第33話 CHILD

慧side


「……」


 蒼がソファーで丸まってしょんぼりしてる。

 コープシング…いや、キキのところに寄ったあと洋服や俺の家で使う食器、色んなものを買って帰ってきた。

 軽い朝食しか食べてないから、もうお腹がぺこぺこの筈だ。


 蒼の記憶を取り戻さなければならないとは言え、俺自身が耐えられるかな。

 以前の経験が何か活かせるといいんだけど…蒼が信じてくれるなら応えたい…。


「蒼、大丈夫?」

「だいじょばない」


 いつもと違う声色に驚く。蒼の声は少し高めのテノールで中高音。それがいやに高くなってる。

 子供、みたいな。

 瞳に涙が溜まって来た。

傍に座って触ろうとするとふるふると首を振る。

 

「や。こっちこないで。みないで。」



 顎を自分の膝に乗せて、蒼が目を閉じる。

 ぽろぽろととめどなく涙が流れてくる。

 頬が赤くなって、眉間に皺がよる。


「おなかすいたよぉ…」


 小さく呟いた声は子供そのままのイントネーション。舌足らずで、聞き取りにくい。

 切ない声に…胸が、痛い。

 

 

 ソファーの端っこに距離を取って座り、横目でそっと眺めていると普段の蒼がするような仕草じゃない事がわかる。

 体の芯が通ってなくてふにゃふにゃしてる。


 もしかして、幼児退行してる?

 

 人間の精神自衛機能の一つに精神の幼児退行がある。不安やストレスを感じた時に起こる物だ。こういう時は一人にしてはいけない。

 じぶんが一人きりだと認識させてはならないんだ。手のひらを握りしめてそれをただ見つめる。


 


「お腹すいちゃったか」

「うん」

 

 目線を合わせず、話しかける。

 蒼も目を見てこない。

 会話ができるってことは違和感なく認識されてるってことだな。大丈夫。俺はこれを知ってる。


「どこか痛くない?」

「あれぇ?げんこつされたのにいたくないね」

「ゲンコツされたの?」


 蒼がこくり、と頷く。訓練の後、ご飯を食べそびれた時点での状態が再現されてるみたいだ。

 異分子と認識されないようにしないとパニックになるんだ。気配を細くして、なるべく動かないように。



「じゅうのおそうじしてないの、ばれた」

「なるほどね。掃除はした方がいいんじゃない?詰まっちゃうしさ」

「おーとまぐとかでざーといーぐるじゃないもん。じゃむらないよ」


 驚いた。そんな強力な銃も扱っていたのか。拳銃自体小さい子には負担だろうな…。

 パーティー前の実射で手首が外れた事があるって言ってたし、俺みたいな馬鹿力だってバカスカ撃てないのに…。



「デザートイーグル撃てるの?手首外れると痛いよね」

「うん、そうなの。すごくいたかった。おでこぶつけたこともある」

「そうなるよねぇ…反動すごいもんね。重たいし」

「そうでしょう?きどうせいがひくいからすきじゃないなぁ」

「たしかに。機動性は低い」


 会話が進んでいくと、蒼の表情がだんだん緩んでくる。警戒していたわけじゃないとは思う。無表情じゃなかったし。ファクトリーの中にいると言う設定なら仲間認識があるのかな。



「おーとまぐはすぐつまるでしょ?おーとじゃむっていってた」

「あはは。そうだね。あれはすぐジャムる。銃のお掃除得意?」


「あんまり…さぼってたらおこられた」

「そっか」




 顔を向けて蒼を見ると、自分の服をつまんで、離してを繰り返してる。いじけてるのかな。見た感じは完全に会話に違和感がないから、緊張は解いても良さそうだ。

 


「いつもご飯は何食べてるの?」

「おーとみーるしかない」


 オートミールか。あれは栄養豊富だしお腹には溜まるけどあれだけなのはきつい。

 蒼が食べ物に対してなんでも喜ぶ顔が目に浮かぶ。食べる時の幸せそうな顔が。


この子にはその顔をさせてあげられないのかと胸の中が痛くなってくる。

小さい蒼が幻だとしても、何かで満たしたい。どうしたらいいんだろう。




「おーとみーるは、おいしくない」

「そうだねえ、お腹は膨れるけど美味しくないね」 


「けんきゅうのひとがおさとうくれるの。あまいのだいすき」

「あぁ、そうなんだ…」



 千尋が持ってくるお菓子を、大切に食べてる蒼の姿が思い浮かぶ。甘いものが好きな理由がわかった。

 明日沢山クッキー焼いてきてくれって後でメッセージしておこう。俺も作れるようになりたいな…。


 ふと、視線を感じる。こちらをチラッと見ては目を逸らして…下がった眉毛がさらに下がる。

 構って欲しい感じかな…そろそろ聞いてみよう。


「ねぇ、おトイレってどこだっけ?」


 ついに目線を合わせてきた蒼が不思議そうな顔してる。

 顔つきが幼い…。

 見た目は変わっていないはずの蒼の気配は、雰囲気が明らかに子供のそれだ。


 

