第2話 苛めというもの

 前章の話は、K市在住の、岡崎聡という人物の話であった。この岡崎は、自分のことを、最近、

「自分は、二重人格なのではないか?」

 と思い始めたことから、このような発想になってきたのだが、実は、躁鬱症に関しては、中学時代から、その気があるような気がしていた。

 それは、彼が中学時代に受けていた苛めがその証拠であり、

「俺のことを苛めている連中を、いつの間にか、他人事のように思うようになる時期があったのだ」

 というものであった。

「感覚がマヒしてきてしまった」

 というのが結構強い意識であったのだろうが、それは、苛められた時に感じる肉体的な痛みを感じなくなった時からだったような気がする。

 最初に苛められるきっかけになったのは、何だったのか、ハッキリと分からないが、元々自分を苛めていた連中は、小学生時代からの友達だったのだ。

 お互い、

「中学に入っても、仲良くして行こうな」

 といっていた仲間であり、小学生の頃には、お互いがいつも孤独だったことで、自然と近寄ってきたのであって、中学に入ると、友達に、他のグループが接近してきたようだ。

 そこで、その友達は、岡崎の反応を考えることなく、自分の意思で、近づいてきた連中の仲間になったのだった。

 それは、まわりの連中と、

「共闘してきた」

 と思っていた岡崎にとっては、裏切り行為に見えたのだ。

 もし、逆に、まわりが近寄ってきたのが、岡崎で、岡崎がその誘いに簡単に乗ってしまうと、友達が、今の岡崎のような気持ちになったことは、一目瞭然のことだったに違いない。

 それを思うと、

「どっちもどっちだ」

 といえるだろう。

 しかし、逆にいえば、どっちに近づいてきたかという違いだけであって、結果、二人の仲はこじれていたに違いない。

 だが、それは苛めに発展することと、まったく別問題だと岡崎は思っていたのだが、友達からすれば、

「こっちは何もしていないのに、岡崎から睨まれた」

 と思っているようであった。

「何もしていない」

 という意識が、そもそも間違っているのであって、それこそ、

「どの口がいう」

 ということであろう。

「先に裏切ったのは、向こうなのに」

 と思っていても、結果はそうは繋がってくれない。

 それこそ、発想としては、

「言った、言わない」

 の世界であり、書面としての証拠が残っているわけではないので、誰にも仲裁ができるものではない。

 誰も止める人がいないとなると、

「岡崎が一方的に攻撃されている」

 ということになり、それを苛めだと認定し、まわりは、苛めに対しての身の振り方を考えるようになった。

 苛めが発生した時の常套手段で、岡崎に味方をする人間は皆無だった。皆、考えていることは同じで、

「長い者に巻かれろ」

 というのと同じで、岡崎は四面楚歌に陥ってしまったのだろう。

「しょせん、俺って、こういう運命なんだ」

 と、思って、岡崎は諦めるしかないのだろうか?

「たぶん、タイミングが悪かったんだろうな? 先手必勝で、こっちが先だったら、きっと、立場は逆だったに違いない」

 と思うようになった。

 苛めもそのうちになくなった。

 そもそも、苛めをする理由自体が、薄いものでしかなかったので、苛めをしている方も、そのうちに疲れてくる。

 自分はしたことはないが、

「苛めというのも疲れるのではないか?」

 と思うようになってきた。

 それは、歴史が好きで、戦争や戦についての本を読むようになってから分かってきたことだが、

「理由のない、まるで因縁のような戦ほど、疲れるものはない」

 ということが書かれていた。

 だから、戦争にとって大切なのは、大義名分であり、戦争を行う意義がなければ、兵士はついてこない。

 例えば、戦争を行うことによって、その論功行賞で、いくらの褒美が得られるかによって、士気の高さも決まってくる。

 特に、鎌倉時代のように、

「蒙古来襲」

 ということで、外敵から我が国を守るために行った戦争だったのだが、当時の、特に鎌倉時代における戦争というのは、封建制度が固まってきた頃だったこともあって、

「配下のものの土地を守ってやる代わりに、戦争になると、いざ鎌倉で駆けつける」

 というのが、封建制度の主従関係のはずなのに、モンゴルのような外国から攻められて、いくら幸運にとは言っても、撃退することができたのだから、御家人たちは、幕府からの、

「土地という褒美を受け取る権利」

 があったはずである、

 しかも、御家人たちは、戦争の費用を、お金がないことで、借金をしてまでして出てきているので、褒美がないということはありえなかった。

 だが、幕府としては、

「相手の土地に攻め入って占領した土地というわけではないので、御家人たちに与えられるだけの土地があるわけはない」

 ということで、幕府側も、論功行賞に応じなかった。

 そうなってくると、御家人の不満は一気に幕府に向いてくる。

 これが、鎌倉幕府が滅亡するきっかけになった、直接的な原因であったが、これは、当然、御家人にとっては、許されるべきことではない。

 借金をしてまで、徴兵に応じて、何とか兵の犠牲を出しながらも、撃退させたのに、借金を返すだけの金もなく、

「何のための戦だったのか?」

 ということである。

 つまり、この場合は、何とか撃退できて、事なきを得ることができたが、戦争において、大義名分は大きい。

 幕末の戊辰戦争の時、兵力的には幕府軍の方が大きかったのに、新政府軍の方が圧倒的に強かったのは、

「自分たちが官軍だ」

 ということが、名実ともに知らされたからだった。

 その証拠が、天皇の軍隊だということを証明する、

「錦の御旗」

 だったのだ。

 これは、まるで、

「水戸黄門の葵のご紋」

 に近いものではなかっただろうか?

 日本における天皇という存在は、大東亜戦争で日本が敗戦するまで、どんなに政治の中心が武家にあったとしても、特別なものだった。

 それも、今のような象徴などというものではなく、万世一系であり、その命令は、政府の命令とは別格の力を持っていたのである。

 それほど、大義名分が士気に与える力はすごいものであり、どうすることもできないものだといえるのではないだろうか?

 それを思うと、大義名分と、士気の関係から、見えてくるもの、そこに、戦というものが、どれほど神経と肉体を使うものだということがよく分かるのだろう。

 そんな大義名分が、彼らになかったことで、次第に苛めを受けることがなくなってきた。

 苛めを受けている時は、

「早くこんなことがなくなってほしい」

 と思っていて、次第に感覚がマヒしてくるほどになってきたのに、いつの間にか、自分が訳が分からなくなってきたことに気づいてくるのだった。

 だが、実際に苛めがなくなると、その時のことを忘れてしまっていた。

「喉元過ぎれば熱さを忘れる」

 ということなのか、苛められなくなると、それまで感じていたことが、すっかり意識から消えていたのだ。

 苛めを受けている時、なるべく被害を小さくしたいという意識から、大げさにしないようにしようと考えたのかも知れない。

 苛めを受けている時は、自分の中で、大げさにしたくないという思いは、岡崎だけではなく、他の人にもあることだろう。

 例えば、苛めを受けている時、学校の先生や、家族にその苛めが見つかった時、本来であれば、

「助けてほしい」

 という思いから、自分がどんな苛めを受けていたのかということを、どんどん公表していくであろうが、岡崎は、そんなことはしなかった。

 むしろ、

「変な詮索はやめてほしい」

 とまで思っていたようで、その一番の理由は。

「まわりが信じられなくなった」

 ということであろう。

 もし、ここで、先生や家族に苛められているということを公表すれば、どうなるだろう?

 ひょっとすると、苛めがなくなるかも知れない。しかし、その可能性は非常に低いのではないだろうか?

