『塞翁が馬の乙女の末路』Ⅱ

 ひと足先に目を覚ました鮫男は、純真の背後から中華包丁の刃先を突き刺そうとした瞬間。

 久遠は純真を勢いよく引き寄せると同時に、入れ替わるように前へ出た。

 すると刃は久遠の心臓を貫き、彼女は胸から血潮を咲かせて絶命した――はずだった。


 「どうして“あの時”、私は助かったんだろう……」


 確かに私は致命傷を負ったはずだ。

 あの瞬間の灼けつくような痛みも、喉を上流する血の熱さ、全身の力が急速に失われていく感覚も、朧げながら覚えている。

 けれど意識を取り戻した私がいた場所は、黄泉の国でも前世でもなく、何も変わらない現世うつしよだった。


 和室の布団に伏せていた私を常時看病してくれた双子は、目を覚ました私を見て涙ながらに喜んでくれた。

 傍から見守るようにひっそりと佇んでいた純真君も、瞬きを繰り返しながら胸を撫で下ろしたように見えた。

 ただし、双子も冷静沈着な純真ですら揃って、狐に摘まれたような表情を浮かべていた。


 「傷痕一つもないなんて……」


 双子と主治医の診察後に明らかとなった、奇妙な新事実がある。

 何と、鮫男に刺されたはずの左胸には、刺し傷の跡すら消え失せていた。

 まるで刺された事実すら、なかったかのように。

 普通の人間ではあり得ない現象を目の当たりにした当の久遠には、唯一心当たりがあった。


 「まさか、これが噂の"最強反則級チート能力スキル"? 私は不死身なの?」


 異世界転生物語では一つの定番となっている、主人公の"最強能力"について思い出す。

 最強武器を無限に作り出せる力。

 何度死んでも蘇る力。

 時空間の制止や移動の力。

 どんな傷も瞬時に回復する力。

 色々と思い浮かぶものはあるが、致命傷を負っても死なず、傷痕すら再生した経験から導き出せた答えを呟いていると。


 『残念ながら、それはありませんねぇ』

 「わっ! びっくりした! 鏡花水月から現れるなんて珍しいね?」


 音もなく現れた鏡花水月の気配と声に、久遠は肩を跳ねさせたが丁度良いと思った。

 鏡花水月の口ぶりからも、久遠の身に起きた災難と怪現象は既に把握しているとみた。


 「それよりも"それはない"ってどういう意味? 私の特殊能力は"不死"とか"無敵"とかじゃないの?」

 「あーそれはですねぇ……選ばれし転生者の特殊能力は確かに反則級なものですが、決して万能ではなく……故に"不死"というものだけはないのですよ」

 「ええ? でも私、心臓刺されたのに死ななかったよ?」


 普通の人間は、急所を刺されたら死ぬ。

 仮に臓器への致命傷を避けたとしても、あの出血多量なら失血性ショックとかで普通に死ぬ。

 そんな状況でそうならなかった結果を、"不死"と呼ばずして何なのか。


 「それはきっと"死"をような特殊能力によるものに過ぎません。"死"そのものを克服したわけではないのです」

 「……つまり?」

 「いかなる能力には、必ず"弱点"は存在しているもの……あなたの特殊能力もその弱点を突くような攻撃を受ければ、さすがのあなたも死は免れませんので……どうかそこを留意してください」

 「何だか難しい話だなあ……」


 脳味噌が焦げ付きそうなほど分析と考察を重ねたものの、やはり納得の行く答えは導き出せなかった。何故なら。


 「痛っ!」

 「「わわっ。大丈夫ですか、久遠様。直ぐに手当てをしなくては!」」


 いつものように、双子と共に夕食の調理にかかっていた久遠。

 しかし、きゅうりの千切りをしていた途中で包丁を滑らせてしまった久遠は、左薬指の先に薄い切り傷を作った。

 咄嗟に双子は止血帯で傷を覆い、手当てをしてくれた。


 「うぅ……ごめんね、霙ちゃん雹君。まだ料理が残っているのに」

 「そんなの気にしないでください。久遠さんの傷が良くなるのは一番大切です」

 「そうですよ。後は僕達がやりますので。久遠様はいつもよくしてくださるので、たまにはゆっくり休んでください」

 「ありがとう〜二人の優しさがしみるよ……」


 作業を中断させてしまった申し訳なさを覚えたが、それ以上に二人の優しさは傷と心にしみた。

 二人の厚意に甘えて、私は止血帯越しに指の傷を押さえながら、調理場を出た。


 「どうしたの、その指」


 自室へ戻るために廊下を一人歩いている道中で、純真君と鉢合わせた。

 私は思わず肩も心臓も跳ね上がった気がした。

 背後から声をかけられるまで、まるで気配も足音も感じられなかった。

 さすが剣豪と謳われるだけの実力も佇まいも、素人目の私にすらひしひしと伝わってくる。


 「あ、えっと……その」

 「怪我したの?」

 「あ、はい。包丁で軽く……ごめんね……」

 「謝る程の事でもないと思うけど……」


 またしても、"ごめん"が口を突いて出そうになったのを喉元で抑えた。

 冷泉邸へ帰還する前に交わした言葉もあり、何となく気まずい久遠とは対照的に、やはり純真は冷静沈着な態度のままだった。

 久遠の指の怪我にいち早く気付いた純真は、彼女の瞳と指を交互に凝視する。


 「……悪いけど、傷を見せて」

 「え? なんで」

 「いいから」


 不意に伸びてきた手に左腕を掴まれ、有無を言わさない物言いに、久遠はそれ以上の言葉を呑んだ。

 やはり剣士とはいえ、十五歳の子どもらしく、自分と大差ない小さな手とその白さに、何だか胸が切なくなった。

 純真は久遠の左薬指に巻かれた止血帯を丁寧に解いていく。

 しかし、帯が傷口から軽く引っ張られた時に「うっ」と軽い呻いた久遠に、純真は「大丈夫?」と訊いてくれた。

 平気だと微笑みながら肯いた久遠に、純真は色を変えない双眸を軽く伏せると、露わになった傷口を観察する。


 「……やっぱり、おかしいな……」

 「あ……」

 「君は一体、何なんだろうな……」


 純真が無表情を変えないまま呟いた台詞、とその意味を敏感に察した久遠は、複雑そうな眼差しをする。

 やはり久遠が抱いているのと同じ疑問を、純真も感じ取っているらしい。

 そう、久遠は自分の特殊能力が自己治癒や回復に特化したものだと思ったりもした。

 そうなれば、久遠が心臓を刺されても生きており、胸には傷痕一つもない理由にも説明がつく。

 しかし久遠の指の傷口は、塞がる気配すらまったく見せず、ただ小さく疼くような痛みが残っているのみだ。

 そんなごく当たり前の現実はますます久遠、と恐らく目の前の少年をも困惑させている。

 互いに重く冷たい沈黙の流れる中、純真もまた双眸を伏せて逡巡してみた後。


 「まあ、今はまだいいか……左手、出してよ」

 「え?」

 「包帯、巻き直すから。早く」


 淡々と催促された久遠がおずおずと左手を差し出せば、純真の白い手にそっと掴まれた。

 少し血の滲んだ部分を左薬指の患部へそっと当ててから、丁寧に包帯を巻いていく。

 左薬指の付け根へ近付いていく包帯と純真の滑らかな指の感触に、久遠はくすぐったさを堪える。


 「(こうしてみると……本当に綺麗だなぁ……)」


 儚げな月石色の瞳を縁取る長い睫毛。

 月のように滑らかな曲線を描く目鼻筋に、美しい顔立ち。

 淡い桜の花びらみたいに色づいた端麗な唇。

 白い肌から小川のようにサラサラと零れる、艶やかな漆黒の長髪。

 氷みたいに涼やかで智性的な眼差し。

 夜の静けさのような佇まい。

 まさに、雪解けの春の朧月夜のように――。

 至近距離で眺める純真君は、子どもだとは思えないほど、存在そのものが美しい。


 「終わったよ。包帯、キツくない?」


 思わず息を呑んで見惚れてしまっている内に、手当ては済んだらしい。

 声をかけられてから、数秒程惚けてしまっていた久遠は、我に返ると慌てて返事をした。


 「あ、うん。大丈夫だよ。ありがとう……」

 「……顔、少し赤い。熱でもあるの」


 顔の赤さを指摘されてから初めて、何だか顔だけでなく全身が淡い熱を帯びている気がした。

 不意に首を傾げながらこちらを見つめる理性的な眼差しに、何だか気恥ずかしくなってしまった。

 しかも、ほとんど身長差がない分、透き通るように綺麗な瞳と至近距離で視線が合うと尚の事。


 「そ、そんなことは……だ、大丈夫だよ! じゃ、また後で!」


 そう、ただ、それだけのこと。

 誰しもが持つ条件反射に過ぎない。

 この妙な心臓の高鳴りも、妬けるような熱さも、きっと。

 久遠は首を振って狼狽えながら、逃げるように小走りで去った。

 振り返らずとも、純真の「変な奴だな……」と呆れていそうな気配を背中に感じながら。


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