もう一人の自分の正体
森本 晃次
第1話 極端な二重人格
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和4年5月時点のものです。
二重人格や多重人格という言葉を聞いたことがないという人はまずいないだろう。
しかし、二重人格や多重人格というものが、どういうものなのかということを、皆それぞれに考えていて、極端な話、一人として、同じことを考えていないといってもいいかも知れない。
それだけ、たくさんのイメージや発想が、二重人格や多重人格に存在していて、それが、人によって、見え方が違ってくるのだが、最終的には、二重人格、多重人格と呼ばれているのではないだろうか?
二重人格と言われて、誰もがピンと来るものの一つに、躁鬱症というものがあるのではないだろうか? 厳密にいえば、二重人格と躁鬱症というものは、違うものであるが、これは一つの考え方として、
「二重人格は、表から見て感じるものであり、躁鬱症は、本人が感じていて、どうすることもできないものだ」
といえるのではないだろうか?
しかも、躁鬱症というと、両極端な性格が交互にやってくるもので、その間に、平常と呼ばれる状態がないのが特徴ではないだろうか?
分かりやすく言えば、
「春夏秋冬の四季において、夏と冬だけが存在し、春秋という、中間が存在せず、暑かったものがいきなり寒くなり、寒かったものがいきなり暑くなるという状態だと思えばいいのではないだろうか?」
ということなのであろうと思われる。
そして、躁鬱というのは、れっきとした病気である。それは、鬱状態であっても、躁状態であっても同じことで、
「鬱状態は病気だろうが、躁状態の時は、明るいのだから、病気ではないのではないだろうか?」
と考えているとすれば、それは大きな間違いである。
確かに、明るいのは悪いことではないが、その時の明るさは、自分でコントロールできるものではなく、鬱状態の反動であるかのように、ある意味、
「どうしようもない状態」
でもあるのだ。
これらの両極端なあ状態では、それぞれの性格がぶつかり合うことはない。お互いに自分で理解していることであり、自分のことを、
「二重人格なんじゃないか?」
と思うのは、あくまでも、それぞれの性格を同時に理解できないからであって、二重人格の場合は、それぞれに意識できていないだけに、存在だけが分かっているのだから、敵対する気分になるのかも知れない。
だが、躁鬱症の場合は。それぞれに絶えず意識している。つまり、躁状態の時、鬱状態になった時の自分を想像できるのだ。
二重人格の場合は、なかなかできない。片方の性格が表に出ている時は、もう一つの性格は決して表に出てくることはない。
表に出てくることで、必要以上に意識してしまって、たまに、現在の自分を見失ってしまうことがある。そんな時、
「ああ、躁状態か、鬱状態のどちらかの時に、もう片方を自分で意識することができた時、もう一方への入り口が開けた時なのかも知れない」
と感じるのではないだろうか?
そんなことを考えていると、
「躁鬱において、お互いに分かっているだけに、自分の中で争いになるということはないだろう」
と感じるのだった。
二重人格ではそうはいかない。相手がよく分からないだけに、どうしても敵対してしまうのだろう。
さらにもう一つとしては、
「躁鬱症は、躁状態から鬱状態に、そして鬱状態から躁状態になる時というものが分かるというが、二重人格は、もう一つの人格が表に出ている時、片方の人格は眠っていて、意識がないということだ」
しまも、二重人格で眠っている方は、眠っているという意識もなく、そもそも、誰かに言われるか、何かのきっかけがあって、思い知るくらいのショッキングなことでもなければ、気づかないものだ。
二重人格のたとえとして、
「ジキルとハイド」
の話と、
「オオカミ男」
の話の二つに分かれるのではないだろうか?
