第5話 10分後の女
最近になって岡崎は、心療内科に通うようになった。それまでは、カウンセリングを受けることもあったが、それ以上のことはなかった。
買うセリングを受けるようになったのは、28歳くらいの頃からだっただろうか? 何をするにも面白くないというのが、その理由で、最初、カウンセリングで聞いた話としては、
「精神的に飽和状態なのではないか?」
ということだった、
「どういうことですか?」
と聞くと、
「満たされすぎて、感覚がマヒしているようなことはありませんか?」
ということだったのだが、正直、そんなことはまったくなく、何よりも、
「満たされている」
と思われることが、辛かったのだ。
「満たされているって、そんなに俺は、幸せなんかじゃない」
というと、
「例えば、趣味を何かしていて、充実していても、満たされているということになるんだよ。趣味をしていなくても、満足できていれば、それがもし、マヒしている感覚だったとしても、それは、飽和状態にあると言えるんだ。ひょっとして、間隔がマヒしていると思うことが最近はあるんじゃないかい?」
と言われた。
「うーん、そういわれて考えてみるんですが、そんな感覚はないですよね?」
というと、カウンセラーも、
「どういえばいいのか?」
と考えているようだった。
自分では、まったく満たされているわけではないのに、あたかも満たされているというようなことを言われると、正直、心外な気がする。
満たされてもいないのに、満たされているなんて、それこそ、ストレスが余計に生まれる結果にしかならないだろう。
それを思うと、自分が期待していることをまったく相手が考えていないということが、どれほど虚しいことなのか、分かった気がする。しかも、相手が、心理を読む専門家といってもいいようなカウンセラーであれば、余計にそう感じてくる。
となると、今度はもう一つ先にある、
「神経内科」
なるところは、さらなる敷居の高さを感じさせるのではないだろうか?
カウンセラーのような、精神的な相談員に対しても、そのような苛立ちを覚えるのだから、専門家だと思っている神経内科の先生が、期待にそぐわない内容の話をしてくれば、何を信じればいいのだろう、
もっとも、相手が言っていることが正しくて、自分が間違っているという風に考えさえすれば、もう少し気が楽になるのに、どうしても、それができないのだ。
つまりは、
「自分を信用できないのに、どうして他人が信用できるというのか?」
というのが、強く意思に影響しているのである。
だから、神経内科の先生に、自分が考えていることと違うことを指摘されると、
「最後の砦」
である、神経内科に裏切られた気がして、
「じゃあ、一体次はどうすればいいのか?」
と、四面楚歌に陥った気がして、逃げられない状況に追い詰められた気がしてくるだろう。
そんな状況になりたくないからという理由での神経内科の利用なのに、完全に、
「ミイラ取りがミイラ」
になってしまい、どうすることもできなくなり、
「本末転倒もいいところだ」
と感じてしまうに違いない。
それでも、何とか、カウンセリングを聞いていると、結局、
「神経内科の受診をお勧めします」
ということになってしまった。
カウンセリングを受けていた時間、
「もったいない」
という思いもあったが、それよりも、
「神経内科に行くまでの、ワンステップと考えればいいのではないか?」
と思うことで、自分自身への慰めになる気がするのだった。
神経内科にいくと、最近では、
「少々、病が進行してきていますね」
と言われるようになった。
明らかに、面談の時に話す、岡崎の話の内容を、信じてくれていないのは、露骨に分かる。
「何で信じてくれないんですか?」
と、最初の頃は必死になって話したが、先生は聞く耳を持たない。
あたかも、
「そんな話を信じろとでも?」
といっているようで、明らかに、
「精神病に犯された岡崎を、先生が何とか治療して治そうとしている」
という構図が出来上がってしまっていたのだった。
そんな構図の中に押し込められている姿を、自分で想像している。
それは、まるで、箱庭に取り残されたように思うのだが、その箱庭の上から、もう一人の自分が覗き込んでいる。覗き込んでいる自分の意識も、覗かれている自分の意識も、両方持っているのだった。
だが、岡崎は、自分が平衡感覚を持てないのは分かっていた。
この場合の平衡感覚というのは、
「左右で別々のことをやっていても、器用にこなせる」
というようなことである。
それが顕著なのは、楽器ではないだろうか。
