勇者のいけにえ
剣と翼のシンボルを掲げた白亜の巨塔、聖騎士庁の庭は傷だらけのパトカーで埋め尽くされていた。
無線からハウリングした騎士たちの声が響き、貧民窟での救護活動の進捗を告げる。
スターンはパトランプの赤い光の波を掻き分けながら、背を丸めて進んでいた。
「避難民の救護が完了しました!」
「お疲れ様です。本当にありがとうございます……」
スターンは彼らの部下のように深く身を折る。
「長官、……言いにくいのですが、今オークス都議がいらっしゃっています」
「兄さんが?」
「今回の疎開プランに関して重役と談義があるとのことで……そして、もっと言いにくいのですが」
黙り込むダイルの代わりにデッカーが言葉を継いだ。
「長官殿の婚約者ムエルさんが押しかけてきました。オークス都議に直談判したいことがあるらしい」
スターンはこの世の終わりのように青ざめ、建物の中に駆け込んだ。
「ムエル、兄さん!」
スターンは分厚い木の扉を押し開ける。扉の重量に耐えかねて痛む腕を押さえながら会議室を見渡した。
オークスとムエルが机を挟んで睨み合っていた。室内の迂闊に触れれば血が流れそうなほど張り詰めている。
スターンは卑屈な笑みを浮かべた。
「な、何があったんですか……」
オークスは茶色い液体が入ったグラスに唇をつけ、ふたりを睥睨する。
「スターン、お前は何だ。聖騎士庁長官か、厄介事を生産する工場長か?」
「長官ですね、たぶん……」
「そうは思えないな。殺し屋に頼らない統京の保全を謳いつつ、言うに事欠いて殺し屋ギルドのマスターを許嫁に選ぶとは」
「え、選んでません……」
ムエルはスターンを一瞥し、気まずそうに俯いてから、再びオークスを睨んだ。
「丁度いいわ。スターンにも聞いてもらいましょう。ここでの会話は公的な議事録に記録されますから心するように」
「何をですか?」
「オークス都議の疑惑について、よ」
オークスは鼻で嘲笑を返した。
ムエルは懐から紙片を取り出す。赤ペンで細かな測量記録が書き込まれた、古びた地図だった。
「貧民窟を誘致する直前、あそこの地中深くに存在する
「遥か昔に滅んだ魔王の遺物だぞ。危険性はない。都議たちの総意だ」
「いえ、実際に計画は中止に傾いていたわ。しかし、貴方が無理やり断行したのよ。統京の所有権を持つ貴族の末裔、ルゴス家と密談してね」
「まったく、どんな手を使って嗅ぎ回ったのやら」
オークスは肩を竦め、グラスに唇をつけた。
「私が幾つの政策に携わってきたと思っている? その中で、不本意ながら失敗したものだけを晒し上げて疑惑呼ばわりとはな」
「では、これも不本意な失敗だったの?」
ムエルはもう一枚の灰色の紙を取り出す。
「
「それがどうした」
「クリゼールが所有していたのは≪勇者の目≫だったわ。誤った情報のせいで聖騎士庁に被害が出た」
「あの段階では判断材料が足りなかった。情報が筒抜けなら聴覚に由来する異能と誤認してもおかしくないだろう」
「本当に誤認かしら」
ムエルは部屋の隅で胃痛を堪えるように蹲っていたスターンを指す。
「スターン、貴方は≪勇者の鼓膜≫を保有しているわね?」
「は、はい……」
「お義兄様はご存知?」
オークスの射抜くような視線が刺さる。スターンは歯を食いしばって頷いた。
「聖騎士庁の樹立と同時に報告しました……」
ムエルは腰に帯びた鉄鞭の柄を叩いた。
「オークス都議、貴方は聴覚に関する≪勇者の欠片≫が弟の手中にあることを知っていたわ。それなのに、魔族が類似する欠片を持っていると推測したのは片手落ちではなくて?」
オークスは空のガラスを傾け、眉間に皺を寄せる。
「……結論は何だ」
「貴方は魔族に協力し、故意に聖騎士庁及び統京を不利にしようと企んでいる。違うかしら?」
会議室の空気が凍る。スターンが震える手を振った。
「な、何を言ってるんですか……そんな、冗談で済みませんよ……」
「兄弟で意見が合ったのは初めてだな。無駄な時間だった。陰謀論ならゴシップ記者に売れ」
「ご自身に魔王禍認定が希望ならそうしますわ。都議が人類の敵だったなんて大スクープですもの」
オークスの指先が筋張り、グラスが軋む音を立てる。
「人類の敵だと? 殺し屋風情がふざけるなよ。私がどんな思いで議会に仕えてきたか……」
彼は腹の底から唸り声をあげ、ムエルに破れたグラスを投げつけた。
鋭い音が響き、緋色の絨毯に一段鮮明な赤の雫が飛び散った。
