第三章『豆腐よりも熱く、餡蜜よりも甘いもの』Ⅰ

 潮の香る昆布と塩一摘み、新鮮な水を土鍋へ入れて、小さな火で茹でる。

 煮立つ寸前に、水面へ舞い上がった昆布を取り出す。

 木綿を敷いたまな板に、絹ごし豆腐を乗せ、包丁で上から丁寧に切る。

 豆腐を崩さないよう、昆布出汁の土鍋の中へ慎重に入れる。

 ふわりと雲のように浮いてきた瞬間が、湯豆腐の理想の食べ頃だ。

 味噌ダレは、コク深い大豆味噌に甘い砂糖、芳醇な酒とみりん、仕上げに柚子の香りを合わせる。

 ふわふわと柔らかく、滑らかな舌触りの熱々豆腐を、柚子の香る甘辛い味噌ダレと一緒に口の中で崩していくと、舌からお腹の芯まで温まる。


 「美味しいね」


 湯豆腐味噌の秘訣は、優しい火加減である。

 豆腐の甘みとまろやかさを損なわない程度に、昆布出汁の風味を引き出し、豆腐を温め過ぎないことだ。

 人と人との距離感も同様に、"ほどほど"が大切だ。


 「お口に合って、よかった」


 火傷しないように、レンゲに乗せた豆腐を息で冷ましてから、そっと口へ運んでいく。

 ただそれだけの動作ですら、子どもながら優雅に映る純真を、久遠は微笑ましげに眺める。

 純真が唯一初めて褒めてくれた湯豆腐味噌を、こうしてもう一度食べさせてあげられてよかった。

 約束にも入らない心のうちの約束を叶えられた事、その証として二人が無事である現実を、久遠は……素直に喜びたかった。


 「これからも"ずっと"僕に作ってよ」


 "毎日、味噌汁を作ってくれ"。

 そんな一昔前の求婚を彷彿とさせる純真の何気無い台詞、そこに秘めた想いの熱さを、久遠は感じ取ってしまった。


 「……」


 久遠は返事に窮し、代わりに弟へ向けるような優しい微笑みを貼り付けてみる。

 けれど今の純真の前では、そんな躱し方で逃れられる程あまくはない。


 「僕は“本気”だから」

 「な、何がでしょう? 純真、君」

 「君なら分かるよね? それにしても、さっきから口調おかしくない? 敬語に戻りかけているし」


 冷たく儚げな月石色には馴染みのなかった、燃えるような揺らめきを灯す瞳。

 久遠は真っ直ぐ見つめられるだけで、何だか火傷しそうで怖かった。

 さらに、鋭い純真には心内まで全て見透かされているに違いない。

 久遠の敬語混じりの微妙な口調も、どことなくぎこちない笑い方も、その理由も。


 「純真、君……っ?」


 不意に空いている左手へそっと片手を重ねられた久遠は、思わず肩を軽く跳ねさせた。

 それだけなのに、触れられている指先から胸の辺りはジワリと熱を帯びていく気がした。

 我ながら自意識過剰なのかもしれないが、今はこれまでとは明らかに違っているのだ。


 「朝食の後、準備ができたら僕と一緒に来て」


 今まで久遠は、上座で食事を取る純真から程遠い下座で、使用人と共に食事をしていた。

 しかし、昨日からは上座の斜め隣の席で食事するように言い付けられた。

 まさに久遠に対して急激に狭まった、純真の心の距離を象徴するように。


 「聖徳様への報告事項がある。久遠の"特殊能力"の件についても、大切な話をするから」

 「! うん、分かった……」


 謎が深まるばかりだった不思議な蘇生能力について、何かを掴んだらしい純真の言葉に、久遠は息を呑んで頷いた。

 それから純真は終始落ち着いた様子で、湯豆腐味噌とその付け合わせの惣菜と白米も、あっという間に平らげていた。

 対照的に久遠は緊張のせいか、箸の進みがどことなく重くなってしまった。

 原因は、食事中もこちらを静かに見守る、優しい篝火のような眼差しだった。


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