ピアノにしても、ギターにしても、左右でまったく別の動きをしているのに、ちゃんとできている。それが自分にはどうしてもできないと思っていた。
だが、それなのに、普通自動車の運転免許証は持っているのだ。
「車の運転は、左右で別々の動きをするのに、よくできているよな」
と思っていた。
そもそも、自動車学校に通う時、自分が一番懸念したことは、
「左右でまったく違う動きができるだろうか?」
ということだった。
案の定、最初はまったくうまく行かず、エンストを繰り返したりしていた。オートマ教習なのにである。教官からは、
「オートマ教習でこれなんだから、マニュアルだったら、とんでもないことになっていたかも知れないね」
と、言われ、少しへこんでしまったが、
「まあ、そうはいっても、君よりももっとひどかった人たちが、皆ちゃんと卒業して、免許を取っていくんだから、面白いよね」
というではないか。
「どうして、皆免許が取れるんだろう?」
と聞くと、
「それは慣れのようなものだと思うよ。そして、どこかのタイミングで、見に着く場面が絶対にあるんだよ。それまでまったくできなかったものが、漠然としてだけど、できるような気がすると、ある時のきっかけでできるようになるだろう? それって、自転車に乗れるようになる時と同じなのさ。自分が自転車に乗れるようになった時、どうして、自転車を運転できるか気づいたことがあったかい? それと同じことだよ」
という。
確かに言われてみれば、そうだった。
もちろん、乗れるきっかけが分かってからが早かったのだが、確かに慣れだったような気がする。
ひっくり返りそうなところを何とかこけずに進むことができるのも、慣れと、理屈を身体が理解したからではないかと思うのだが、今から考えても、それに間違いはないに違いない。
自転車に乗るのと、車とでは、まったく違うのかも知れないが、たぶん、車の免許を取得した時、
「自転車に乗れるようになった」
というその瞬間を思い出すに違いない。
岡崎がどうして、神経内科に通うようになったのかというと、付き合い始めてから、半年が経つ彼女に対して、疑問を持つようになったからだ。これまで、特に中学時代くらいまでの自分が、どれほど情けない人間だったのかということを顧みるようになってから、自分に彼女ができても、長続きしないのは、
「その頃の性格が表に出てくるからではないか?」
と思うのだった。
高校生から、大学生になる頃になると、中学時代までの自分が、情けない性格だったということを痛感するようになる。そして、これからの自分は、その遅れを取り戻さなければいけないと思うようになってきたのだ。
その頃の自分が、いかに情けなかったのかということを、いつも肝に銘じるようにしていた。
ただ、そればかり考えていれば、
「過去から逃れようとして、過去の呪縛に襲われるのは、自分がどうしようもない男だということを考えすぎるくらいに考えてしまうからではないだろうか?」
と感じる。
理屈では分かっているつもりであった。
考えすぎることは、自分を呪縛に押し込んでしまうということをである。
しかし、そうでもしないと、自分が過去をいさめようとしていることにならず、
「過去からの呪縛をとくには、自らで入り込んで、その腹を破って表に出るくらいの気概がないといけない」
と、感じていたに違いない。
さて、そんなことを考えていると、彼女ができない理由が、自分の性格にあることは、もう明白であった。
だからと言って、すぐに自分の性格を変えられるわけもなく、女の子と仲良くなりたいと思っても、二の足を踏んでしまうのだ。
まずは、
「何を話していいのか分からない」
というところから始まる。
これが、まだ中学生くらいで、まわりも皆、発展途上であれば、問題もないのだろうが、まわりは皆大人になっていて、自分だけが、子供でもないという状況が、垣間見えてくると、何をどうすればいいのか、おのずと分かってくるというものである。
だが、それが、その時には分からなかった。
何かを話さなければ、何も始まらない。
そのことを意識しすぎてしまうのだろう。
しかも、
「会話の主導権は、男性にあるのが当たり前だ」
という考えをずっと持っている。
「そんな考えは、まるで昭和の古臭い考えだ」
と、これが自分に関係ないことであれば、簡単にそう思うに違いない。
だが、そう思いきれないのは、
「自分が、必要以上に考えすぎるからだ」
と、落ち着いて考えれば分かることのはずなのに、気づかないのだ。
それは、自分のそれまでの経験で培われてきたものが、すべて反省と屈辱によるものだと感じているからではないだろうか?
