錬金術師の蒸留所

樋口鏡花

第一話 出会い

 少年は自らの死に場所を求めて、ミズナラ山地の森を彷徨っていた。


 少年の名はヒビキ、年はニ十、ここから遠く離れたリーガル共和国でバーテンダーをしていた。


 訳あって死ぬことを決意して山に入り、今日で三日目になる。着てきた仕事着は枝などに切り裂かれてズタズタになっていた。


 雨がざあざあと降っている。雨粒がヒビキの体を容赦なく打った。なかなか死ぬに死ねず、水と木の実だけで生きながらえてきたが、どうやら今日でやっと死ねそうだと、降りしきる雨の中ヒビキは思った。


 しかし、その思いとは反対に、ヒビキの足を止めることはなかった。まるで何かを探しているようだった。


「もう無理だ、死のう」


 ポツリとそんな呟きが出て、ふと歩みが止まった。この三日間、何度も口にした言葉だ。頬を温かい雨粒が伝っていく感触がした。それでも再び歩み出す。


 僕は死ぬことすらできない弱い人間だってことか。いや、違う。死のうとすること自体が、弱い自分の証明なのだ。結局、僕はどうあれ弱い人間なのだ。惨めだ。そんな惨めな自分が嫌いだ。だから、それを否定するためにも生きなければならない。


 そう考えると、ヒビキは前を向いた。今度こそ、もう死ぬことはやめにしようと心に決めた。


 ふと、木々の奥に温かな灯りが見えた。気づいたときには、ヒビキは走り出していた。


 灯りの正体は一軒のログハウスだった。煙突からはもくもくと煙があがっているので、誰か居るようだ。


 ヒビキは必死に扉を叩き、人を呼んだ。


 しかし、扉は固く閉ざされたままだった。


「そうか、僕はきっと幻覚を見ているんだ。いよいよお迎えがやってきたんだ……」


 ヒビキはその場でズルズルとへたれこんだ。


「ああ神様、どうか憐れな僕の罪をお許しくださ……痛っっってえぇぇ!?」


 ふいに扉が開き、ヒビキは頭を強打され地面に伏した。


「あれ、誰もいないな。たしかに人の声がしたと思ったんだけどな……」


 扉の向こうから、ハスキーな女の声がした。


「あ、いたいた」


 扉が開け放たれ、女の全貌が露になる。


 肩まで伸びたシルバーのミディアムヘア、中性的で整った顔立ち、膨らみのないスレンダーな体型、服はグレーのセーターワンピースに白衣を羽織っていた。


「君でしょ、ドンドン叩いてたの。用件なら聞くから、とりあえず中に入りな?」


 ヒビキは頭のぶつけたところを押さえながらヨロヨロと立ち上がり、女に招かれるままログハウスへと足を踏み入れた。


 入ってすぐのところに階段があり、上にも下にも部屋があるようだ。一階は書斎兼ダイニングキッチンといった形になっており、キッチンと暖炉以外の壁はほとんど書棚となっていた。書棚には天文学や地学など様々な書物が収められており、傍らの暖炉には薪がくべられケトルが掛けられていた。暖炉の前には安楽椅子とサイドテーブルがあり、卓上には読んでいたと思われる本が一冊置かれていた。ダイニングには大きなテーブルがあり、卓上にはガラスビンやフラスコといった器具が乱雑に置かれていた。キッチンにはガラス戸の棚があり、琥珀色の液体が入ったビンが何本も並んでいた。