「わすれちゃった?あたまいじられたの?」

「うん、そうだよ。もともと覚えるの得意じゃないんだ」

「だめだよ、おぼえないとおこられるよ」

「そうだね…あとで教えてくれる?」


 頭いじられた、か。そういうのが日常の出来事だったんだ。

 涙をこぼして微笑む子供の蒼。かわいい…。

 もうずっと胸が苦しい。蒼の笑顔は気遣いの気持ちが見える。昔からずっとこうだったんだ。

 小さくても蒼が蒼である事が嬉しくて、悲しい。


「いいよ!おしえてあげる。わたし、ぜーんぶおぼえてるから!」

「うん…ありがとう」



 

 これでファクトリーの記憶がある事が確定できたな。

 もう、いいかな。涙が止まらない蒼を見てると頭がおかしくなりそうなんだ。

 お腹いっぱいにしたい。気遣いのない笑顔が見たい。

 腕の中にいる蒼の可愛い笑顔が見たい。

 幻の蒼に食べさせてあげたらどうなんだろう。ソファーの上で少しずつ距離を縮めると、蒼がうつむいた。


「あのね、わたし、せんせいにきらわれてるの」


 蒼が急にこちらを向いて、喋り出す。

 見たことのない表情だ。拗ねたような、寂しさを堪えているような。


「嫌われてる?」

「だって、そうでしょ?きょうもちゃーんとやったのにごはんないの。いちばんだったのに。」


「そうなんだね。」

「うん。069も078もしっぱいしてるのにごはんたべてる」

「そっか……」


「おなかがすくとさびしい」

「うん」

「わたしきらわれてる」

「うん…」

「あなたもわたしのこと、きらい?」




 アンバーカラーの瞳から溢れる涙がキラキラしてる。

 秋の匂いを見せ始めた夕日を背負って、一面のオレンジ色の中で蒼がひたすら泣いてる。

 蒼の寂しい気持ちが伝わってくる。

 いつも、こんな風に寂しい思いしてたの?


「世界で1番、好きだよ」

「…ほんとう?どこがすき?」




 そろそろと近づいて、体をくっつけて肩を抱く。ダメと言われないって事は大丈夫なのかな。

 ここから先は俺も知らない領域だ。

 こんな風に穏やかな幼児退行自体が初めてだから。泣き喚いていた、あの子が俺の中から綺麗さっぱり消えていく。

 俺、もう本当に乗り越えたんだな。


「髪の毛も目の色も綺麗だよ」

「うそ。みんなはもっときれいだもん。わたしだけふつうだっていってた」 


「どうして?夕焼けの空の、優しい色してる。宝石の琥珀みたいな綺麗な色だよ。」

「おそら…やさしい…ほうせき…ほ、ほかには?」


 縋るような目で蒼が服を掴んでくる。

 

「顔も声も、仕草もかわいい。

 お箸を持つときにちゃんと揃えて持ち直したり、立つ時も座る時も綺麗だし。

 いつも目を見て話してくれる事、ちゃんとお礼が言えるところ。

 人が話す時に、どんな事でもきちんと聞いてくれるところも好きだ。

 優しい気持ちが全部にあって、あったかくてそばにいると幸せになる」


「ふ、ふーん。ふつうのことばっかりじゃない。みんなできる」

 

 呟きながら、だんだん涙の粒が小さくなっていく。下がった眉毛がシャッキリしていつもの重たい瞼が上がって瞳がキラキラしてるや




「そんな事ない。自分が傷ついて辛くてもそうしてくれる。

 何があっても変わらないのは、カッコいい。怖い思いしても優しくて、お礼言える人なんて、いないよ?」



 

 蒼は初めて会った日もきちんと目を合わせてきた。

 次の日歩けなくなるまで体を酷使されたのに、仲間の俺に会っても普通に話して…服やお弁当を持ってきた事に対してお礼を言ってきた。

 表情がなかったから、今は警戒していたんだってわかるけど。それでもやってる事がなに一つ変わってない。

 普通なら泣き叫んで当たり散らしてもいい境遇だったのに。優しくて、気遣いに溢れて、蒼の人となりの根本を理解したからこそわかるけど蒼はそう言うの、誰に対しても変えないんだ。


