『春の朧月夜に狂い舞え』Ⅲ

 「クリスティ……クリスさんは天神国の文化に、とても興味を持ってくださっているのですね」


 リアル・クリスティアヌス様ことクリスとの二人きりの時間は、久遠にとって転生以来最も幸せで充実したものだった。


 「そうです、久遠さん。僕は天神国のように繊細で独創的な文化に、大変興味があります」


 露台から下の中庭へ繋がっている階段を降りて、宴会の喧騒から離れた二人。

 朧満月の下で、中庭の錦鯉と夜桜に囲まれてという浪漫的ロマンチック雰囲気ムードも相まって、互いに会話も弾んだ。

 さらにクリスとの最初のやり取りの中で、彼が天神国を来訪している理由は明確になった。


 「着物というものにも、初めて袖を通してみましたが、繊細で丁寧な刺繍に絹の上質さ、色彩感覚は僕も好みです」


 実はクリスは公務とは関係なく、ささやかな"旅行"で、生まれて初めて天神国を観光しに来たのだという。

 舞踊の会には、聖徳様から贈られた招待状で参加したのだという。

 ただし、デウス王国の皇子だと公にすれば目立つため、質素な着物を纏っているのだという。

 とはいえ元の造形も美しいクリスは、簡素な和服ですらまた普段と異なる魅力に引き立てられていた。

 カミコクをプレイしていた時でも、何気無く明かされていた事だが、まさかクリスがここまでの天神国こと日本好きだとは思わなかった。

 しかも日本語こと和語をここまで流暢に喋り、文字もひらがなとカタカナ、一部の漢字すら手書きできるという高性能ハイスペックさよ。


 「久遠さんの和字も素敵でした。"ブルーミングを咲かせてドリーム久遠にエターナリー"ですよね」

 「何だか気恥ずかしいですが、それも良い響きですね」

 「はい! 天神国は着物も、和食も、和字も、日本刀も、舞踊も、何もかもが素晴らしいです」


 他にもクリスは、現実の日本とほぼ同じと言っても過言ではない、天神国文化への情熱を語ってくれた。

 立食会場で味わった和食の名称や使われた食材に関する質問、特に新鮮魚をそのまま用いた寿司と刺身が美味だったという感想。

 会場の賓客は当然、特に舞台を披露した人々の和服と舞踊には感銘を受けたらしい。

 久遠が色々な事を訊かれて、それらに答える度に、クリスが目をキラキラと輝かせて笑う無邪気な姿に、彼女は内心悶絶していた。

 ああ、こんな可愛いクリスも間近で拝めるなんて、私は本当に幸せ者だ。


 「あ……すみません、僕ばかりたくさん喋ってしまいましたね」

 「あ、いえ! むしろ私は嬉しいです。クリスさんは、本当に天神国の文化を気に入ってくださっているのですね」

 「はい! もちろんです。この国は、僕の国とはまた違う素晴らしさがたくさんあります! それに……」


 途中で夢中になり過ぎたと我に返ったクリスに軽く謝罪されたが、久遠は当然気にしなかった。

 むしろ、クリスの甘い声と笑顔をずっと拝めるだけでも、ファン冥利に尽きるものである。

 心からの笑顔で応じる久遠に、クリスは心底胸を撫で下ろしたように微笑む。


 「久遠さんのように淑やかで美しく、ユーモアに富んだ素敵な女性にも、巡り逢えたのですから」


 クリスからの予期せぬ褒め言葉に、久遠は驚きと恥じらいを覚えたが、圧倒的な歓喜と多幸感は胸を満たしていく。


 「え……あ、ありがとう、ございます。その……クリスさんにそう言ってもらえて、とても幸せです……っ」

 「もしも、久遠さんさえよろしければ」


 薔薇色の頬をさらに染める久遠の満更ではない反応と台詞に、クリス彼もほんのり頬を染めてはにかんでいた。

 不意に畏まった台詞と共に、右手を差し伸べてきたクリスに、久遠の胸はさらに甘い高鳴りを奏でた。


 「僕とお友達から始めてくださいませんか?」


 "結婚してください"は、さすがに飛躍した妄想だった。


 「え? よろしいのですか」

 「もちろん。いつか近い将来、あなたをデウス王国にも案内してあげたいのです」


 それでも久遠とさらに親密な関係を求め、自国にすら歓迎するクリスの台詞は、彼女を舞い上がらせるには十分過ぎた。

 もしも、ここでクリスと友人関係から始め、デウス王国へ行く機会も増えれば、彼と深い親密関係へ発展する可能性は高まる。

 遠い天神国でクリスと出逢えただけでも、かなりの幸運であるため、久遠がこの千載一遇の好機を逃すはずはない。


 「よろこんで、クリスさん……あの、お友達になったあかつきに」


 心に喜びの花が咲き乱れる久遠の脳裏に、“例の言い伝え”が過ぎった。


 「よろしければ、私と踊って――」


 桜色に染まった頬に、幸せそうな笑みを咲かせた久遠。

