第3話 都合の悪いこと
岡崎には、半年前から付き合っている彼女がいた。知り合ったのは、実に偶然といってもいいのかも知れないが、
「それが運命だったのかも知れない」
と感じたとすれば、付き合っている期間が、半年だからなのかも知れない。
岡崎は今まで付き合った女性、いや、付き合ったといえる女性を含めて、半年というのは、自分でも長い方だと思っていたのだ。
初めて彼女ができたのも、大学時代。彼を知っている人の証言を得られるとすれば、
「彼は晩生だったからな」
と皆がいうだろう。
しかし、女性からすれば、「
「あんな人に彼女がいたことがあるなんて、何かの間違いなんじゃないの? 私はあんな人、結婚どころか、彼女だってできないタイプだって思うわよ」
というほどの辛辣な言われ方をするのではないかと思われた。
「どうして、そこまで言えるんですか?」
と聞かれたとすれば、
「だって、あの人の言い方には、デリカシーというものがないんですもの。考えてから物を言っているのかどうかも分からないし、考えているのであれば、きっと、自分中心の考え方しか持っていないということなんでしょうね?」
というであろう。
「それは、どういう意味ですか?」
と聞くと、
「いつも、一言多いんですよ。それは、自分が目立ちたいというのか、それとも、マウントを取りたいと思っているからなのか分からないんですが、その一言がまわりをどれだけ白けさせているかということをまったく理解していない。そう、しいて言えば、アニメや特撮の見過ぎなんじゃないかって思うわね」
というだろう。
確かに、アニメや特撮のヒーローは、いつも独り言を言っているイメージはあるが、それは、主人公だから許されるというもので、見ているのが子供だったりするので、どうしても、状況や主人公の心境を分かるようにするには、主人公に喋らせるということも必要なのかも知れない。
そう考えると、余計なことを言っていることを、格好いいと思って、違和感を感じていないということになると、それだけ、
「考え方が、まだ、子供なのではないか?」
といってもいいだろう。
子供というのは、ヒーローに憧れるもので、
「ヒーローなのだから、格好いい」
と思い込み、それをマネするという単純な発想でマネをしているというのであれば、実に単細胞だといえるだろう。
それよりも、子供の頃から自分がヒーローにでもなったかのような思いを抱いていたとすれば、一言多いのも、別に悪いことだと思っているわけではなく、自分がヒーローになったかのように感じていて、
「何をしても許される」
とでもいうような意識が、頭の中に普通の意識として、子供の頃から普遍にあるのかも知れない。
だから、他の人が聞いていて、恥ずかしくなるようにことでも、本人は悪いなどという意識がまったくないのだから、そういう無意識な行動に出たとしても、それは無理もないことなのではないだろうか?
そんな男性に、女性がついていくはずもない。辛辣な印象を言われても、別に違和感がないといえるのではないだろうか?
