標的:死霊術師

馬鹿を憐れむ歌

 悪夢を見なかったのはいつ以来だろう。


 ヴァンダは廃ホテルの一室で目覚めた。空は白に一滴藍を垂らしたような夜明けの色だ。


 ヴァンダは天井に手を翳す。シャツの袖は皺だらけだが、手の甲には皺ひとつない。

「未だに信じられねえよな……」

 ヴァンダは起き上がり、ハンガーにかけたスーツから煙草の箱を取り出して窓を開けた。


 錆びついたベランダの柵に腕をかけ、下を見下ろす。

 明かりの消えたメリーゴーランドと鬱蒼とした森、向こうに統京のビルが見えた。



 煙草に火をつけ、煙を吐くと隣の部屋から窓を開ける音がした。

「早いんですね」

 エレンシアが顔を覗かせる。

「ジジイは寝起きが早いんだよ。夜明けと同時に起きる」

「散歩なんかして近所のひとの迷惑になってないでしょうね」

 彼女はくすりと笑って、寝癖のついた頭を掻く。薄明のぼやけた景色の中で赤い髪だけが鮮明だった。


 エレンシアは手すりに腕をかけ、ヴァンダの横顔を覗き込んだ。

「落ちるぞ。煙も流れる」

「落ちませんよ。煙も気にしません」

「見て楽しいか?」

「ええ、隣人ができるのは初めてですから」

 彼女は満足げに解ける紫煙を見守っていた。ヴァンダは気恥ずかしさを隠すように深く煙を吸い込んだ。



 廃ホテルを囲む森に視線をやると、一台の白い車が進んでいた。車はすぐ木々に隠れる。

 ヴァンダは眉を顰めた。

「何か来てるぜ。敵じゃねえだろうな」

「そんな訳ありません。殺し屋の本拠地ですよ。セキュリティは万全です」


 エレンシアの言葉を遮って、女の絶叫が響いた。

「非合法活動に勤しむ殺し屋ども! 無駄な抵抗はやめて出てこい!」


 森林にこだまし、頭蓋を揺らすような大声だった。

「セキュリティ万全なんじゃなかったか?」

「常識の範囲内です。常識外の馬鹿は想定していません……」

 エレンシアは苦々しい表情でこめかみを抑えた。



 ヴァンダとエレンシアがスーツを着込んで外に出ると、ロクシーとシモスもロビーから駆けてきた。


 ロクシーは昨日の傷を抑えながらかぶりを振る。

「朝から随分だな。ガサ入れか?」

 シモスは兄の背後で怯えていた。


 ヴァンダは視力を強化し、フェンスの向こうの車を睨む。白い車体の腹には剣と翼を組み合わせたマークがあった。見覚えがある。高速道路で追走してきた警察車両だ。


「聖騎士庁か!」

「そのようですね。会いたくない子が来ますよ」

 エレンシアが深く溜息を吐いた。



 白いバンからひとりの女が降りてきた。

 小柄な身体を聖騎士庁の制服に包んでいたが、まだ十代に見えるほど若い。

 彼女は長い金髪を揺らし、溢れそうなほど大きな目で四人を睨んだ。


「殺し屋ども、そこを動くな!」

 女は鉄門に手をかける。か細い腕が何度も柵を揺らしたがびくともしない。

 四人は顔を真っ赤にしながら鉄門と格闘する彼女を見つめた。

 シモスがヴァンダに小声で囁く。


「鍵がかかっていますよね?」

「ああ、普通わかると思うだがな」

 エレンシアが沈鬱に首を振った。

「彼女は愚かなのでわかりません」

「アイツと知り合いか?」

「ええ、残念ながら、孤児院時代の旧知です」


 女はジェサに目を留めると、甲高い声で叫んだ。

「エレンシア! 扉に細工をしたな!」

「鍵をかけているだけです。あと、名前を呼ばないでください。友人だと思われたくありません」

「こちらこそ願い下げだ! 私の誘いを断って清く正しい聖騎士庁ではなく、殺し屋を組織するなんて! 絶交だ!」

「友だちだったことがないので絶交できません」



 女は鉄門から離れると、腰に帯びた剣を抜き放った。白刃が閃き、扉に巻かれた南京錠が砕ける。

 金髪の女は反動で転びかけながら、四人に剣の切先を向けた。

「聖騎士庁の聖女セイント、ジェサがお前たちの活動を取り締まりに来た! 動くな!」

 沈黙が森に広がった。


 ヴァンダは万一のために携えていた山刀から手を離す。

「取り締まりはいいが、令状でもあんのか? 殺し屋を逮捕できる法はまだないはずだぜ」

「難しいことを言うんじゃない!」

「難しくねえよ。お前の専門だろ」


 ジェサは一瞬たじろいだが、思い出したように片手でくしゃくしゃの紙を取り出した。

「見ろ! 殺し屋規制法の草案だ!」

 突き出された紙面には「極秘」の赤印が大きく押されていた。

 ロクシーが苦々しく呟く。

「持ち出しちゃ駄目なやつじゃないか?」

「ほら見ろ、車上荒らしに説教されてるようじゃ終わりだぞ」


 エレンシアは心底興味のなさそうな声で言った。

「それで、草案の段階で押しかけた理由は何です?」

「友人が逮捕されかねないのだから忠告に来てやったんだ! 絶交したから元友人だがな!」

 ジェサは両手の剣と紙面を持て余しながら足踏みした。


「お前たち保勇機関は聖騎士庁を差し置いて≪勇者の欠片≫の蒐集を掲げているそうだな! 国家権力に背く重大な違反だぞ!」

「国家権力が頼りないからですよ」

「その発言、公務執行妨害だぞ!」


 エレンシアはヴァンダの袖を引いた。

「戻りましょう。茶番です」

「待て! 帰るな! 」

 ジェサを無視してエレンシアが踵を返しかけたとき、柔らかな男の声が響いた。



「早朝に失礼。ここからは私が説明してもいいかな?」

 鉄扉の前に若い男が立っていた。銀髪で目鼻立ちの整った男だった。長身痩躯に纏う黒いスーツの間から花の刺青が覗いていた。


 ヴァンダは低く呻く。

「何であいつがここにいるんだよ」

 ロクシーがサングラスを押し上げる。

「知ってるのか? オレが言うのも何だが色男だな」

「色男というか色狂いというかな……」

「何?」

「何でもねえよ。奴は"残花の"リデリック。最強の殺し屋、四騎士の一柱だった男だ」

 シモスが兄の影で小さく呟いた。

「彼が四騎士……」



 ジェサは飛び跳ねるように彼の元に駆け寄った。

「先生! 何とか言ってやってください! 殺し屋どもが不敬なんです!」

「私も殺し屋なんだけどね」

 彼は柔らかく苦笑し、ヴァンダたちに向き直った。

「私は軽騎士フェンサー、リデリック。話の通り元四騎士だけど、今は聖騎士庁に飼われているよ」


 エレンシアはヴァンダの耳元に口を寄せた。

「彼が貴方の言っていた知り合いですか」

「まあな。聖騎士庁に行ったのは知らなかったが」


 彼女は頷き、リデリックに一歩歩み寄った。

「私が保勇機関の代行者エージェントエレンシアです。聖騎士庁が何の御用でしょうか」

「私にはそんな対応しなかったくせに!」

 鋭く叫ぶジェサを宥め、リデリックは片手を差し出した。

「やあ、殺し屋時代以来かな。綺麗になった。勿論前もよかったけれど」

「一度会っただけでよく覚えていますね」

「覚えているとも、"赤い霜"ヴァンダを引き入れたらしいね。いい人選だ。それで、隣の彼は?」


 リデリックはヴァンダに視線をやる。エレンシアが言った。

「そのヴァンダですよ。ご存知の通り、前はお爺さんでしたが、≪勇者の血≫で全盛期の姿を取り戻しました」

「久しぶりだな」


 ヴァンダは片手を挙げた。リデリックはしばしの沈黙の後、微笑んだ。

「……綺麗になったね。勿論前もよかったけれど」

 シモスが小声で囁く。

「このひと見境とかないんですか」

「ある訳ねえだろ」


 ヴァンダはかぶりを振った。

「こいつは男女問題で四騎士を追い出された色情狂だぞ。老若男女見境は皆無。任務で同業者や依頼人と寝る確率は百五十パーセントだ」

「五十って何ですか」

「二回戦目があるかどうかだ」

「弟の教育に悪いことを教えないでくれ」

「今更だろ。お前の弟、何件傷害致死未遂やらかしてんだよ」


 ジェサが声を張り上げた。

「先生を悪く言うんじゃない! 先生は博愛主義者なだけだ!」

「その先生って何だよ」

「私が剣術を教えているのさ。ジェサ、ここは元殺し屋の私の方が交渉に有利だ。車に戻っていてくれるかな?」

「先生が仰るなら!」

 ジェサは敬礼し、一度エレンシアを睨むと、車に駆け戻った。



 静けさの戻った森に、早朝の鳥の鳴く声だけが響く。

 リデリックは一呼吸置いて言った。

「さて、彼女が先走ってしまったけど、私たちはガサ入れに来た訳ではないんだよ」

 エレンシアは肩を竦める。

「それでは、何のために?」

「殺し屋の本拠地に来る理由はひとつだろう? 殺しの依頼さ」

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