ムーンブレイカー
スターンは他人の家に忍び込んだように、身を竦めて自宅の廊下を進んでいた。
昼間のように明るい照明が、緋の絨毯に細い影を伸ばす。
スターンは分厚い樫の扉を叩いた。
「兄さん、お邪魔します……」
机に向かう都議オークスは振り返りもせずに答えた。
「泥棒のように入るな。邪魔をするなら帰れ」
「そ、そうですね」
「本当に邪魔をしに来たのか?」
「いえ、お話があって……」
「なら、早く言え」
「あの、貧民窟のことなんですが……あれを誘致したのは兄さんですよね」
「それがどうした」
「ご存知かは知りませんが……」
オークスは振り返り、鋭い眼光を向けた。
「魔王禍が出たんだろう? お前が馬鹿な疎開プランを押し付けられていることも。そこで部下が失踪した際、お前が殺し屋界に情報をリークして助けを求めたことは知らない方がよかったか」
スターンは媚びるように笑う。オークスは再び背を向けた。
「貧民の疎開は中断しろ。あそこは統京で最も総生産率が少ない。資金を回して救うより切り捨てた方が得だ」
「だ、駄目ですよ……」
「何故?」
「弱者を切り捨てたら、私が切り捨てられる側に回ったとき何も言えません。そんなのは怖いですから……」
オークスは嘲笑だけを返した。スターンは俯き気味に扉を閉める。錆びた蝶番が断末魔じみた音を立てた。
「と、いう訳で……私が殺し屋界に助けを求めたことが糾弾されて、魔王禍の討伐と住民の避難は聖騎士庁のみで作戦を行うよう指示されてしまいました……」
スターンは会議室に集まる面々を見渡して卑屈に笑った。
狭い部屋には聖騎士庁の部下たちだけではなく、保勇機関と殺し屋ギルド戦士の巣のマスター・ムエルまでもが集っていた。
口火を切ったのはムエルだった。
「お義兄様に直談判してくるわ」
「やめてください。あと、結婚してないのにお義兄様と呼ぶのもやめてください……」
「今のうちに慣れておかなきゃいけないでしょう?」
「何にですか……」
エレンシアは溜息混じりに問う。
「まず、貧民窟の疎開プランはできているのですか?」
「あ、それは大丈夫です。測量士のギリヤさんが一晩でダンジョンの展開予想図と
グレイヴの重く低い声が割り込んだ。
「リデリックとジェサは住民の避難誘導に徹する。俺と師匠が妨害に来るであろう魔王禍の迎撃だ。肝心の本命だが……対処には圧倒的に戦力が足りない」
ヴァンダが小さく笑う。
「都議の指示に従うってか? 随分と行儀がいいんだな。常識破りは殺し屋の定石だぜ」
「コンプライアンスが緩かった時代のお爺ちゃんの独断です。保勇機関の総意だと思わないでください」
エレンシアの訂正にヴァンダは肩を竦める。
「聖騎士庁の仕事は貧民窟の防衛。そりゃ結構。殺しの依頼は別だろ。なあ、ボス?」
「はい、ムエルが魔王禍ミリアム討伐の依頼し、我々が受理する。四騎士は殺し屋の協定に基づいて自主的に魔王禍の討伐に来た形をとって断行。聖騎士庁は蚊帳の外です。問題ありません」
ムエルが頰を綻ばせた。
「素敵ね。では、依頼するわ。受けてくださる?」
「無論です」
「これで解決ね、スターン?」
「後で死ぬほど怒られると思いますが、ひとまずは……」
スターンは引き攣った笑みを浮かべた。
作戦は宵の入りに決行される。
貧民窟のヴィカス通りを大勢の住民が行き来し、聖騎士庁の用意したトラックに乗り込む。押し寄せる人波を誘導するのは輸送兵のデッカーとダイルだった。
トツカとグレイヴはあるビルの屋上に腰掛け、地上を見下ろしていた。
猥雑なネオンも排気ガスも今は消えている。アスファルトに広がる汚水が赤の誘導灯を反射して、路面の中にもうひとつの街があるように見せていた。
「私に撤退支援をさせるなどどういうつもりですか。衆愚の中では存分に刀を振るえません」
咥え煙草のトツカに倣って、グレイヴも煙草に火をつける。
「意外です。師匠はもっと強いかと思っていました」
「何ですって?」
「俺の知る"錆切り"トツカは一般人を見捨てなければ勝てないような剣士ではないと言っているんです」
トツカは呆れたように息を吐いた。
