で、両足を離してつま先を外側へ向けると内転筋、両足を閉じると大腿四頭筋に効きますよ」


 綾音の説明が終わると、勇夫が後退る。


「なっ、なっ、何て美しいんだ! こんな会話が出来る人に出会えるとは……。綾音ちゃんは可愛いし、今日は最高の日だぞ!」


 ストレートにものを言う勇夫に、少し顔を赤らめる綾音。


「い、勇夫さん。言葉だけでは分かりにくいと思うので、やってみて下さい。私が細かく指導するので……」


「おお、それは助かる。それじゃあやってみよう!」


 勇夫が上半身裸になり、マシンに掛けられていたタオルを首から掛けると、綾音に言われた通りにマシンを使ってみる。


「す、凄い体……」


「ハッハァー、こうか? こうだろ?」


 香織は勇夫のムキムキの体に圧倒されながらも、勇夫に近づき屈んで指導をする。


「いえ、ここは足先をもっと前に……そうです」


「おー、なるほど、効くな! 筋肉が唸ってるぞ!」


 勇夫は数分動いただけで、汗が吹き出してきた。


「き、綺麗……」


 勇夫の筋骨隆々とした体にうっとりする綾音。


「あー、気持ちいいな! 一人でやってる時とは雲泥の差だ。指導者が付くとこうも違うのか……」


 そこから、各マシンへ移動し綾音が全て指導していく。


「ハッハァー、ありがとう綾音ちゃん! 俺は今、普段の倍汗をかいているぞ!」


 香織は勇夫の言葉に返すことなく、無言で勇夫の体に魅入りながら心で思う。



 ──息苦しくなんかないのに、私、息が荒くなってる。もう勇夫さんにもバレてるよね? イケメンで筋肉マン……超好み。もう駄目……。この衝動を抑えるられないわ。


 そう思った綾音が、とうとう口から言葉にして出してしまった。


「勇夫さん……そ、その筋肉に、さ、触っても……いい?」


 筋トレに夢中になっていた勇夫だが、綾音の言葉が耳に届いた瞬間、あれだけ激しく動いていた体をピタリと止めた。


 そして、徐ろにマシンから下りると、胸筋を突き出すように胸を張って綾音の目の前に立った。


「触ってもいい、だと? そんなのは当たり前だ、先生! さあ、いくらでも触ってくれ!」


 綾音は勇夫の首に掛けられたタオルを取ると、流れる汗を拭く事なく下に落とすと、勇夫の顔から腹部まで視線を下げ、腹筋にしっとりと両手を当て、流れ落ちる汗を逆流させながらゆっくりと両手を這わせていく。


 筋肉の凹凸おうとつを確認しながら、時には横に這わせ、腹筋から胸筋、そして肋骨から上部僧帽筋を通って首筋へと両手を進ませて行く……。


「凄い筋肉だわ……」


 綾音が勇夫の体に触れていると、いつの間にか勇夫も綾音の肌が見えている腕に手を這わせていた。その行為を、綾音は嫌がる事なく受け入れている。


 自然と見つめ合う二人。


 何を言うでもなく、お互いが唇に目をやると顔の距離が徐々に縮まっていく。勇夫が綾音の頬を両手で挟むと、綾音が勇夫の体の後へ手を回した。


 綾音が目を瞑り唇を勇夫向けて尖らせる。勇夫がその唇に自分の唇を重ねようとした瞬間。


『お〜い、勇夫ー! まだやってるのーー?』


 窓の外から香織の叫ぶ声が聞こえてきた。


 その声が二人の耳に届くと、二人は瞬時に離れた。綾音が下を向き熱を持った頬を両手で擦り、声を出す。


「わ、私、先に下へ行ってますね……」


 綾音は勇夫の顔を見ないまま、ドアを開けて足早に出て行った。


 一階へと走りながら綾音は心の中で。



 ──嫌だ、私ったら……。あの筋肉に、完全にメロメロになっちゃってたわ。香織さんの声が聞こえてこなかったら、今頃は……。イケメン筋肉マンとイケない恋に発展しちゃう? きゃー!



