お嬢の願い事

 訓練を始めてから二ヶ月が過ぎる頃には、僕の動きは自分でもわかるほどスムーズになっていた。それどころか、いつどこでヴィランと出会ってもいいように普段から建物の構造や角度なんかを気にする癖までついていた。

 ヴィランを殺せるかもしれないという期待が胸を膨らませる。だが、殺せる実感が湧けば湧くほど、どこかで不安を感じていた。

 僕はもう逃げられない。お嬢より早く妹の敵を討つ。ただ、それだけのことだと自分に言い聞かせ夜を過ごした。

 今日もヒナタと訓練を開始する。締めでやる鬼ごっこは僕の勝ちだった。

「今日はお嬢来ないね」

 いつもの公園でアイスを食べながらヒナタは呟く。

 アイスを頬張るヒナタの笑顔、暗闇の中綺麗に輝く星々、そのどれもが僕の日常として溶け込んでいた。

 だからこそ、僕は大切なことを忘れていた。幸せが砕けるのは一瞬だ。

 ヒナタの携帯電話が鳴り響く。スピーカーから黒木の焦ったような声が聞こえた。馴染みのある住所とともに「急げっ!」と叫ぶ声。

 その瞬間、僕は察した。ヴィランが僕と父の家に乗り込んだのだ。


 訓練通り、最短距離を走る。頭に過るのは妹、ヒナタ、お嬢の笑顔。

 拳銃を握りしめ、家の隠し扉から中へ入った。

 やけに静かだった。家のリビングは想像よりもずっと綺麗で何事もなかった。

 間に合ったのかもしれない、そう期待を胸に父の部屋を開けると同時に僕は拳銃を落とした。震える手で息を確認し、亡骸をみつめる。

 そこは地獄だった。全てが間に合わなかった。

 部屋には死体が三つ。一つは僕の父だ。彼は安らかにベッドの上で息を引き取っていた。

 後の二つに目を向けたとき、今まで聞いたことのない音が耳を襲う。それがヒナタの絶叫だと理解するのに時間がかかった。

 彼女は並んで床に転がっている二つの亡骸に抱きつく。片方はお嬢だ。彼女の腹は赤く染まっていた。

「ヴィランが死んだのに、君は少しも嬉しそうじゃないね。」

 黒木が冗談のように軽い口ぶりで僕に囁く。その時初めて僕はお嬢の隣に並ぶ死体がヴィランのものだと気づいた。

「嘘だろ…」

 ヴィランの素顔は幼く、制服を着ていた。誰からも恨まれ殺人鬼として生涯を終えた彼女はまだ高校生だ。

 頭の整理をしよう部屋を見渡す。ふと、足元に血で汚れた手紙が落ちているのに気がついた。



『黒木に大切な人を失う悲しみを知ってほしくなかった。

 ヒナタに笑って明日を生きてほしかった。

 いきなり現れた死んだ目のお兄さんに人を殺す苦しみを味わってほしくなかった。

 何よりも、ヴィランを救いたかった。

 

 ヴィランは、悪魔でも鬼でもない。

 孤児で誰からも愛されず殺人兵器として育てられた悲しい人。

 繊細で純粋で子どもを守る優しい人。

 幼い頃から洗脳され、家畜を殺すようにターゲットを無心で殺す残酷な人。

 自分の罪に気付いてしまった居場所のない孤独な人。

 私や黒木、ヒナタを救ってくれた大切な人。


 彼女を一人にしたくなかった。最後くらい一緒に逝きたかった。

 だからこそ、一人で完璧にやることにするわ。


 ごめんね、ヒナタ。誰も殺したくない。誰にも死んでほしくない。そんなヒナタの願いに答えられなかった。

 

 黒木、避けてごめんなさい。


 お兄さん、人を殺さないで生きられる人生をどうか楽しんで』


 僕はもう一度二人の亡骸を眺める。恐らく二人とも即死ではない。

 命が尽きるまでの数分間あるいは数秒間、きっと心の底にある愛を分け合ったのだろう。

 彼女たちの手は死んでもなお繋がれていた。

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