『塞翁が馬の乙女の末路』Ⅲ
あれから、さらに二週間後。
平安の空模様のような日々は、雲のように流れ過ぎていた。
朝に目覚めれば双子達と共に朝食の準備から今日の務めを始める。
昼間は洗濯や掃除、庭の手入れ、市場への買い物を済ませる。
夕刻になれば温かな夕餉と共に家主の純真君を出迎える。
普段、純真君との接点は食事の時に顔を合わせる程度で、特に言葉を交わさない。
聖徳様や純真君本人からの呼び出しもなければ、二人で一緒に行動する事も暫くなかった。
「今度の"
「花山院家の屋敷で開かれるので、聖徳様が直々にご指名なさったとか」
「純真様の数少ない晴れ姿を拝見できるのが楽しみです」
最近の日一番の楽しみは、夕方前の茶話会を兼ねた休憩時間だ。
使用人の皆と一緒に用意した日本茶と和菓子を口にしながら、穏やかな談笑に興じるのだ。
今日の話題は、今度の夜に開かれる“舞踊の会”でもちきりだった。
毎年の春に一度、花山院邸の屋敷・月光館で催される”舞踊”に纏わる宴会だ。
花山院家の招待状で参加する者は、最近では他国の貴族や王族の人間も含まれるようになってきたらしい。
招待される
「舞踊の会の夜、月光館にて“満月の最も輝く瞬間”に踊った恋人は、“永遠の幸せ”を賜るという素敵な言い伝えがあるようです」
「まあ、素敵。今回は、他国の大使や旅行者も数多く招かれる特別な宴になるようです」
「どなたか素敵な方と出逢えたら嬉しいです」
「新しい衣装と化粧でおめかしですね」
主な話題は家主の純真君の事はもちろん、都で流行りのお洒落や食べ物、時には恋話も出る。
双子以外の使用人達は、二十代前半の若者が占める。
普段は屋敷でのお務めを真面目に果たしながらも、密かに恋愛や結婚を意識している者も多かった。
歳の近い久遠もまた親近感から恋や好みの相手、お洒落の話を楽しんでいた。
他国の人々も来るってことは……デウス王国のクリスティアヌス様と逢えたりしないかな……なんてね。
七つの夜を過ぎた日に催される"舞踊の会"の宴は、出逢いの機会でもあるため、皆は色めき立っていた。
久遠もまた、胸が浮き立たずにはいられない一人でもあった。
「久遠様の好みの殿方は、西洋風の美人様でしたよね?」
「はい……! 天使のように心優しく、陽の神様みたいに輝くような黄金の髪に海のような碧い瞳の方に憧れます」
「まあ。私もそんな素敵な方と恋がしたいですわ」
「もしも、それらしき殿方を見つけたら、是非久遠へ紹介させてください」
「ありがとうございます……」
とはいえ微妙な均衡関係で結ばれた他国の、しかも皇子に当たる存在の認知とその言及をするのは、ある種の自殺行為だ。
もしも、今ここで久遠の想い人・クリスティアヌスの名前を口に出せば、彼女の立場と信頼も一気に危うくなる。
カミコクを遊びし尽くしていた久遠は、その不都合さを熟知していた。
「「……そろそろ休憩時間の終わりですね。では、皆様。仕事へ戻る準備をしてください」」
使用人のまとめ役でもある双子の厳かな指示を耳にした久遠達は、手早く片付けを始めた。
賑やかな茶話会の様子を、数分ほど前から密かに観察していた“家主”の眼差しにも、それに双子のみが察知していた事にも、久遠達は気付いていないまま――。
「ゴボウと大根、豆腐は最後にしようかなあ……」
"災い転じて福となす"とは、まさに私へぴったり当てはまる
「この娘で間違いないな?」
「ああ……確かにこの娘だ。長い漆黒の髪、東洋人には珍しい紫色の瞳、体格も服装も一致している」
「なら、早々に引き上げるぞ。気付かれる前にこの国を出ねば」
夕陽が沈む前の時間、双子と共に食材を調達しに、街市場へ出かけていた最中。