 まさに満開の夜桜さながら可憐で楚々とした姿に、クリスも心無しか見惚れたように微笑んだ。

 クリスと久遠は、互いに伸ばした手と手を繋ぎ合わせて肯いた。


 「いや! どうか、離してください!」

 「この私に逆らうなど、いくら異国の女とはいえ、許されるものと思うなよ」


 突如、上の露台辺りから響き渡ってきた悲鳴と不穏な台詞に、久遠とクリスは一気に表情を強張らせた。


 「一体、何が……」

 「久遠さんは、ここにいてください。僕が様子を見てきま――」

 「おや? 何やら下にも人の気配がすると思えば、男と女二人はこんな場所で逢引きか」

 「――!?」


 何かしら危険を察知したクリスが動き出すよりも遥かに早く、"その男"は颯爽と舞い降りてきた。

 耳許で囁かれるまでは、まるで気付かなかった。

 蝙蝠こうもりのように迅速で、凶悪な武器を秘めている"その男"は、久遠のくびを確実に捕らえていた。


 「久遠さんっ!」

 「っ……あなたは……確か……」

 「ほう、この和人女は私を知っているのか」

 「それよりも、早く二人を解放するのです! 仮にも同盟を結んだ国で、そのような暴挙を許されるはずはありません、(


 目の前に現れた男は、ジャンナ王国のアシュラフ王子だった。

 クリスと対峙しているアシュラフ王子は、右手で久遠の頸を背後から鷲掴みにし、左腕には洋服姿の美しい和人女性を抱いている。

 宴会場で侍(はべ)らせていた女性と異なり、彼女は明らかに怯えと救いを求める涙目で久遠達を見つめている。

 見た所、宴会場で見かけた艶っぽくて美人な和人女性へ強引に迫ったという流れだろう。

 アシュラフ王子の女好きと手癖の悪さは、カミコクプレイ時代から久遠も把握している。


 「黙るがいい、たかがデウス王国の青二才が。この私に命令するも逆らうも、許されているのは己唯一人のみだ」


 一方でアシュラフ王子の傲岸性と残忍性は、カミコクのメインキャラの中でも折り紙つきである事も、プレイヤーの間では評判になっていたのを思い出した。

 いざ、その本物の威圧感オーラを目の当たりにすると、久遠の心臓は嫌になるような早鐘を奏でた。

 捕らわれた首から伝わる力強い手の圧力感、迂闊に呼吸するのも憚られそうな雰囲気に、久遠は戦慄した。


 「相変わらず、ですね、アシュラフ王子。それでも、女性は嫌がっているでしょう。こんな所で騒ぎを起こせば、あなたですらタダでは済みません。同盟関係も破談になり――」

 「かまうか。私の意に沿わない奴らとの同盟なんぞ、塵同然だ」

 「ならば、僕も正当な強行手段に出る」

 「本当に、いいのか?」


 まったく理屈も善意も通用しない相手に、埒が開かなくなったクリスは、右手を掲げながら警告した。

 つまり久遠と女性を救出するために、やむを得ない攻撃手段に出ることを意味している。

 それでも尚、アシュラフ王子は動じることもなく、強気な態度を改める様子もなかった。


 「ただ、呑気に旅行へ訪れた異国の祭りで、デウス王国の皇子が騒ぎを起こしたと知られれば、"国際問題"で困るのは貴様だろう?」

 「それは……」

 「仮に今の貴様が刃を抜いたとて、私との間には圧倒的な力の差がある」

 「く……っ」

 「ふん。同じ"王の子"でありながら、こうも不自由な身には同情を覚えるぞ」


 アシュラフ王子の指摘は的を得ているらしく、途端にクリスは苦渋の表情で拳を握り締める。

 傲慢で自由奔放なアシュラフ王子とは、水と油の如く正反対な性質のクリスティアヌス様。

 善良で誠実で義理堅いクリスティアヌスには、正当な理由があっても、今後の同盟関係へ影響を及ぼし、最悪戦争へ発展しかねない迂闊な攻撃行為は出来ない。

 他者を顧みないアシュラフ王子と、この場で戦闘になれば、物理的にも政治的にも圧倒的に不利だ。


 「所詮はお人よしの腑抜けに過ぎない貴様には、目的のために手段を選ばない強欲さも覚悟もないのだろう! はははははっ!」

 「っ……がう……」

 「あ?」

 「違う!! クリスティアヌス様は勇敢で心優しい人よ!」


 気付けば、後先も考える前に久遠は叫んでいた。

 ただ、愛しのクリスティアヌス様を侮辱された怒り、アシュラフ王子の思い違いを訂正したい、という意思に赴くままに。

 今までの久遠からは想像もつかない強気な眼差しと声に、クリスだけでなく、アシュラフ王子すら呆気に取られていた。


 「クリスティアヌス様は、いつも周りの人と未来のために何が最善なのかを悩み苦しみながら、それでも道を踏み外そうとはしない、高潔で強い人です!」

 「久遠さん……」

 「ただ、やりたいようにやることしか考えないあなたなんかよりもずっと、“心の強い人”なんです!」