反省は当たり前のことであるが、屈辱とは何であろうか?
いくら他に思い浮かばないからといって、必要以上に目立ちたいと思うと、そのパフォーマンスは、間違った形での表現になるということを分かっているはずなのに、実際には、思い込みに頭が引っ張られてしまうのだ。
間違っていると分かっていても引っ張られるその感覚は、
「気持ちの中に、余裕という、遊びの部分がまったくないからなのかも知れない」
と感じるのだった。
あれはいつのことだったか、大学に入学して、高校卒業を迎えるだけだった、精神的に最高に有頂天だった頃、友達と出かけた旅行があったのだが、まだお金もあまりない時期だったので、安い宿に、宿泊し、予定もその日に決めるという、
「行き当たりばったり」
の旅をしたことがあったが、そこで知り合った、女子大生のお姉さんがいたのだが、彼女たちは、一年生で、年齢も一つ上ということだったが、相手が大学生ということもあってなのか、一つしか違わないのに、
「五つは違う」
と感じるほどであった。
こちらは、二人、相手も二人、それぞれ二人旅ということで意気投合し、四人でいろいろ観光することになった。
元々、自分の友達と、相手のうちの一人は、それぞれに、、リーダーシップがしっかり取れる人だったので、自分ともう一人の女の子は、ただ従っていればいいだけだった。
とはいえ、岡崎は、男である。したがって、女の子が何をしてほしいのかということを、察して、優しくフォローしてあげなければいけない立場であった。
ただ、それがプレッシャーとなって、余計な気を遣ってしまうことで、またしても、
「遊びの部分」
がなくなってしまう。
そんなことを考えていると、それこそ何も言えなくなってしまって、最期には、自分が逃げ出したいと思っても、牢屋に入れられた気持ちになった。
しかし、彼女の方はというと、表に出ていて、自分が苦しんで、結局檻から抜けられなかったことをまったく知らないかのように、ニコニコしているではないか。
「さっきまでのあの暗い雰囲気はなんだったんだ?」
と、せっかく彼女のために、できもしないことを何とかしようと思って頑張った挙句、最期には、自分だけが取り残され、置き去りにされてしまったことに気づいた時には、もうどうにもならなかったのだ。
「こんなことなら、相手のことを考えず、自分のことだけを考えればよかった」
と思ったのだ。
そして、
「その方が、自分らしいではないか」
と思うと、
「もう、これからは人のためになんて思わずに、自分のことだけを考えるようにすればいいんだ。どうせ、嫌われたって、結局相手のために何もできなければ、結果は同じなのだから」
と考えるようになった。
「第三者の目で見れば、どうやったって、自分勝手にしか見えないのであれば、自分が苦しまなくてもいいように、敢えて、自分勝手を貫けばいいではないか」
と思うようになった。
「人に迷惑を掛けないようにしないといけない」
と口では言っているが、そんなやつに限って、自分中心なのである。
だが、それも間違ってはいない。
人のために何かをしようとしても、人それぞれで、価値観も違えば、何をしてほしいのかということも違っている。それを、一緒くたに考えてしまうと、想像していた結果が違った形で出てしまうことも、往々にしてあることだろう、
結局その時、一緒にいた女の子と、ずっと平行線のまま、歩み寄ることはできなかった。
相手も、まるで、
「近寄らないで」
といっているかのように見えていて、近づけば、お互いに、電流が走って、弾き飛ばされるかのように感じたのかも知れない。
そうなると、近づかない方がいいに決まっている。ただ、そこに残ったのは、やるせなくも、果てしない、
「無為な時間」
だけではないだろうか?