双子が八百屋で会計を済ませている間に、久遠は先に向かいの薬味店を回っていた。
しかし、店の外の生薬コーナーを興味津々に眺めていると、瞬く間に世界は暗転した。
悲鳴を上げることも忘れて、ただ愕然とされるままになっている間に、手足と口の自由を奪われていた。
いわゆる"人攫い"に遭ってしまった私は、今度こそ人生もしくは命が終わったと諦めかけていた。
しかし、自分を攫った黒ずくめの正体をこの眼で認識した瞬間――私の胸には荒唐無稽ではあるが、一縷の希望が灯った。
「娘よ。命が惜しければ我々に従え」
漆黒の天使の両翼に洋刀が描かれた
純白の天使の両翼に愛の心臓を描いた国章と似て非なる
隠密組織は、他国間でも比較的穏健派の外交を行うデウス王国政府とは、また異なる方針に基づいて国を統べ、そこには他国への諜報活動も含まれている。
先日の盗賊とは違い、国家機密組織に該当する彼らであれば、早々手荒な真似はしない。
自分を攫う目的はまるで見当もつかない、という不安はあれど。
ただ、このまま大人しくしていれば、天神国を脱してデウス国へ――愛しのクリスティアヌス様のもとへ行けるのかもしれない。
多少、強引で荒唐無稽な運任せの賭けだとしても。
それこそ、第二人生の最大の夢として掲げる久遠としては、願ったり叶ったりだ――そう思ったはず。
『湯豆腐味噌が美味しかった――』
何で、こんな時に、こんな事を、真っ先に思い出すのだろう。
もっと、他に思うべきことがあるはずだろう。
霙ちゃんが猫に笑った可愛い顔とか。
雹君がお菓子を頬張っている姿とか。
それ以外の事――あんな子どもらしくない冷めた眼差しで、「誰とも幸せになる気はない」と言うばかりに、そんな事を吐き捨てた少年のことなんか。
『君は、何者なの――』
透き通るような月石色の瞳を"綺麗なのに悲しい"なんて思って、中々目を逸らせなかったことも。
人らしい感情や温もりへ背を向ける姿勢に、あまりの寂しさを覚えた私が時折、思わず――。
『大丈夫だよ――』
三つの夜の間、眠り続けていた私の手を繋いでくれた"あの優しい手"の正体に薄々気付けたからといって。
「おい、急に立ち止まるな。大人しく足を進めろ」
ああ、何で、今更。この期に及んで。
「今更、命乞いをしても無意味だぞ」
また、湯豆腐味噌を食べさせてあげたかったなんて。
また、褒めてもらいたい、喜んでもらいたいだなんて。
このままいけば、最短道でクリスティアヌス様へ近付けるとかなんて、一瞬でも恩知らずな事を頭に浮かべた私が――。
「――ねえ」
せめて、もう一度会いたかった――感謝を伝えたいだなんて――そんな虫の良すぎる話――。
「僕の花嫁に何しているの」
透き通るように凛とした声が、耳朶を震わせた直後。
二つの小さな呻き声、と何かが倒れたような鈍い音を耳にした。
何事かと久遠が慌てている内に、雲に包まれたような浮上感、ぴったりと収まった温もりに見舞われた。
「大丈夫?」
馴染みとなった声と温もり、香りを感じた時点で、久遠には相手が誰だか直ぐに分かってしまった。
そっと解かれた目隠しの布が地面へ落ちると、久遠は眩くなった視界越しに応えた。
「純真、君……どうして」
またしても、間一髪の所で久遠を助けてくれたのは、純真だった。
少年の純真に軽々と横抱きにされている体勢に気付いた途端、久遠は色々な心配や恥じらいに見舞われたが、今は抵抗の気力すらない。
子猫みたいに大人しく瞳を伏せている久遠を抱えたまま、純真は事の経緯を冷静に説明してくれた。
「雹と霙が直ぐに知らせてくれたんだ。君が攫われたのかもしれないって……」
