間章Ⅰ『朧月夜の雲を晴らすもの』

 これは、久遠が純真の新しい"付き人"として、冷泉邸へ居候し始めた頃の話――。


 或る日、久遠は生活する上で必要な衣服や必需品を買い揃えるために、街へ出掛けていた。

 普段の買い出しは、教育係の双子と共におもむくことが多いのだが、今日に限っては――。


 「今日は私の買い物に付き合ってくれて、ありがとう。霙ちゃん、雹君……


 普段の昼間は任務に忙殺されているはずの、若き冷泉家当主様も久遠の隣を闊歩している。

 あどけなさの残る端麗な顔に併せ持つ、愛らしさと大人びた美しさに、すれ違う人は誰しも振り返る。


 「気にしなくていいよ。別に君のためじゃない。今日は非番でやることもないから」


 幼気な美貌に不相応な淡々とした口ぶりにも、すっかり慣れてきた久遠は「そっか」、と柔らかく微笑んで応じる。

 何故、貴重な非番の時間をわざわざ新しい付き人(しかも異世界出身の怪しい)の個人的な買い物のために費やそうと思ったのか。

 最初の出逢いから今も、冷淡な態度を崩さない少年の真意はよく分からなかった。

 しかし久遠は買い物の最中で、純真の一面を垣間見ることになる。


 「歯ブラシに研磨剤、石鹸剤、櫛と髪紐は揃えましたね」

 「ありがとう」

 「次は予備の着物や下履きを買いに行きましょう。かまいませんか、純真様」

 「いいよ」


 先ずは、清潔保持に必要な日用品を買い揃えることができた。

 しかし、さすがは現実の日本でいう江戸時代辺りの歯磨きは、想像を超えて先進的で驚いた。

 房楊枝ふさようじという、ブラシ部分は柔らかく解した楊枝の房で歯を磨き、尖った末端部分で歯間の汚れを取るという。しかも、柄の湾曲部分は舌磨きにも使えるらしい。

 ちゃんと使いこなせるか、自信なさげに呟く久遠に、双子は「使い方を教えますから」と優しく励ましてくれた。本当に良い子達だ。


 「あの、純真君。今更だとは思うけど、本当にいいの……? お金まで全部出してもらって……何だか悪いよ」


 呉服屋へ向かう道中、久遠は楽しげに店を見繕う双子を眺めながら、改めて純真へ頭を下げる。


 「お金も気にしないで言ったでしょ。どうせ僕には他に使い道はないし」

 「でも……」

 「お礼なら、あの子達に言って。二人は好きで君に買ってあげたいんだから」


 何気無く告げられた台詞は、またも素っ気ない声色で奏でられたにも関わらず、久遠の胸に温かな光を差した。

 今考えれば、この買い物自体も双子が久遠のために、突然提案してくれたものだ。


 「ありがとう、純真君」

 「だから、お礼なら二人に」

 「だって、純真君は二人のことを思って来てくれたんでしょ? お金も荷物もあまりに多いと、危ないからって」


 久遠の言葉は図星らしく、純真は意外そうに目を見開きながら息を呑んでいた。

 双子も、冷泉邸の立派な使用人で主人の側近だ。

 とはいえ、未だ幼くか弱い二人だけで大金と大荷物を抱えて街中を歩くのは、誘拐や窃盗、恐喝などの危険も絶対ないとはいえない。

 恐らく、否、間違いなく純真は二人へ配慮して財布を持ち、荷物まで持ってくれているのだ。


 「まあ……あの二人も、昔からいつも、よくやってくれているからね」


 純真は自分がわざわざ非番を利用して買い物へ付き合った理由を、未だ会って日の浅い付き人に見透かされた事に、面映そうな表情を見せた。

 幼くもひたむきに自分を慕い、忠実に従えてくれる双子を労る言葉に、久遠はますます微笑みを深めた。


 「何笑っているの」

 「ごめん。私も嬉しくて」


 こちらを意味深に見つめながら笑う久遠に、何とも言えない居心地の悪さを覚えた純真は、ジト目で問い詰める。

