悪人のための手引書
再び聖騎士庁に招かれた保勇機関の面々を出迎えたのは、取り乱したスターンだった。
「ど、どうしましょう! どうにもなりませんか! グレイヴさんがいなくなるなんて……!職場や給金に不満があった訳じゃないですよね!?」
冷汗を浮かべる彼の背をムエルが叩く。
「聖騎士庁の長官が情けなくてよ」
エレンシアは少し黙ってから彼女に言った。
「確認ですが、貴女は何もしていませんよね?」
「何を仰るの。私は恋敵とは正々堂々戦うわ」
「恋敵ではないと思いますが」
ロクシーの背後で俯いていたシモスが身を乗り出す。
「グレイヴさんが消えたって……例の殺し屋失踪事件と関係があるんですか」
スターンに代わってリデリックが答える。
「ああ、彼は二日前の夜から調査にあたっていた。昨日の昼までは定時連絡が来ていたが、急に途絶えたんだ」
「そんな……」
ヴァンダは腕を組む。
「あの
「貧民窟の第九区、ヴィカス通りだよ」
「私のギルドがある場所よ」
ロクシーが眉を顰めた。
「ヴィカス通り……人喰い横丁か?」
「兄さん、知ってるんですか」
「昔近くで仕事をしたことがあってな。あそこは偶にひとが消えるんだ。浮浪者や犯罪者の溜まり場だから誰も問題にしなかった。お陰で仕事もやりやすかったが……」
「兄さん、仕事って何ですか」
シモスの目から光が消えたのに気づいて、ロクシーは顔を背ける。
「私はそんな場所にギルドの拠点を置いてしまったのね」
静まる応接間にムエルの溜息が響いた。エレンシアは顎に手を当てた。
「場所自体に曰くがあるようですね。しかし、ただ調べるだけではグレイヴの二の舞になるだけでしょう」
「私が行こうと思っているよ。これでも元四騎士だからね」
リデリックの声をスターンが遮った。
「だ、駄目ですよ!」
「何故だい? 長官もグレイヴが心配だろう?」
「貴方も心配ですよ! あんな重傷を負ったのに、今戦ったら死んでしまいますよ! 私はグレイヴさんに戻ってほしいだけです! ふたりも失うなんて冗談じゃない……」
椅子が揺れるほど震えるスターンの手をムエルが握る。
リデリックは目を伏せた。
「ありがとう。でも、誰かが行かなければ」
「私に行かせてください!」
愚直なほど堂々と声を張り上げたのはジェサだった。
「ジェサ……」
「先生が動けぬ今、聖騎士庁で≪勇者の欠片≫を使えるのは私だけです! 弟子として役目を果たして見せますよ!」
「しかし……」
シモスが小さく手を挙げた。
「だったら、僕も行かせてください」
エレンシアが冷然と首を振る。
「グレイヴに魔剣を借りた恩義から名乗り出たのならやめなさい。命を捨てるだけです」
「それだけじゃありません……僕たちにはこの前回収した≪勇者の目≫がある。万一僕からの連絡が途絶えたとき、それを使えば失踪事件の犯人の手がかりや本拠地がわかるかもしれない」
「犯人の目撃情報は未だありません。もし、見た者を殺す魔王禍の犯行だった場合は?」
「ジェサさんがいれば≪勇者の正義≫で無効化できます」
口を噤んだエレンシアに代わってヴァンダが呟いた。
「そりゃ保勇機関が出る理由にはなっても、お前が出る理由にはなってねえな。未知の敵が相手だ、俺が行く方が確実だろ」
「未知だからです。現状、最も消えても支障がないのが僕だ」
「シモス……」
ロクシーが弟の背に手を伸ばしかけてやめた。
エレンシアは一拍置いて言った。
「いいでしょう。但し、消えてもいいからではなく、自分なら解決できるからと言いなさい」
「ありがとうございます……」
「長官、よろしいですね?」
スターンが震えを激しくしたような動作で頷き、交渉が終わった。
保勇機関の面々を乗せた車は、ビルの並ぶ統京都心を外れ、貧民窟へと向かっていた。
違法増築された家屋が積木のように段を作って天に伸び、空を狭くしている。明かりを消したネオン管に洗濯物とゴミが垂れ下がっていた。
タイヤが割れたビンのガラスを踏み砕く音を聞きながら、ロクシーは無言でハンドルを操る。
後部座席のヴァンダが言った。
「シモス、お前が名乗りを上げた理由は他にもあるだろ」
か?」
「何の話ですか……」
「この間、
「ヴァンダ……」
エレンシアが咎めるような視線を向ける。
ヴァンダは構わず助手席の背もたれに腕をかけた。
「何でわかるかって? 俺がそうだったからさ」
シモスは弾かれたように振り返った。
「ヴァンダさんが、ですか?」
「ああ、考えても見ろよ。薄汚ねえ殺し屋が勇者の隣に並ぶんだぜ。そりゃ自分が嫌になる。いっそ善良な民を救って死んじまえたらと思ったさ」
ヴァンダは窓外を流れる汚濁の街を横目で見た。
「だがな、勇者の救った世界には殺し屋も犯罪者も大量にいる。信じられねえだろうが、勇者はクズでも悪人でも生きてられるのが平和だと思ったんだ」
「でも……」
「まあ、手前で折り合いつけるしかねえよ。理想的なのは四騎士に会うことだな。あの異常者集団が肩で風切って歩いてるの見りゃ、前も悪もどうでもよくなる」
ヴァンダが身をひいて座り直すと、エレンシアが彼の膝を叩いた。
「励ますならわかりやすくなさい」
「何のことだか」
ルームミラーに小さく微笑むシモスの口元が反射した。
車は水色とピンクのコンテナを繋ぎ合わせた壁の前で停まった。
「ここから第九区、ヴィカス通りだ」
シモスはシートベルトを外し、ヴァンダたちを振り返る。
「犯人を殺してグレイヴさんを連れ帰ります」
「気をつけて」
それから、正面を見つめるロクシーの横顔に言った。
「兄さん、言ってきます」
ロクシーは答える代わりに片手を上げた。
シモスは車を降りた。
壁の換気扇から黄土色の風が噴出され、窓ガラスを曇らせる。
ロクシーがワイパーを動かし、汚れを拭ったが、埃を塗り広げただけたった。
「そろそろ弟離れの時期か、お兄ちゃん?」
ヴァンダの揶揄いにロクシーは片眉を吊り上げる。
「兄はこうすべきなんてつまらんことを言う気はないが、オレは弟が自分から手を離すまで握ってるつもりだ」
「馬鹿言え、あいつは離すどころか手を握ったまま突っ走るタマだ。引き千切られないように気をつけな」
「それならついていくまでだ。機動力には自信があるんでね」
シモスの影はねじれた路地にすぐ覆い隠された。
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