弱者の月
「人間は……いつでも私を殺そうとするのね」
今まで震えていたミリアムは、初めて憎悪に満ちた声を漏らした。
「御父様も御義母様も義妹も、貴方たちだって……みんな、私が生きるのを許さない。聖騎士庁も殺し屋も私を助けてくれなかった。助けてくれたのは彼だけよ」
リデリックは視線を跳ね返すように首を振った。
「それは違うよ。君を救うために立場を顧みず奔走した人間がいる」
彼はスーツの上着から一枚の羊皮紙を取り出した。何十年も埃を被った書庫に放置されていたような、日焼けて乾涸びた紙だった。
「聖騎士庁長官直々に下された魔王禍認定取下げ書だ。ミリアム、君の署名ひとつで死刑宣告を無かったことにできる」
ミリアムは息を呑み、口を噤んだ。エレンシアがヴァンダに囁く。
「魔王禍認定取下げ書?」
「統京が生まれたときに形だけ作られた制度だ。人間が自身の命を脅かされて非合意で魔族に協力したと判断された場合のみ、魔王禍認定を取り下げ、統京が保護に努めるっていうな」
「聞いたことがありません」
「そんな奴がいねえからだよ。六十年前、一度も使われなかった。今じゃ存在すら知られてねえ」
聖騎士ふたりの声が堅牢な土の迷宮を揺らす。
「その通り。皆、魔王禍は自らの意思で魔族に従った。聖騎士庁もとっくに彼らを見限っていたとも」
「だが、我らが長官は百人に裏切られてもひとりを救うため戦った! 侍祭の役職をもって、形骸化したこの制度を復活させたのだ!」
リデリックは羊皮紙を手に、断崖へ進み出た。
「ミリアム、もし君が尊い人命を脅かされて仕方なく魔族に与したというのなら、聖騎士庁が命に替えても君を助けよう」
静まり返った暗闇に、断続的な蒸気の音と駆動音が満ちた。ジェサが唾を飲む音が響く。
土傀エーテルは震える妻の肩を支えながら彼女を見つめる。ミリアムは僅かに頷くと、その手をそっと解いた。
「ええ、受け入れるわ……助けてちょうだい」
ジェサは強張った顔を一瞬で笑顔に塗り替えた。
「よく言った! 今から我々が全力で保護を……」
進み出たジェサの足元が振動する。聖騎士ふたりの真下から氷柱じみた土の槍が突出した。
ヴァンダが鋭く叫ぶ。
「リデリック!」
「わかっている!」
リデリックは細い刀身を翻し、土柱のひとつをひとつした。地面を突き抜けた堅牢な檻が次々とひび割れ、土埃を舞い上げる。
砕けた土塊を刃で薙ぎ払い、リデリックは目を伏せた。
「わかっていたさ」
「先生……」
「ジェサやスターン長官と違って私は元殺し屋だ。君の行動は想像できた。私が予想できることは、君はとっくに魔王禍だったということだ」
ミリアムは凍てつく視線で彼らを見下し、女帝らしく片手を振った。エーテルが首肯を返す。
天地が揺れる轟音が響き渡り、隕石じみた土の塊が天井から落下した。
「ジェサ!」
「はい、先生!」
リデリックとジェサは落下する土塊を足場に駆け抜ける。踏みしだかれた土は脆く崩れ落ち、一歩踏み出すのが遅れれば奈落へ消える。
リデリックの足元の土にヒビが入った。
「先生、行ってください!」
ジェサが両手に盾を掲げて踏み込む。
「すまない、借りる」
リデリックは盾を足場に跳躍した。反動でジェサが落下すると同時に、≪勇者の正義≫が迷宮を暗転させる。
リデリックは闇中で弟子が着地する音を聞き届け、片手剣で暗闇を薙ぎ払った。鋼がより硬質ものを弾く激音が走る。ミリアムめがけて放たれた刺突は、首から下を覆う土の鎧に阻まれていた。
「わかっていた、ですって?」
ミリアムの表情は闇に溶けて見えないが、声は怨嗟を纏っていた。
「知ってるわ。"残花"のリデリック、元四騎士でしょう? 初めから強くて、殺し屋の頂点に立った貴方に、弱い人間の気持ちがわかる訳ないじゃない」
