第35話
カズヤは自分の端末に残された、髪や目の色に変異を来す前の「妹」……タエの写真をなんとはなしに見ていた。たびたび、深夜になると背中の傷の痛みを訴えるようになった頃だ。毎夜のように苦しむ彼女に鎮静剤を嗅がせ、身体中の傷痕に薬を塗ってやっていた。
傷だらけの少女の保護者となったカズヤ自身もまた、あの事故現場へ向かう際の二次爆発で重症を負っていた。タエを救い出して程なく意識を失い、目覚めたときにはいくつかの内臓が代用器官に交換されていたのだ。
タエはカズヤの身体の傷を初めて見たとき、お揃いだよ、と言って微笑んだ。彼女の痛々しい傷痕が扇情的に映るのは、見る側もまた過去に大きな傷を負っているからだろう。
カズヤは、事故機の中でタエを発見したときのことを思い返す。瀕死の傷を負い意識を失くしかけた彼女の手を思わず握ると、彼女は一瞬だけ目を大きく開けたのだ。そして、とても強い眼差しでカズヤを見据えた。
おそらく彼女自身は、それを憶えてすらいないだろう。しかしカズヤはその瞳に射抜かれるように、瞬時に心を掴まれたのだ。見つめ合ったほんの一瞬が、無限に連続するような感覚に襲われたあのとき。
──無論、それも彼女がその途轍もない力を自分へと無意識に向けたからに過ぎないのかもしれない。タエの眼差しに宿る「誰かを頼る力」が、この心を揺さぶったのかも……。
思えばそんなタエに運命のように惹かれ、愛したイブキという男も、何らかの深い傷を負った過去を持っているに違いない。そしておそらく彼の傷は身体ではなく、心に刻まれたものなのだろう──。
タエを女性として愛すことはかなわなかったが、今も彼女の心の揺らぎは汲み取れる自負がある。兄代わりとなるべく、組織の命に従ったときからではない。あの事故の日の、あの出会いの瞬間から、──もう自分は、タエの兄となっていたのだ。
ジョシュアが送ってきた、タエとイブキの結婚指輪の試作写真を開いて見つめ、カズヤはつい独り言ちた。
「どうか、幸せに……」
海から敵がやってくる気配は、その日の夜も感じられなかった。しかしこの27エキップ構内に、何か人とは違う……いや、自分たちと近いものの匂いを微かに感じる。
タエは、その妙に気がかりな匂いの出処を突き止めるべく、最上階の自室を1人で出た。共に暮らすイブキは訓練の疲れかぐっすり眠っていて、起こそうにも気が引けてしまった。
──この気配、どこから来るの。そして、いったい誰がそこに……。
タエは念の為足音を立てないよう、気をつけながら廊下を進んだ。
そのとき、匂いが瞬時に濃くなった。タエはそれを背後からのものと感じ取り、すぐさま振り返る。タエの小柄な身体は、背後に迫った何者かの影にあっという間に覆われた。逆光を浴びて姿のわからないその人影の動作を、タエは匂いの強弱で読み取る。
──右手を振り被ろうとしてる。何かで私を殴るつもり?