ジキルとハイドというのは、ジキル博士が、自分が裏の顔を持っていることを知って、自分の開発した薬を飲むことによって、顔も性格も変わってしまうというもので、
「奥底に潜んでいるものをあぶり出す」
というイメージが強いのだろう。
オオカミ男の場合は、言い伝えとして、人間とオオカミの半分づつが身体の中に存在する半人半狼であったり、満月にオオカミ男に変身するという話が途中から付け加わることになるのだが、元々、伝説としては存在していたようだ。
オオカミ男の場合は、元々がたくさんの逸話があることから、断定は難しいが、ただ、この話を二重人格と結びつけるというのは、難しいのかも知れない。
どちらかというと、憑依というイメージが強いようで、こちらは、果たして人間といえるのかどうか、難しいところではないだろうか?
ジキルとハイドの場合は、普段表に出ているのがジキル博士で、ハイド氏は、薬によって、奥底に潜んでいる悪魔を呼びだしているだけだった。
ひょっとすると、ジキル博士も、ハイド氏がどのような性格なのか、分かっていないのではないだろうか。
本当は知りたいのに、ハイド氏が自分であるということを知られるのが怖くて、人に聞くこともできない。
それを思うと、ハイド氏を呼び出すことに、罪悪感はなかったのだろうか?
そのうちに、ハイド氏の抹殺を考えるが、そこに、考えている自分も一緒に抹殺することになるかも知れない、この小説は、二重人格の、
「裏の性格」
というものは、決して許容できる性格ではない。
ということを言いたいのではないかと考えるのは、無謀なことであろうか?
小説というのは、書いた作者の思惑にない解釈をする読者がいて、その解釈はベストセラーを生み出すことがある。
作者の意図しない方向に、作品発表後に、評価されることで、作者にとって思わぬ効果が生まれることだってあるだろう。
「今回の作品は、作者としては、いまいちなんだよな」
といいながら発表した作品が、ベストセラーになって、何かの賞を受賞するなどという話も、結構あったりする。
特に、この話のように、今から、150年近くも前に書かれた作品が、今もなお、解離性同一性障害、つまり、二重人格を描いた、代表的な作品ということで言い伝えられているのだから、これは、ベストセラーどころの話ではない。
特に、二重人格の話を書こうとするとき、その性格の意義を説明するのに、まず、この話を一番に題材として、普通であれば、持ってくるというものではないだろうか?
今のように医学や心理学が発展してきている時代であっても、その元祖として、150年前の小説が生きてくるというのは、すごいことである。
ジキル博士は、本当にハイド氏のことを知らなかったのだろうか? あくまでも、この話は、外部の人間の回想と、ジキル博士本人の告白から成り立っているのだが、ジキル博士が何を感じたのか、そこも、まるで他人事のような書き方をしているとすれば、話はまったく変わったものになっているのではないだろうか?
果たしてジキル博士は、ハイド氏のことをどこまで理解しているのか? 薬を飲むことで、理性がハイド氏に則られるのだが、それは、ジキル博士が、ハイド氏を、
「あれは、自分であって、自分ではない」
という風に、あくまでも、
「自分ではない」
と思っていたのだとすれば、ハイド氏は、憑依したわけではなく、あくまでも、ジキル博士の意識の中でしか生きることができないといえるのではないだろうか?
躁鬱症が。まったく違った性格であるということを、あくまで自分の中で感じることで、それが表に出てきて、まわりも、
「あの人は、躁鬱症なんだ」
と感じさせるだろう。
しかし、その時に、
「あの人は、二重人格だ」
と言われることはない。
つまり、
「躁鬱症というのは、二重人格だというわけでは決してない」
ということではないのだろうか?
逆にいえば、
「躁鬱症の人は、二重人格ではない」
と考えるのは、乱暴であろうか?
躁鬱症のように、両極端な状況に陥れているのは、あくまでも、精神をコントロールしている自分なのだ。性格にいえば、躁鬱症という病気に罹ってしまったことで、両極端な感情が生まれる。
「そう、二重人格は、一人の人間に二つの人格が存在するということであり、躁鬱症は、病気によって、両極端な感情が芽生えてしまうということであり、まったく別のものだ」
といえるのではないだろうか?
だが、二重人格だと思えるような人を見て、
「この人は、躁鬱症にはならない」
と言い切れるだろうか?