そんな時間というのが、果たしてどれほその長さのものなのかというと、
「もう、一時間くらいは経ったような気がするのに、5分しか経っていない」
というくらいの差なのではないだろうか?
そう、時間の感覚というのは、皆さまざまなのだ。しかし、必ず、相手とその時間を距離にすると、
「それ以上もそれ以下も近づくことのできない平行線が、結界として、そこに横たわっている」
と考えられるものが存在しているのだ。
それが、今付き合っている彼女であり、彼女をそんな風にしてしまったのは、
「かつての、自分が、招いた呪縛なのではないか?」
と思うと、もう逃げることができないと感じ、それがプレッシャーからトラウマになり、カウンセリングから、神経内科へと、エスカレートさせることになるのだった。
今年になって特にその思いが顕著になってきたのは、
「彼女には、もう一人の彼女がいるのではないか?」
と感じるようになったからで、この思いが始まったのはいつからだったのか? 意外と知り合った時からだったのかも知れない。
そもそも、
「彼女が二重人格なのではないか?」
というところから始まった発想だった。
それは、別に普通にある発想で、別に珍しいことではない、むしろ二重人格であるのは、
「彼女であるがゆえに、困ること」
という感覚であった。
だが、それは、まったく違った。違ったということを感じてから、
「どうして二重人格だなんて思ったんだ? そっちの方がまだマシだとでも思ったのだろうか?」
たった今、
「二重人格というものが、彼女であるから嫌のだと感じたはずではないか?」
と思ったのだ。
ということは、二重人格でもいいから、という考えが心のどこかにあったということなのか?
彼女は、二重人格どころか、性格的には、まったく同じなのだ。気持ち悪いくらいに同じなのに、なぜか、同一人物には見えないという、ある意味、二重人格よりも恐ろしいといえることなのではないだろうか?
二重人格であれば、それこそ小説の、、、
「ジキルとハイド」
のように、同じ人間の中に、二つの人格がいることで、引き起こされる悪夢という、フィクションではないか。
実際には起こりえないことであり、実際に起こったなどという話を聞いたことがない。
確かに猟奇殺人を平気で犯すような人間は、すべてが二重人格なのだろう。彼らだって、最初から殺人鬼だったわけではない、ある日突然に、二重人格が目を覚まして、覚醒したのかも知れない。
だから、あんな風に乱れてしまって、結局、悪魔を作る出す結果になったのではないだろうか?
それを思うと、
「こんなことはフィクションでもなければ起こりえない」
といえるのだろう。
だが、そんな彼らだって、成人して、殺人が犯せるまで、何もせずに、必死に我慢してきたということか?
それならば、どうして、もう少し我慢して、死ぬまで我慢しきれないのか?
と思うが、これが本人の運命であり、巻き込まれた人も、すべて運命だということで片付けて、果たしていいのであろうか?
ただ、その時までは、必死で我慢できても、我慢できない結界があり、その瞬間、我慢の限度を超えたといってもいいだろう。
彼は、結界を超えるだけの力を有した。そして、結界を超えることで、売り渡した魂が開放され、一気に思いのたけをぶちまけたのだ。
その後、彼がどうなるのか? どっちにしても、このまま生きていることはできないだろう。
人間に駆逐されるのか、それとも、自らで命を絶つのか、それとも、もう一人の自分に殺され、もう一人の自分は自殺をすることになるのか、
「俺も死んでやるから、お前も観念しろ」
とでも言われるとすれば、それは、一番最後のことであろう。
それを思うと、
「やはりこれは絵に描いたような話しか思い浮かばない、フィクションの域を出ることはない」
ということになるだろう。
となると、彼女は二重人格などではなく、逆の見方として、
「ドッペルゲンガーのような発想のものだ」
といえるのではないだろうか?