 綾音が出て行き、部屋で一人になった勇夫は。


「なんだこの胸の高鳴りは……。筋トレをして呼吸が乱れている……いや、綾音ちゃんに心を奪われた……のか? 香織の声が聞こえてこなかったら、キスをしていた……。完全に無意識! こんな経験は初めてだぞ……」




 ❑  ❑  ❑  




 ─ 八木家の庭 ──




 香織の呼び掛けに、二階の窓が開いた。


「すまん! 筋トレしてたら汗だくになった! はっはっはっ。サッとシャワーを浴びて、直ぐに行くから待っててくれ!」


 勇夫が一方的に話し、窓を閉めた。


「もう! マシンの使い方を教えてもらうだけでいいじゃない。こんな時に汗をかくまで筋トレやる? それに、上半身裸だったわよね……若い女の子の前で張り切っちゃってさ。なんであんなに筋トレが好きなのかしら? 私には分かんないわ」


 苛立ちを露にする香織に浩司が柔らかく話す。


「ジムに行った事がないなら、綾音あやねんの指導に驚いたんでしょう。聞くだけでは足らずに、やってみなたくなったんじゃないですか? 綾音あやねんに指導された方法でやったら、普段一人で筋トレしてるのとは満足度が全然違うでしょうからね。──って、分かった風に言いましたけど、僕も何が楽しいのかは全く分からないですけどね……」


 浩司の言葉に少し落ち着いたのか、香織の顔から棘が取れた。


「あんなの分からなくていいわよ。私達は勝手に楽しみましょ〜ね」


 香織がそう言って浩司が抱く真琴の頬を突くと、浩司も満面の笑みで香織が突く反対側の頬を楽しげに突いた。


「遅くなってすいません!」


 そこへ綾音が一人で庭にも戻ると、香織が綾音に一言。


「ごめんね綾音ちゃん」


「いえ、とんでもないです。凄いマシンの数ですね。ビックリしました」


 香織が苦笑いする。


綾音あやねんも食べないと」


 浩司がお皿にお肉を乗せて綾音の前に置いたが、綾音は箸を持たずにビールを一気に飲み干した。


「ぷは〜。あ〜美味しい!」


 一気飲みする綾音を横で見ていた香織が。


「綾音ちゃんいける口なのね」


「食べないと酔っちゃうぞ」


 いつもはこんな飲み方をしない綾音に、浩司が心配している。


「うん、いただきま〜す!」


 綾音が喋るでもなくお肉にぱくつく。


 浩司と香織は飲んで食べてしていたので、箸を止めて綾音が食べるところを見ながら会話をしていた。


「やあやあ、すまんすまん! 俺にも食べさせてくれ!」


 そこへ、やっと勇夫が帰ってくる。


 乾杯をやり直し歓迎会ムードが戻ったところで勇夫がビールを一気に飲み干し、肉を口に頬張ると、浩司に話し掛けた。


「ん〜美味い。──浩司君、綾音ちゃんは筋肉のプロだな」


「はい、本職ですからね。勇夫さんはさっき独学って言ってましたけど、ジムに通った事ないんですか?」


 浩司のその質問に勇夫が人指を立てて左右に振った。


「チッチッチッ、どこのジムにも一度も通った事はない!」


 浩司が驚きの表情を見せ。


「それだけ凄い体を自分で作ったんですか? いや〜、凄いですね。じゃあジムに通えばもっとムキムキになれるんじゃないですか?」


 これには勇夫だけじゃなく綾音も反応した。


「「ムキムキ!?」」


 香織が、綾音が勇夫と一緒に反応したことに驚いている。


「あ、綾音ちゃんも勇夫と同じタイプなのね……。筋肉に対しての反応が凄いわ」


 香織にそんなことを言われて照れる綾音。すると、浩司が何かを思い付いたように手を叩いた。


「そうだ! 勇夫さん、綾音あやねんのジムに通えばいいじゃないですか! うんうん、我ながらいいアイデアだな。変な男もいるって聞いてたので、勇夫さんが通ってくれれば安心なんですけどね?」


 浩司のアイデアに綾音が同調した。


「あ〜、それはいい考えかも! やっぱり家で鍛えるより、プロに教わったほうがいいですよ! 私が一から指導しますよ?」


 勇夫が浩司は見ずに、綾音と見合う。


「そうかな? じゃあ、お願いしようか!」


「はい! 是非是非!」


 その時。


「パパ、ムキムキ〜!」


 真琴の純粋無垢なその可愛い声に、皆が笑った。

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