心臓

 エレンシアは音もなく倒れ、統京劇場の屋根に頭を打ち付けた。

 瞳は光を失い、煉瓦に広がる赤髪を風が揺らした。



 オスカルは息を切らせながら呟いた。

「殺ったのか……?」

 イエリーはエレンシアの胸に手を押し当た。

「心臓止まってる、殺った。褒めてくれる?」


 オスカルはしばらく呆然と佇んだ後、熱に浮かされたように笑った。

「ついに、俺は……」

「うん、オスカルはすごい」

 吸血鬼ヴァンパイアの少女は血で彩った唇で笑う。

「ねえ、こいつ≪勇者の血≫を持ってる。吸っていい?」

「駄目だ、勇者の欠片は魔族に毒なんだ」

「血なら私の下僕だよ?」

 イエリーは小首を傾げる。

「……異変を感じたらすぐやめるんだぞ」



 オスカルが答えるや否や、イエリーはエレンシアを掴み、首筋に噛みついた。上空に吹き渡る風に血を啜る音が絡む。

 オスカルは目を閉じて人形のように動かないエレンシアを睥睨した。

「復讐と言ったな。勇者の仲間がそんなものを掲げると思うか? 語るに落ちる」

「そうでもありませんよ」


 エレンシアが目を開いた。

 吸血鬼の少女が咳き込み、口から逆流した血を零す。

「イエリー!?」

 イエリーは喉を抑えてのたうち回る。暴れる両翼が煉瓦を砕き、欠片を飛ばした。



 オスカルは少女に駆け寄り、エレンシアを睨む。

「お前、死んだんじゃ……!」

「死んでますよ。とうの昔に、お前の祖先に刺されてね」

 エレンシアは血の混じった唾を吐き捨てた。

「私は≪勇者の心臓≫で鼓動を無理矢理動かしてるんです。それを止めれば、ほら、死んだと思ったでしょう」

「≪勇者の心臓≫?」



 鎖が風を切り、屋根の庇からヴァンダが舞い戻った。

「悪いな、呆けてて間違えちまった。≪勇者の血≫を持ってるのは俺だった」

 オスカルは目を剥いた。

「お前ら、イエリーに何をした!?」


 エレンシアは微笑を返す。

「私の首筋に水銀を入れていました。普通はできませんが≪勇者の血≫の結晶で包んで固定していたんですよ。その吸血鬼は自ら銀を吸った。死ぬでしょうね」

 悶え苦しむイエリーの身体が、火のついた紙のやつに焦げていく。

「人工の血管を入れて採血させた医者の話から思いついたんです。彼らも一矢報いたかったでしょうから」


 エレンシアはオスカルを見据えた。

「復讐を望まない? まさか! ベールなら『基本的に無意味ですが、二次被害を抑える効果はあるでしょう』と言います。クドは『やっちゃえ! 現場で写真撮ってボクの墓前に供えて!』と言います」

 ヴァンダは唇の端を吊り上げた。

「俺たち殺し屋はそういうクズばっかりだぜ」



 塵に代わる寸前のイエリーが声をあげた。

「逃げて……オスカルが生きてればまた私を強化できる……」

 オスカルは奥歯を軋ませ、殺し屋たちと少女を見比べた。

「……すぐ戻る!」

 彼は屋根上を駆け抜け、割れた窓へと身を躍らせた。


「観客席に逃げたか」

 ヴァンダは山刀を鞘に収め、後を追った。ふたりが消えた後、エレンシアは無言で立ち尽くした。吸血鬼イエリーが這いずり、屋根から飛び立つ。

「どうせ保たないでしょうが、最期くらい好きになさい」

 ふらつくような飛行を見送り、エレンシアは屋根の上に座った。



 オスカルは中二階に屯する立ち身の観客を押し退けた。

「邪魔だ、退け!」

「おい、列は守れよ」

 観客たちは不平を言いつつ、すぐ舞台に向き直る。劇場を割れんばかりの歓声と拍手が埋め尽くしていた。


「もうすぐ舞台が暗転する。その隙に血魔を増やして、反撃とイエリーの救出を……」

 階段を駆け降りるオスカルの視界の隅を、黒い影が過った。ヴァンダは客にぶつかりもせず、徐々に距離を詰める。

「もう来たのか!」

 オスカルは足を早めた。


 一階の客席は通路にもひとが溢れ、皆拍手を送っていた。壇上には勇者の役者ひとりが佇んでいる。

 オスカルは客を掻き分けながら、剣を抜いた。


「発泡酒はいかがですかー」

 チューブのついた樽を背負った少女が、グラス片手に客席を回っている。

 オスカルが狙いを定めたとき、ヴァンダが少女の傍を掠めた。


「いくらだ?」

 ヴァンダは樽から伸びるチューブを取り、切断した。噴射された発泡酒がオスカルの視界を塞ぐ。

「お客様にはサービスで……あら?」

 少女が異変に気づく前に、ヴァンダは素早くチューブを結んで酒の奔流を止めた。

「残念、壊れてるみてえだな」

「すみません」

「気にすんなよ、チップだ」

 ヴァンダは少女に紙幣を握らせ、ごった返す通路を進んだ。


 オスカルは濡れた顔を抑えながら片手で剣を構える。客席の子どもが身を乗り出した。

「ママ、まだ劇は続いてるの?」

 子どもの影に身を隠し、ヴァンダはオスカルの腕を掴んだ。捻れた肘が軋み、オスカルは呻きを上げる。

「そうよ、座ってなさい」

 母親が子どもを引き寄せると同時に、ヴァンダは手を離した。オスカルはよろめきながら劇場の隅へ向かっていく。



 舞台が暗転した。

 喧騒から抜けたオスカルは荒い息で足を早める。闇に乗じて動こうとした矢先、舞台が眩い光に照らされた。

「終わったはずじゃ……」

 突風のような蹴撃がオスカルを吹き飛ばす。彼は舞台脇の階段を転げ落ちた。



 打ち付けられた先は、奈落と呼ばれる舞台の骨組みの真下だった。上から一条の細い照明が漏れている。逆光にヴァンダが浮かび上がった。

「勇者物語なんざ読まねえのは当たり前か。この劇はな、終幕の後にもう一場面あるんだぜ」


 オスカルはえづきながら身を起こす。

 構えた剣をヴァンダの一撃が手首ごと薙ぎ払った。暗闇に苦悶の叫びと血煙が広がる。


 舞台上から明朗な声が降った。

「勇者。何故、黒騎士ダークナイトを見逃したの?」

「奴を悪事に走らせたのはあの鎧にかけられた呪いなんだ。おれは鎧を壊して、黒騎士は死んだ。この後どうするかは彼次第だよ」

「でも、その剣は復讐のために渡されたのではなくて?」

「違う。戦いの最中でわかったんだ」


 ヴァンダは勇者と姫騎士プリンセスのやり取りを見上げ溜息をついた。

「清く正しく、復讐にかられるなどもっての外。それが民衆の求める勇者像だ」

 オスカルは血の海でもがく。

「でもな、民衆は勇者ほど高潔じゃねえ。悪人には悲惨な末路を迎えてほしいと思う。じゃあ、その落とし前はどうつける?」

 ヴァンダは二双の山刀を構えた。

「俺が殺す。勇者が殺せねえ奴を殺すのが俺の役目だ」

「まさか、お前……暗殺者アサシン"赤い霜"ヴァンダ!」

 刃が闇中に光る。


 壇上の勇者が高らかに告げる。

「悪意に蝕まれない強い心を持て。それがこの言葉の意味だ。『その心臓に鋼を』!」

 ヴァンダの山刀が、オスカルの心臓を貫いた。



 先程よりも激しい歓声と拍手が響き出した。

 オスカルの死体が塵になって暗闇と同化する。奈落には、硝子のような結晶に包まれた金色の瞳が落ちていた。

「≪勇者の目≫、か」

 ヴァンダはそれを拾い、懐に収めた。


 奈落の階段を上がったヴァンダを、人工の霧雨が迎えた。

「あの日も雨だったな。よく再現したもんだ……」

 舞台上部から散水される雨が、返り血を洗い流す。スタッフが駆け寄ってきた。

「関係者以外立ち入り禁止ですよ!」

「俺以上の関係者なんざいねえよ。出口はこっちか?」

「そっちもスタッフ用です!」



 ヴァンダは構わず扉を押した。夕暮れの陽射しが濡れた身体を温かく包む。

 煙草を一本取り出して咥えようとしたとき、目の前をふたつの影が横切った。ヴァンダの指から煙草が転げ落ちる。


 夕陽よりも赤い、燃えるような赤い髪が風に靡いた。

 幼さの残る横顔、曇りのない金の瞳、無数の傷が凹凸を作った鋼の鎧。

 ヴァンダの唇から声が漏れた。

「勇者……?」


 目の前の青年は僅かに振り向き、ヴァンダを見て小さく頭を下げた。傍には純白のドレスを纏った紫の髪の女がいた。

「行きましょう、勇者。急がないと」

 女の声に赤髪の青年が頷き、ふたりの影が遠ざかる。



 入れ替わるように、エレンシアが現れた。

「終わりましたか?」

 ヴァンダは平静を装って頷く。

「奴は殺して、欠片も回収した。そっちはどうだ」

「吸血鬼は飛び立ちました。銀を打ち込んだので、長くは保たないでしょう……ヴァンダ、どうかしましたか?」

 ヴァンダは曖昧に頷いた。

「いや、役者ってのは似せるもんだな……」


 赤い空が煙たなびく劇場を染めていた。

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