 本当にびっくりした。いくら感情の動きが鈍くたって、殴るくらいされても

 当然だと思ってた。

 沢山の服を与えられて困っていた顔、ご飯を食べて浮かべた笑顔、銃を持った真剣な顔。キスを待つ色っぽい顔。俺を救ってくれた時の真っ赤な怒り顔と、嗜めてくれた時の泣き顔。

 いろんな顔が浮かんでくる。

 蒼は憎しみや恨みを引きずらない。恨むことなんて知ってるのかな。最初からそうだった。




 身の回りの人が傷つくと怒るの、なんなんだろ。自分が傷ついても怒らないし、誰も恨まないのにさ。蒼は本当に綺麗で強い心の持ち主だ。


 体を持ち上げて、膝の上に乗せる。

 びっくりしながらもおずおずと背中を預けてくれた。

 甘え慣れてないのか…。

 自分の胸がきゅう、と音を立てて締め付けられる。


「あの、あのね、すきっていってくれたりする?」

 期待に満ちた眼差しが愛おしい。

 本当に可愛い。蒼を見てると可愛いしか出てこない。


「好きだよ、大好きだ」

「も、もっと」


 背中から力を込めて抱きしめる。頭にキスを沢山落として、頬にもキスする。


「好きだよ。愛してる」 




 蒼が真っ赤になって、涙が止まった。

 俺の気持ちは、ちゃんと届いてるみたいだ。


「わたしのことすきなのね?」

「うん」

「あの、あのね…へんなこといっても、きらいにならない?」

 

 上目遣い…くっ。腕の中で蒼が頭を上げてじいっと見つめてくる。


「何があっても嫌いになんかならないよ」

 「そうなの…?えと…わたしね、おなかすいてもへいきかも。すきっていわれるとおなかがいっぱいになる。すごいね、ありがとう」

「そ…っか…」

 

 蒼が膝の上でくるっと体の向きを変えて、向かい合わせになる。そのまま体を引き寄せて腕の中に閉じ込める。

 うっとり微笑む顔が幸せそうな色を浮かべた。小さな蒼の中に何か残せたのかな。

心の中に、何かあげられただろうか。

 蒼の体温が染みて、涙が出てしまいそうになる。




「ねぇ!さっきのあいしてる、ってなあに?」

「難しい質問だね。好きの上かな。すごくすごく好きってこと」

「あいしてるのうえはある?」

「それは…言葉にできないよ」

「あいしてるよりうえがほしいよ」


 すっかり涙の止まった蒼が上目遣いでじっと見つめてくる。素直に執着されて喜んでるおれヤバいな。

 それに、完全に子供に戻ってる蒼に手出ししてもいいのかな…抵抗感がある。




「愛してるより上はキスだよ。してもいいの?」

「ん」


 目を閉じて、唇を突き出してくる。

 なんだコレ。カワイイ。キスを知ってることは突っ込みたいけどやめておこう。


 ちゅっ、と唇を合わせると目が開く。

 薄い茶色の瞳が夕陽に染まってオレンジ色に輝いてる。綺麗だな。蒼の目はいつも澄み切って、ほんとうに宝石みたいだ。




「もうおしまい?」

「もっとしていいの?」

「うん」


 蒼のあごに人差し指を当てて上に向ける。角度を変えて深く重ねた。



「んふ…」

 

 小さなため息が漏れて、瞼が震える。

 両手が首に回って、蒼が応えてくる。

 帰ってきた。これは大人の蒼だ。




「慧…けい…」  


 唇が離れるたびに蒼がつぶやく。

 この癖、本当にヤバい。キスの合間に呟かれると自分の余裕がなくなる。


 無理やり離れて、お互いため息を落とす。

 危ない。色んな意味で。




「蒼、大丈夫?」

「なんか…頭がぼーっとしてる。私変なことしなかった?慧…顔が赤い」


 コレは大人の蒼のせいなの。俺のキスで戻ってくるなんて、どこまで喜ばせる気なの?

 蒼が俺を見つけてくれたみたいな気がして、どうしたらいいかわかんないくらい嬉しい。




「子供の蒼に会えたよ。すごくかわいかった」

「…えっ!?そ、そうなるの?あっ、でも涙が止まってる。こんな事はじめて…。まだご飯食べてないよね?」

「はっ!」


 蒼を抱きしめたまま立ち上がる。そうだった! 