「あれは、中学の頃だったかな?」
と、彼を知っている人が言っていたのだが、
「何かあったんですか?」
と聞かれた友達は、
「岡崎も一緒につるんでいた仲のいい友達の中にいたんだけどね。その時の友達の中に、障害者の子がいて、たまに、発作を起こして、痙攣を起こす子がいたんですよ。まわりに一緒にいる友達は皆そのことを理解していて、皆で、気を遣ってあげようという雰囲気だったんですよ。僕もその輪の中にいたので、よくそのあたりの空気は分かっていました。だから、皆、それなりに緊張感を持っていたんですが、岡崎君がどこまで分かっていたのかということでした。実際に、一度、学校からの帰り道、その友達が、痙攣を起こしたんです。皆は知っていたので、口にハンカチを入れたり、救急車を呼んだり、道端に横にならせたりなどしていたんですよ。でも、岡崎は、まったく何もできない様子で、おたおたするばかり、まるで何も知らないかのような雰囲気でした。でも、救急車が来て、友達は、その時には友達は、だいぶ、落ち着いていたんですが、それで岡崎もすっかり普段と変わらない状態になって、一人が救急車に乗り込んでついて行ったんですが、残った自分たちは、やれやれという気分だったので、そのまま帰ろうとしたところで、岡崎は、何を思ったのか、救急車が走り去る後ろから、しっかり診てもらえよって、叫んでいるんですよね。俺たちからすれば、一体何なのかって思いますよね? 聞こえもしないのに、大声で叫んで、しかも、皆が知っているはずのことを、まるで知らなかったかのように、最初はビビっていて、落ち着いてくれば、言わなくてもいいことをいう。その一言が何を意味するのかってまったく分かっていないんですよ」
というではないか。
「どういうことなんですか?」
と聞くと、
「彼が言ったその一言で分かることは、岡崎が、友達の病気を知らなかったといっているのと同じですよね? 皆一緒に聞いたはずなのに、そんな大切なことを、いまさら知らなかったというのはありえないでしょう? 要するにやつは、自分の興味のないことは、右から左なんですよ。最初から、真面目に聞こうとしないのか、それとも、聞いたけど忘れてしまうのかのどっちかなんでしょうね」
という、
「あなたは、どっちだと思いますか?」
と聞かれたその人は、
「さあ、ハッキリとは分からないけど、やつと一緒にいた中で感じたことというと、後者ではないかと思っています。聞いたけど、覚えていない。忘れてしまったといっていいのか。もしそういうことであれば、それが彼の性格というよりも、むしろ、病気なんじゃないかって思えてくるんですよね。健忘症ではなく、どちらかというと、症状としては、最初から何も聞いていなかったという症状に限りなく近く見える、そんな雰囲気ですね」
というのだった。
「なるほど、そうだったんですね。そういえば、彼のことを、小学生時代に一緒だった人に聞いたことがあったんですが、その人がいうには、彼は、いつも宿題を忘れてきていたというんですよ。ほとんど、常習犯的だったようなですね。親が先生に呼び出されて、そのあたりの話をしたらしいんですが、親は、先生の話をまったくうて合わなかったということらしいんです。いわゆる、『うちの子に限って』ってやつですよね。先生に対して、自分の子供に因縁を吹っかけるのか? と言わんばかりだったとも聞いています。つまり、あの親にして、この子ありって感じなんでしょうね」
というのだった。
「なるほど、相当、厄介な子供だったんですね?」
と聞くと、
「ええ、そうですね。子供のくせに、子供らしいところがなく、そのくせ、空気を読まないから、ある意味。最悪なやつだったといっていいと思います」
と言われた。
「それでも、さすがに、大人になってくるにつれて、だいぶ性格も和らいでくるものなんじゃないですか?」
と聞くと、
「それも、限界があると思うんですよ。大人になるにつれて、大人の考えを持つ人であればいいんですが、頑なな気持ちを持っていて、大人になってまでも、子供の気持ちのまま大きくなって、それが正しいと思い込んでいるような人には、ある程度の年齢になれば、もう何を言っても同じことだということになるのではないかと思います」
というのだった。
「じゃあ、岡崎という男は、もう、どうしようもないところまで行ってしまっていたといってもいいんでしょうか?」
と聞くと、
「まあ、普通の時は、普通の大人の対応なんでしょうが、どうしても、自分の中に結界があって、その部分は頑なで、人が入り込む余地もないとすれば、その部分は、どうしようもないんでしょうね。それが表に出てくれば、一気に人望を失うし、もし、付き合っている女性がいるとすれば、一気に離れていくに十分なきっかけになるということは間違いないと思います」
ということであった。
そういう意味でいけば、彼が苛めに遭っていたというのも分からなくもない。そして、その時、
「逆らわないでやり過ごそう」
と感じたというのも、このあたりの話を、あらかじめ聞いていたとすれば、理解できたことだったかも知れない。
まさか、それ以上の感覚が彼の中にあったなどとは、苛めの話を聞いた時には分からなかった。
彼が苛められているという意識は皆持っていたが、なぜか、そのことを口にすることは、タブーだというような暗黙の了解があった。
ただ、その時には分からなかったが、後から考えると、
「岡崎という男は、二重人格性か、躁鬱のような症状があったのかも知れないな」
ということであったように思えるのだ。
なぜそうだったのか、ハッキリと分からないが、
「あいつのことは口に出すだけでも、気分が悪くなる」
という感覚が皆にあったのかも知れない。
そうだと思うと、黙っている感情も、無理もないことではないだろうか?