 純真にとっては疑問かもしれないが、久遠もまたいつも自分に良くしてくれる双子を慕っているのだ。

 久遠が楽しそうに買い物をする双子の様子を、自分の事のように喜んでいる様に、純真は双眸を閉じて溜息を漏らした。


 「……君って変わっているね。自分のことじゃないのに、そんな嬉しそうに笑えるなんて……って、どこに行っているの、君」


 皮肉のつもりで呟いた台詞を言い終える前に、隣にいたはずの久遠は忽然と姿を消した。

 まさか人攫いに遭ったのでは。

 瞬きすらしなかった隙に起きた予想外の展開に、純真は思わず慌てて辺りを見渡した。


 「「あ、純真様。久遠様ならあちらに……」」


 しかし、気まずそうな双子の指摘によって杞憂に終わった。

 双子の目線の先には、何故か小さな裏路地の端から後ろ姿を覗かせている久遠がいた。

 迂闊な単独行動を取り、危機感のない付き人に、純真は呆れの溜め息を吐くと、厳しく諌めるべく歩み寄った。


 「ちょっと、君。勝手に離れて何して……」

 「あ! ごめんなさい、純真君……どうしても気になったから……」


 久遠の背に隠れて見えなかった裏路地へ視線を移す。

 途端、露骨に眉を顰めた純真、困った表情でオロオロ狼狽える双子に、久遠は懸命に弁明する。


 「この子は、お腹を空かせているみたいだから……」

 「だから、君に何ができるというの?」


 久遠が発見したのは、裏路地から顔と体半分を覗かせるように床へ膝をついている、一人の"孤児"だった。

 見た目は五歳くらいだが、肋骨の浮き出た皮同然の胸、棒切れのような手足、痩せこけた頬から、栄養失調で成長が妨げられているのは明白だ。

 古びた茣蓙ござを敷いた地面の側には、小銭の入った小さな藁籠わらかごが置いてある。

 久遠を不思議そうに見上げる無垢で虚ろな眼差し、居た堪れなそうに純真を見上げる久遠に、状況を悟った純真は彼女へ言い放つ。


 「君がいっときの憐れみからお金を恵んだ所で、この子が苦しみから解放されるわけじゃない。この国で同じ状況にある子どもは、この子一人じゃないんだから」

 「それは……」

 「全員を救う力もない君が、"可哀想で見ていられない"自分の気持ちを満たすために施しを与える……傲慢な偽善極まりないね」


 道端の物乞いの孤児へ憐憫を抱く久遠に対して、純真は冷徹な声色で厳しく諌める。

 純真の正論に返す言葉もないらしく、久遠は俯いたまま黙り込んでしまった。

 傍で見守っていた双子は、久遠が落ち込むのではないかと案じながらも、主人へ歯向かうこともできずにますます狼狽している。


 「うん……純真君の言う通りだね。私は……私の我儘のために足を止めさせちゃってごめんね……」


 数秒間の沈黙後、ようやく顔を上げた久遠は、純真達へ淡く微笑みながら謝った。


 「そんな、久遠様は何も……悪くはありません……」

 「僕達は気にしていないので……」


 双子から見れば、聞き分けの良い返事とは裏腹に、久遠が泣きそうなのを耐えているようで痛ましい。

 申し訳なさそうに頭を下げる久遠に、かえって居た堪まれなくなった双子は、懸命に彼女を慰める。

 純真の言葉はほぼ間違ってはいないとはいえ、久遠の気持ちをまったく汲まない冷たい物言いに、双子は胸がモヤついてしまう。


 「だからね、せめて……」


 久遠は立ち上がらずに、むしろ膝を付いたまま、孤児と目を合わせる。

 さらに手に持っていた巾着袋を漁っていた右手を、孤児に向かって差し出した。

 久遠の意外な行動に双子は目を見開き、純真は一瞬息を呑みながらも冷然と佇んでいた。


 「結局、僕の言う事を理解できていなかったの? 君」


 例の裏路地を後にし、目当ての呉服屋へ着いた頃。

 純真は冷徹な表情のまま、久遠へ皮肉を漏らす。

