第二話 ウイスキー作りをはじめよう

 ヒビキは酷い頭痛で目が覚めた。窓から射し込む陽光に、頭がクラクラする。


 アンジェラはシーツに包み込まれて、隣で静かな寝息をたてていた。


「どうして、ここで寝てるんだっけ……」


 昨晩の記憶が断片的に失われているようで、思い出せない。


 辺りをキョロキョロ見回すと、壁に立て掛けてある姿見にふいに自分の姿が映り、ヒビキは驚いた。


 全裸だった。部屋が暖かいので気づかなかったが、アンジェラに借りた服はどこへいったのだろうか。


 脱がされたことは覚えている。あの時、アンジェラは服を着ていただろうか?


 まさかと思い、ヒビキはアンジェラのシーツをちらりと捲った。やはりアンジェラも服を着ていなかった。


 ひどく頭痛がする。昨晩の記憶がチカチカとフラッシュバックする。


 酒の味に、甘い声に、抵抗するも為す術なく抱かれ、犯された……。思い出すごとに酔いが醒めていき、後悔の念が強くなる。


「これは酷い夢なのかもしれない」


 自分に言い聞かせるように呟き、ヒビキは再び夢の世界へと旅立った。


 次に目が覚めたのは、アンジェラの苦悶の声を聞いたからだった。


「頭が、痛い……!気持ち悪い……うぷ……」


 青ざめた顔のアンジェラが部屋から出ていく姿が薄目に見えた。ヒビキを襲った本人も、その後遺症に苦しんでいるようだった。


「昨日はごめん……」


 昼過ぎ、青ざめた顔でアンジェラは頭を下げた。まだ体調はすこぶる悪そうだった。


「頭を上げてください」


 ヒビキは少し困惑していた。年上の女性に謝罪されることに、何故か罪悪感を感じていた。


「あたしのこと、嫌いになったよね……。はぁぁぁダメだぁあたし……」


「大丈夫ですよ。それに僕もそこまで嫌ではなかったですし……。それより、体調の方は大丈夫ですか?」


 ヒビキはそれが一番心配だった。


「大丈夫だよ……。もう今日は動けないけど……」


 アンジェラの顔色は大分悪かった。


「もうあんな呑み方はダメですからね」


「はぁぁい……」


 アンジェラは力なく返事した。


 結局、その日は二人揃って二日酔いに苦しんだ。


 翌日、ヒビキはアンジェラの工房へと案内された。


「どうせ行くあても無いんでしょ?だったら、あたしの工房を手伝ってくれない?」


 アンジェラの言うことは当たっていた。ヒビキは快諾した。


 工房はアンジェラの家の裏にあった。昨日は気づかなかったが家の裏は斜面になっており、それに沿って小さな小屋が連なっていた。全て一階建ての平屋で半地下に掘り下げられており、屋根は薄い緑色に塗られていた。


 ヒビキは一番手前の小屋に招かれた。小屋に入ると、炭が焼けたようなスモーキーな薫りがした。


「ようこそ、あたしの工房へ。まぁ、工房って言うか蒸溜所なんだけどね」


 アンジェラは少し照れながらそう言った。


「ここでウイスキーを作っているんですね」


「そうだよ。この蒸溜所は、山の上から下へとウイスキーが作られていくようになっているの。今あたしたちがいる場所は、大麦を乾燥させるための施設だよ」


 へぇ、といった感じでヒビキはアンジェラの説明聞いていた。


「ウイスキーって、どうやってできるんですか?」


 ヒビキがアンジェラに聞いた。


「いいよ、教えてあげる」


 アンジェラはコホンと咳払いすると、説明を始めた。


「まず、ウイスキーの材料は大きく三つある。水と大麦、そして酵母。これらを醗酵はっこうさせて蒸留し、樽に入れて熟成させてできたものが、ウイスキーの原酒と呼ばれるものなんだよ」


 ヒビキは頷きながら聞いていた。


「そして、いくつもの原酒同士をブレンドしてウイスキーは完成するんだよ」


 ウイスキー作りには時間と手間暇が掛かる。できた時の喜びは、言い表せない嬉しさがあるだろう。


「ここから作り方を説明するね。まず大麦を発芽させた状態のもの、麦芽ばくがって言うんだけど、それを乾燥させるの。乾燥した麦芽が用意できたら、温水した水と混ぜて、それを濾過ろかする。ここまでが仕込みと呼ばれる工程だよ」


「準備だけでも大変なんですね」


「ウイスキーづくりには時間が掛かる。早くても完成には三年は掛かるんだ」


 三年というのは、仕込みから蒸留、熟成されて完成されるまでの期間である。大麦を育て、発芽させるまでの期間を含めればもっと延びる。


「アンジェラは何年作ってるの?」


「もう五年近くになるかな」


 アンジェラが一人で五年も山に籠もっていたと分かり、ヒビキは驚いた。 


「ウイスキー作りはどうやって覚えたんですか?」


「あたしには師匠がいてね。今は師匠が作ったウイスキー原酒と、あたしが作ったウイスキー原酒をブレンドして作ってるの。いつか、あたしだけのオリジナルウイスキーを完成させたいんだ」


 アンジェラは真剣な眼差しで言った。


「アンジェラなら、きっとできますよ」


「そうかな」


 フフッとアンジェラは笑った。


「じゃあ今日は、麦芽を乾燥させるところから作業をしようかな」


 麦芽の乾燥には、石炭やピートと呼ばれる泥炭でいたんが用いられる。これらを焚くことで麦芽の成長を止めるだけでなく、ウイスキー特有のスモーキーな薫りを麦芽に付ける。この工程でウイスキーの印象が決まると言っても過言ではないほど、重要な作業だ。