岡崎は、中学時代から、高校時代に掛けて、彼女ができる素振りもなかった。中学三年生の頃から、異性に興味を持ち始めたというのは、平均からすれば、晩生だったといってもいいかも知れない。
そもそも、異性に興味を持ち始めたというのも、ちょっと他の人とは別の視点からのことであった。
普通なら、可愛い女の子がいれば、その女の子に対して、恋心のようなものを抱くのが普通ではないか。そう思うからこそ、
「彼女がほしい」
と思うようになり、自分が思春期に入ったことを自覚するのではないだろうか?
だが、岡崎の場合は違った。
まず最初に感じたのが、自分のまわりの男子が、女の子と一緒に歩いていたりするのを見て、
「何ともだらしない顔になっている」
ということであった。
「ここまで、だらしないなんて」
と思うのは、この間まで、自分を苛めていた連中であったり、見て見ぬふりをしていた連中の顔だったからである。
苛めていた連中というのは、正直、思い出したくもない顔であったが、少なくとも、意思をしっかり持った顔だった。こんなにだらしないというのは、そんな連中に苛められたのかと思うと自分が情けなく感じる。
だが、逆に、傍観者がそんな顔をしているのを見ると、傍観者自身が情けないように見えてくるのは、それだけ、彼らにもそれなりのしっかりとした意思があったと思わないと、今度は自分が情けなくなる。一番の犯罪者だと思っている傍観者のせいで自分を情けなく思うというほど腹が立つこともない。それだけ、傍観者自身が、本当の情けなさを自ら暴露したのだということを分かっていれば、気は楽だというものだ。
そんなことを考えていると、そんな連中が女の子と一緒にいて、
「あんな情けない顔になるというのは、女の子の力がそれほどすごいものなのではないか?」
と思うようになると、
「俺も、女の子に興味を持ってみようかな?」
という、気楽なものが、最初だったのだ。
だが、そんなことを感じていると、女の子と一緒にいる連中の顔が、今度は楽しそうに思えてきた。
それは、岡崎自身の感覚が変わったことから感じるようになったことなのだが、それが、そもそも当然の考え方ではないだろうか。
むしろ、最初に感じることであり、最初に感じたことが、どちらかというと、嫉妬に近いものであるにも関わらず、嫉妬のように、燃えるような感情でないことも、いかにも、「岡崎という男の、普通とは違うところだ」
といえるのではないだろうか?
ただ、岡崎というところ、ここまでの話では、
「まったくロクでもない男だ」
としか、誰も感じないのかも知れないが、実際にはそんなことはなく、ある面では、
「彼ほど、人情深い人はいない」
と思わせるところがあるだろう。
ただ、一つ言えることは、
「岡崎ほど、自分の興味のあること以外、まったく無関心になるということもないだろう」
ということであった。
そして、もう一つ言えることは、
「彼ほど、素直な人間はいないだろう」
と言われることであり、ただ、この件に関しては、一概にいいことだとは言えないのだった。
素直すぎるために、自分の興味のないことは、完全にスルーしてしまい、最期には覚えていないのだ。
まったく覚えていないということではないのだろうが、人に言われて初めて記憶がよみがえるということも少なくない。
ひどい時には、本当に忘れているのではないかと思うことがある。それは人から言われても、ピンとこない時があるのだ。
例えば、小学生の時など、宿題が出ているのに、宿題が出たことを忘れて、やっていかなかった。
「お前宿題どうしたんだ?」
と言われれば、普通であれば、
「あっ、すみません。忘れていました:
というアクションを取るのだろうが、岡崎の場合は、
「ああ、宿題出ていたのか」
という程度のしか思わず、指摘されても、思い出せないことが結構あった。
「お前、宿題があったことすら忘れたのか?」
と先生は、キレ気味にいう。
それも無理もないことだ。
言われた本人が、まったくの上の空だからだ。
「ああ、すみません、すっかり忘れていました」
といえば、宿題が出ていたことは憶えているが、やるのを忘れていた。
というリアクションで、まあ、当たり前の反応なのだろう。
しかし、岡崎の場合は、宿題が出ていたことすら記憶にないのだ。それを先生が気づけば、
「そんなに授業自体を舐めているのか」
と思われても仕方がないに違いない。
本当はそんなことはないはずなのだが、そういわれてみれば、
「確かに、思い出せないということは、それだけ上の空だったということだし、宿題というものを、自分の中でどう考えているのかということを、自分で分かっていないのではないか?」
と、考えさせられるのだ。
実際に宿題をしていかないことは、自分でも理解できないことだった。宿題が出ていたことを覚えていないなんて、
「まるで、健忘症のようじゃないか」
それこそ、年寄りを題材にしたコントを見ているようだ。
食事が終わっているにも関わらず、
「おばあさん、朝食はまだかな?」
というと、
「おじいさんや、今食べたじゃないかい?」
という会話であったり、さらには、
「おばあさん、私の眼鏡はどこかのう?」
というと、
「ほれ、ちゃんと掛けてるじゃないかい?」
と、実際に掛けていることすら分かっていない状態のようではないか。
ただ、こういう会話を笑うくせに、宿題は本当に覚えていないのだ。
「本当に、好き嫌いで、記憶が変わってくるのだろうか?」
と感じてしまう。
自分のことのはずなのに、信じられない気分である。
そう感じるようになってから、そのうちに都合の悪いことを忘れていくようになった。
それは、自分の中で都合の悪いことであって、本当は憶えておかなければならないことですら忘れてしまう。まるで、宿題を忘れるのと、同じではないか。
そう思うと、
「自分にとって都合の悪いこととは、どういうことなのだろう?」
と思うようになった。
それは、決して、
「覚えておかなければいけないこと」
と同じではない。
同じではないから、宿題を忘れてしまい、先生に叱られる羽目になるのだった。
そんなことを考えていると、
「中学になってから、苛められるようになったのは、そういうところを嫌だと思った連中が、苛めてきたのだろうか?」
とも感じた。
そして、
「余計な一言を言ってしまう」
というのも、それにかかわることなのかも知れない。
確かに余計なことをいうと、苛められる可能性は高くなるだろう。そして、自分では、余計なことだとは思っていないので、
「どうして苛められるんだろう?」
と感じるのだった、
それだけが原因ではないだろうが、そう思うと、都合の悪いことを完全に忘れてしまうと、その忘れてしまったことで、大きな迷惑を被る人がいるだろう、そうなってしまうと、
「何が苛めの原因なのか?」
ということを見失ってしまいそうな気がする。
というのが、苛めの原因というのが、
「自分にとって、都合の悪いことだ」
と考えていたとすれば、そんなことを考えていたということすら、忘れてしまうというような本末転倒なことになりかねないといえるであろう。
苛めというものが、どういう経緯で起こるのか、いじめられっ子とすれば、分からないし、分かっていたとすれば、
「何かの対処法だって、思いつかないとも限らない」
といえるのではないだろうか?
「さらに、自分にとって都合の悪いことは、自分では、意外と忘れていないのかも知れない」
と感じているようだった。
宿題に関しては、完全に忘れてしまっているのが不思議なのだが、自分にとって都合の悪いことは、
「忘れてしまいたい」
と思うことではないかと感じるようになったのだ。
苛められていた頃、自分にとって都合が悪いと思うようなことは結構あった。
一つは、
「苛めに遭っているということを、親に知られたくない」
という思いであった。
不登校から引きこもりに至るまでの間、親に知られたくないと思っていた。
それでも、耐えられなくなったことで、学校に行かなくなり、引きこもりになった。
引きこもりになったのは、
「まわりにいろいろ言われるのが鬱陶しいからだ」
ということであるが、まさに、
「親に知られたくない:
という思いと同じである。
親に知られたくないという思いは、別に親に心配を掛けたくないという思いではない。いろいろ言われるのが、鬱陶しいからだ。
実際に言われたわけではないので、本当にどんなことを言うのか想像でしかないが、いいたくないことを、言わせようとするに違いない。この言いたくないことというのは、どうせ、
「どうして苛められるの?」
ということを聞かれるに決まっているからだ。
正直、こっちにだって分かっていないことだ。見当くらいはついているのだろうが、それが正解だとは限らない。
しかも、それを言わなければいけないというのも、自分では嫌なことであって、もし、自分の考えが当たっていたとしても、外れていたとしても、親にいうようなことではなく、それを知られると、
「この俺が叱られるに決まっている」
と考えるのだ。
母親は性格的に、
「男っぽい」
ところがある。
つまり、
「苛められてスゴスゴ帰ってくるなんて、お前はそれでも男なのか?」
と、いうようなことを言われるに違いない。
もちろん、こんな言葉を投げられるとは思わないが、似たようなことを言われ、
「お母さんは、情けない」
という、母親としての殺し文句を言われるに違いない。
「お母さんが情けなかろうがどうしようが、俺の問題なんだから、余計なことを言わないでほしい」
と思うのだ、
まさかとは思うが、学校に、苛めがあっているなどということを言いに行ったりはしないだろうか?
もし、そうなれば、最悪である。
なぜなら、
「子供の喧嘩に親が出てくる」
ということで、学校からも、同級生からも、さらには、苛めっ子からも、皆から変な目で見られ、学校で四面楚歌に陥ってしまうであろう。
母親は、
「息子が苛められて、スゴスゴ帰ってきた」
という状況しか知らないのだ。
負けん気の強い母親としては、黙って苛められているのが、自分の子供だと思うと、腹立たしく思うのだろう。
学校に怒鳴り込んでいかなくても、このままいじめられどおしであれば、母親との会話もなくなってしまうことだろう。
そうであれば、
「理由は分からないが、息子が引きこもりになってしまった」
という方がマシかも知れない。
これも、ある意味、都合の悪いことを排除して、相手に隙を与えることなく、自分の世界に入ることができるのだった。
そういう意味では、
「引きこもりといういい手段を、先人たちが作ってくれていて助かった」
といいたい。
もちろん、引きこもりがいいことだとは思わないが、少なくとも、今の引きこもりは、決して珍しいことではなく、しかも、大人になっても引きこもっていることが多かったりするのだ。
引きこもりをする前は、引きこもりというと、
「真っ暗な部屋に入り込んで、部屋を閉め切って、電気も消して、スポットライトとスマホの光だけで、ゲームでもしている」
という光景が目に浮かんできた。
少し前であれば、パソコンだったのだろうが、今はスマホの方が多いかも知れない。
しかも、数年前のパンデミックで、
「おうち時間」
なるものが、できてきたことで、スマホでのリモートが多くなった。
しかも、パソコンなら、普通に買えば、10万円以上が主流になってくるだろうが、スマホだと、2,3万円で購入できる。
しかも、仕事に使ったり、趣味などがあれば別だが、普通にゲームをしたり、SNSや検索くらいであれば、スマホで十分である。特にまだ中学、高校生の分際であれば、それで十分だと、親からも言われるに違いない。
中学生くらいなら、スマホは普通に持っていて当然だ。
さすがに小学生であれば、
「身の安全のため」
という理由でスマホを持たせることが多いだろうが、それも必要最低限のことができるだけの、いわゆる、
「キッズケイタイ」
としての機能しか持つことを許されないかも知れない。
それでも、犯罪に巻き込まれないという意味での備えは、しておく必要がある。スマホ携帯は、しょうがないことなのだろう。
「自分にとって、都合のいいこと、悪いこと、それを判断するのは、一体誰になるのだろうか?」
と、考えさせられるのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます