間章Ⅲ『二輪草の忍笑』Ⅰ

 氷室家――三大貴族に並ぶ冷泉家へ代々、"補佐役"として仕えてきた下級の華族。

 氷室家に生まれた者は皆、冷泉家の使用人や秘書になり、子どもは厳しい教育を受けるのが習わしだった。

 私達僕達双子もまた、冷泉家の使用人になるために生まれてきた。

 当然ながら自分達の意思なんて、ましてやそれ以外の生き方など、決して許されなかった。


 『どうしてお前はそんなに不出来なのか、みぞれ

 『お兄さんのひょうといとこ達を、ちゃんと見習いなさい』


 氷室霙わたしは要領がとても悪く、不器用で鈍臭い見習いとして、常に父様と母様から厳しくお叱りを受けた。

 氷室家の現役の使用人やいとこ達からも、「お前は氷室家の“出来損ない”で“面汚し”だ」と蔑まれる始末。

 動作も遅くて、優先順位も上手に付けられないため、いつもその日に終わらせるべき仕事を終わらせることができなかった。

 食事中も手の震えが止められなくて、つい食べ物を皿から零してしまった。

 そんな時は母様の口からつんざくような悲鳴を上げさせ、父様には鞭で背中を打たせる程の手を煩わせ、使用人にも迷惑をかけてしまった。


 どうして、こんなことも、ちゃんとできないのだろう。

 氷室家に生まれた霙は、冷泉家の使用人としてしか生きる道はないのに。

 霙の生まれた意味はあるのだろうか。

 そんな風に日々自分を責め、上達しない自分への不甲斐なさと惨めさに、毎晩涙が止まらなかった。


 「また泣いているんだね、霙」


 霙には唯一の心の救いと拠り所があった。

 双子の兄である雹は、霙と違ってあらゆる事を器用にこなしてしまう出来の良い使用人の卵だった。

 それでも雹だけは、霙を疎むことも嗤うこともなかった。

 いつも、よく泣いている霙を優しく抱き締めてくれた。

 夜な夜な一人で練習に勤しむ霙を、雹が見てくれる事もあった。


 「ずっと、僕は霙の味方だからね」


 兄の雹にとってもまた、妹の霙は唯一心の安らげる"本当の家族"だった。

 賢くて心の機微にも聡い雹は、ちゃんとよく理解していたからだ。

 氷室雹とは――自分を褒めちぎってくれる両親にとっては"繁栄の道具"、嫉妬と羨望の眼差しを向けるいとこ達にとっては"目障りな敵"に過ぎないと。

 あらゆる賞賛も名誉も、偽りの微笑みを被った雹の心には、何一つ響いていなかった。


 「私も兄様がずっと大好き」


 本当の自分を理解し、心から想ってくれる存在は妹唯一人。

 双子は周りに比較され、冷笑を浴びながらも、互いに支え合って生きて来た。

 いつか一人前の使用人として、冷泉家に従事する日を迎える時は、双子は共に在ることを"約束"した。

 皮肉にも、その不確かで儚い約束は“最悪の形”で叶う羽目となった――。


 *


 「僕は……今日から冷泉家の当主となった……よろしくお願いします……」


 僕達私達が八歳を迎えた頃。

 冷泉家には"新たな当主"として、氷の異能剣豪の少年・純真が指名された。

 純真は元々平民の出身であり、彼の特別強い異能に端を発した"ある事件"を機に孤児になったのだという。

 聖徳様の強い推薦によって当主の座を継いだ純真は、当時未だ十歳の年端も行かない子どもだった。

『冷泉家次期当主あらそい殺人』として、後々も他の華族達を震撼させた事件によって、冷泉家は滅びかけた。

 冷泉家が無くなる事は、繋がりのあった氷室家の消失をも意味する。

 そうなれば、今頃双子は他の使用人と共に路頭を迷い、仕事を見つけても劣悪な主に虐げられるか、春売り宿で屈辱的な労働を強いられるかだ。

 しかし、幸い私達僕達はそんな過酷な運命を辿る事は免れた。

 自分達と歳の変わらない幼い少年が来てくれたおかげで――。


 「ごちそうさまでした……」


 とはいえ、当初は僕達私達も他の生き残った気弱で不器用な使用人達も、新たな少年当主の登場に戦々恐々と構えてもいた。

 理由の大半は、かつての冷泉家当主とその次期当主権でいさかいの耐えなかった子息達からの高圧的な言動に対する、強い恐怖の記憶にあった。

 しかし、理由はそれだけに留まらず、“冷泉純真”という得体の知れない存在への本能的恐怖もあったのだろう。

 悪い事とは、とことん重なるらしい。


 「自分でやれます……大丈夫です……」


 冷泉純真は少年にも当主にもらしからず、随分と物静かで陰気な、“子どもらしくない子ども”という印象だった。

 食事に関しては、要求も好き嫌いの申告もまったくなく、ただ朝昼晩に出されたものをそのまま口にするのみ。

 あまつさえ、配膳された食事をどれも残さず全て平らげ、「いただきます」と「ごちそうさま」という感謝の言葉すら零していた。

 今までの冷泉家の人間は、食事の準備の頃合いや味への不満などを使用人へ無遠慮に告げてきた。

 そのため、純真の消極さには誰もが拍子抜けした。

 湯浴みと着替えに関しても、使用人の手を煩わせるほどでさないとばかりに、手を借りるのを断っていた。


 「「いってらっしゃいませ、純真様。何かご希望はありますか」」

 「……特にないから大丈夫だよ……いってきます」


 冷泉邸にいる時の純真自身は、基本的に食事・入浴・休息・書類仕事以外に行うことも、特に使用人の手を借りることもない。

 普段も昼間は任務と鍛錬に忙殺されているため、冷泉邸には使用人のみ残されるのが日常となった。

 おかげで今の使用人達にはあまりたくさんの業務はなく、休憩時間というものすら新たに生まれた。

 私達僕達使用人にとって、以前には想像できなかった程の穏やかな日々が過ぎていった。


 「いつもお疲れ様です、純真様」

 「……君は……みぞれ、さん……?」

 「私のことは、霙とお呼びしていただいても良いのですよ」


 氷のように冷静で奥底の見えない少年当主の心を垣間見ることができたのは、妹の霙の気遣いがきっかけだった。

 今日も深夜に任務から帰還した後も、読書に没頭していた勉強熱心な主人のために、霙は差し入れをしてみた。


 「緑茶とおむすび、たくわんをご用意いたしました」

 「……これを僕に?」

 「左様でございます」


 使用人達すら寝静まっている深夜に、わざわざ霙の方から声をかけてきたのは意外だったらしい。

 最初の数秒程は月石色の丸い双眼を瞬かせ、それから普段よりも透き通るような声が零れた。


 「ありがとう……実はお腹が空いていたんだ……」


 冷泉家で暮らすようになってからも、氷のような表情しか浮かべなかった少年の主人は、初めて微笑みらしい微笑みを浮かべた。

 さらに霙の胸の奥に眠っていた何かを揺るがしたのは、それだけではなかった。


 「美味しいね……優しい味がする……」


 おむすびと呼ぶには三角形になりきれておらず、やたら丸みを帯びた白米の塊を口へ運ぶ。

 やや塩味が物足りないと言われがちな霙のおむすびだが、薄味派の純真には丁度良い優しい塩梅だ。


 「……」

 「……? どう、したの……」


 今度は純真の方が、戸惑いに首を傾げる番だった。

 おむすびを含む差し入れを口へ運ぶ手がよく進み、顔を綻ばせている純真を眺めていた霙。

 しかし、霙自身も気付かない内に、双眼から粒の涙を零していた。


 「あ……申し訳、ありません……私、どうして……っ」


 よりによって、主人の前で涙を見せるという致命的な醜態を晒すことになるとは。

 ああ、もう、自分は本当に何て駄目な使用人なのだろうか。

 せっかく、こんな私でも主人様に喜んでもらえる精一杯の奉仕ができたと思ったのに。

 最後の最後で自ら台無しにしてしまうなんて。

 さすがの純真様も"何て不出来な使用人なのか"、と失望したに違いない。

 霙は自分でも混乱している中、濡れた頬を袖で必死に拭いながら、謝罪を繰り返す。


 「――」

 「え――?」

 「ほら。そんなに擦ったら腫れるから、これ使いなよ」


 しかし霙の恐怖と心配に反し、主人から叱責を受ける事はなかった。

 むしろ、突然訳もなく泣き出した霙をさり気なく労る言動、差し出された上質な手拭いに、彼女は一瞬固まってしまった。


 「う、受け取れませんっ。そのように高価なものを、私などのために……」


 当然ながら主人の持ち物であり、主人のためだけに使用されるべきものを、下々の人間が気安く受け取っていいはずはないと思った。

 あくまで使用人としての立場とわきまえを頑なに主張する霙へ、純真は察した様子で答えた。


 「なら……これは僕からの"お願い"だ……おむすびのお礼として使ってよ」

 「……」

 「手拭いなら、軽く洗うだけで大丈夫だから、ね」


 またしても純真の予期せぬ言葉に、霙は戸惑いながらも、不思議と胸が満たされていくのを感じた。

 まさに兄が自分を抱き締めて、優しく慰めてくれた時と、ひどく似ている感覚だった。

 そこでようやく、霙は頭の隅に巣食っていたあらゆる疑問への答えを得た気がした。

 何故、自分は涙なんかを流したのかも。


 「っ……ありがとう、ございます……純真様……っ」


 おむすびを頂いた純真が言ってくれたのと同じ台詞を返した。

 扉の向こう側から密かに耳を澄ませていた兄の雹もまた、妹と同じことを考えていた。

 きっと、霙は嬉しかったのだろう。

 自分達は、使用人として当たり前の事をやってきたつもりだ。

 しかし霙にとっては、それこそ兄以外の誰かに面と向かって感謝される事も、人として心配される事も、今まで一度だってなかった。

 生まれて初めて全てを許されたような気がしたのだ。

 自分が自分であることも――人間として泣くことすらも――。


 「どういたしまして……」


 涙に濡れたままの顔へ嬉しそうな笑顔を咲かせた霙に、純真も静かに言葉を返した。

 この屋敷に来てからもずっと、氷のように冷めていた月石色の瞳に、初めて穏やかな色が灯っていた。


 けれど、そんな僕達私達の束の間の安寧すら土足で踏み脅かす存在は、いつだって絶えないのだ。


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