「そう思われているなら光栄だね。だが、違うよ」
リデリックはレイピアを切っ先を向けたまま目を伏せた。
「他の四騎士は皆、君が思うような天才ばかりだ。初めから人間としての規格が違う。直近で見ていてずっと悔しかったし、情けなかったとも。私は四騎士最弱だった」
満ちる蒸気の音にミリアムの吐息が混ざる。リデリックは口角を上げた。
「だが、嫌いにはなれなかったな。憧れた。美しいと思った。彼らの強さは人間を守ってくれるからね」
迷宮に光が戻り、視界が開ける。
リデリックの周囲を土の槍が取り囲んでいた。エーテルは妻に差し向けられたレイピアを素手で払い除けた。
「御託はそこまでだ。お前のような不埒な男は妻に近づけたくない」
「確かに私は気が多い方だし、君の奥方は美人だ。でも、安心してくれ」
リデリックは片眉を吊り上げた。
「無闇に人間を害する者だけは、私の好みじゃないんだよ」
リデリックを囲う土の槍が砕け散る。
エーテルの頭上で、闇にも掻き消されない真紅の髪が揺れた。
「魔族と気が合ったのは初めてです。御託はそこまでですよ」
エレンシアが虚空を掴む動作をする。破砕された瓦礫を陰に、ヴァンダが駆け抜けた。
エーテルは指先ひとつで空中に浮遊する無数の土塊を引き寄せる。
「甘い」
「てめえがな」
ヴァンダの声を合図に、土塊が散り散りに破れ、中から深紅の鎖が溢れた。
「エーテル!」
ミリアムが伸ばした手は鎖の波に阻まれる。血の鎖錠の中から忌々しげな声が漏れた。
「土に血を染み込ませていたのか……!」
「ああ、お陰で貧血だ。とっとと終えさせてもらうぜ」
ヴァンダが山刀を翻した。
「暗殺ってのはこうやるんだよ」
エーテルを包む鎖の中央から刃の先端が突き出した。切っ先には土の欠片と、紅蓮に燃える土傀の核が絡みついている。刀身から血液に似た赤い雫が滴り落ちた。
鎖が音もなくヴァンダの手首に吸い込まれる。胸に空洞を開けたエーテルは、土嚢のように崩れ落ちた。
「嘘よ!」
ミリアムが悲痛な声を上げ、彼に駆け寄る。エーテルの蒼白な唇から輝く赤い雫が伝い落ちた。
ヴァンダは山刀の刃を拭った。
「女も殺しておきたいところだが、聖騎士庁の顔を立てておくか」
エレンシアは溜息混じりに首を振る。
「まず私の顔を立てなさい。殺すべきですよ」
「とはいえ、今回の作戦は奴らの立案だからな……リデリックは下か」
ヴァンダは断裂した地層を眺める。リデリックはジェサを探すため、地割れの底へ降りたらしい。
迷宮にミリアムの泣き声がこだました。エレンシアは彼女を一瞥し、僅かに目を伏せた。
「ひとまず、終わりましたね」
「まだよ」
女の声が答えた。ヴァンダとエレンシアは辺りを見回す。
夫の亡骸を抱くミリアムが、全ての表情を打ち消した顔でこちらを睨んでいた。
「私を救いも殺しもしなかったことを後悔させてあげるわ」
肩を震わせて泣いていた娘とは思えない、冷え切った声だった。
ミリアムはエーテルを抱き寄せ、額に唇を落とす。
「土傀の動力は人間……最後まで一緒よ、貴方」
ヴァンダが喉を鳴らした。
「くそっ、殺しておくべきだったな……まずいのが来る」
「ヴァンダ、何が起こるのですか」
「魔王の螺殿迷宮の最終形態だ」
エレンシアが目を見張る。
蒸気と土煙の中で、ミリアムの身体がエーテルに吸い込まれるのが見えた。
低い鳴動を轟かせ、迷宮が震撼した。四方の壁が折り畳まれるように剥がれ落ち、中央へ収束していく。天蓋が破れ、闇より一段明るい薄暮の空が覗く。
土の迷宮が瞬く間に消えた。ヴァンダたちの前に聳えているのは、土傀の名が本来意味する、城壁のような土の巨人だった。
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