理屈から考えると、人格を形成している感情が病気に罹るということだから、その人格が二つあって、どっちの性格が病気になるかということである。
考え方はいくつかあるが、基本的に
「どちらかの性格が躁鬱症という病気に罹るというものと、どっちも罹ってしまうということになるのだろう」
だが、一つの性格が、躁鬱症を発症させているとしても、それを証明するのは難しいのに、性格が他にもあるとなると、考えるのが難しい。
何と言っても、二重人格の片方は、隠れている時、完全に眠った状態になっているのだから、表に出ているもう一つの性格の感情が影響してくるとは言い難い。
つまり、性格が入れ替わろうとする瞬間、性格が感情を吸収したまま隠れてしまうと、出てきた性格は、新たな感情を持って出てきたことになる。
「ひょっとすると、そこが、二重人格と躁鬱症の違いなのかも知れない」
とも感じた。
二重人格はその名の通りの人格であり、躁鬱症は、人格を形成しる中の感情が病気になったものだとすると、やはり、一緒に考えるのは無理がある。
自分で、
「無理がある」
と考えるのだから、やはり、この二つが並び立つことは難しいのではないかと感じるのだった。
さらに一つ考えることとして、二重人格が、一つの身体の中で展開されているということである。
「どうして、一つの肉体に、二つの性格が共存しているのか? これは、躁鬱症のような病気ではないのか?」
と考えてしまう。
そもそも、二重人格という性格は、あまりいいものとして表現されることはない。
まったく違うタイプが共存してこその二重人格なのだ。
だから、人が持っている性格というのは、結構曖昧なものではないかと思えるのだ。本人が、
「自分は二重人格ではないか?」
と思っているとしても、まわりから見ると、そんあ風には見えていないことだろう。
それだけ、人の性格には、汎用性があるもので、幅の広いものだといえるのではないだろうか?
そしてもう一つ言えることとしては、
「本人が感じている性格とまわりが見る性格では、まったく違うのではないか?」
と感じることであり、この感覚は、
「自分の声を、発しながら感じている時と、録音した自分の声を聞いた時、まったく違ったものであることを自覚した時と同じだ」
と感じることができるのではないだろうか?
また、二重人格とも、躁鬱とも違った現象を、感じたことがあるという話を聞いたことがある。
その人の話では、
「あれは、オカルト小説を読んだ時に、あくまでも小説のネタだと思っていたことだったんだが、その内容が、実際に自分のまわりに起こったことで、その話に信憑性があることだと思って、今ではすっかり信じるようになったんだ」
ということであった。
「それは、どういう話なんだい?」
と聞くと、
「あれは、小説の話としては、ある女が男のところに会いに行くんだ。そこで、その男に抱かれるわけだが、その後に、女がプレゼントといって、渡そうとしたものを手に取った時、それまで気づかなかったのだが、男のベッドの脇に、まったく同じものが置かれていて、一目で、それが同じものだと分かったというんだ」
「そう、それで?」
「女が、おもむろにいうんだ。『またあの女なのね?』ってね。それで、それを聞いた男が、無言で頷くんだ。その表情はまったくの無表情らしく、だから余計に、女には不気味に思えたという。その女は、ビックリすりというよりも、明らかに落胆しているようで、それを見ながら、男は、それでも無表情なんだって、女とすれば、何かを聞いてほしいのだろうが、男は何も言わない。ただ、男は、この部屋の前に来た女から、自分のことを殺してほしいと言われているのだろうと思ったというんだ」
「大体、それがどういうことなのか、読めてきたよ。その女というのは、『もう一人の自分』ということになるのかな?」
と友達が聞くと、
「ああ、そうなんだ。その人物というのは、どうやら、自分の『10分前の女』として登場してきている様子なんだって。顔もまったく一緒なんだけど、性格はまったく違う。明らかに主従関係のように見えるんだけど、二人はあったこともないはずなので、主従関係というのは、おかしなことではあるんだろうけどね」
というではないか。
それを聞いてから、
「じゃあ、その女は、10分前にも存在しているということなのかな?」
というと、
「そういうことだと思う。本にはそれ以上詳しくは書いていなかったけど、一つだけ言えるのは、『その二人の同一人物と思われる女を見たことがあるのは、その男だけではないだろうか?』ということなんだろうね」
と言われて、
「それは、俺も同じことを感じた。まるで、同一次元の別の時間に現れる、もう一人の自分ということだよね?」
というと、
「そういうことなんじゃないかな?」
と言われたので、
「同一次元に同じ人間の存在は、タイムパラドックスの観点から、ありえない。だから、その問題を解決するという意味で、必ず、10分という時間を設定し、それ以上近くもならないし、遠くにもならない。もし遠くになっていったとすれば、ある時、何かのきっかけで内に向きを向けるとしたら、いつかは交わってしまうことになる。だけど、最初から平行線であれば、それはあり得ることで、どこまで言っても交わらないので、普通の人は気づかない。気づいたとしても、ドッペルゲンガーを見たということであって、それを認めるわけにはいかないからね」
というと、
「どうして認められないんだ?」
というと、
「だって、ドッペルゲンガーを見た人間は近い将来、死んでしまうという伝説があるので、その伝説にさからわないようにしようということではないのかな?」
という考え方であった。
絶えず、10分の一定の差があるということで、まったく別の人間だと解釈する方が楽であろう。しかし、それぞれの二人を知っている男とすれば、唯一知っているということで、
「どうして、俺が選ばれたんだろう?」
という不気味な考えに至るのではないだろうか?
「ドッペルゲンガーには、当然、証人を必要とするものだ」
と、急にひらめいたかのように感じたのだ。
ドッペルゲンガーという言葉は、意外と皆知っている。どこで知るのかまでは、その人によってさまざまなのだろうが、マンガやアニメなどのテーマで、よくあるものなのかも知れない。
ドッペルゲンガーとは、昔から言われていた。
「自分に似た人が、世の中には三人はいる」
と言われる、
「よく似た人」
もことではない。
それは、
「似て非なるもの」
であり、ドッペルゲンガーというのは、
「もう一人の自分」
なのだ。
つまりは、
「同一次元において、存在してはいけない、同一人物」
ということであり、それは、時間が違っていても同じことである。
たまに、
「あれ? さっきお前、ここを通り過ぎて行ったばかりじゃないか?」
と言われることがあるが、そんな時は、
「何言ってるんだ。俺は、今日、初めてここを通ったんだよ。俺のソックリさんでも見たんじゃないか?」
としか言えない。
そして、そういわれた言い出しっぺも、
「ああ、だったら、そうなんだろうな?」
と認めるしかない。
頭の中でその存在を認めてしまうと、ドッペルゲンガーの存在を認めてしまうことになり、今度は本当に、ドッペルゲンガーに遭遇しないとも限らない。ドッペルゲンガーは、その存在を明らかにされては困るので、目撃者や、一緒に存在している、相手にとっての、
「もう一人の自分」
というものを抹殺しようとしてくるのではないだろうか?
それを思うと、
「もう一人の自分の方が、自分の中で、影であるということを理解していて、本物にその存在を知られてしまうと、こちらが、本物を葬らなければ、
「自分がこの世から消えてしまう」
と、思うのだろう。
しかし、実際にそうだろうか?
もう一人の自分を抹殺するということは、表向きには、
「自分という人間は存在してはいけない」
ということになり、もう一人の自分である、本来の自分を抹殺するということは、ドッペルゲンガーである、自分をも抹殺することになるのではないか?
つまり、ドッペルゲンガーというのは、
「本物の自分に見つかってしまうと、放っておけば、ドッペルゲンガーとしての自分の存在が消えてしまうと思って、本物の抹殺を考える。ドッペルゲンガーにはその能力が備わっている。確かに、ドッペルゲンガーは、本物に見つかると、自分がそのうちに消えてしまうのは間違いないので、一定期間の相手に、本物を抹殺するしか手がないと言われてきた。だから、本物の抹殺を試みるのだが、しかし、本物に見つかった時点で、ドッペルゲンガーの運命は消滅と決まっていたのだ。だから、ドッペルゲンガーが本物を抹殺した瞬間に、ドッペルゲンガーも消滅してしまう」
ということになるのではないか?