「慮外者め。師に安い挑発を仕掛けるとは」
「本心ですよ。師匠はその気がないにしても大勢の命を救っている。俺の理想です」
「お前は余計なことばかり考えていますからね。ただ万物を斬ることのみを考えればいいのです」
「全てを斬り伏せたら誰が貴女の強さを伝えるんですか」
グレイヴは小さく口角を上げた。
「俺が師匠に教わった剣でひとを救えばいいんです。そうすれば、貴女の功績にもなるでしょう。回り回って得になると思ってください」
トツカは答える代わりに突き落とさんばかりに弟子の背を叩いた。
シモスもまた積み重なったコンテナの上から聖騎士庁を見下ろしていた。
色とりどりの立方体は夜闇を埋め尽くし、埃を被った玩具箱のような光景を作っていた。
シモスの傍らにいるのは黒い煙草を指に挟んだルーシオだった。
「怯えた顔だな、
「緊張して……」
「嘘は吐くなよ。特に自分自身には」
「えっ……」
「同類だからわかるさ。お前は自分の殺意が怖いんだろう」
驚くシモスに、ルーシオは青白い顔で微笑む。
「居辛くてかなわないな。統京は未だ勇者物語の中だ。皆が心の隅に勇者を飼っている。だが、偶に俺のような異物も生まれる。勇者物語には存在してはいけない人間が」
シモスは喉を鳴らし、張り詰めた声で聞いた。
「ルーシオさんはどう折り合いをつけているんですか」
「折り合いも何も、そう生まれついたものはどうしようもない。許されたいとも思わないさ。だが、勝手な物語をつけられるのも気に食わない。俺は英雄だと思われるくらいなら、最期に派手にひとを殺して、死んで、忘れられたい」
「でも、僕は勇者の意志を継ぐ皆の仲間でいたいんです。怒りで我を見失う悪人だとしても」
「難儀だな」
ルーシオは煙草のフィルターを噛んだ。
「建前を掲げて戦い続けることだ。どうしても潰れそうになったら俺に言え。お前の罪の意識に見合うくらい惨たらしく殺してやる」
「考えておきます」
シモスが微かに微笑む。
「そういえば、キーダさんは何処に?」
「安心しろ、逃げた訳じゃない」
ルーシオはコンテナから飛び降り、夜闇に溶けた。
ヴァンダとエレンシアが構えるのは、ヴィカス通りの中心部だった。
黒い電線が絞首台のロープのように下がり、夜空を埋め尽くす看板に垂れる。換気扇と錆びた鉄柵のベランダには、住民が避難の際に忘れた衣類が揺れていた。
「勇者との旅を思い出しますか、ヴァンダ?」
「まあな」
「不安ですか? 今ここに勇者はいない」
「お前がいるだろ」
「百点の答えです」
エレンシアは満足げに笑う。
「お前はどうなんだよ、エレンシア」
「貴方なら誤解しないでしょうから素直に言いますが、楽しみです。勇者が戦った場所を肌で感じられるので」
「そうかよ」
ヴァンダは横転したバイクや屋台の椅子が転がる路地裏を見つめた。
「お前には普通に勇者に会わせて、ダンジョンなんかじゃなく露店や公園にでも連れて行ってやりたかったがな」
「ないものねだりをしないように。それに、勇者はいなくても"赤い霜"がいるでしょう?」
エレンシアが片目を瞑ったとき、通り全体が震動を始めた。
ネオン管が砕け、撓んだ電線から火花が散る。空から降り注いだ。折れた標識が屋台の幌に突っ込み、アイスケースの硝子が飛散した。
ヴァンダとエレンシアは視線を交わす。
「始まりましたね」
「止まるまで動くなよ。巻き込まれるぞ」
夜空を下から掻き消すように周囲の壁が隆起した。
貧民窟の全体が駆動する。無数のコンテナが上方へと伸び、半球を造るように展開し始めた。
そのとき、闇中を雷光に似た一条の光が駆け抜けた。
銃声すら聞こえない距離から放たれた弾丸はコンテナを砕き、覆われた空を露出させる。
次いで放たれた銃弾が次々と鋼鉄の天蓋に穴を開けた。
貧民窟の最奥部、洗濯機の中のように揺れ続ける場所でキーダは引鉄から指を離す。
「面倒な会議はサボらせてもらったからね。少しは働いてもいいかな」
彼はスコープに映る路地を見定めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます