第6話 分相応の問題

 自分の彼女が、10分後なのか、10分前なのか、どちらかに存在しているということを、普通なら俄かに信じられるわけもないだろう。

 もちろん、信じるだけの信憑性もない。

 逆にそれだけに、気が楽なのか、信じてみようか? という気になったのかも知れない。

 しかし、あり得ることではないということは、歴然としていて、それを信じられるということは、それだけ、感覚がマヒしているからなのかも知れない。

 マヒしている感覚は、以前、読んだ小説の中に、自分を引きずりこんでいる。感覚がマヒしているということを言い訳にして、前に進めないことを、正当化しているのかも知れない。

 最近彼女は(正確にいえば、10分前を歩く彼女の方であるが)。

「結婚したい」

 ということを切望している。

 実際には、10分前の女は、どちらかというと、そういうことは口にしない女だと思っていた。

 引っ込み思案なわけではなく、思っていることであっても口にしないのは、それだけ、自分に自信があるからではないかと思っていた。

 自分に自信があるから、

「私が言わなくても、そのうちに、相手が言ってくれるから、焦っていう必要もないし、焦らない自分を見せつけることで、まわりの人間の信任を得られることになるのだ」

 と思っているような感じだった。

 その自信が余裕に繋がり、逆に冷めているようにも見えている。普段は焦ることのない岡崎だったが、たまに無性に焦っている自分を感じる。そこが、自分のことを、

「二重人格だ」

 と思わせるのだろうが、逆に子供の頃から思春期までの自分の生き方があまりにもポンコツで、

「このあたりで、気持ちをリセットさせたい」

 と思っているのかも知れないのだった。

 二重人格というものが、中学時代までの自分でもあったのだという意識はあったが、それを感じなかったのは、今から思えば、

「感じることが怖かったからではないか?」

 と感じるのだった。

 二重人格だということを認めてしまうのは楽である。

「二重人格だから、あんな情けない自分が存在したのだ」

 という言い訳ができるからで、しかし、その言い訳は自分だけにしか通用しない。

 それであれば、最初から二重人格など存在したわけではなく、

「普通の少年だった」

 と思わせて、その思いが後は、忘却の彼方にさらっていってくれることを望むだけだったのだ。

「人のウワサも七十五日」

 このことわざの意味が、そのままこの状況に当て嵌まるのかどうか分からないが、しっくりきている気がする。

 そのため、

「このことわざというのが、汎用性があり、いろいろな解釈のできるものなのではないだろうか?」

 ということを考えさせるような気がしてならないのだった。

 そんな子供の頃の自分が、まさか大人になって、できた彼女から、おかしな感覚にさせられるとは思ってもみなかった。

「彼女ができないのではないか?」

 と、そもそもは考えていた。それだけ、中学時代までの自分はおかしな性格だったということだ。

 小学三年生の頃、異性に興味もなかったのに、まるで主従関係のような女の子がいたのは、前述のとおりであるが、その時のことを、いまだに忘れてはいない。

 ただ、今から思えば、彼女のことを本当に異性として意識をしていなかったのかどうか、それは疑わしいという思いだった。

 今ほどの、意識ではないだろう。

 今の異性に対する意識は、完全に、肉体をも含んだことであって、相手に対して、よこしまな気持ちを抱いていないというとウソになる。

 いや、抱いていないという方が、むしろ変なのだ。それが思春期を通り越してきたということであり、思春期を通り超えることは、人間の数だけ存在することでもあるのだが、逆に、