タエは自分の右腕を斜めに翳して自身を防御しつつ、振り下ろされる腕を左手で掴んだ。
「どういう冗談なの!?」
人影に向かって言い放つと、タエはそのまま相手の右腕を両手で引き寄せ身体の下へ潜った。次に、その手を引く勢いで相手の胴体を背負い、巧みに遠心力を借りて床へ投げ落とす。
その鈍い音が響くと同時に自室のドアが開き、慌てたイブキが顔を出した。
「タエ、どうした!? ──あっ」
背負い投げを食らって気を失った人影の主の横で、タエは真っ赤になって苦笑いしている。
「イブキ、ごめん……。急なことだったから、つい」
「……強いな」
「ううん。弱いから、自分を守ってるだけ」
唖然とするイブキに向かい、タエは屈託なくはにかんで笑った。
宿舎棟の最上階に現れた人影の主は、メディックの一時保護室にいたはずの女性ハイブリッドだった。イブキとタエは彼女を自室に連れていき、目覚めるのを待つ。
「ジョシュアを呼ぶか?」
「そうだね……でもイブキ、ちょっとだけ待って。多分、この子ひとりだけではここまで逃げて来れないよ。誰かが保護室から逃がしたんだと思うの」
「また……ミヅホが係わっているとしたら? 彼女、DEEPとなんの繋がりが……」
そう言って、イブキは神妙な表情になる。タエは黙ったまま、静かに首を横に振った。
「違うっていうのか? ミヅホがDEEPと通じていないとしたら、なぜ収容者を逃がすようなことを?」
「……あのねイブキ。そっか、あなたは知らないんだよね。ミヅホってね、私たちみたいに組織の中で出会った人と恋をして、結婚していたの」
タエがそこまで話し終えたとき、ソファベッドで眠っていたハイブリッドの女性がうっすらと目を開いた。タエは彼女に微笑み、申し訳なさげな表情になる。
「目が覚めたんだね……さっきは、あんなことしてごめんなさい。あなただって、私と似たような目に遭っているのにね。あなた、悲しい匂いがする。大切な人と引き離されたうえに、人ではなくなった……そんなところ?」
そうタエが囁くと、彼女はもう少しだけ目を開いて唇を動かした。タエはその動きを読み取りながら、彼女が発しようとしている言葉のような何かの復唱を試みる。
「え……? まさか、あなた分かるの!? 私たちの言葉が!!」
「この女性、今までハイブリッドの振りをしていたのか? ──ってことは……」
「ねえイブキ。きっと私たちと同じなの、この子も! 人の心を失うことなく、DEEPの力を与えられたんだ……!」
彼女はまた唇を僅かに動かし、少しずつ声を発しながら何かを告げようとする。
「わたしたち、……の、青い石を、奪わない、で……」
歌うように美しい声で、彼女は訥々とそう言った。それを聞いたイブキが不思議そうな顔で、タエに訊く。
「青い石って……」
彼女の目から視線を逸らすことなく、タエは答える。
「──きっと、パシフィサイトのことよ」
タエとイブキはジョシュアを呼び、彼女が人の言語で意思疎通できることを伝えて身柄を託す。そのとき、人に対し敵意を持たない彼女を漂着者として手厚く保護するように依頼した。
そしてタエは、かつてミヅホの夫であった大楠が27エキップ創設にかかわった中心人物だったことをイブキに話した。
「そうか。それでミヅホが妙な動きを……なるほどな。きみがずっと浮かない顔をしていたのも、それを考えていたせいか……。この話、どこで聞いた?」
「何故それを知ったか、……ってこと? レディバグS0.5に乗っていたとき、私の頭の中にヌウスが持っている情報がどっと流れ込んできたの。その中に、彼がミヅホの思考を読み取った記録があって、そこから。だから間違いないよ」
「きみとヌウスは凄いな……僕にそんな力はない。でも創設者に関することが、なぜ第8条に?」
イブキの至極素朴な疑問に、タエは大きく頷いた。
「それなの。おかしいでしょ? いちばんの功労者に関することが、ほぼ禁句だなんて。何かあるに違いないし、ミヅホの様子が変なのもそのせいじゃないかと思えてしまって」
タエの推測にイブキはあることを察し、瞬時に青ざめた。
「まさかその創設者の男、ここを出て行ってDEEPの棲家に……!」
「気づいた? ……私には、そうとしか思えないの。だってその彼が失踪してから程なくして、海底でひっそり慎ましく暮らしてきたDEEPが突然、人類への攻撃を始めてるのよ」
「その男が、DEEPの社会を乗っ取ったってことか……!?」
言葉を失ったイブキを見つめ、タエは唇を震わせながら涙交じりの声で答える。
「みんなDEEPは人に寄生する生き物だって、全部の細胞をジャックされてしまうって怖がってたのよ。ばかみたい……。寄生したのは、人間の方だったなんて!!」
感情を抑えられなくなったタエは泣き崩れ、イブキに縋った。
「タエ、取り乱すな、落ち着くんだ! ずっと側にいてやる。何が起こっても、守ってやるから!」
「父も、母も弟も……得体の知れない生き物なんかじゃなく、人の野望に殺されたんだ! 私が許してはならないと思っていた敵も、……そして私を人ではないものに変えたのも、全部人間だった!」
繰り返し嗚咽を漏らすタエを、イブキは強く抱きしめた。
「だめだタエ! 憎しみに阿った瞬間に、きみはきみではなくなる!」
「ねえイブキ……私はどうなってしまうの! もう私のためにイブキを危険な目になんて遭わせたくない、巻き込みたくないよ……!」
「何を言ってる? 今の僕が生きてるのは、きみといるためだ。誰が何を起こすか知らないが、巻き込むつもりならひと思いに巻き込まれてやるさ」
泣きじゃくるタエを宥めながら、イブキはひとつの決意を固めていた。
たとえ自分の命を投げ打っても、このひとの微笑みを失わせなどしないと。
「話せないことばかりなのは、こちらも知っている。だから、われわれが今どうしても聞き出すべきことも特にないんだ。安心して休みなさい」
ジョシュアは、救護室のベッドで再び目を覚ました捕捉番号:50の女性にそう声をかけた。
「この世界のことは、何も覚えていない。でも……この島に降り注ぐ光は、やさしくて懐かしい」
彼女はそう、はっきりと言った。ジョシュアは何かを察した様子で、また彼女へ話しかける。
「そうか。だから、きみはミヅホが一時保護室のセキュリティを解除したのに、向こう側へ逃げ帰らなかった。──そういうことだね」
「分かりません。直感なのかも」
彼女は美しい声でそう言うと、外の快晴の空を幾分虚ろな目で眺める。ジョシュアは彼女に伝えるべきことを、ここで告げるか思いとどまるかしばらく逡巡した末に、重い口を開いた。
「人間として暮らしていた頃のことは、何も覚えていない……。と、きみがそう言った、その失われた時間のなかに一つだけ、今も確かなことがある」
「……それは、どんなことですか」
彼女の虚ろだった目が、大きく開いてジョシュアを見る。その強い眼差しに、ジョシュアはまた少し逡巡した後で言葉を続けた。
「実に綺麗な声をしてるよ、きみは。人間として暮らしていたころ、きっとその声を仕事にしていたんじゃないか──そう思うほどだ」
42. ふたりへ (for two)
「50年に1人の声、かぁ」
ユージが持ってきた数年前のアイドル雑誌のページを開きながら、リオナは記事の見出しをそう読み上げる。
「ああ。皆見莉々子はさ、そんな触れ込みでデビューしたんだ。儚げで繊細なルックスからは想像できない、パワーに満ちた高音ボイスでな」
「で、そのアイドルだった子が、DEEPに連れ去られたってこと?」
「俺らの予測ではな。この前、ナナカが一旦捕まえたけれど逃走した敵幹部がいただろ。その男、莉々子が交際してた俳優の岸川馨慈だったんだ」
ユージの言葉に、隣に座っているナナカも頷く。
「リリコちゃんが私のマネージャーだった頃、岸川くんに何度か会ってるの。あの敵幹部の顔、間違いなく岸川くんだった」
ナナカの言葉に、リオナはなぜか少し呆れ顔になる。
「ええ〜……。ナナカちゃんと、ナナカちゃんのマネージャーだった人が今は敵と味方なの……。なんだろうね、その居た堪れない話」
いや、そっちじゃないとナナカは思った。恋人同士だった2人がその頃の記憶をなくしたまま、おそらくは敵の戦闘員として任に着いているというのに。そのことに、幾分偏ったリオナの想像力は及ばないようだった。らしいなぁ、と思いながらナナカは苦笑交じりに頷く。
「ん?」と、リオナが誰かの気配を感じ、やにわに振り返って声をあげる。久しぶりに仲間たちの前に姿を現したのは、少し痩せたように見えるヌウスだった。
「ヌウスも来いよ」
そうユージが呼びかけると、ヌウスはあどけない笑顔を見せて彼らの輪に加わった。
「みんな、何を見てるの?」そう言いながらヌウスはユージの雑誌を覗き込み、次の瞬間にはっと息を呑んだ。
「どうした」
そう尋ねるユージに、ヌウスは神妙な顔でこう言った。
「この写真の子……この前、保護室で見たよ」
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