 ヒビキはアンジェラの指導を受けながら、石炭を炉へ焚べていく。パチパチと音を立てながら煙が上がる。


「じゃあ次は乾燥した麦芽を煮込む作業をするから、水を汲んできてもらえる?」


 ヒビキはバケツを両手に提げて、近くの川まで水を汲みに行った。蒸溜所には水道も井戸も整備されてなかった。


 ミズナラ山地を流れるミズナラ川は、川底まで見えるほどの清流だった。川魚が元気に泳いでいるのが見える。


「焼いて食べたら美味しそうだなぁ」


 ヒビキはそう独り言を呟きながら、魚などが入らないよう気をつけて水を汲む。


 水を汲むと、乾燥棟の下にある建物、仕込棟へと運ぶ。


 仕込棟にはヒビキの身長ほどある大きなタンクがいくつか並んでいた。タンクの下には濾過装置が付いており、濾過装置から延びるパイプは下隣りの建物へと続いていた。


 ヒビキはタンクへと水を入れる。バケツ二つ分を入れたが、まだ三割にも満たないくらいしか水が貯まらなかった。


 結局、ヒビキは仕込棟と川とを三往復した。終わる頃には、ゼエゼエと肩で息をしていた。


「お疲れ」


 水汲みが終わったことを報告しに行くと、アンジェラは笑いながらそう言った。アンジェラの額には大粒の汗が浮かんでいた。


「こっちも丁度、乾燥が終わったところだよ」


 アンジェラは額の汗を腕で拭いながら言った。


「じゃあ次は、この麦芽を粉砕しておいてくれるかな。あたしはタンクの水を温めてくるよ」


 アンジェラはヒビキにハンマーを手渡して言った。


 ヒビキは乾燥させた麦芽を麻袋に入れ、上からハンマーで叩いていった。


「麦芽はあんまり粉々にはしないでね。中身だけを粉砕してくれればいいから」


 アンジェラはそう言って、乾燥棟から出ていった。


 麦芽の殻は濾過時に濾過剤の役割をするので、粉砕し過ぎると上手く濾過できなくなる。


 麻袋にして三袋分の麦芽を粉砕し終わると、ヒビキはもうヘトヘトだった。


「もう疲れたの?」


 様子を見に来たアンジェラが笑いながら言った。


「ウイスキー作りって、体力いりますね…」


「さぁ、今日は濾過まで終わらせたいから、もう少しだから頑張ろう」


 アンジェラは麻袋を二袋も担ぐと、仕込棟へと向かった。ヒビキも一袋担いでアンジェラの後を追った。


 仕込棟のタンクには薪が焚べられており、優しい火がゆらゆらと揺れていた。


 アンジェラとヒビキは麻袋の麦芽をタンクの中へと入れていった。


 三袋分全て入れ終わると、アンジェラはタンクの中身を木ベラでゆっくりとかき混ぜた。


「ここからは交代でタンクの中を混ぜ続けるよ。ヒビキは最初、火の番を頼むよ」


 タンク内の温度は七十度ほどで一定に保たれていた。これは麦芽に含まれている酵素が、六十五度から七十度の間で最も活発になるとされているからである。


 麦芽内の酵素がはたらくことで、麦芽に含まれている澱粉でんぷんが糖に変わる。ウイスキーに使われる酵母は糖をアルコールに変えることはできるが、澱粉をアルコールに変えることができないので、仕込みによって糖を作ってやることが重要となる。これを糖化と言う。


 アンジェラはタンクの中を木ベラでかき混ぜ続けている。ヒビキはタンクの温度計を見ながら薪を適宜追加していく。二人の額には、じんわりと汗が浮いていた。


 糖化を始めてから四時間、アンジェラはタンクの火を消した。


 交代しながらの作業だったが、二人ともかなり疲れていた。


 タンクの中身をゆっくりと、少しずつ濾過装置に通していく。


 お粥のようなドロドロとした液体からサラサラとした液体に姿を変え、装置の下に貯まっていった。


 濾過された液体は麦汁ばくじゅうやウォートと呼ばれる。ビールなども麦汁から作られており、多くのお酒作りには欠かせないものだ。


「さあ、醗酵に移るよ」


 アンジェラはそう言うと、下の建物、醗酵棟へと移動した。


 外に出ると、陽がかなり傾いていた。


 仕込棟と醗酵棟はパイプで繋がっていた。


 建物の中には、仕込棟と同じようなタンクが二つ並んでいた。先程と違って火元が無いので涼しく感じた。


 アンジェラは、懐からコルクで栓がされた試験管を取り出した。ぱっと見では、何も入ってないように見える。


「それは……?」


「この中には酵母菌が入ってるの。これをウォートに入れてニ、三日醗酵させる」


 アンジェラは試験管を開けると、ウォートに向かって振った。ゆっくり丁寧に振り入れると、タンクの蓋を閉めた。


「醗酵するとアルコールができてお酒になる。うまく醗酵してくれるといいんだけど……」


 アンジェラは少し不安気な表情を浮かべた。


「醗酵させてる間、僕らは何をするんですか?」


「そうだなぁ……。明日は樽の材料を取りに行こうかな」


 アンジェラは考えてそう言った。


「樽も自分たちで作るんですか?」


「そうだよ、じゃなけりゃ完全なオリジナルとは言えないからね……」


 ヒビキは改めてウイスキー作りの大変さを思い知らされた思いがした。そんな貴重な酒なら、皆が求めるのも分かる気がした。


「とりあえず、今日はお疲れ様。家に戻ろうか」


 アンジェラはヒビキの肩を叩いて歩き出した。

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錬金術師の蒸留所 樋口鏡花 @higuchikyouka

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