『夢咲く久遠の始まり』Ⅵ
「「これが肉じゃがなるものですか……すごく美味です! 久遠様っ」」
久遠が冷泉邸に住まい始めてから、一ヶ月過ぎた頃。
双子の側近の内、霙は主に世話役と案内役、雹は主に付き人兼使用人の仕事の教育係として、久遠に寄り添ってくれた。
久遠には和服の着付け方という基本中の基本から始まり、洗濯板や釜戸の使い方、風呂焚き、雑巾絞りで戸棚と廊下の拭き掃除、市場での買い出しまで……この世界ならぬこの国・この時代に必要な生活能力を叩き込まれた。
現世の現代社会ならば、掃除機やネット購入、電気式風呂、電気ガスストーブ、オーブンレンジ、冷蔵庫といった便利な科学文明機器で手軽に済むはずの作業を、自力で行うのは骨が折れた。とはいえ。
「「久遠様の料理の腕前は、元から見込みも呑み込みも良かったですが……家事炊事全般もすっかりお手のものですね」」
最初は手間が掛かるばかりで非効率と思えた手作業も、終えた後は達成感からか、不思議と爽快感を伴う疲労を覚えるようになった。
特に久遠の調理の腕前に対しては、現世の記憶に基づく知識と技術が高く評価された。
現代ならではの献立を、この世界の食材と調味料でアレンジした独創的な料理は、双子を含む使用人達の胃袋と心臓を鷲掴みにした。
「ありがとう。二人が釜戸の使い方とか食材の仕込み方を、丁寧に教えてくれたからだよ」
何よりも、この双子達が右も左も分からなかった久遠へ、根気良く丁寧に色々な事柄を教えて褒めてくれるのは嬉しかった。
双子もまた、久遠が年齢差等も関係なく二人の指導へ熱心に耳を傾けながら取り組んでいた謙虚さや向上心を評価し、彼女に懐いてすらいる。
「じゃがいもに出汁が沁みただけで、こんなにも味わい深くて、温かく、柔らかな美味が生まれるのですね!」
「しかも豆腐とこんにゃくのまろみとも合いますね……さすがです」
肉じゃがならぬ"肉豆腐じゃが"もまた、双子の繊細な味覚の気に召したらしい。
冷泉家ほどの名家とはいえ、最高級食材となる牛肉は容易く入手できるものではないため、焼き豆腐や鹿の肉で代用してみた。
最初は臭みや風味、食感を整えるのに苦戦したが、試行錯誤の末に我ながら中々の出来栄えとなった。
他には甘辛い醤油ダレを絡めた焼き鳥や、ホクホク熱々なおでん等、"ありそうでなさそうな"和の献立の多彩な味わいに、皆も舌鼓を打っている。
唯一人を除いて。
「きゃあああ――!!」
或る人物を思い浮かべながら、鍋底を眺めている最中。
背後から響き渡ったのは、扉を叩き割った騒音と同時に霙の悲鳴だった。
何事かと振り返った久遠の視界に入ったのは、割れた味噌壺が無惨に散らばった地面、同じ表情で怯える雹と霙の姿、そして――。
「こりゃあ、丁度よかったぜ。今は餓鬼と女しかいないってのは、本当だったんだな」
「しかも、三人とも中々の上玉だぜ。こりゃ、高く売れるな」
うわっ怖い! どうしよう……確かに奴らの言うとおりだ。
今は他の成人した使用人も運悪く出払っており、家主の純真君も任務で夜更けまで帰らないと聞いた。
盗賊らしき二人組の邪悪な眼差しと気配に、久遠も恐怖で凍り付いたのも束の間。
「! 霙ちゃんを離してください!」
「霙!! お前ら、汚い手で霙に触るな……っ」
調理場へ侵入してきた瞬間に、扉付近にいた霙は真っ先に襲われたらしい。
鮫男は筋肉質な左腕で霙の可憐な矮躯を締め上げるように捕らえ、右手に握った中華包丁の先端を彼女の右頬へ当てている。
一センチでも包丁を突き出せば、白桃さながらの頬に痛ましい亀裂と赤色は広がるだろう。
囚われの恐怖と未来の痛みに震えが止まらない霙は、
「雹君……! 久遠様……! ひっ……!」
「うるせぇなあ!」
「ぎゃあぎゃあ騒ぐんじゃねぇよ!」
泣き喚く霙、彼女を求める久遠と雹の声が耳障りとばかりに、盗賊二人は高圧的にまくしたててくる。
「いいか! よく聞け! 男の餓鬼と女! 大人しく俺達へ付いて従え! さもなければ……」
「かっ……はぁ……っ!」
「霙!!」
久遠と雹を無理やり従わせるための人質にされた霙は、鮫男の太い腕の筋力に首周りを締め上げられてしまう。