 カミコクプレイ時代に散々、クリスティアヌス様を画面越しに愛し知り尽くしてきた"かつての夢咲久遠"の想い。

 本来、今夜ここで初めて逢ったばかりに過ぎない久遠の心の叫びに、クリス本人は戸惑いながらも彼女から目を離せないでいた。

 久遠の台詞は妙にクリスの胸の深い場所へ突き刺さり、染み渡ってくるのが分かった。


 「きゃああ!?」

 「あ! 急に押してすみません! ですが、今の内に逃げてください!」


 一方アシュラフ王子が呆けている隙に、久遠は同じく捕らわれている女性を力一杯突き飛ばした。

 女性は思い切り尻餅をついたが、幸い柔らかな芝生のおかげで擦り傷すらなさそうだ。

 急に解放された女性は困惑しているものの、久遠の必死の指示に従い、慌てて距離を取っていく。


 「この男は私が囮になりますから! えい! がぶっ!」

 「!?え、ええ……ありがとう……!」


 何というベタな足止めなのか。

 この場にいる全員は、そう思ったに違いない。

 アシュラフ王子が女性を深追いしないようにするためか、久遠は彼の空いた片腕を掴んだ。

 そして褐色の皮膚に覆われた腕へ、思い切り噛みついたのだ。


 「……」


 しかし同然ながら、たかだか小娘の噛みつきなんぞ、猫のそれにすら劣る。

 当然アシュラフ王子は怯む様子すら見せず、ただ悠然と久遠の頸を掴み上げたままだった。

 まるで手癖の悪い野良猫に呆れ、その首根っこを捕らえるがごとく。


 ああ、殺されるな、本当に。

 否、"神再生力"があるため、実質死ぬことはないのだが。

 それでもアシュラフ王子のような暴君に、ここまで逆らうような真似をした分は、無事では済まされないと覚悟していた――が。


 「っ――はははははっ!! これは実に愉快だ! 面白い!!」


 次の瞬間には、罵倒か拳が降ってくると覚悟していた久遠の予想に反し、アシュラフ王子は


 「!?」

 「っ――!? な、何……?」

 「おい、娘。貴様の名前を名乗れ」


 腹の底から笑い転げているアシュラフ王子の得体の知れなさに、かえって戦慄を覚えている久遠へ彼は詰め寄る。

 状況的にこれ以上逆らうのは得策ではない、と察した久遠は素直に応じた。


 「ゆ、夢咲、久遠」

 「そうか。久遠――貴様をジャンナ王国へ

 「へ――?」

 「気に入った。貴様のような恐れ知らずの愚かで愉しい女は、初めて見た」


 アシュラフ王子の唐突な台詞の意味を一瞬、咀嚼し損ねた久遠は我ながら間抜けな声を漏らしてしまった。

 まるで新しい玩具を手に入れた童のように、心底機嫌の良さそうな薄ら笑いを浮かべているアシュラフ王子は続けた。


 「だがその前に、お仕置きと教育も兼ねてだ――」


 ボキッ――。


 陽炎が揺らめくように怪しげで、眩暈に駆られる空気に当てられたような気がした瞬間。


 「あ――ああぁあぁあぁ――!!」


 何か、生き物の、皮膚と血管と神経と骨と肉が折れ曲がったような、あまりに不快で気持ち悪い音がしたと同時に――左の肘上辺りから激痛が血潮のように広がっていった。

 あまりに痛過ぎて、我慢できなくて、両眼から涙が、喉から悲鳴が噴き溢れるのを感じた。


 「久遠さん――っ!!」

 「――」

 「貴様あぁ――!」


 目の前で大切な友人、しかもか弱い女性を傷つけられた怒り、その暴挙を許してしまった己の不甲斐なさに、ついにクリスは叫んだ。

 一方アシュラフ王子は、女性の腕をへし折るという暴虐を冒しても尚、涼しげな表情を崩さない。

 むしろ泣き叫ぶ久遠の声、と怒り心頭なクリスの姿に、愉悦すら覚えている。

 アシュラフ王子の手が、今度は久遠の左膝へ伸び、掴み上げようとした。


 「その汚い手を離せ――」


 凛と透き通るように、けれど低い声が響き渡る。

 同時に周囲の空気は、みるみる凍てつくような凄まじい冷気に覆われていく。

 それなのに、首の圧迫感から解放された久遠の背中辺りは、不思議と優しい温もりに包まれた。


 「ほう――何者かと思えば、例の"氷神の忌子"ではないか」


 薄らと開いた久遠の瞳へ朧に映り込むのは、頭から爪先まで白い霜を積もらせ、小さな氷柱を生やしたアシュラフ王子の姿。

 そして、骨折した左腕へ穏やかな冷気を送り込む不思議な手、自分を支える力強い存在を見上げた。


 「これ以上、僕の"許婚"を傷つけることは、誰であろうと許さないよ」


 負傷した久遠を抱きかかえながら、刃の先を敵へ向ける冷凛な少年――冷泉純真が馳せ参じた。


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