 苛めをしている方もバカではない。いかにごまかすかということくらい、事前に調べているだろう。

 どんな方法を駆使するのか分からないが、一度、

「シロだ」

 ということになれば、もう二度と、何を言っても、聞いてくれることはないだろう。

 ミステリーなどで、何かの事件が起こって、証拠品か何かを捜索し、一度でも、

「そこにはなかった」

 ということになれば、同じ事件であれば、場面が違っても、もう二度とそこを捜索するということはない。

「これほど安全な隠し場所はない」

 というもので、そのことを分かっている人間は、心理的な盲点をついたということで、かなりの知能犯ではないかといえるのではないだろうか?

 つまり、先生などの、職業として、生徒を見ている人たちは、形式的なところでしか判断しない。それは、警察と同じで、

「無駄なことはしない」

 と思っているからだろう。

 警察ですら、そうなのだから、学校の先生ごときになると、余計に無駄なことをするわけはない。

 だから、

「一度騙すことに成功すれば、二度と疑われることはない」

 という心理の盲点を掴むことで、

「先生はあてにできない」

 と思うのだ。

 だとすれば、苛める側が頭がよければ、苛める側の、

「一度追及を逃れることができれば、これ以上安全なことはない」

 ということになり、そうなってしまうと、苛められている側は、どうすることもできない。

 一度逃れたものは、二度とこじ開けることはできないのだ。

 それを恐れるからこそ、先生を信用しない。最終的には、保険を掛けているかのように見えるが、これほど、脆弱な保険もないもので、最初から期待をするなど、できっこないのだ。

 そうなると、徐々に信じられる人間も減ってきて、

「後は、逃れることを待つしかない」

 と考えるのだ。

 さらにいじめられっ子というのは、

「どうしても、相手に逆らう」

 ということをしないものだ。

 下手に逆らって、相手の怒りを覚えることになるし、それ以上に気をつけなけれないけないのが、相手が、尋常な人間ではない場合である。

「とにかく、誰でもいいから、ムカつくという理由だけで苛めたい」

 と思って言うとすれば、下手に逆らうと、相手を喜ばせることになる。

 相手は、ひょっとすると、寂しがっているのかも知れない。だから、誰かにかまってほしいという意味での、

「かまってちゃん」

 なのだろうが、それが、粘着系の苛めっ子だったりなんかすると、こちらはたまったものではない。

 何しろ本人は、苛めているつもりはなく、むしろ、

「可愛がっている」

 と思っているのだとすれば、これは厄介だ。

 まったく罪の意識もなく、逆に、

「俺がかまってやってるんだ」

 などと思われたりすると、これ以上の迷惑というものもない。

 だから、相手に遠慮がない。罪の意識もない。要するに、終わることのない、

「負のスパイラル」

 を自分で作ってしまうことになるのだ。

 いじめっ子の、嬉々とした、相手を苛める時のあの表情を見たことのある人間は、たぶん、苛められている時、相手に逆らおうという気持ちに絶対にならない、何とも言えない表情だ。

 昭和の頃であれば、

「苛められて、黙って帰ってくるなんて、意気地なしだ」

 と言われていたのだろうが、平成の中頃くらいからか、

「苛めに対して逆らうと、ロクなことはない」

 という風潮になり、ささやかな抵抗という意味で、不登校になったり、引きこもりになったりしたものだ。

 そういえば、

「不登校」

 という言葉であるが、今では、

「不登校が当たり前」

 という言われ方になったが、昔は、確か、

「登校拒否」

 と言われていたと聞いている。

 登校拒否というのは、理由はどうあれ、学校に行かないということで、その場合は、非というものは、学校に行かない側にあるような言われ方だった。

 しかし、不登校というおは、その時代の多様性によって、学校に行かない理由も多様化してきて、必ずしも、行かない方にすべての責任があるというわけではなくなってきたのだった。

 そこには、苛めというのも含まれていて、苛めている側にも、苛められている側にも何らかの問題があるということであろう。

 この問題というのは、

「どっちが悪い」

 という、善悪の問題ではなく、結果後して出てきた、不登校というものが、どこに原因があって、どうすれば解決できるのかということを、考えるのが先決なのではないだろうか?