 季節の柄色の和服や帯を眺めていた久遠は、淡い苦笑を浮かべながら答えた。


 「うん。純真君にはとても大切な事を教えてもらったよ」

 「なら、何故あそこで君は、あの子どもに与えたの? しかもお金じゃなくて……」

 「それは……」


 純真は、久遠の「理解した」という言葉に反する行動に対して、理解不能だと告げる。

 結局、久遠はあの孤児へお金の代わりに"三つの握り飯"を包んだ笹袋を渡したのだ。

 当然ながらお腹を空かした孤児は、暫くまともな飯にありつけていなかったらしく、握り飯を貪り食っていた。

 それでも久遠は淡く微笑んでいたし、食べ終えた孤児は感謝を表すように何度も頷いていた。


 「ねぇ、どうして?」


 純真だけでなく誰の目から見ても、飢餓状態の孤児へたった一食分の握り飯を与えた所で、何も好転するわけではないのは明白だ。

 しかも、純真の説教を聞いた上での行動であったため、むしろ彼は久遠の真意へ興味を惹かれた。

 今度は強く詰め寄る純真に向かって、久遠は静かに答えた。


 「だって、"一日でも"生きられたら、あの子の何かが変わるかもしれないでしょう?」


 少しだけ困ったようにはにかむ笑み、確信に満ちた言葉。

 懐かしいような、妙な既視感に駆られた純真は、心臓を鷲掴みにされたような気がした。


 「人の一日って何気なく流れていくけれど、良くも悪くも毎日は"可能性"に満ちているんだって」


 ああ、そうか、だから久遠は、あの時……。

 久遠の表現は異なるが、言葉と微笑みには"希望"という文脈――かつての純真が、いつも傍で耳にして感じ取っていた懐かしい感覚に満ちていた。

 久遠はあの孤児がお腹を空かせており、食べ物が必要だと分かって、握り飯を渡したのだ。

 たった一食分の握り飯が、その子どもを一秒、一分、一時間、一日でも長く生かしてくれるように。

 そのわずかに引き延ばされた時間の中で、その子どもが人生の転機を掬えることを祈って。


 「……君は馬鹿だね」

 「んなっ!? ぐ……否定しきれないのは悲しい……けど、馬鹿は馬鹿なりに一生懸命なのに〜……あっ!」


 ぐうぅ……。


 唐突に貶されて落ち込んだ矢先に、久遠の腹は小気味良い音を鳴らした。

 買い物に夢中で忘れていたが、既に正午を少しだけ過ぎており、昼食を口にしても良い時間帯だった。

 空腹を訴えたお腹を厚い帯越しに撫でながら俯く久遠へ、純真は冷めた眼差しを送る。


 「やっぱり馬鹿だね」

 「せ、生理現象だから……! 純真君だってお腹が空けば、お腹を鳴らすでしょう?」

 「はいはい。なら、今からご飯処へ付き合ってもらうよ」


 他人へ食べ物を恵んだ矢先に、自分も空腹に見舞われる"愚かでお人よし"な付き人のためにね。

 丁度自身も昼食を欲した純真は、そのまま久遠と双子を行き着けのご飯処へ連れて行った。

 普段の冷泉邸ですら口にする機会のない貴重な肉魚の料理定食に、冷たい甘味付きで、久遠も双子もご満悦だった。


 *


 「失礼しまーす……純真君?」


 久遠達にとっては、大掛かりな買い物に豪勢な昼食を馳走になった昼間から帰宅した後の夜。

 夕餉ゆうげの準備を整えた久遠は、双子の頼みで主人の純真を呼びに向かっていた。

 書斎にも寝所にもいなかったため、中庭にある鍛錬場へ繋がっている扉のふすまを久遠はそっと開けた。


 「純真君――」


 春の朧月夜に照らされた鍛錬場に、純真は悠然と佇んでいた。

 両手に水氷色の愛刀を真っ直ぐ握り締めたまま、双眸を閉じて静かに深呼吸をしている。

 深く集中している様子に、久遠は声をかけるのが忍びないと感じた。

 そういえば、鍛錬場にいる純真君を見るのは初めてかも。

 純真の鍛錬も戦う様も間近で見た事はなくても、彼が三大剣豪に並べられる手練の剣士であることは、素人の久遠にも感じ取れた。

 未だ真っ直ぐ佇んだまま、自然と一体となったように微動だにしない純真へ、久遠は興味津々になる。

 久遠は鍛錬の妨げにならないように、影から静かに見守るつもりだった。


 ――剣の舞・氷のつばめ――


 純真が瞬きをした直後、冷気を纏った彼は空高く跳躍した――まさに燕のように颯爽と。

 氷柱のように澄み輝く刃は宙を切り舞う。

 斬撃の軌跡から生まれた霜は、瞬く間に結晶化し、やがて"氷雪の燕"の群れを生み出した。

 純真の周囲を旋回する氷燕達と合わせて、彼はゆっくりと大地へ舞い降りた――。


 「綺麗……!!」


 "氷のとり"と謳われる純真の見事な剣技と舞のような流麗さに、久遠からは思わず感嘆の声と拍手が漏れた。


 「……」

 「あ……!!」


 当の純真は人の気配には薄々気付いてはいたものの、正体が久遠であることを声と拍手からようやく理解した。

 それからは瞬きを繰り返しながら、久遠を無言でじっと見つめていた。


 「ご、ごめんなさい! 鍛錬の邪魔をしちゃって!」


 純真の冷ややかな沈黙、「何で君がここいるんだよ」、という声が今にも聞こえてきそうな眼差し。

 久遠は舞台への無銭無断入場を咎められた観客さながら、非常に居た堪まれない気持ちに駆られた。


 「ご飯できたから呼びに来て……でも、本当にすごく綺麗だったからつい……!」

 「……」

 「さっきの燕もすごく綺麗で、可愛かった……また見せてもらえたりするかな……?」


 最初は謝罪と言い訳をしていたはずが、頭が混乱しているせいだろう。

 気付けば、自分でも厚かましい頼み事をしてしまっていた。

 しかも、純真は未だに瞬きを繰り返しながらでこちらを凝視してくるため、きっと変に思っているのだろう。


 「燕って……これのこと?」

 「あ……!」


 純真が氷の異能を軽く発動させると、彼の手元に生じた冷気の輝きから、一羽の燕が生み出された。

 燕は可憐で甲高い鳴き声をあげながら、華奢な翼をはためかせる。

 久遠は動く氷雪像さながら綺麗な燕に、すっかり目を奪われていた。


 「このくらいなら、簡単に……」

 「可愛い……! 本当に生きているみたいっ」

 「はっ? いや、待って。君さ……」

 「ね、他の動物とかも作れたりするの?」


 久遠は自分の指にも留まってきた燕に、「ひんやりしている!」と興奮した様子で話している。

 まるで、雪遊びに夢中な幼子のように。

 さらに期待で目を輝かせながら、純真に強請ってくる様に、彼は呆気に取られていた。

 まさか氷雪の鳥を見せただけで、怖がるどころか、むしろこんな風に喜ばれるとは、純真も予想外だった。


 「……好きな動物はあるの? 知っているものなら、大概作れるから」


 異能を見せた手前、後に引けなくなった純真は、久遠のささやかな希望に応じてやることにした。


 「いいの? えっと、じゃあ……猫さんに犬さん、うさぎさん、ツチノコとか!」

 「注文多すぎ。ていうか、最後のは空想上の生き物じゃなかったっけ?」


 本当に何なんだ、この人は。

 僕よりも歳上の女性のくせに、無邪気で単純で、馬鹿なくらいお人よしで……生粋の"変わり者"だ。

 大半の人間は、僕の異能を見ただけで、怖がって逃げるというのに。

 人々の畏怖と忌避を集めている氷の異能――それによって生み出された剣技も氷の命も"綺麗"だと、無邪気な笑顔を咲かせるとは。


 "変わり者久遠"を呆れた眼差しで眺める純真の唇は、かつてなく穏やかな弦を描いていた――。


 ***


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