「スターン!」
ムエルが叫ぶ。正面から硝子の破片を受けたのはスターンだった。
「ふ、ふたりとも落ち着いてください……」
悲痛な声で懇願する彼の額から夥しい血が流れ、破れた眼鏡が赤く染まる。ムエルは鉄鞭に手をかけた。
「お前……!」
「やめるんだ! 殺し屋が統京都議に手を出したらどうなるか、わかるだろう!」
聞いたことのないスターンの怒声にムエルが怯む。
彼は血まみれの手で眼鏡を押し上げた。
「そ、そう……会議室で流血沙汰などあってはならないことです……」
スターンは細い息を吐き、いつもの卑屈な笑みを浮かべた。
「で、ですが、これは兄弟喧嘩ですから……そうですよね、兄さん!」
オークスは血に染まった弟の視線を受けてたじろいだ。
「お、男兄弟の喧嘩ならつい手が出て怪我をするなんてよくあることです。だから、何の問題もありませんよね?」
「……そうだな」
「これは公的な場ではないから議事録はいらない。今までの話はただの雑談ですね?」
「ああ、家族間での諍いだ」
「会議ではないなら、もう早退しても構いませんよね?」
「いいだろう。早く医務室に迎え」
「では、失礼します」
スターンは踵を返し、ムエルの手首を掴むと、争う彼女を引きずって会議室を出た。
重たい扉が閉まった瞬間、スターンはその場に崩れ落ちた。
「あ、あの、私どうなってますか? 額が割れてますよね? 脳とか出てないですよね?」
「貴方ってひとは、何て無茶をしたの!」
「私は弱いので、これくらいしかできませんから……」
スターンは眼鏡を外し、自嘲の笑みを浮かべる。ムエルは彼の額に強くハンカチを押し当てた。
「……脳は出てないわ」
「痛いのでそんなに押さないでください……」
「本当に苛つくひとね」
「すみません……」
「一番苛つくのは、誰も貴方の強さを信じないことよ。貴方自身でさえも」
ムエルは血が染みるのも構わず、スターンの頭を抱いた。
***
会議室に残ったオークスは視線を爪先に下ろした。弟の血痕が乾き始めている。彼は靴底でそれを揉み消すと、顔を上げた。
彼の先には三つの黒い影があった。
ひとつ目は魔王のダンジョンにも姿を見せた、褐色の顔にひび割れたような傷痕を残す
ふたつ目は純白のドレスに身を包み、机に腰掛けるリートゥス。
みっつ目は上質な黒いスーツを纏った、恰幅の良い壮年だった。高級な服に似合わず、全身から闘気が滲み出している。
オークスは彼に一礼した。
「ルゴス様、お待たせしました。野暮用が入りまして」
男の代わりに、ジハルが答える。
「血の匂いがするな。会議室には不向きだ。やり手の政治家だって聞いてたが、刃傷沙汰も得意か?」
オークスは目を瞬かせる。彼の疑念に気づき、ジハルは口角を上げた。
「前にも会ったか。悪いが、記憶が保たないようになってるんだ。お陰で機密保持は完璧。傭兵にお誂え向きだろ?」
ルゴスと呼ばれた大人が手を振る。
「無駄話はそこまでだ。ただでさえ時間が押している。オークス都議、聖騎士庁は貧民窟の疎開プランを決行したようだな。お前の読みでは失敗に終わるはずだったが」
ルゴスの目が赤い光を帯びた。オークスは喉元を掴まれたように喘ぐ。
「申し訳ありません。四騎士が出るとは思わず……」
「良い。土傀と哀れな娘にやった欠片は玩具同然だ。はなから成果を期待してない」
ルゴスが目を背ける。オークスは片膝をつき、浅い呼吸を繰り返した。
彼を憐れむように見下ろしていたリートゥスが微笑む。
「でも、人類の生存圏を奪えなかったのは痛手よ。我々の楽園を作る計画はどうなるのかしら、ルゴス?」
「無論、続ける。次は遺物に小細工をするのではない。一から場所を造る。そのための≪魔王の欠片≫は用意した」
「相変わらず真面目ね」
「お前は不真面目すぎる。勇者を造る遊びにかまけている場合か」
オークスが冷や汗を拭う。
「勇者を造る、ですか」
「そうよ。人間には勇者がいて、我々魔族にはいないなんて不公平じゃない」
「それは……」
「今回で確信したわ。聖騎士庁は勇者の心を持ちながら力が及ばない。四騎士は勇者の力を持ちながら心が及ばない。やっぱり私が造るしかないのね」
リートゥスは肩を竦めて、軽やかに机から降りた。
「そのために、邪魔な保勇機関はどうしようかしら」
統京には滔々たる闇が広がっていた。
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