「人間の数だけのパターンが存在するということ」

 でもあるのだ。

 つまり、一人として、同じ思春期を通り越してきた人はいない。同じに見えるが、微妙にすべてが違っている。しかし、そのことを皆意識していない。意識しているとすれば、

「皆、思春期は違うものだ」

 という意識であり、それを当たり前のことだと思っている。

 そのくせ、他の人を見ると、同じように見えるのはどうしてだろう? それが矛盾となるわけだが、思春期にはそういう形の矛盾というのは、数多く存在しているのだ。

「まるで、マルチバースのようだな」

 というやつがいた。

 その友達は、大学では文系だったのだが、やたら科学のことや、宇宙のことに興味を持っているやつで、彼曰く、

「実際に専攻しているわけではないだけに、興味を持って、より以上に勉強できるのさ」

 と言い訳のように言っていたが、まんざらいいわけでもないような気がしてきた。

 大学時代に勉強したことは、社会に出て通用するためのものだと思っていたが、実際に社会に出てから、ほとんど役立ったというものではなかった。

「じゃあ、なんで大学に通ったりしたのだろう?」

 という疑問を抱いたが、それ以上は追求しなかった。

 答えが出ないのは、何となく分かったからだ。

「どうして、答えが出ないと思ったのか?」

 と聞かれたりすれば、答えは決まっているような気がする。

「それは、堂々巡りを繰り返すからだ」

 ということであろう。

 しかも、普通の堂々巡りではなく、そこには立体感が存在する。

 というのは、

「らせん状にきりもみするように、落ちていくからだ」

 と考えたのは、理由が二つあった。

 一つは、

「下に下がっていることを意識させること」

 と、もう一つは、

「下がっているのだが、らせん状であれば、叩き落されるわけではないので、そのうちに何とかなると思わせておいて、結果何もできずに、終わってしまう」

 という、二つの矛盾したことに由来してくる。

 ただ、共通点もある。

「どちらも、本人の油断を誘うものだ」

 ということである、

 結局はどちらも、言っていることは、両極端のように思えて、そこに矛盾を感じるのだが、どちらも、本人が奈落の底に落ちていることを自覚しながら、

「まだまだ先のことだ」

 と油断させることに意義があった。

 その油断を油断とは思わず、余裕だと思わせることが、この場合の目的ではないかと思うと、矛盾は矛盾ではなくなるのだった。

 そんなことを考えていると、

「10分先と、10分後を生きている彼女は、どっちが本当の彼女なのだろうか?」

 と考えていたのだが、そもそも、そう考えることに無理があるのではないかと考えるようになっていた。

 というのも、

「どっちも本当の彼女ではないか?」

 という考えに至らないのはどうしてなのかということである。

 確かに、同じ次元に同じ人間が存在しているということは、ドッペルゲンガーでもない限りありえないことだ。

 しかも、その二人は、完全に時間を10分という微妙な間隔で、生きてはいるが、そのおかげなのか、絶対に会うことはないのだった。

 10分先の女は、絶対に、10分後に、10分前にいたその場所に戻ってくることはない。

 戻ってくれば、鉢合わせをすることが分かっているからだ。

 10分後の彼女は、そうするだけで出会うことはないのだ。

 そういう意味で、10分後の彼女には、

「選択権はない」

 と言ってもいいだろう。

 彼女が、自分の意思で選んでいると思っていることであっても、結果として、

「10分前を追いかけている」

 ということになるので、すべての選択権は、10分前の自分にあるのだ。

 それでも意識の上では。

「自分の意思が働いているのだ」

 という思いに変わりはない。

 それも大きな矛盾なのだろうが、本人は矛盾だとは思っていない。

 何か特殊な考え方が備わっていて、この考えが間違っていないということは分かっている。それは、10分前にもう一人の自分が存在していることを分かってのことだった。

 ということは、

「生まれた時から、私の中に、10分前の自分の存在を意識させる要素が備わっていて、そのことにいつ気づくかということが問題なだけであった」

 といえるのではないだろうか?

 ただ、このことは、そこまで重要なことではなく、10分前の自分の存在に気づいた時、必要以上にビックリしないということのために、最初から用意されていたシナリオに過ぎないのだと感じるのだった。

 そのシナリオをいかにうまく使うかということが問題なのだが、10分後の彼女は、少なくとも、その能力を持っていたのだろう。だから、10分前の自分を意識していても、その気持ちの中に余裕があるため、最初は、どうしていいのか戸惑っているが、時間が経てば慣れてくるのか、意識は次第に薄れてくる。

「では、10分前の女はどうなのだろう?」

 今から思えば、彼女の方は、そんな能力を有していないのではないだろうか? その代わり、普通の人間が持っていない能力が備わっている。

「10分後の彼女は、実に人間らしく、彼女ほど人間らしい人間はいない」

 ということであればあるほど、10分前の彼女は、それだけ、人間らしくないと言ってもいいだろう。

 しかし、

「人間らしさとはなんだろうか?:

 人間らしさというと、

「優しくて、頭がよくて、理性が利いて、思考に長けていて……」

 などと、いろいろ言えるのだろうが、ある意味逆ではないだろうか?

「ずる賢くて、悪時絵が働いて。嫉妬深くて、頭がいいと思い込んでいるくせに、その分、自分に自信が持てなくて……」

 そんなのが、

「人間くさい」

 というのが、一般的なのではないだろうか?

 そう思うと、今まで自分が感じてきた、

「人間くささって、どっちだったのだろう?」

 ということを考えさせられてしまう。

 つまり、優しさというのが何なのかということを考えていると、

「相手に迷惑をかけないことであって、それが相手のためになるのかどうかは、二の次だ」

 という考えを持つことでないかと思うことがあった。

 というのも、

「迷惑を掛けない」

 というのは、あくまでも、自分中心の考えであって、

「相手のためになることなのかどうか?」

 ということの方が、相手を思っていることであろう。

 本来ならこちらを優先させるべきなのに、優先させられないのは、自分の言い訳に正当性をつけるためだ。

 こうやって考えると、人間臭さというのはある意味は、

「自分がしていること、しようとしていることに、いかに言い訳を付けられるかということであり、それができるできないは、考え方一つなのではないか?」

 と考えてしまうのだ。

「言い訳のため、そもそも、人間臭さという言葉も、どこか言い訳っぽいではないか? 人間というのは、それだけ言い訳をするために生まれてきたようなものであり、それを人間臭さということ自体がいいわけであるという、ここでもまた、スパイラルを繰り返すのであった。

 そういえば、ドッペルゲンガーという言葉を最初に聞いたのは、いつ頃だったのだろう? 今から思えば、そんなに昔ではなかった。

 もし、子供の頃であったら、ドッペルゲンガーなどという難しい言葉、簡単に覚えられなかっただろうから、意識の中で、

「難しい言葉だ」

 というものは残っていたに違いない。

 その意識は確かになかった。あったとしても、2,3度聞けばすぐに分かったような言葉だったので、少なくとも、高校生以降だっただろう。

 そこまでは分かっているが、それが正確にがいつだったのか分からないということは、それだけ節目になるような時期のことを、自分で意識していないで、適当に生きてきたということなのだろう。

 中学時代は、引きこもりだったこともあって、そういう傾向にあったが、高校に入ってからは、そこまではなかった。

 高校は、自分の成績にふさわしいところに行けた。不登校だったのに、

「よく、合格できたな」

 とまわりから言われたが、別に不登校で、ゲームばかりしていたとはいえ、勉強をしていなかったわけではない。学校で習うくらいの勉強は、独自でもできたのだ。

 何とか成績にふさわしいだけの高校を受験して合格できたのは、自慢してもよかったのではないかと思う岡崎だった。

 高校に入ってからは、不登校になることもなかった。そもそも、自分を苛めていた連中は、自分よりもレベルの低い学校で、

「中学を卒業すれば、会うこともないだろうな」

 という思いもあって、不登校ながらに、勉強はしていたのは、そういうことも意識していたからだった。

 案の定、やつらは、程度の低い学校に行き、程度の低い連中とつるむことで、まともな高校生活など送れるはずもなく、今はどうなったかもわからない。

 どうせ、同窓会にも顔を出せるはずもないだろうから、皆、あの連中がどうなったのか、関心もないだろう。関心があるくらいだったら、もう少し、苛められている自分に対して見る目の違っただろうと思うと、傍観者に対しても腹が立ってきた。

 そうなると、キリがないだろうから、ここから先は余計なことになるわけで、考えないようにするのが一番無難なことだったのだ。

 中学時代と、高校時代はまったく違った毎日だった。何と言っても、

「学校に通学する:

 というだけで、まったく違うのだ。

 ただ、高校生になったからと言って、何かが変わったというわけではない。むしろ同じだからこそ、違う感覚がするのだった。

 高校に入ってから、ずっと暗い毎日が続いていた。これは、中学時代と違って、まわり全体が暗いということを感じるからで、中学時代との大きな違いはどこにあるのかということを考えていると、少し考えて分かってきた。

 中学時代は、基本的に、住まいによって、校区というものがあり、義務教育ということもあって、どんなに成績が悪かろうが、学校にはいかないといけない。

(岡崎のように不登校という場合もあるが)

 ただ、成績の良し悪しで、そんなに雰囲気が変わらなかった。それはきっと、

「いろいろな人がいて、仕方がない」

 ということが分かっていたからだろう。

 しかし、高校に入学すると、少なくとも、受験というものが存在し、そこでふるい分けが行われる。

 レベルの高い学校ほど、偏った生徒が固まるという傾向にあるのではないだろうか?

 あくまでも、

「レベルの高さ」

 というのは、学力のことであり、成績の良し悪しだけで決まるものだ。

 つまり、中学時代、いくら毎回トップの人間であっても、有名進学校に入れば、

「中の下」

 くらいでも、当たり前だったりするだろう。

 それまで、トップであるということを自慢に思っていたならば、きっと、

「天狗の鼻」

 をへし折られた気分になることだろう。

 鼻をへし折られたことで、自分が、どれほど無謀なことをしたのかということをその時になって初めて思い知るのだ。

 たぶん、

「合格ラインぎりぎりのところだから、無理せずにワンランク落とした高校を目指す方がいい」

 と担任に言われることだろうが、

「いえ、大丈夫です。チャレンジしてみたいんです」

 と言って、何とか受験をして、合格することができれば、その時点で、皆、ハチの巣を叩いたような騒ぎになるかも知れないほどの大事件であった。

「正直、難しいと思っていたんだけど、お前が合格するとはな」

 と親戚などから言われることだろうが、その時、本人や家族は。

「何とかすり抜けるようにしてでも、合格することができたんだから、よかったじゃないか」

 と言われることだろう。

 しかし、それは、

「合格することが、ゴールだ」

 というのであれば、それでいいのだが、実は、

「合格した時点で、スタートラインに着ける資格を持った」

 というだけのことであり、まだスタートラインにもついていないということになるのであった。

 あくまでも入試というのは、

「入学試験」

 のことで、合格することがゴールではない。

 入学してからが、スタートであり、受験という凌ぎを削ってきた連中が入ってくるのだ。考えてみれば、合格ラインぎりぎりだったわけなので、合格ラインが50点だとすれば、皆は70点以上くらいは、普通に取れる学力を有しているだろう。何しろ、無理してレベルの高いところを受験したわけではないのだ。無理をしているのは、こちらであり、自分の学力で、50点以上のこともあれば、50点を切る時もある。そういった時、今回の入試を受験するにあたり、考えることとすれば、

「知っている問題ばかりが、出てくれることを願う」

 という半分神頼みであった。

 何氏と、神頼みでもしないといけないほどの学力なので、それもしょうがないことではないだろうか。

 実際に死県を受けて、そういう意味で合格できたというのは運がよかったのだろう。

 下手をすると、自分のかわりに、合格するはずだった人が、その日たまたま体調が悪いか何かでテストができなかったのかも知れない。

 あくまでも、順当なところで考えて、自分は合格ラインぎりぎりだったと考えればいいわけで、そうやって考えると、合格できなかった人たちを切ってしまうと、自分が底辺であることは、疑う余地もないことなのだ。

 そんなことは分かり切っていたはずなのに、ほぼ奇跡と言われるくらいに合格などしてみれば、身分相応の気持ちではいられないのも無理もないことだろう。

 成績が悪かった連中は、もういないのだ。ふるいに掛けられて、ギリギリで踏みとどまった人間は、どこまで言っても底辺でしかないのだ。

 いつも、ギリギリのところで、ウロウロしている。成績が悪いからと言って、退学にならないだけましだというもので、試験があるたびに、補習を受けさせられ、

「補習で勉強したとしても、その場の月焼き場でしかなく、次の試験の時に役立つわけではない。あくまでも、このまま放っておけば、分からないまま進むことになるので、次回も土俵に上がれるだけの、最低限の補填をしているだけだ」

 ということなのだろう。

 だから、受験でギリギリの成績を突破して合格できたというのは、その時は、それでよかったのだろう。

 しかし、それはたまたまその時、合格できただけで、自分が劇的に頭がよくなったわけではない。それを過信して、頭がよくなったなどと思い込んでしまうと、実際に入学してから、まわりのレベルの高さと、今までの自分とを比較してしまって、

「そんなはずはないんだが」

 と、その時になってビックリさせられる。

 特に最初の一学期の中間テストなどで、それが顕著に出るだろう。

 そもそも、テストのレベルも中学までとは、全然違う。何しろ、普段の授業でも、

「俺は、普通に勉強していれば、簡単に合格点が取れるんだ」

 と思って、かなり甘く見ていた。

 しかし、他の連中は、貪欲に、成績を上げるための努力を惜しんでいない。そこに差が出てくるのだ。

 この差がどうして出るのかというと、

「目的の違い」

 というものから出てくるのだった。

 他の連中は、一年生の頃から、大学受験に焦点を合わせて、先々の勉強をするくらいのとは当たり前であった。

 高校の夏休みが終わるくらいまでには、一年生で習うことはマスターするくらいの意気込みでいたりする。

 高校もレベルに関係なく、同じ内容のカリキュラムなので、進学校になればなるほど、先に進むことは当たり前だろう。

 それを分からずに、

「一年生の間に一年生で習うことを習得すればそれでいいんだ」

 などという考えが、お花畑の発想であるということにまったく気づかない。

 しかし、実際には、そんな、

「当たり前の勉強」

 だけをしていれば、いつの間にか置いて行かれるのは必至であり、当たり前のことなので、先生もいちいち指摘はしない。

 それどころか、

「それくらいのことも分からないで、この学校でやっていけるというのか?」

 と思っているに違いない。

 これは、先生が悪いわけではない、先生の考えていることはもっともであり、実際にこれくらいのことが分からなければ、このレベルについてくることは不可能だといえるだろう。

 だから、なまじ、情けを掛けて、生徒に教えたとしても、それはあくまでも、

「その場しのぎにしかならない」

 といえるだろう。

 本人が自覚して、成績を上げることを意識しないでいると、成績が上がるどころか、ついていくこともできない。

 特に、ギリギリの人間にとっては、人の2倍も3倍も勉強しないといけないのだ。

 余裕があるはずなのに、高みを目指すということで、上しか見ていない連中の勉強量は、半端なものではない、そんなやつらの2倍はおろか、同じ量でもこなすことは絶望に近いに違いない。

 それを考えると、果たして、簡単に教えていいのかどうか、疑問でしかないだろう、

 特に進学校と言われるところは、正直、落ちこぼれた生徒を救済する必要はないと言ってもいいのかも知れない。

 本当はそれでいいのかどうか分からないが、現実問題として、

「だから、受験があるのであって、自分の学力にふさわしいところに言っていれば、何の問題もなかったはずだ」

 ということになるのだ。

 これは、結婚にも言えることではないだろうか?

 いわゆる、

「美女の野獣」

 と言われるようなカップルがいて、そのまま、結婚したとしよう。

 外野が見る限りでは、

「旦那がいつ、奥さんから愛想を尽かされるか見ものだな」

 などと、口の悪いやつはいうかも知れない。

 しかし、実際に考えてみると、本当に、この場合、旦那の方が不利だといえるだろうか?

 というのは、

 確かに、旦那は奥さんがキレイだと、浮気の心配を考えてしまうかも知れない。

ただ、旦那も、

「奥さんが浮気をするなら、俺だって」

 と思う場合もあるだろう。

 しかも、

「美人はすぐに飽きる」

 とも言われる通り、実際に手に入れてみると、

「なんだ、こんな程度か?」

 と思ったとしても、無理もない。

 成田離婚の中にはそういう人だって含まれているかも知れない。

 特に、奥さんのプライドが高い人だったら、

「私が結婚してあげたんだ」

 という意識を持っているとすると、夫の方も、

「何言ってるんだ。こっちだって飽きずに付き合ってやっているんだ」

 と思っている。

 お互いに相手に対してマウントを取っていると思っていると、お互いに自我が優先してきて、相手を思いやるという気持ちが失せてしまうことだろう。

 そうなると、もう、お互いが、

「交わることのない平行線」

 であり、離婚するというところまではいかないが、このまま、お互いにマウントの取り合いをする夫婦生活になるだろう。

 だが、これも面白いもので、中には、それを楽しんでいる夫婦もいるかも知れない。あくまでも、夫婦を続けているのが、波風を立てないという意味でいいのかも知れないが、そこに、

「マウント合戦」

 といってもいいような、ゲーム感覚の遊びができてくれば、それなりに飽きも軽減されるかも知れない。

 そのうちに、相手を見ているようで、見ていない状態になり、

「相手が何をしているかすら気にならない」

 ということになって、完全な仮面夫婦になることだろう。

 仮面夫婦も悪いことではない。結婚していれば、それなりに、いい面もあるだろうし、わざわざ離婚という面倒なことをする必要が、二人の間になければ、結婚というのは、ただの、

「暗黙の了解」

 というだけのことにしてしまえば、後は何をしてもいいだろう。

 どうせ、もうお互いに、嫉妬することもないだろうから、別に関係ないわ」

 と思うことだろう。

 嫉妬がすべてではないのかも知れないが、夫婦生活の中で、嫉妬すらしなくなったら、その時点で、

「仮面夫婦」

 というのは、当たり前のことになってくるだろう。

 お互いに不倫をしても、不倫相手に嫉妬することもない。そもそも、

「何で結婚なんかしたんだろう?」

 と思うが、離婚するつもりもお互いにない。

 意外と、

「美女と野獣」

 というオアターンには、そういうのが多いのかも知れない。

「離婚は、結婚の数倍きつい」

 と言われている。

 離婚するに際して、そのきつさというのは、精神的なものが多いだろう。

 まだ、お互いに、いや、どちらかに未練があったりして、

「やり直しができるのではないか?」

 と思うからではないだろうか?

 やり直しができないのであれば、結果として、早く別れた方が、お互いのためだったりする。

 これは子供がいる場合においても、同じで、一長一短なのかも知れない。

 子供がいれば、

「子供のために、別れない選択をできないだろうか?」

 と考える場合もあれば、

「もう復旧が不可能だとすれば、早く離婚して、お互いに新しい人生を踏み出す決意をするべきだ」

 ということになるだろう。

 若ければ若いほど、やり直しの機会は増える。逆にいうと、

「それだけ、離婚回数も増えるともいえるだろう」

 ということになる。

 昔なら、

「バツイチ」

 というだけで、恥ずかしくて表を歩けないなどと言われた時代があったが、今では、

「バツイチくらいは当たり前。却って、拍が付くくらいだ」

 と言われる世の中になっていたのだ。

 それは、社会の、

「終身雇用制」

 というものと同じで、離婚も、どこか、転職に近いものがあり、結婚したらそれで終わりというわけではない。ダメな相手とはすぐにキレて、新しい相手を見つけることが大切だったりするのである。

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