インフェルノ
リデリックが虚空に向けて笑った。
「
「今です、先生!」
斬り込んだふたりを
「往生際の悪い奴らだな!」
負傷したイエリーは赤い目でふたりを睨んだ。
「許さないから……」
少女は眷属の血魔に牙を剥き出した。
「お前らも役立たず……!」
「申し訳ございません」
従魔が目を伏せる。イエリーは荒い息を吐いた。
「いいよ……≪勇者の目≫も、私の眷属も、対策されてるなら変えればいいんだもん……」
ゴボリと、禍々しい水音が響いた。同時に、イエリーを取り囲む血魔の全身が気泡のように膨らむ。
「先生、何が起きているのですか!?」
血魔たちの身体が次々と膨らみ、何かに引き寄せられて集合していく。魔物は赤い泥のように混じり合い、巨大な肉塊と化した。
ジェサが口を抑えて胃液を吐く。リデリックは彼女の背に手を添えながら巨影を睨んだ。
「群れの利点を捨てるとは……!」
赤い肉塊から無数の目と無数の腕が突き出す。苦悶の叫びが体表の口から響いている。イエリーが虚に微笑んだ。
「完成……」
大路から悲鳴が聞こえた。屋台の影に隠れる母子が抱き合って震えている。リデリックが苦々しく呟いた。
「まだ民間人がいたのか!」
イエリーが手をかざした。
「やっちゃえ」
深紅の肉塊が一斉に腕を振り上げる。無数の影が母子を襲った。
拳が肉を砕く寸前、ジェサが当身でふたりを弾いた。
「早く逃げろ!」
母子が這うように逃げ出す。赤い腕が蠢き、ジェサの盾が一撃で粉砕される。赤い花が開くように、大量の指が押し寄せた。
「ジェサ!」
割って入ったリデリックの腹を無数の拳が穿つ。骨の軋む音が響く。
巨人はジェサを抱えて宙に投げ出されたリデリックを一瞥した。赤い平手が砲火のように閃く。
ふたりは蠅のように薙ぎ払われ、幾つもの屋台を破壊して地面に叩きつけられた。
粉塵が大路を埋め尽くす。
ハリボテのように崩れた屋台の残骸から、潰れた果実の汁と油に混じって血が地面に染み出していた。
濛々たる土煙の中に異形の巨人が佇んでいる。イエリーは無表情に進み、血染めの屋台の幌を蹴り避けた。
「"残花"のリデリック、殺し屋界一の美男子、だっけ?」
昏倒したジェサに覆いかぶさってリデリックが倒れている。
「オスカルの方がずっといい……もう元の顔なんてわかんないけど」
彼の顔左半分は暗褐色の血で塗られていた。左の眼窩は半ば陥没し、剥がれかけた皮膚が顎まで覆っている。
吸血鬼は嘲るように笑い、踵を返す。
「待ちなよ」
掠れた声に、イエリーが振り返った。
瓦礫の中、リデリックが幽鬼のように立っていた。額から溢れる鮮血が顎を伝い落ちる。
「気持ち悪い……何でまだ生きてるの……」
リデリックは割れた顔で微笑んだ。
***
殺し屋たちは廃倉庫の伏兵を殲滅し終えていた。錆びた天井まで飛び散った血が粘質に滴り落ちる。
ヴァンダが山刀を鞘に収めると、無線の通信機からスターンの上ずった声が声が響いた。
「た、大変です!」
エレンシアはヴァンダの胸ポケットから通信機を引き抜いた。
「何事ですか」
「リデリックくんとジェサくんの通信が途絶えて……」
「……劇場周辺で異変があったのですね」
「はい、屋台通りに謎の巨人が出現したそうです!」
「そんなものが移動してきたらもっと早くわかるでしょう!」
「すみません、わかりません、急に現れたそうです!」
ヴァンダが口を挟む。
「
エレンシアは額に手を当てて溜息をついた。
「……対処は? グレイヴは動けますか?」
グレイヴの低い声が答えた。
「悪いが無理だ。都知事夫妻が劇場に到着した。召喚士が紛れ込むなら門が開かれる今しかない。長官、今動かせる者は?」
「そ、そんなのいませんよ……」
「保勇機関が急行しましょう」
エレンシアが毅然と言った。
「え、本当ですか?」
「勿論。ロクシー、シモス、行けますね?」
兄弟は張り詰めた顔で頷く。ヴァンダは腕を組んだ。
「強化されようが魔物の本質は変わらねえ。吸血鬼なら倒し方は銀か心臓に杭を打つかだ。やれるか?」
「"赤い霜"、アンタ銀を持ってきてるよな?」
エレンシアが代わりにロクシーの問いに答える。
「唯一の切札です。吸血鬼イエリーに使わなくては。それに今はもう渡せる状況では……」
「大丈夫です、やれます!」
叫んだのはシモスだった。彼は震えながら、託された魔剣を握っていた。エレンシアが頷く。
「二手に分かれて大路で合流を。ヴァンダ、行きますよ」
ロクシーは倉庫の外に隠したバイクに乗り、エンジンをかけた。弟が後ろに乗ったのを確かめて、クラッチレバーを握る。
「シモス、義理で助けに行くならやめとけ。気持ちだけで戦える相手じゃないぜ」
「違います。さっき血魔と戦ってわかりました」
シモスは兄の腹に回した手に力を込めた。
「僕はクドさんたちを殺して、その上まだ殺そうとする奴らが頭に来る。ぶっ殺したいだけです!」
「シンプルだな」
ロクシーはアクセルを握る。エンジンが火を噴き、バイクが彗星の如く発射した。
ふたりの傍を逃げ惑う群衆がすれ違う。
劇場を囲む塀に沿って疾走していると、シモスが叫んだ。
「兄さん!」
進路を阻むように破壊された屋台がバリケードの如く積まれていた。
「このくらい何でもない。突き抜けるぞ」
「でも、上に…‥」
錆びた鉄骨の迷路の先には細い抜け道があった。その真横には煉瓦造りの建物があった。小窓の向こうに霞んだ影たちが蠢いている。
「わかりやすい誘導と待ち伏せだな」
ロクシーは眉を上げて弟を見る。
「止めてもやる気だろ?」
「はい……」
「一分後に下で合流だ」
シモスは兄を見返し、強く頷いた。
「はい!」
ロクシーのバイクが跳ね馬のように前輪を上げた。
同時にシモスは塀へ飛び移る。ロクシーのバイクが旋風のようにバリケードの中へ突入した。
エンジン音が遠ざかるの確かめ、シモスは煉瓦に囲われた窓を叩き割った。
ガラスが砕け散り、シモスは建物の中に転げ込む。
突然の侵入者に血魔たちがどよめいた。
「誰だ?」
シモスはガラスの破片を払い、一体の男の血魔を睨んだ。
「お前の顔、覚えてるぞ。ベールさんを噛んだ奴だな」
「殺し屋なんていちいち覚えてねえよ」
「覚えてないだって……」
シモスは魔剣・名残紅を抜いた。刃に赤銅色の光が走る。
「僕は保勇機関の殺し屋・
シモスは咆哮を上げた。へし切るように振り下ろした刃が魔物を袈裟斬りに裂く。薄い炎が切断面を舐め上げた。
シモスは剣を水平に構えて突進した。赤光と残炎が閃き、業火を伴った嵐のような進撃が巻き起こる。
圧倒的な破壊の後、シモスは対岸の窓に向かった。それを阻んで一体の血魔がシモスの前に躍り出た。シモスに程近い年の少年に見えた。
「殺し屋、マスターの元には行かせないぞ!」
「邪魔だ、三下ァ!」
シモスは名残紅を突き出し、少年の腹を貫く。燃え盛る血魔を窓ガラスに押しつけ、炎熱で破壊した。
外へ飛び出したシモスに、炎の絡んだ塵が降る。
遠くからエンジン音が響き出す。
駆け抜けたロクシーのバイクがシモスを受け止めた。
「定刻通りだ。怪我はないか?」
「はい!」
「本丸に向かうぞ」
バイクは加速し、破壊の爪痕が残る大路に突入した。屋台通りの隅から黒煙がたなびいている。その中央に茫洋とした影の塊があった。ロクシーはサングラス越しに霞む空を睨んだ。
「あれが巨人か……」
鋼を打つ音が聞こえた。
リデリックが吸血鬼と切り結んでいる。
「何でまだ戦えるの……!」
よろめいた彼の頭上に黒い翼が迫った。
「リデリックさん!」
シモスの声にイエリーが振り向く。
ロクシーの放った銃弾が黒翼を弾き、赤い鎖がリデリックを絡め取った。
吸血鬼は飛翔し、真っ二つに割れた屋台に着地する。赤の双眸がリデリックを睨んだ。
「お前ら……」
ヴァンダの肩にもたれてぐったりと項垂れながら、リデリックは口角を上げた。
「何故って……? 戦い続ければ、勇者が必ず来てくれるからさ」
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