凄まじい息苦しさによって、霙からは苦悶の息と涎、涙が零れ出てくる。
このままでは窒息するよりも先に、首の骨を折られてしまうのではないか。
苦痛とそこからの解放を哀願する霙の姿に、雹は色を失って叫んだ。
ひどい――許さない――。
「ひひひ。さあ、早く来ないとこの女の餓鬼を締め殺してしまうぞおぉ……お!?」
「うわ!? 何だ! 辛い!ゲホゲホッ! うわああ!」
「っ痛えぇ!!」
久遠は
さらに二人が刺激的な痛みに怯んだ隙に、久遠は己の体重をかけるように鮫男を勢い良く突き飛ばした。
鮫音は後頭部を打ったらしく、眩暈で手足の力が緩んだ。
その隙に、久遠は鮫男の腕から霙を素早く引き離し、雹へそっと渡した。
「霙ちゃん! 今のうちに逃げて! 雹君も!」
「「でも」」
「いいから! 早くっ!!」
久遠は自分が二人を押さえている内に、二人を逃がそうとした。
一瞬躊躇した双子だが、久遠の危機迫る声と眼差しに気圧された雹は、霙を抱えて調理場を飛び出した。
二人が無事逃げられた姿を見送った久遠が、胸を撫で下ろすのも束の間。
「あ……! くぅ……っ!」
しかしながら、ひ弱で華奢な久遠一人で、男二人を押さえ込み続けられるはずもなかった。
「このクソ女が……! よくもやってくれたなあ……!」
「せっかくの獲物二匹も逃した落とし前は、貴様でつけさせてもらうぜ!」
数秒後に直ぐ復活した鮫男は、勢い良く跳ね起きると同時に、久遠の細首を片手で掴み上げた。
苦しい……声がでない……息が上手くできない……っ。
このまま締め殺されそうな圧迫感と息苦しさに、久遠はただ手足をばたつかせて
「ひひひっ。もう二度と小癪な真似ができないように、手足でも切り落としておくか」
「馬鹿野郎! 売り飛ばす前に商品価値を落としてどうする! 女にはなあ、このくらいが効果的なんだよ」
死より耐え難い"痛み"か"恥辱"か。
いずれにせよ地獄は不可避な二人の不穏な会話に、久遠は頭の片隅浮かんだ恐怖で、既に身も心も引き裂かれそうだ。
けれど意識が遠のいていく久遠には、最早抵抗する力も叫ぶ気力も残ってていなかった。
鮫男のもう片方の手は、久遠の上質な薄桃色の和服を留める薄紅色の帯を無遠慮に引き下した。
次に蟷螂男は上着と襦袢の襟元を両手で掴み上げると、一気に左右へ割り開いた。
「ねぇ――何してるの、君達。人の屋敷へ勝手に上がり込んで」
冷凛ながらもあどけない声が、久遠達の耳朶を撫で上げた瞬間。
久遠の体は、雲に落とされたような浮上感と解放感に包まれた。
一体何が起きたのかを理解するよりも先に感じ取れたのは、邪悪な男達の苦悶の悲鳴、と鼻腔を微かに掠めた血の匂い。
「ぐああぁ……!」
「俺の腕が……!」
目の前の光景に戦慄する久遠は、床に尻餅をついたまま凍り付いた。
鮫男の樹木さながら
久遠の着物を剥ぎ取ろうとしていた蟷螂男の両腕も切り落とされ、指の力が抜けた事で襟元から離れていた。
久遠が解放されたのも、彼女に触れていた男達の腕が飛んだからであり、それを為したのも――。
「うるさい」
「がっ……!」
「うっ……!」
少年は無感情な声で疎ましげな言葉を呟いてから、盗賊達の背後へ回った。
日本刀の柄による峰打ちを頸部に喰らった盗賊は、そのまま意識を手放した。
白目を剥いて床に頬を付いた二人と小さな血溜まりを、冷凛とした少年は冷ややかに見下ろす。
「人の家で喚かないでよ。床までこんなに汚して……」
氷のような静寂に蔑みの色を孕んだ、月石色の眼差し。
吹雪を纏ったように冷ややかな殺気。
氷水色に透き通るような輝きを放つ美しい刀身。
少年の存在とそこから醸される空気だけは、神聖さに冷え渡っているようだった。
「人の
「純真、君……」
目の前に現れたのは、任務で外出中であるはずの家主・純真だった。
冷気を纏う氷柱のように美しい刀身を鞘に収める中、相変わらず感情の読み辛い瞳が久遠を捉えた。
目線が合った瞬間、恐怖に凍りついていたはずの久遠の胸は、不思議と溶かされた。
真っ青なはずの久遠の瞳に灯った安堵の輝きに、純真が意外そうに目を丸くした気がする。
「霙ちゃんと雹君は……?」
「……二人なら無事だよ」
命懸けで逃した双子の安否を問う久遠の言葉に、またしても純真は不思議そうに見つめてきた。
どうしたんだろう……。
心無しか、氷のようだった表情も、雪のように僅かに和らいだ気がした。
「どうして、ここに……?」
「予定より早く終わったんだ」
純真君曰く、予定よりも早く任務を終わらせたため、暗くなる前に冷泉邸へ帰還できた。
すると丁度、久遠達以外の使用人は出払っている冷泉邸の静寂に響き渡った悲鳴と騒音に、直ぐ駆け付けたのだという。
何にせよ、今日この時間帯に純真が早めに帰還していなければ、今頃久遠も無事では済まなかった。
そう思えば、純真君には命はもちろん、人としての尊厳まで救われた事になる。
「っ……ありがとう、純真君……二人と私を助けてくれて」
見た目通りのまだ幼い十五歳の少年でありながら、たくさんの人の命と安寧を守る力と使命を、その小さな手と背中に宿している。
少年らしからぬ凛とした佇まいと力強さ、健気さに久遠の胸は熱く締め付けられた。
何とも言い難い本能に駆られた久遠は、自分でも気付かない内に、純真君の頭を撫でていた。
「あ、ごめん。気安く撫でちゃって……」
純真が双眼を大きく見開いたまま固まっている様子に、久遠は直ぐ我に返った。
狼狽える久遠を見つめる瞳には、静かな困惑や動揺らしい波紋が浮かんでいる。
自分よりも拳一個分の高さしかない純真とは、間近で視線が合うため、余計に居た堪まれなくなる。
「……君はさ、僕が怖くないの?」
純真の唇から零れた予期しない台詞に、今度は久遠が戸惑う番だった。
「どうして? そりゃ、あの二人に襲われた時はすっごく怖くて、ああもう色々と死んだわってなっていたけれど……」
むしろ純真君が間一髪の所で助けてくれたおかげで、これ以上のきっと耐え難かったであろう恐怖も屈辱も免れたというのに。
質問の真意をまるで理解できずに首を傾げる久遠を静かに凝視していた純真は、何故か小さな溜息を吐いた。
「君、変わっているね……」
「ええ? そうかな? どこがどう変なの?」
「うん……全体的に変だと思う……」
「それって不細工って事……!?」
「いや違うよ」
最後の否定の言葉に胸を撫で下ろしたものの、釈然としない感覚は残った。
"異世界転生人"という肩書き、とその通りの経歴と人格を鑑みれば、"変わっている"事には間違い無いだろう。
けれど純真の台詞には、それとはまた違った意味を含んでいる気がした。
そう、まるで"珍生物"を眺めるような……何となく心外な気配を感じたような。
「それよりも、早く前を隠したら。さっきから見えているよ」
「……え!?」
純真が逡巡している最中にふと気付いたように呟いた指摘に、久遠はようやく今の自分の格好を自覚した。
そういえば、あの下衆蟷螂野郎に思い切り剥かれた帯は全て床に落ちており、和服と襦袢の襟元から下はやたらスースーしている。
「わああぁ! ごめんなさい! お見苦しいものを……って、それを一番先に言って欲しかった!!」
「ごめん……言う瞬間が中々掴めなくて……」
「何か、こっちが余計に申し訳なくなるんだけど……!」
我ながらやかましい声量で悲鳴を上げながら、襟を思い切り手繰り寄せて
謝罪だか苦情だか色々と混乱した言葉を突いて出した久遠に、純真は涼しげな瞳をやや居た堪まれ無さそうに伏せた。
相手が十五歳の子どもであり、かといって思春期初めに在る少年の前で見苦しい姿を晒す羽目になった久遠は、互いの災難を内心嘆いた。
けれど、本当の災難はこれから先にあるなんて、一体誰が――。
「――危ないっ!!」
――想像できたのだろうか。
「久遠――!!」
薄桃色の布へ真っ赤な花を咲かせていく血潮。
胸から全身を巡っていく灼けつくような痛みの脈動。
深淵の沼へ沈んでいくように重くなっていく手足と意識の中――純真君の呼び声だけは、やたら鮮明に耳朶を打ち鳴らし続けた。
生まれて初めての感情を宿した"久遠"という呼び名の音色に、胸を締め付けられて。
***
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