そうしないと、ドッペルゲンガーだけが、この世に残るという発想はおかしなことになってしまう。
それこそ、
「入れ替わりの発想」
であり、入れ替わってしまうこの考えは、
「カプグラ症候群」
というものに、結びついてくるのではないだろうか?
カプグラ症候群というのは、
「自分の家族などのように近しい人たちが、別人と入れ替わっている」
と思い込む精神疾患の一種だが、ここでいう、別人というのは、
「もう一人の自分」
である、ドッペルゲンガーとは別なのか?
という発想になるのである。
それにしても、10分先に、
「もう一人の自分」
がいるというのは、何と気持ち悪いことなのだろう?
小説では、その感情は押し殺して、10分前の自分に対して嫉妬しているところだけを浮き彫りにしていた。
10分前の自分は、せっかく見つけた彼氏を独り占めにしていると思い込んでいた。いや、自分よりも先を歩いていて、絶対に追いつけないのだから、絶対的優位に立っているのは間違いない。
「下手をすると、手柄になるようなことをすれば、10分前の彼女の手柄であり、彼女が何か失敗をすると、その責任は、後に現れる自分の責任になってしまうのではないか?」
という思いに駆られてしまう。
まさにそうだった。
本来なら、自分が本当の自分のはずなのに、ドッペルゲンガーの方が、完全に表に出ている。
いや、10分先という、本物の自分よりも先にいる時点で、それがドッペルゲンガーであろうがなかろうが、本当の自分に置き換わってしまっているのではないか?
「まさかとは思うが、他の人には、この自分が見えていないのだろうか?」
とすら思えてくる。
他の人と一緒にいる時の自分は、自分が思っている態度をまわりの人に取っていないのかも知れない。もし、自分が自分としての態度を取っていれば、ドッペルゲンガーとの違いに気づき、
「何か、さっきの君とは別人のようじゃないか?」
と、一人くらい言ってくるものだ。
それがないのは彼氏だけで、彼は、最初から、ドッペルゲンガーの存在を知っていることで、違いがあるのは当たり前だと思っていることだろう。
「そういえば、どうして彼は最初から私にドッペルゲンガーがいることを知っているのかしら?」
と思った。
ドッペルゲンガーの言い伝えから考えると、ドッペルゲンガーの存在を知れば、知った人間も、近い将来に死んでしまうことになるのではないだろうか?
それなのにm彼は平然としている。平然と、ドッペルゲンガーも抱くし、この自分も抱くのだった。
「身体はまったく同じだね。感じるところも、感じ方も、寸分変わりはない」
と平気で言ってのける。
恥ずかしくて顔から火が出そうなシチュエーションなのに、恥ずかしいわけではなく、それよりも、嫉妬で顔が真っ赤になっている。
他人に対して感じる嫉妬ではない。明らかに自分に対しての嫉妬だ。しかも、男の口からは、
「身体は寸分違わない」
と言われているのだ。
そんな彼氏だったら、どっちを選んでも無理もない。
だが、彼には、どちらかを選ぶということはできないようだ。
「どちらかを選ぶということは、結果、どっちも選んでいないような気がする」
といっているように感じられた。
「きっと、彼はどっちも選ばない。だから、私は選ばれることはないんだ」
と思っているのに、彼を諦めることはできない。
それは、
「自分で自分を放棄しているようなものだからだ」
といっているのと同じではないだろうか?
彼が、選べないというのは、
「ひょっとすると、どちらかを選ぶと、どちらかを抹消することになり、その時点で、自分が死んでしまうことになると思っているのではないか?」
と思った。
そして、他の人を選んだとしても、同じことであり、彼にとって、どちらか、いや、あるいは、二人に対して、平等に愛を注ぐということをしていかないと、生きる道がないのだとすれば、あの落ち着きは分からなくもない。あれは、彼にとっての、
「覚悟」
であり、
「腹を括っている」
ということになるのであろう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます