第4話 座敷わらしの呪縛
子供の頃から、思春期までの間、結構とんでもない少年時代を過ごしてきたといってもいいだろう、
それは決して褒められたことではなく、ロクでもないことである。
苛めに遭っていたりして、不登校から、引きこもりになった。
その時、自分の二重人格性を実感したのかも知れないと感じたが、とんでもないことの中には、事実として列挙するようなこともあれば、
「事実かどうか分からないが、自分の中での、ターニングポイントになったかも知れない」
というようなことも、同時に起こっているのだった。
一つのことが同時に展開することで、
「二重人格になった」
と感じたのかも知れない。
もう一つは、
「都合の悪いことは忘れてしまう」
ということであった。
その内容を忘れるというよりも、その事実自体を忘れてしまうのだから、たちが悪いといってもいいだろう。
そのせいで、宿題をいつも忘れていた。忘れてしまったことで、親にバラされることが怖くて、必要以上に親の行動が怖かった。
苛めに遭っていたことも、親に知られたくはなかった。下手に親に騒がれると、
「せっかく、静かにしておいて、波風を立てずに、うまく嵐が去ってくれることを願うしかなかった」
のである。
だが、大人の理屈では、それを許してはくれないだろう。
いじめっ子から逃げて、不登校になり、引きこもってしまう。子供はそれで、嵐が去るのを待てばいいと思うのだろうが、それを許してくれないのが、岡崎の母親だった。
あれば、一度、学校から帰る時、筆箱を学校の机の中に忘れて帰ったことがあった。
これは、都合の悪いことを覚えていないこととまったく関係のないことであったが。その時、まだ、小学三年生だった岡崎は、母親の命令で、学校まで筆箱を取りに行かされたことを思い出した。
「学校で持って帰らなければいけないものを忘れてくれば、取りに帰らなければいけないのは当たり前のことである」
と思い込まされていて、実際に学校にまで取りに行かされることを苦痛でしかないのに、当たり前だと言われるのは、どこか、理不尽な気がした。
まったく遊びの部分がないことであり、それは母親の個人的な考えの押しつけでしかないということを分かっていなかった。
「母親の行っていることは、当たり前のことであり、それに逆らうというのは、許されないこと」
という考えで、
「嫌なら、学校から持って帰るのを忘れないようにすればいいだけのこと」
なのだが、それが簡単にできるくらいなら、苦労はしない。
押しつけはプレッシャーとなって、トラウマになることで、遊びの部分がないことが、いかに辛いことなのかということを、思い知らされるということであろう。
母親には、子供をプレッシャーで追い込んで、そこから先、トラウマを起こさせ、精神的なゆとりを奪うことが、いかに子供を堂々巡りに追い込むかということを分かっていないのだった。
それが自分に遺伝したのだろうか?
例の障害者の友達に対して、自分が心無い態度を取ったことを、まわりは冷めた目で見ていたことを思い出させる。
「空気が読めない」
ということになるのだろうが、自分では、後になって冷静に考えれば、自分の何が悪かったのかということが分かるのだった。
だが、これも不思議なことに、
「もう一度同じようなシチュエーションがあっても、また同じことをしそうだな」
と感じた。
これも、
「都合の悪いことは忘れてしまう」
ということに結びついてくるのだろう。
つまり、
「自分の悪いところというのは、それぞれ、キーポイントのところで結びついているのかも知れない」
ということになるのであろう。
そんな岡崎だから、彼女がいても、長続きしない。
「岡崎さんって、最初は人当たりがいいんだけど、話をしてみると、ハッキリしないし、付き合っていると何を考えているか分からないことが多いのよね。前と態度が違うというか」
ということを言われていた。
前と態度が違うというのは、肝心なことや、都合の悪いことを忘れているので、態度が違っているように見えるのだろう。
しかし、本人は気づいていないようだが、普通はそういう風には見てくれない。
「あの人は二重人格だ」
と思うか、
「他の女の子と勘違いしているんじゃない?」
と、二股、あるいはそれ以上しているのではないかということを考えるであろう。