「ここに座って」


 女は暖炉の前の安楽椅子にヒビキを座らせると、タオルを投げ渡した。


「ありがとうございます」


 ヒビキはそれを受け取ると、自分の体を拭いた。タオルからはふわりと良い匂いがした。


「あたしのだけど、服はとりあえずこれを着て」


 ヒビキは白のワイシャツを受け取り、袖を通した。タオルと同じ匂いがした。


「楽にしてていいからね」


 女はヒビキが着ていた服を受け取り、暖炉近くにハンガーラックを移動させ掛けた。


 ヒビキは力が抜けたように安楽椅子の背もたれへと深く倒れ込んだ。


「相当お疲れじゃないか」


 女はクスクスと笑って、暖炉の前にもう一つ椅子を持ってきて座った。


「その……、助けてくださりありがとうございました」


 ヒビキは女を見て言った。


「いいんだよ。君が無事で良かった」


 女はそう言うと、白衣を脱いで自分の椅子の背もたれに掛けた。


「あたしはアンジェラ、錬金術師さ」


 ヒビキにとっては噂程度でしか聞いたことがない存在だった。


 錬金術とは、化学的手段を用いて卑金属から貴金属を精錬しようとする試みのことである。現代では賢者の石やエリクサーが広く知られている。


「君は?」


「ヒビキ……です」


 ヒビキは少し緊張気味に名乗った。


「ヒビキか……、良い名前だね」


 アンジェラと名乗った女は、ヒビキを見つめて言った。


「ヒビキはさ、こんな雨の中、一体何してたの?」


「実は……」


 ヒビキは今までのことをアンジェラに話した。


「そうだったんだ……。大変だったねとしか言えないけど……」


「いいんです。アンジェラさんに話を聞いてもらえただけでも、スッキリしました」


「それはよかった」


 アンジェラはそう言ってヒビキの手を握った。温かな感触が凍えた手に伝わる。


「ねえ、ヒビキはこの後どうするの?」


 ヒビキに行くあてなどない。また森を彷徨って、手頃な場所でその日暮らしをしていくことしか考えていなかった。


「もしよかったらさ、ここに住みなよ。部屋なら余ってるし、あたしも一人じゃ寂しいからさ……」


 アンジェラは少し照れながら言った。


「ありがとうございます、アンジェラさん」


「アンジェラでいいよ。さん付けには慣れてなくてね」


「わかり……ました……」


 ヒビキはドギマギしながら返事した。


「まだ冷たいね。そうだ、ヒビキはお酒呑めるの?」


「一応、呑めますけど……」


「じゃあ、せっかくだから呑もうよ」


 アンジェラはそう言って、キッチンの戸棚から琥珀色の液体が入ったビンを出した。


「ちょうどこの前出来上がったばかりでさ、誰かに飲んでほしかったんだ」


 アンジェラは液体を少量、マグカップに注いだ。スモーキーな薫りが室内に広がる。


「それは……ウイスキー?」


「そうだよ」


 アンジェラは暖炉に掛けられていたケトルからお湯を注いだ。角砂糖とシナモンを入れると、マグカップをヒビキに渡した。


「ホットウイスキー、飲んだことないでしょ」


 街ではウイスキーはストレートで飲むのが主流だった。わざわざウイスキーを薄めて飲むということ自体が珍しかった。


「いただきます」


 ヒビキはおそるおそるマグカップに口をつけた。


 ウイスキー特有のスモーキーな薫りと、シナモンのスパイシーな薫りが鼻腔をくすぐる。ウイスキーが持つ甘さと、溶けた角砂糖のほんのりとした甘さが、疲れを癒してくれる心地がした。


「不思議な味わいですね。お湯でアルコール感は薄まったのに、スモーキーさが失われていない。そして何より体が芯から温まる」


 ヒビキは頬を紅潮させながらそう言った。


「まるで新しい酒だ」


「でしょ?いやぁ、口に合ったみたいで良かったよ」


 アンジェラもマグカップの酒を口に運び、ふうと息を吐いた。


「これ、あたしが作ったの」


 アンジェラはビンを振りながらそう言った。


「ウイスキーって簡単に作れるんですか?」


 ヒビキは酒自体にそこまで興味がある訳ではなかった。


「いや、作るための設備が必要だし、なにより技術も必要だ」


 アンジェラは酒を飲みながら答える。ヒビキは室内を見回したが、それらしい専用の設備があるようには見えない。


「アンジェラはどうしてウイスキーが作れるんですか?」


 ヒビキが聞くと、アンジェラはふふと笑ってマグカップを膝に置いた。


「一晩付き合ってくれたら、明日見せてあげる」


 アンジェラは空になったマグカップに再び酒を注ぐと、それを一息に飲み干した。


「お酒はいいねぇ。嫌ぁーなことも、しょーらいのことも、酒を飲めば忘れられる。酒はあたしのエリクサーなのさ。ヒビキもそう思うらろ?」


 アンジェラは呂律が回らなくなっていた。どうやらそこまで酒に強い訳ではないらしい。


「そうですね……。バーに来てた客も、そんな感じの人が多かったですね……」


 ヒビキはマグカップを暖炉の上に置き、安楽椅子に深く腰掛け息を吐いた。


 体がポカポカする。文字通り体の芯から温まっている。


 だんだん瞼が重くなってきた。このまま寝れそうだ。


「ヒビキ」


 耳元で甘い声が聞こえる。頑張って瞼を開けると、ウイスキーのビンを持ち、顔を紅潮させたアンジェラが前にいた。


「なんです………んっ……」


 開きかけた口を突然塞がれた。口には甘い液体が流し込まれる。舌と舌が絡み合う。ヒビキにとって初めてのキス。


 体が燃えるように熱くなる。


「ヒビキぃ……」


 アンジェラが自身のセーターの裾を捲り上げようとする。素肌が見えたので、ヒビキは慌てて抑えようとした。


 アンジェラは穿いてなかった。


 アンジェラが不満そうに頬を膨らます。酒が入ると、理性のが外れるようだ。


「ヒビキぃ……、一晩付き合ってくれるんでしょ?」


 必死に抵抗するが、思ったより力が強い。


 遂にヒビキは両腕を取られた。そのままひっくり返りそうになるほど椅子が傾いている。


「アンジェラ……!」


 ヒビキが叫ぶと、アンジェラはをビンを口に咥え、ヒビキをお姫様抱っこした。


 抵抗しようにも殴る訳にはいかない。アンジェラは命の恩人なのだ。


 アンジェラに抱えられて二階に上がった。二階には三つほど部屋があり、どれも扉が閉められていた。


 アンジェラは一番奥の部屋に入った。そこは寝室だった。


 ヒビキはベッドの上に優しく降ろされた。そして再びアンジェラに唇を塞がれ、酒が流し込まれた。


 頭がぼーっとする。何も考えられなくなる。


「楽しい夜にしようね」


 耳元に囁かれる甘い声。もう抵抗の意思は失くなっていた。


 嫌だという感情はあった。だがそれは、こんな関係になることではなく、彼女を汚すことに抵抗があったからかもしれない。


 酒は人の本性を暴く。彼も彼女も、身体は正直だった。


 窓の外はまだ雨が降っている。雨脚はより一層強くなっているような気がした。まるで二人の喘ぎを掻き消すように……。

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