浪漫

 空の色が赤から藍に変わり、黒に変わる。

 劇場の周辺には翼と剣のモチーフを掲げた聖騎士庁の兵士が駆け回っていた。



 スターンは煉瓦造りの建物の前に並ぶ殺し屋たちに頭を下げた。

「本当に皆さんがいなければどうなっていたことか……」

 エレンシアが微笑を返す。

「感謝は目に見える形で示してもらいましょう。≪勇者の目≫の所有権は何方に?」


 グレイヴが眉を顰めた。

「聖騎士庁が然る場所ところに保管する」

「我々はただ働きですか?」

「然るべきところとは悪用されず、人目に触れず、警備体制の整った場所だ。何処とは指定されていない。ですね、長官?」

「つまり、保勇機関の基地でも構わないということですね……」


 エレンシアは片眉を上げてスターンを見た。

「流石……汚職には慣れていますね」

「それ、違うんですよ……私、詰め寄られると頭が真っ白になってしまって、言われること全てに頷いて資金繰りしていたらいつの間にか汚職ということに……」

「より悪質です」



 傍からシモスがおずおずと進み出た。

「……グレイヴさん、魔剣をお返しします。ありがとうございました」

 彼は両手で名残紅を差し出した。グレイヴは刃を確かめることもなく、背中にしまう。


「感想は?」

「すごかったです。でも、僕には不相応でした」

「俺は不相応な奴に魔剣を貸さない」

 シモスは小さく微笑む。グレイヴはロクシーを見た。

「お前も変わったらしいな」

「車上荒らしは廃業だ。弟に半殺しにされるからな」



 ヴァンダはパトカーのランプが夜闇を切り裂く大路を眺めた。

「リデリックとジェサはどこだ?」

「今救急車で治療を受けています」

「面でも拝んでくるか」



 保勇機関の面々が去った後、入れ替わりに兵士たちを掻き分けてくる男がいた。

 長い茶髪と顔立ちはスターンに似ていたが、一点の隙も許さない神経質な厳格さは似ても似つかない。スターンが青ざめる。

「兄さん……」

「長官の兄上、オークス都議ですか?」 


 オークスはふたりを一瞥するなり、深い溜息をついた。

「都知事一行の護衛は成功したらしいな」

「はい、兄さんのお陰で……」

 スターンの卑屈な笑みに嘲笑が返った。

「私のお陰にされては困る。この惨状を見ろ。襲撃犯に劇場の侵入まで許したとは」

「申し訳ありません……」

「まあ、護衛が成功しただけで奇跡だ。お前ならおふたりを見捨てて逃げると思ったがな」

「なのに護衛を任せたんですか!?」

「ふざけるな!」


 オークスはかぶりを振る。

「……都議会曰く聖騎士庁の功績は認めるそうだ」

「ありがとうございます」

「スターン、ひとつ聞かせろ。臆病者のお前が何故こんな機関を指揮してるんだ?」


 スターンは波のように揺らぐ剣と盾の旗を見つめた。

「私は臆病ですから……統京が魔王禍に対抗する術を持たない恐怖に耐えられないんです」

「呆れた言い分だな。お前に勇者の真似事ができるとでも?」

「私見ですが」


 低い声が割って入った。グレイヴは後手に腕を組み、正面を見据えて言う。

「勇者とは、自分が大丈夫ではないとき、他人のために『大丈夫だ』と笑える者だと思います。貴方の弟君はそれをしました」

「グレイヴさん……」

 スターンは目を伏せる。

「……よく手懐けたものだな」


 オークスは鼻で笑うと、踵を返して去った。聖騎士庁の旗が翻り、彼の姿を掻き消した。



 大路を埋め尽くす車が、夜空を映して光を反射する。

 隅に停まった救急車の前にジェサが腰掛けていた。頬や額の包帯には生々しい血が滲み、表情は翳を帯びていた。


 エレンシアは迷わず歩み寄って言った。

「勝利したというのに辛気くさい顔ですね」

「当然の勝利に一々喜ぶものか!」

 ジェサは威勢よく答えたが、また表情を曇らせた。エレンシアは彼女の隣に座る。


「守りきれなかったと思ってるのでしょう?」

「……劇場のスタッフが血魔ダンピールに変えられた。民間人の被害は抑えたがゼロではない」

召喚士サモナーの軍勢は予想より遥かに少数でした。血魔を現地調達するつもりだったのでしょう。ですが、貴女たちが阻止した」


 エレンシアは囁いた。

「聖騎士庁がいなければもっと我々は苦戦していたでしょう。感謝していますよ」

 ジェサは目を丸くし、途端に胸を張った。

「ようやく私の実力を認めたか! お前にも学びのある戦いだったようだな!」


 ヴァンダは肩を竦める。

「九割リデリックが片づけたんだろ」

「何だと!」

「奴はどこにいる?」

「……この中だ」

 ジェサは救急車を指した。扉を光ると、真昼のような眩い光が目を刺した。



 消毒液の匂いが濃く漂う。ストレッチャーに乗せられたリデリックは軽く手を上げた。華やかな顔立ちの半分は包帯に覆われていた。


 ヴァンダはストレッチャーの隅に腰を下ろす。

「治るのか?」

「勿論。幸い外科医とも懇意でね。必ず元に戻すと約束してくれたよ」

「懇意ねえ……」

 ヴァンダは唐突に言った。


「お前、四騎士を追放されたってのは嘘だろ」

「何故そう思うんだい」

「男女問題で追放? 馬鹿言え、お前が男女問題を起こすのは飯屋が米を炊くぐらい自然だ。加入前からわかりきってる」


 リデリックは弱々しく微笑んだ。

「殺し屋と聖騎士庁の間にパイプを作りたかったのさ。それに、殺し屋は仕事を選べてしまうだろう? 公務員は民間が請け負わない魔王禍が回ってくる。皆を守るなら最適だと思ったんだよ」

「成程な」


 ヴァンダは呆れた笑いを返して立ち上がる。リデリックは僅かに首を動かした。

「救援、助かったよ。来てくれると信じていた」

「お前が最後まで戦ったからだ。そういう奴を見捨てたら俺は勇者の一行じゃなくなる」



 ヴァンダが立ち去った後、リデリックは扉の向こうに声をかけた。

「入っておいでよ」

「先生……」

 ジェサは一礼し、彼の元に進んだ。


「お怪我の具合は?」

「大丈夫さ。君の顔に傷を残した心痛の方が辛いよ」

 俯くジェサにリデリックは微笑む。

「……ジェサ、私も昔は弱かったんだ」

「先生がですか?」

「そうとも。何度も傷を負って何度も負けた。残花の二つ名は戦場に残った私の血の跡が由来さ。私の花の刺青は全て傷を隠すためなんだ」

「想像できません。先生はとても強いですから」

「私は諦めなかっただけさ。いつか君もそうなれる」

「何故、先生は諦めなかったのですか?」


 リデリックは眉を下げて少年のように笑った。

「諦めなければ必ず助けに来てくれるひとがいたからだよ」

「それは……」

「ヴァンダさ。私にとっての勇者は彼なんだ」

 ジェサは囁くような声で言った。

「私にとっての勇者は先生です」

「重い肩書きだ。相応しくならないとな」

 パトランプの赤い光が、救急車の中を鮮明に染め上げた。



 劇場から離れるほど辺りは闇の色は濃くなった。

 エレンシアは正面を見据え、迷わず進んでいく。歩調を合わせながら口を開きかけたヴァンダをエレンシアが遮った。


「何も言わなくていいのです。保勇機関のボスとして、仇を討ち、≪勇者の欠片≫も回収した。それで充分です」

「充分って面してねえよ」

「……そうですね。まだ足りません」


 エレンシアは少し目を伏せてから、気丈に微笑んだ。

「勇者と姫騎士プリンセスの馴れ初めを話してくれると言ったのを忘れているでしょう?」

「そんなことも言ったな……」

「今話しなさい。今必要です」


 ヴァンダは一呼吸置いて、夜空を見上げた。

「ふたりの出逢いは往生だ。国王は勇者ワヤンにルシアリアを紹介して『魔王討伐のあかつきには我が娘をやろう』と言った」

「まさに王道ですね」

「ワヤンは王に向かって馬鹿真面目に『景品みたいにもらうことはできません』と返した。それから、姫に言った。『おれは生きて帰れないかもしれない。こんな約束は気にしないでくれ』と」

「それで?」

「可憐な姫君は勇者をどつき、『私の夫に相応しいかはこれから見極める。私を旅に連れていけ』と仰せになった。だから、お前の気性の荒さはお袋譲りってことだ」



 エレンシアの細い手がヴァンダの鳩尾に叩き込まれた。

「すげえな。突きの角度まで一緒だ」

「余計なことを言わなくてよろしい。その後は?」

「大変だったぜ。ワヤンは謁見の後真っ赤になって、どうしてあんなカッコつけちゃったんだろう、絶対嫌われたって喚いてた」

「まあ……」

「その後、俺はルシアリアにも捕まった。何とかして勇者が魔王に勝つための手助けをしなさいと」

「何故?」

「ワヤンに一目惚れしたんだとさ。勇者が勝てば約束通りってわけだ」

 エレンシアは喉を鳴らして笑った。


 路地に夜闇が垂れ込め、静かな風が吹く。

 エレンシアはヴァンダを見上げる。

「ヴァンダ、私この話を聞いていたら何だかおかしいんです。心臓がひどく脈打って……」

「俺も血圧が上がってる気がする」

「何故かわかりますか?」

「ああ、たぶんこれは……」

 ふたりは視線を交わした。


「勇者がテンパってるな」

「やはりですか……」

 ヴァンダとエレンシアは同義に溜息をつく。

「そりゃ娘に馴れ初めを語られたらこうなるか……」

「娘の身体で心拍数を狂わせるのはやめてほしいですね。ヴァンダ、鼻血が出ていますよ!」


 ヴァンダは鼻を拭う。ぬるりと赤い血が手の甲を汚した。

「本当に、戦い以外はボンクラな奴だったよ。ワヤンは」

 ふたりは同じ歩幅で路地裏を抜けた。暗がりのせいで、目の前をよぎった影には気づかなかった。



 壁と壁に切り取られた狭い夜空が覗く。

 苛むような寒風が路地に吹き渡っていた。


 闇よりも黒い羽根から血を流し、吸血鬼ヴァンパイアイエリーは唸り声を上げた。

「まだ全然足りない……」

 少女の顎からは、鮮血と毟られた人間の皮膚が垂れていた。

「傷を治して、オスカルのとこに戻らなきゃ……そのためにもっと人間を殺して……」

「させないよ」



 明朗な声が夜闇を裂いた。

 イエリーは振り返り、路地裏に立つ影に瞳孔を震わせた。


「嘘……どうして……」

 それは勇者を物語でしか知らない全ての魔物にすらも染みついた畏れだった。

 傷だらけの鎧、腰に帯びた剣、幼さの残る面差し、清廉な金の眼、そして、燃えるような赤髪。

「勇者……」



「君、劇場を襲った魔物だよね」

 青年は傷だらけのイエリーを見て、僅かに目を伏せた。彼の上から女の声が降った。

「勇者、情けをかけるつもり?」


 純白のドレスを纏った女が、路地裏に積まれた酒の木箱に腰掛けている。

 青年は一瞬彼女を見上げてから再びイエリーに視線を戻し、剣を抜き去った。イエリーは血を塗った唇を震わせる。

「何で、お前が……」


 剣が翻り、青年は刃で自分の腕を切り付けた。彼は一筋の血が滴る手を突き出す。

「これ、飲んでくれ。君のしたことは許せないけど、ひどい怪我をしてる相手を痛ぶって殺すようなことはしたくないんだ」

 女の声が呆れた笑いを含む。

「もう、傷を治して逃げられたらどうするの? 吸血鬼はまたひとを殺すわよ」

「させないよ」


 イエリーは獣のように身を震わせた。

「ふざけるな!」

 青年は手を振り払われて一歩後退る。

「勇者は死んだ……オスカルの先祖が殺したの……! お前は偽物……!」

 黒い翼が路地を削る。青年は悲しげに剣を構え、獰猛に襲い掛かる魔族を見据える。白刃が閃いた。



 夜闇に塵が溶けていく。

 勇者は剣を収め、形を失っていく吸血鬼から目を背けた。女が木箱から降り立ち、彼の背に触れた。


「よく頑張りました」

「リートゥス、子ども扱いしないでくれよ。もう背だっておれの方が高いんだから」

「身長に拘っているのはお子様の証よ」

 青年は不服げに唇を曲げたが、すぐ観念したように笑った。


「彼女に襲われたひとがまだいるかもしれない。探して手当てしないと」

「そうね」

 ふたりは連れ立って歩き出す。

「ねえ、ワヤン?」

「何、リートゥス?」

「これからもたくさん魔物を倒しましょうね、私だけの勇者」

「うん。皆の勇者になれるよう頑張らなきゃな」



 夜が深くなり、炎より赤髪もやがて闇が包み隠した。

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