人と話したことを忘れているくらいのことは、一度くらいなら、愛嬌というものだが、それが何度も続くと、さすがに女の子も、そんなに忘れっぽいとは思わないだろう。それよりも、何か相手の思惑を探ってみたくなる。それは二重人格性を隠そうとしているという思いであったり、二股を掛けられているという思いであったりするのだ。
そう思い始めると、岡崎の方も、
「あれ? 俺のことを信用してくれてないのかな?」
と感じるようになる。
すると、
「まただ。今までみたいに、俺のことを、変な目で見てくるんだろうな」
と、かつてのうまく行かなくなった時のことを思い出してくる。
すると、実際に判で押したように、いつものパターンにもぐりこんでしまうのだ。
というのも、相手がぎこちなくなり、それがまるで自分を探ろうとしているようで、何に疑惑を感じるのか、岡崎には分からない。
「俺って、一体どんな風に見えているのだろう?」
と余計なことを考えてしまう。
考え始めると、余計な方向に向かっても、どうすることもできなくなる。
というのも、相手が、自分の浮気を疑っているかのように見えるのは、きっと二股を女の方で考えるからで、これが一番、発想としての距離が近いのかも知れない。
しかし、だからと言って、自分のことが好きだといってくれたわけではないので、付き合っているといっても、お互いに拘束力はないのだが、自分は浮気などできない人間だと思っている岡崎は、相手に浮気を疑われるのは、実に心外なことだった。
少なくとも、よほど嫌いな相手ではない限り、岡崎は受け止めることにしている。
「自分を好きになってくれるなんて、高尚な女性を、好きにならないなんて、それはおかしいというものだ」
という考えを持っていた。
それが、女性にとって、
「誰でもいいって言っているようなものだ」
ということになるとは、思ってもいなかっただろう。
そう、岡崎は、自分に都合よく考えるところがあった。
都合よく考えることで、知らぬ間に相手にプレッシャーを与えたり、相手を縛っているかのように感じているということに、自分で気づいていないのだ。
岡崎は、本当に自分のことが分かっていない。だから、簡単に覚えられるようなことを簡単に忘れるのかも知れない。
自分のことが分かっていないということは、それだけ自分に自信がないともいえるだろう。
そう思っていると、自分に自信がないことを、相手は、
「それって、私のせいかしら?」
と、自分を責めることになってしまう。
普通なら、そんな感情になると、相手がすぐに重たく感じられるようになり、プレッシャーの原因が彼にあることに、気づくようになるのだ。
そうなると、もう付き合ってはいられない。それでも、彼に本当のことを告げるのは酷な気がするので、やんわりと断ることになるのだが、断り方が皆同じなのは、
「そういう断り方しか、選択肢がないからではないか?」
と感じるのだった。
岡崎の学生時代などは、好みの女の子が他のやつとかぶったことがなかった。皆が、
「キレイだ」
といって、我先にというような女性を、岡崎は相手にしなかった。
「俺はキレイ系というよりもかわいい系だからな」
といっていたのだが、それも、ロリコン系が大好きだった。
とは言っても、さすがにランドセルをかるった女の子を相手にするようなことはないが、制服を着ている中学生であれば、十分ストライクゾーンだった。
さらに、岡崎は、ぽっちゃり系の女の子が好きだった。普通のぽっちゃりというよりも、
「幼児体系」
が好みだったのだ。
それは、高校生の頃くらいからのことで、それまでは、自分の好みがよく分かっていなかったので、どういう女の子が好みなのか、分からなかった。
だが、小学生の頃の女の子というのは、女性らしさを感じなかった。男の子と一緒に遊んでいても違和感はなく、どちらかというと、
「男の子に負けたくない」
といった感じの、おてんばな女の子が多かった気がする。
それは、岡崎の小学生時代が、まわりに対していつも遠慮をしていて、目立とうなどという意識もなかった頃だ。もしそんなことを考えていたとすれば、中学時代に苛めに遭うこともなかったのかも知れない。
中学時代というのは、自分が苛められるようになった理由の一つとして、
「目立ちたいと思うようになったからではないか?」
と思うようになった。
それは、無意識だったのだろうが、まわりの女の子に、格好いいところを見せたいという意識があったからではないかと思った。
それが思春期の感覚であり、ただ、この思いは本当であれば、
「小学生の頃に感じていてもよかったのではないだろうか?」
と感じたのだ。
小学生の頃は、まわりも皆背伸びしていた。
女の子でも、
「男の子に負けたくない」
と思って、露骨に挑戦的になってくる。
そんな女の子を、まだ思春期にも入っていない岡崎が、意識をするはずもない。むしろ、自分から遠ざかりたい気分になって不思議ではない。
だから、小学生時代に、女の子といっても、別に異性だという意識はなかった。ただ、
「男の子は、女の子をいたわらなければいけない」
と先生から言われてきた。
だから、
「女の子というのは、か弱いもので、男が助けなければいけないものだ」
と思い込んでいたが、その実、
「クラスの女の子がおかしいのか、これのどこがいたわってやらなければいけないんだ?」
と感じていた。
確かに、小学生の頃の女の子であれば、いたわる必要などなかったかも知れない。
成長も男子よりも早く、身長もあっという間に背が伸びていて、自分よりも背の高い女の子が多かった。
中学に入ると、そんな女の子が、急に変わってきた、最初は、
「制服を着ると皆、おとなしくなるんだろうか?」
と、制服に魔力でもあるのではないかと感じたほどだった。
だが、実際にはそんなことはないのだが、見ているこっちの方が、何か意識をしてしまう。
「この間までランドセルをかるっていたのにな」
という意識である。
確かに、成長が早く、身体の発育も、もう大人に近いように見えていた女の子も、
「制服を身にまとうと、成長が違う段階に入ったのだ」
と感じるようになった。
髪型も落ち着いて見えてくるし、おしとやかに感じられるようになったのだ。
中学に入ると、今度は、男の方の成長が、顕著に見えてくる。
しかも、明らかに、異性を意識していることを感じるのだ、
ただ、その頃には、まだ、どんな子が自分の好みなのかということが確定しておらず、ただ、自分が、異性を意識するようになったことを感じるのだった。
それが、高校時代から、制服の女の子に興味を持つようになった。最初は、お姉さんっぽい子が好きで、大人しめの女の子を気に入っていた。その元祖は、小学生時代にさかのぼる。
あれは、小学三年生くらいの頃だったか、異性というものを意識するわけでもないのに、女の子の友達ができると、結構、その子と一緒にいることが多かった。
男の友達からは、
「女の子と一緒にいて、軟弱なやつだ」
と言われたものだが、岡崎は、そんなことはないと思っていた。
何を言われても、その時の、その女の子と一緒にいるのがよかった。別に楽しかったというわけではない。気持ちの上で何が一番近かったのかといえば、
「ホッとした気分になれる」
というところだっただろうか?
ただ、その気持ちもハッキリしたものではなかった。
「言われてみれば、ホッとするという気分に近い」
ということであって、自分でも、分かって感じていることではなかったのだ。
そんな岡崎だったが、その女の子に対して、子供の頃でも、
「少し異常なのではないか?」
と感じるようなことを思っていた。
思春期になれば、悩むに十分な性格で、
「異常性癖」
といってもいいくらいのものだったに違いない。
というのも、その性癖というのは、
「逆らうことのできないおとなしい女の子を、自分の言う通りに聞かせること」
だったのだ。
といっても、子供の世界のことなので、
「SMのような主従関係」
というわけではない。
ただ、自分がしてほしいというようなことを望んでいて、彼女がその通りにしてくれるのが嬉しかったというだけのことだった。
しかし、彼女は決して、岡崎の意にそぐわないことはしなかった。
「俺が考えていることを、いつもしてくれる。逆らうなんて彼女からはありえないことだ」
と思っていた。
「もし、逆らったなら?」
などということを考えたこともなかった。
それだけ、全幅の信頼を置いていたのだ。
「これが、いわゆる主従関係と言われるものなのだろうか?」
と考えたが、それは違った。
というのは、岡崎の中で、絶対的に、自分に自信を持っているわけではない。むしろ自分に自信がないから、そんな自分に従ってくれる人がいるというだけで、
「ひょっとすると、俺って自信をもっていいのかな?」
と感じたいがためだけに、従者を必要としているのだとすると、この主従関係は、
「主従関係に見えてはいるが、主人がこんなにポンコツでは、先が見えている」
と感じるとすれば、それは当の本人ではないだろうか?
彼女は、本当に無口な女の子だ。だからこそ、格好の従者だったのだ。もし、彼女が口を開けば、少しずつ従者ではなくなっていく、口を開くということは、その一言一言に意思がハッキリしていることが分かってくるので、徐々、従者ではなくなってくる。
岡崎にとって、それが一番、恐ろしかったのだ。
だから、もし、彼女が口を開こうとでもしようものなら、必死になって、その口が開くのを阻止しようとすることだろう。
いかに、口を開かせないようにするかを考えると、本当であれば、考えたくもないことを考えなければいけなかった。
なぜなら、その必死さには、主人としての尊厳も何もかもない状態で、ただ、口を開かせないようにするために、必死になっている姿は、
「なんと情けないものか」
と自分で思うに違いないからだった。
幸いにも、彼女が口を開くことはなかったのだが、それなのに、どうしてそれ以降も彼女との間が続かなかったのかというと、
「俺が見捨てたんだ」
と、いうことだったのだ。
あれだけ、自分の考えに絶対だと思い、一緒にいればいいるほど、その気持ちを裏付けることになっていくのを感じていたのに、そんな彼女を、どうして見捨てるようなことになったのかというと、これこそ、岡崎のわがままでしかないのだが、その理由というのは、
「彼女が、髪を切ってきた」
ということからだった。
一緒にいる間、彼女が散髪にいくことは、当然あった。
そのたびに、短くなってきていたので、短くなった彼女の顔は見慣れているはずだったのに、その時は、何か自分の中で、音を立てて崩れるものがあったのに気づいたのだ。
実際に、崩れる音も聞こえたかのように思えた。
その一番の理由は、彼女が髪型を、
「おかっぱ」
にしてきたことが大きかったのだ。
おかっぱが悪いわけではないのだが、おかっぱにしてきた彼女を見た時、急にゾッとするものを感じた。
確かにおかっぱは悪いわけではないのだが、好きでもなかった。だから、好きでもない髪型にしてきた彼女に対して、急に冷めた感情になったのだったが、その理由として、
「まるで、初めて、この俺に逆らったかのように思えた」
というのが大きかったのだ。
無言の圧力のようなものがあった。完全に、
「マウントを取られた」
という感覚があったのだ。
おかっぱというと、想像したのは、
「座敷わらし」
だった。
ちょうど、座敷わらしの話を聞いた頃だったこともあって、本当にとっさに感じたのだった。
ただ、座敷わらしというと、本来はいい妖怪で、
「座敷わらしのいる家には、繁栄がもたらされる」
という。
しかし、
「座敷わらしがいなくなると、その家は一気に没落してしまうことになる」
ということだったが、その話を聞いた時、座敷わらしの本当の恐ろしさを感じさせられたのだ。
というのも、座敷わらしのおかげで、裕福になったのはいいのだが、いなくなると、一気に没落するということは、それこそ、天国から地獄に叩き落されることになり、想像しただけでも恐ろしい。
「どうせ、叩き落されるのであれば、なまじいい夢なんか見させることはないんだよ」
という気持ちにさせられる。
そういう意味で、座敷わらしというものの、本当の罪深さ、そして恐ろしさが、そこに潜んでいると、話を聞いたその時に、すでに感じていたのだ。
ということは、
「いい妖怪に見せかけて、これほど恐ろしい妖怪はいない」
と思わせたが、それこそ、
「天国を見せておいて、奈落の底に叩き落すというその所業にピッタリではないか?」
ということである。
つまり、座敷わらしのように、いい妖怪と思わせておいて、実は恐ろしい妖怪だというようなことは、世の中には結構あるのだろう。
子供心にそのことを思い知らされたかのように感じたのだ。
「妖怪というものが、どのようなものなのか?」
ということを、他の妖怪では、考えようともしなかった。
「摩訶不思議な魑魅魍魎を、妖怪というのだ」
と思っていたからである。
しかし、座敷わらしのように、
「妖怪なのに、人間を助けてくれる妖怪は、本当は神なのではないだろうか?」
という人がいる。
しかし、その一方で、座敷わらしのことを、神だという話は聞こえてこない。。それどころか、恐ろしい妖怪として語り継がれているものの方が、神伝説が残っていたりするではないだろうか?
そういう意味でも、座敷わらしに対して、
「最初は、いい妖怪だと思っていたのに」
という感覚があったが、実は違っていた。
「ひょっとすると、最初から、恐ろしい妖怪だ」
という感覚を、ずっと持っていたのかも知れない。
そんな風に思っていると、座敷わらしのような髪型になってきた彼女が、急に怖くなってきたのだ。
本当であれば、
「許せない」
という方が先でければおかしいのだろうが、許せないという気持ちよりも、恐怖が先になっていたのだ。
ただ、そんな恐怖を感じた自分が許せないという気持ちもあった。
「許せない」
という思いがあったのも事実で、恐ろしい思いと、許せない思いのどちらが強いかというと、正直、
「恐ろしい」
だったような気がする。
しかし、この思いを他の誰にも悟られたくないという思いから、彼女を遠ざけてしまった。その行動の意味を自分の中で、
「許せないという思いが、さらに強くなったからだろう」
と思い込ませていたからに違いない。
子供は、一つのことを思い込むと、他のことは忘れがちだ。
「子供は、まだ発展途上なので、なかなか忘れることはない」
と言われるが、その中で、唯一忘れてしまうとすれば、二つの思いが交錯し、どちらかを選ぶと、そのもう一方と、そして、二択であったということすら忘れてしまいたいという思いから、記憶を抹殺することを覚えていくのだろうと思うのだった。
記憶の抹殺は、子供であれば、スムーズに行くものだ。
「まっすぐな心が、忘れることをも簡単にさせるのではないか?」
と感じたが、果たしてそうであろうか?
その時はうまく逃げることができても、次第に理性や理屈。そして、世渡りや、精神的なコントロールができるようになってくると、せっかくのそれまでの融通を利かせるということが、難しくなってくるのではないだろうか?
そんなことを考えていると、
「俺が、子供の頃に、都合の悪いことは記憶から抹殺してしまう」
という概念は、まんざらでもないように思えてきた。
これは、子供なら誰でも持っているものなのだが、それを表に出さないのが、
「子供の子供たるゆえんだ」
ということならば、無意識にも隠そうとするだろう。
それだけ、子供というのは、いい意味でも悪い意味でも、
「純粋だ」
ということなのだろう。
ここでの純粋は、あまりいい意味ではない。記憶から抹殺することを誰も意識しないせいで、本当に抹殺している人間が、自分を見失ってしまう可能性を秘めているからだった。他の人はいいのだろうが、その子にとっては、トラウマとして残ってしまいそうで、どうにもならないことのように感じるに違いない。
そんな子供の頃、
「座敷わらしを意識することが、自分の都合の悪いことを記憶から抹殺することと関係があるなんて」
と、自分でどこまで分かっていたのだろうか?
少しは分かっていたような気がするのだが、実際にどこまで分かっていたのかということも、分からない、
それも、都合の悪いことは、記憶から抹殺する」
という意識が、そうさせたのかも知れないといえるだろうか?
そんなことを考えていると、彼女を一人にして、置き去りにした自分に、自己嫌悪を感じていたのだが、実はそうではなく、
「これは、無理のないことだったんだ」
と、考えれば、どれほど自分が救われるかということである。
罪は罪だろうが、この際、彼女が悪いことをされたと思っていないのであれば、その思いに甘えてもいいのではないかと感じるのだった。
そんなところが、
「自分勝手だ」
と言われるのかも知れないが、本当にそうなのか?
そこに、二重人格性が入っていないか?
そんなことを、考えてしまう岡崎だった。
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