買い出し中に忽然と姿を消した久遠を案じた双子は、真っ先に純真へ助けを求めてくれたとの事。
剣士である純真の俊足と気配感知力であれば、久遠と彼女を攫った怪しい男達を見つけ出すのは容易い事らしい。
「最近、この辺りでも異能和人の誘拐事件が頻繁に起きているから、本当に心配したよ」
純真曰く、国内外問わず“異能和人”が誘拐され、人身売買にかけられる痛ましい事件は起きるらしい。
もしも純真の駆け付けがもう少し遅ければ、今頃久遠は異国行きの船へ乗せられ、捕虜にされていたに違いない。
冷静に振り返れば、あまりにゾッとしない話だ。
天神国の穏やかな街並みの光景からは想像つかなかった、おぞましい犯罪情勢を知った久遠は戦慄した。
「この二人の処遇は、呼んでおいた警察と聖徳様に任せる。とにかく帰ってから……」
途端に久遠は、安堵と同時に震えが止まらなくなったせいか。
思わず目の前の純真の首へ両腕を回してしまった自分に、久遠は息を呑んだ。
「あ……ごめんなさい……その、私……」
今更恐怖心が強まったとはいえ、自分よりも歳下の少年へ縋り付くなんて。
居た堪まれなさや恥じらい、申し訳なさから謝った久遠だが、目頭すら熱くなっていくのは止まらなかった。
目尻に浮かんだ小さな滴に溶けた感情は、果たして何なのか。
色々な心が糸のように
「怖かったね……でも、もう大丈夫だよ……」
雲のように穏やかで、それでいて実態を伴った手の温もりに、瞳の奥から溢れかけていた不安や恐怖はゆっくりと引いていく。
「今度はもう二度と君を攫わせたりはしないように、いつでも駆け付け……ううん……」
頭に続いて今度は背中までポンポンっとあやす様に撫でながら、さらに穏やかな低い声は"約束"を囁いてくれた。
「なるべく、僕の傍から離さないようにするから」
薄々と気付いてはいたが、純真君はさりげなく久遠を避けてもいた。
最初からきっと疑われてはいたものの、特に聖徳様から"許嫁者令"を出された日から。
冷泉邸では顔を合わせればあいさつはするし、用があれば言葉も交わしていた。
それでも純真君の態度は、どこまでいっても淡々と事務的なものに留まっていた。
朧月のように淡くて、決して手の届かない存在のごとく、一切の気持ちや本心を明かしてはくれない。
そんな少年らしくなく大人びた純真君に対して、久遠はもの寂しさというか――いわゆる"心配"という本能的な関心を覚えていたのだ、と今なら分かる。だからこそ。
「どうしたの。どこか痛い? 怪我した?」
「……ううん、ごめん。違うの」
今初めて、純真君の心にも柔らかい場所は存在していて、そこに触れさせてもらえたような気がした。
思わず感極まって涙を零してしまった久遠を、純真は心から案じた。
そんな何気無い言葉掛けですら、今までになく体温を帯びていた。
ようやく、指先一つでも届いたような気がして、何だか嬉しくてたまらなくなった。
それなら、きっと、いつかは――。
「純真君、ありが――」
いつかは、この両の手でそっと、この孤独で哀しげな少年の心へ、そっと触れさせてもらえる日は来るのではないか――。
そんな淡い希望を胸に灯すと、涙でみっともなく濡れ腫らしているであろう瞳で笑ってしまった矢先。
私の心臓は胸を貫くような“赤い花”を咲かせていた。
「っ――久、遠」
今までに無い程見開かれた月石色の双眼に映ったのは、初めて目にする驚愕と絶望だった。
きっと同じくらい目を見開いているであろう私が、何故か薄暗くなっていく視界越しに見たのは――純真君の着物を染めていく、"鉄の香り"のする赤い花だった。
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