「まったく同じ人間が、同じ次元に存在している」
という発想であるが、ただ一つ言えるのは、
「その二人が遭遇してしまうと、ドッペルゲンガーではない、本人が死んでしまうことになる」
といえるのではないだろうか?
ただ、この発想は、二重人格の
「ジキルとハイド」
の発想よりも、可能性は低い、ダントツで低いといってもいいだろう。
この時思い出したのが、以前に読んだ、
「10前の自分」
という小説だった。
彼女が、
「その10分前の女という話のモデルではないか?」
というような発想を持ったのだった。
確かに彼女は、さっきとは、まるで違う人物のように感じられることがあったが、なぜそう思うのかというと、
「たった10分しか経っていないのに、まったく覚えていないことがある」
からだったのだ。
「ん? 俺と似ているのか?」
と最初は思った。
岡崎も、たった10分とはいえ、記憶を失うには、ありえない時間ではなかった。
だが、それも、よほど精神的に疲れていたり、状況がそういう雰囲気を作り出さなければ、記憶を失くすなど、なかなかできることではない。
しかも、それが意識的であることは不可能だった。そういう意味でも、
「限りなくゼロに近い可能性」
でなければいけないのではないだろうか?
そんな状況が、身近な人に起こるというのは、あまりにもできすぎていることであり、ひょっとすると、
「自分だけが、考えていることであって、本当なら、他の人にも起こっていることであり、そのことを知らないのは、自分だけなのかも知れない」
という飛躍した思いまで持っているくらいだった。
だが、さすがにそれもないだろうと思い、すぐに否定したのだが、どこまで信憑性のあることなのか、自分でも分からなかった。
そう思うと、自分が覚えられないということと、彼女が覚えていないということは、別の原因が考えられるのではないかと思う。
ただ、これも、逆に、
「そんな稀な現象が、頻繁にいくつも存在しているというのもおかしなことではないだろうか?」
とも思えたのだ。
確かに、人の記憶というのは、ある意味、
「消耗品だ」
といってもいいだろう。
星と星の間が、等間隔であったとして、宇宙におけるその2星間の距離を第三の星から、見ているとすれば、距離が近い時と、遠い時で、まったく違った感覚になるというのを、考えてしまう。
二つの星が、普通の距離だったとして、その梁上の星に同じくらいに極端に近い星だったとすると、その二つの星は、
「結構距離があるのではないか?」
と思うだろう。
しかし、その二つの距離から、相当遠くに第三の星が存在しているとすれば、その二つの距離は、ほとんど変わらないように思うのではないだろうか。
この発想は、人間にもあることだ。
たとえば、15歳と25歳という10歳の年齢差がある人がいるとして、30歳から見ると、15歳と25歳であれば、かなり遠い年齢に感じられる。
しかし、自分が、60過ぎてから、この二人を見ればどうだろうか?
「ほぼ同じ年齢」
とまではいかないまでも、
「30歳から見るよりはかなり近くに感じられる」
と思うに違いない。
なぜ、こんな感覚になるかというと。
「自分が、15歳も25歳も経験していて、それを通り過ぎてからの今まで歩んできたことを分かっているからだ」
といえるのではないだろうか?
実際の距離感の錯覚もあるだろうが、何よりも、
「自分が経験してきた」
という経験値というものが、大きな影響をもたらしているのである。
それを思うと、年齢差というもの、それに伴う錯覚、そして、経験値。それぞれ、さまざまな考えが入り混じって、答えが出ているのであろう。
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