「ご飯食べよ!お腹すごい鳴ってる。もう出来てるから」

「うっ、お恥ずかしい…お願いします」




 蒼をダイニングの椅子に座らせて、作っておいた出汁を温め、お揚げとわかめと茹でたうどんを入れてほぐしていく。


「おうどん?慧のお出汁好きだから嬉しいな」

 ダイニングテーブルに座った蒼が頬杖をついてニコニコしてる。


「きつねうどんだよ。山盛りがいい?」

「ううん。少なめがいいな」


 あれ。てっきりもりもり食べるかと思ったのに。


「だって、あとで運動…するでしょう?」




 からんからん、とキッチンに箸が落ちた音。

それを拾う手が震える。

 うん、これは本当にヤバい。

 攻撃力がどんどん上がってきてる。


 箸を拾いながらしゃがみ込む。

 買い物途中で、蒼が言っていた言葉。



 

《それ、買わなくていい》


 0.02mという箱を持った手を掴まれて、蒼が真っ赤な顔で言った…その言葉が頭の中でリフレインしていた。



 ━━━━━━




「慧さーん、あと2枚紙が欲しいです」

「はいよー」


 ご飯を食べて一息ついたあと、お茶を飲みながら蒼がファクトリー内部の地図を書いてる。

 入り組んだ迷路のような内部構造をここまで正確に覚えているなんてすごいな…。


「曖昧なところはないし、私が物心ついてから改装もしてないしする予定もなかったから…変わっていないとは思うけど。一度確認はしに行くべきかも。

 あとは、先生がまだ動ける人として居るかどうかかな」



 記憶を取り戻す時に高頻度で出てくる先生という言葉。ファクトリー内部で暗殺や体の使い方を教えていた人。

 そして、なぜか蒼を嫌っていたという。




「先生はそんなに強いんだね」


「うん。強い。誰も敵わなかった。

 私が嫌われていたのは理由がわからない。

 先生が怪我をした時に手当てをしてから、そうなったんだよねぇ」


 定規を片手に綺麗に地図を書いていく蒼が苦笑いしながら伝えてくる。

 

「手当てをしたらダメなの?」


「そう。あそこでは常に感情操作の訓練をする。表に出さないだけじゃなくて、何も考えない、感じない。

 怒らない、驚かない、悲しまない、喜ばない。人を助けたらダメなのはそこに感情があるから。

 感情があることでミスが起きる。そして、感情がある事で気配が生まれるって。

 暗殺兵器として売られて行った子たちはみんなそれを消すエキスパートだったの。

 銃火器の扱いも体の使い方も私は上手だったけど、スクラップになったのはそのせい」


「…そっか」


「でもね、本当はみんなそうだよ。感情を殺せなんかしない。上手に隠してるだけ。

 寝食を共にして、同じ訓練を受けるんだもの。

 仲良くなるのは当たり前だし、寂しかったり怪我すればお互い助け合ってた。

 先生はそういうのには鈍かったから」




 蒼は感情を殺せと言われても人らしくいたんだ。仲間が居てもそうあるのは難しかっただろう。

 先生は手当てをされて動揺したのかな。なんとなく思い浮かぶ人物像はそんな感じだ。


 


「両親を見逃したのは先生だと思う…。

 逃げる人は複数いたけどみんな先生が殺してた。私のこと嫌いなら逃す筈ないのになぁ。ちょっと不思議」




 地図を書い終えて、ファクトリーの一日のスケジュールを書き出してる。

 蒼が書いた組織の情報はもう、束になってきた。すごい量だ…。




「先生、蒼のこと好きだったんじゃない?」

「慧に言われるとそんな気がしてくるね。好きな気持ちがわかった今なら、私もそうかもしれないって、思う」


 よし、と書き終えた紙をまとめて、蒼がため息をつく。




「コレで全部かなぁ。不足してるものは聞かれないとわからないし。今日はここまでだね」

「お疲れ様、蒼」

「ありがと」




 ふと、蒼の目に寂しい色が浮かぶ。


「なんか、寂しい。お腹が空いた時の寂しさがなくなった分…大人の私がさびしんぼになっちゃったかも」


「いいよ。そんなの、すぐに寂しくなくなる。今日は俺だけの蒼だから、独占させてもらうよ」


「…うん」


 微笑む蒼の手を取り、体を寄せる。




「お風呂一緒に入る?」



 顔が赤くなって、小さく頷いてくる。

 蒼の顔が胸元に押しつけられて、幸せな気持ちの中でしっかり抱きしめた。

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