 そんなことを考えていると、

「苛めに遭ったら、逃げるしかない」

 という結論になってしまう。

 だから、不登校で、引きこもりが生まれるのだろう。

 家にいて、ゲームをしていればいいという考えが、引きこもりを産むのだろうが、

「どうせ、学校に行っても、勉強らしいこともできないんだ」

 と思ってしまう。

 確かに、勉強できないだけで、後は学校に用はない。大人は、

「他に学校にくれば、楽しいことや学ぶべきことがたくさんある」

 といいたいのだろうが、友達もいない。むしろ、苛めっ子か、傍観者しかいないわけだから、どこに行く必要があるのかということである。

 そもそも苛めというのは、

「傍観者がいるから、存在している」

 といってもいいのではないか?

 苛める方も、観客がいなければ、苛めたとしても、面白くはないだろう。まるで、豆腐を叩いているようで、相手のリアクションも、反応もなければ、まわりのリアクションを期待するしかないではないか。

 苛めている方にも、それくらいのことは分かっているのかも知れない。相手が、リアクションを示さなければ、こっちが飽きて、苛めてこなくなるだろうというくらいのことは、容易に想像がつくことだと思っている。 ただ、それは昔は分からなかっただろう。昭和の頃は、

「ムカつくから苛めている」

 というだけの意識だったのだろう。

 だから、苛める理由がなくなると、苛めを辞めてしまうが、今の苛める理由というのは、苛められる側の問題ではなく、苛める側の問題だから厄介なのだ。

 ただ、苛めの傍観者というものの罪は今も昔も変わっていないだろう。昔であれば、

「傍観者が一番悪い」

 と言われたこともあった。

 実際にそうであろう。自分で手を下すこともなく、苛められているやつを見て、

「ざまあみろ」

 とばかりに思い、自分の勝手なストレスを発散させようとして、それを自分の中だけで解決させようというのは、まるで、火事場泥棒のようではないか。

 しかも、傍観者というのは、当事者の数名以外のほとんどの人間だ。その人の本心がどこにあるのかは別にして、助けようというアクションを起こさないのだから、これ以上の罪はないだろう。

「自分たちが苛めているわけではない。苛めている連中が悪いのであって、苛められている方に対して、同情する気もしない」

 ということなのだろう。

 そういう連中のすべてがそうだとは言わないが、しかし、ほぼほとんどの人間が、ただ、傍観しているわけではない。

 自分のストレスの発散に、苛めを利用しているのだ。

 昭和の頃にあったマンガで、家族全員から、半殺しにされているような、ギャグマンガがあったが、もはや、今見れば、

「ギャグではとても済まされない」

 というものであった。

 鬼の持っている金棒であったり、キリのようなもので刺してあったり、リアルであれば、とても命のないものであろう。子供が見るマンガとは思えない構図だった。

 当然、今であれば、少年誌に載せるなど、アウトであろう。だが、よく考えれば、劇画調のマンガであれば、もっとリアルな書き方をしている作品もある。

 考えられることとしては、劇画の方は、あくまでもフィクションで、しかも未来世界などという設定であれば、少々は許されるのではないか?

 家族に暴力というのは、どんな程度であっても、コンプライアンス的にアウトだろう。何と言っても、想像を絶するものではないからである。

 それは、苛めに遭うような人間からすれば、想像できる苛めは、妄想へと変わってしまうことになるだろう。

 それがトラウマになってしまい、恐怖として意識に残るのか、それとも、感覚をマヒさせる要因として残るのか。

 前者であれば、トラウマから、親への恐怖、家族への恐怖を募らせることになり、後者であれば、ちょっと、親から怒られたりすると、マヒした感覚から、

「親が死んでも、別に悲しくも何ともない」

 という気持ちになり、自ら親を殺すということも、普通にあるのではないか。

 しかも、感覚がマヒしているのだから、なおさらである。

 今の法律では、

「尊属殺人罪」

 つまりは、近親者を殺害すると、その罪は加増されるという考えであるが、その条項は、削除されている。理由とすれば、憲法で保障されている、

「法の下の平等」

 に違反する、つまりは、違憲となるということである。

 それが撤廃されたこともあって、昔の、

「家族制度」

 というものが、今の時代にそぐわないということも、その理由の一つであろう。

 感覚のマヒから、次第に苛められることが、苦痛ではなくなり、

「まるで他人事」

 と思うようになって、学校に行くのがバカバカしくなり、人と接するのが嫌になって、引きこもってしまった。

 すでにその頃は苛めは一段落していたはずだったので、

「岡崎のやつ、何で引きこもっちゃったんだ?」

 と皆、不思議がっていた。

 実は先生もそうだった。

 先生の方とすれば、苛めが横行していることは分かっていて、岡崎が苛められているのも分かっていた。

 分かっていて何も言わなかったのは、

「苛めを受けている人は、助けを求めるような目で見てくるものなのですが、岡崎君には、そんな目を感じなかった。だからと言って、放っておいたのはまずかったと思ったのですが、最近では、苛めが収まってきて、岡崎君の表情が和らいできたような気がしたので、もう大丈夫だと思った」

 というのが、先生が、感じていたことのようだ。

 岡崎は確かに、苛めが和らいできて、まわりが、自分を相手にしてくれるようになったのを感じていた。それだけに、今まで一番助けてほしいと思った時、誰も助けてくれなかったことを、疑問に思ったのだ。

「今寄ってきたっていうのは何なんだ? まるで俺が苛めに耐えたことで、皆の仲間入りができたとでもいうのか? そんなのおかしいじゃないか?」

 と感じたのだった。

「先生だって、そうだ。分かっていたくせに、助けようとしない。今になって、平和になったとでも思ってんじゃないぞ」

 といいたかったのだ。

 それまでは、必死にまわりに助けてほしいと思っていて、何が自分に起こっているのか分かっていて、見て見ぬふりをしていたのだ。それって、卑怯ではないか? 結局皆、

「強い奴が正義で、弱ければ悪だ」

 とでも、思ってるんだよ。

 と感じると、急に世の中がバカバカしくなってきた。

「苛められなくなったことを、まわりのおかげだとでも思うと、俺が感じているわけないじゃないか? 俺は自分の力で這い上がったんだ」

 と思っているのに、まわりは、ただ、

「苛めがなくなって、よかったな」

 と、状況だけしか見ていない。

 こんな状態だったら、これから何があっても、まわりの目は変わらない。状況だけを見て、相手を判断しているのであれば、状況に流されるようにしか見えていないということになるので、その人が本当に変わったのか、それとも外的な要因によって、ただ、歯車がいい方に回転しているだけなのか分からないだろう。

 だとすれば、まわりの見ている目は、節穴であり、信用できないということになる。

 下手に信用してしまって、委ねてしまうと、結果的に、簡単に裏切られてしまうということになりかねないのではないだろうか?

 だったら、誰も信用することはできない。そう思うと、まわりが急に冷めて見えてきたのだ。

 まわりが冷めて見えてくると、まわりの世界すら、違って見えてきた。

 何となく身体のダルさが、慢性化しているように思えてきて、まるで、黄砂が降ったかのように、黄色い空気に包まれているように見えたかと思うと、光っているものが、鮮明に感じられるようになった。

 信号機の青、今までは、もっと緑っぽく見えていたのに、その頃から、真っ青に見え始めた。

 赤い色だってそうだ、真っ赤に見えていて、鮮血のようだった。だが、濁った色では決してない。まるで透けて見えるくらいの鮮やかさだった。

「まるで、イチゴのメロンソーダのようだな」

 と感じ、そう思うと、青の信号機も、

「メロンソーダというよりも、まるで、ハワイアンブルーのような感じだと言えば、一番スッキリと来るかも知れないな」

 と思うのだった。

 そんな岡崎が、不登校になり、まるで判で押したような引きこもりになった。これが、彼の最初の二重人格になったきっかけだったのかも知れない。

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