第34話

 ナナカはカズヤの居室のドアを目の前にし、ごくりと息を呑んだ。その音が、部屋の中まで聴こえてしまうのでは……。そう、うっかり不安になるほどの緊張感だ。

 おそるおそる、玄関ドアの呼出ボタンを押し込んだ。居室内に響く電子音が、薄くはない壁からも微かに漏れ出てくる。セキュリティ越しの応答はなく、ナナカの姿をモニターで確認するとすぐにドアは開いた。

「どうした、こんな時間に。浮かない顔だな」

「眠れないんです。何だか、変な予感がして」

 ナナカがそう答えるとカズヤは頷いて手招きをし、部屋へ入るよう促す。中腰になって靴を脱いだナナカの手を取ると、カズヤはその手を引いて自分の目の前に向き直らせた。

 ナナカは急に手を握られたことに驚き、言葉を失ってカズヤの顔を見上げる。普段は視線を泳がすことのないカズヤの眼が、そのとき初めて戸惑いに揺らいだように見えた。

「少し落ち着いたほうがいい」そう、早口気味に唇が動く。そして返答に窮するナナカの表情を丁寧に追いながら、「座っていなさい」と続けた。

 ソファに腰掛けさせられたナナカは、そのまま言葉を発することができずに彼の反応を待つ。カズヤは窓の向こうの外洋を目で追ったまま、しばらく会話が始まらない時間が続いた。しかし沈黙が苦手な性分のナナカは、つい口を開いてしまう。

「……あの!」

 言葉を向けられたカズヤの背中が、微かに震えるのを見た。

 そして、いつもの「フッ」という笑みがナナカの聴覚をくすぐる。

「ちょっと待ってください、もしかして笑われてるんですか、私」

 気づくといつものテンションに戻ってしまったナナカに、カズヤはこらえきれない様子で大きく笑い出した。

「ひどい! 私がどんな気持ちでここに来たか分かって」

「分かっている。大丈夫だ、うっかり可愛いなと思ってしまっただけだ」

 その返答に、またナナカは言葉を失ってしまった。少し前に感じていた、あの緊張感がまた蘇る。

「そうやって、また子供扱いするんですか」

「子供を部下にした覚えはないが? 大事な部下だ」

「ありがとう、……ございます」

 口を尖らせて、ナナカは相変わらず掴み所のない目の前の男の顔を覗き込んだ。




40.  蜜と月 (Honey / moon)


 おそらくは、一瞬程度のことだったのだと思う。しかし、何時間もそのまま見つめ合っていたような気がした。

「さっきも同じように言ったが、きみのことは本当に可愛いと思っている。しかし、尊重すべき部下でありチームメイトだ。それだけに、臆病にならざるを得ず申し訳ない」

「私も同じ、……同じ思いでここに来ました。女の子であることをこれ見よがしにして、価値あるもののように振る舞うことを選んだ昔が、今は少し恥ずかしい。そんな羞恥も含めて、全部をあなたに知ってほしかった」

 職務に就いているときは見せない、穏やかな微笑みでカズヤはナナカを見つめる。

「構わない。そういう恥じらいも、きみを象る大切な一部だと思う」

 少し照れ混じりにそう言うと、カズヤは薄暗く落としていた照明を少し明るくしてナナカに背を向ける。そして着ていた上衣を脱ぎ、上半身を露にして見せた。

 ナナカは、カズヤの背中を見て一瞬だけ目を逸らしかけてしまう。

「いや……」

 夥しい数の大小の傷と火傷の痕が、その皮膚の表面の殆どを占めていた。

 ナナカは、タエと一緒に入浴したとき彼女が服を脱ぐのを逡巡したことを思い出す。彼女も全身に傷を負い、その痕を隠しながら暮らしているからだ。時々タエとカズヤが垣間見せる、男女のそれとは違った奇妙な連帯感の謎が解けた気がした。

「少し我慢して、全部見てほしい。君が驚くことは、想定内だった。首から下は、ほぼこんな具合だ。手足が元のままなのは、不幸中の幸いのようなもの……。その代わり、この私の身体の中身はかなりの比率で人工臓器に置き換わっている」

 息を呑むナナカを安堵させたいかのように、カズヤは振り返るとまた穏やかな微笑みを見せた。

「先に、これを伝えなければならなかった。ナナカ、こんな私だ。きみたちと違い、ろくな適性指数を持たずUDでもないオンボードが、最前線で何年も戦い続けたらこうなる」

 とても有能でスマートに振舞うチームの指揮官は、決してそうなる星のもとに生まれたエリートではなかったのだ。ナナカは少しだけ、複雑な気持ちになる。カズヤが、ただ人を助けるために負傷を繰り返して挫折から這い上がり、組織の幹部にまでなった男だったことに。

「こんな私に、きみは愛されたいか? きみを初めて抱くかもしれない男の身体が、その一部を人工物に挿げ替えられたサイボーグでも構わないと思うか」

 少し寂しげな表情で、カズヤは尋ねた。ナナカは何故か、ひどくホッとして笑顔を向ける。

「愛されたいなんて、そんな傲慢なこと思ってません。どうしてそんなことが、あなたを好きにならない理由になるのかが分からない」

 カズヤは頷いて再びナナカへ微笑みかけると、脱ぎ捨てた上衣をきちんと着直す。そして、一歩引き丁重に敬礼をしてみせた。

「準S級機動防衛専任行動官、サイファ:NNC殿。──愛しております」


 その夜は、ふたりで手を繋いで眠った。互いの思いを言葉にして伝え合えただけで、もう十分すぎるほど心が満たされてしまったのだ。


 この最上階の居室で迎える、2度目の朝が訪れた。初めてここに泊まった朝、もうカズヤは先に起きていて身支度を済ませていたように思う。

 しかし今朝は、まだ眠っているカズヤの長い両腕に抱き留められたまま身動きが取れない。目覚めたナナカは、慌てて自分の身の周りを確かめる。2人とも衣服を身に着けたままで、何か変化があった様子も記憶もなかった。

 ──そっか。何もなかったんだな、私たち……。

 起きて朝の支度をしたかったナナカは、カズヤの耳元にそっと話しかける。

「起きてください、……起きて。もう朝ですよ」

 3度ほどそれを繰り返し、ようやくカズヤがうっすらと目を開いた。

「これは……。夢を見ている訳じゃないんだな」

「おはようございます。先日、お世話になってしまったことのお礼をさせてください。朝ご飯、なにか作ります」

 ナナカが微笑みかけると、カズヤは照れくさそうに上目遣いでナナカを見上げた。

「あ、ありがとう」

「はい! 出来るまで、シャワーでも浴びてきてください」

「この前と逆だな」

 カズヤはそう言い、フッと笑みを漏らすとバスルームへ向かった。

 ナナカがキッチンに立ち、フライパンに卵を2つ割り入れたそのときだった。

 居室のトークオンが、ジョシュアの声で挨拶めいた一言を放つ。

『おはよう。そろそろ起きたか?』

 おそらくは、幹部会議の業務連絡か何かだろう。呼ばれたはずのカズヤは、バスルームにいる。向こうにも音声は届くはずだが、流石にシャワーの音で聴こえていないようだ。

「は、はい!! ……えっ!? ──いえ、あの」

 反射的に、うっかり返事をしたのはナナカだった。トークオン越しに、ジョシュアのクスッと笑う声が聴こえてくる。

『ナナカ、そこに泊まったのか。なら、カズヤに伝えておいてほしい。工作室でのミーティングは13時からだ。それまでは、ゆっくり身体を休めていて構わない、とね』

「えっ、……私、あの、ゆうべ眠れなくって、その、つい、ここへ来てしまって」

『何事もなければ、今日はトップも非番だろう。一緒に、のんびり2度寝でもしたらいい』

「そんなことしません!!」

 ナナカが顔を真っ赤にしてそう大きく声をあげたところで、丁度カズヤがキッチンに姿を見せた。そして、自分宛のトークオンでジョシュアと会話するナナカの姿に一瞬ぎょっとする。この状況で彼女をここに泊めたと知られるなど、最大の弱みを握られたも同然だ。カズヤは慌てて、ジョシュアとナナカの会話に割って入った。

「ジョシュア、待ってください。この状況を私から説明させてもらっていいですか」

『いまさらそんな必要は無いぞ、カズヤ。寧ろこの日がやっと訪れてくれて、個人的には良かったよ。要件は彼女に伝えてあるから、聞いておけ』

「──いえ、違うんです! 私たちはまだ何も」

『きみたちのプライベートに関する事を、いちいち報告しなくていい』

 トークオン越しにジョシュアの溜め息と半笑いが響き、会話は終わった。カズヤは頬を少し赤らめながらトークオンをオフにし、ナナカのほうに向き直って言う。

「──困ったことになった。これで私たちは事実上、組織公認だ」

 ナナカはむず痒い心持ちを隠しきれず、苦笑いするしかできなかった。


 その日の午前中、ナナカはずっとカズヤの部屋で過ごした。シャワーを浴び、とりとめない話をしたり、時々戯れに見つめ合ったりしながら。

 なんにせよ、ナナカは生まれてこのかた誰かと付き合ったことがない。正直、どうしていいか分からないことばかりだ。

 最上階から下るエレベーターの中で、部屋からの帰り際にカズヤが言ったことを思い出す。

『恋人同士になっても、任務上の関わりは続く。きみには、不安を与えないことを最優先したい』

 ──どういう意味なんだろうな。

 カズヤと付き合っていることについて、自分から積極的に誰かへ話そうとは思わない。しかしタエには、これからも色々なことを相談したいと考えてしまう。実際、一見清楚でうぶに感じられるタエのほうが恋愛では上手なのだと思う。何しろ、ナナカが知る範囲では唯一、あのカズヤを振った女でもあるのだし。

 ナナカはタエに宛て、カズヤとの交際が始まったことをメッセージで報告する。タエからはすぐに、その知らせを待ってたよ、と返事が来た。

 そして、男女の恋愛話になど興味が無さそうなリオナにも、一応報告をしておく。先の戦闘でS1にカズヤと3人で搭乗したときは、全力で2人を応援してくれたのだし。

 リオナからも、送ったメッセージの返事がすぐに届いた。

『おめでと。あーあ、まいったね。またアタシの予感が的中しちゃったよ』

 と。




41.  来訪 (visit)


 いつごろ次の敵襲があるのか、予測のつかない日々が続いていた。ジョシュアとカズヤ、そしてユージの幹部組は、毎日のように会議を繰り返している。

 そんな中、ミヅホ1人だけはそのピリピリとした状況下でも上の空といった風情だった。考えごとに耽り、ヌウスが心配して食事を用意するほどの有り様だ。そのヌウスも、ようやっとカプセルでの回復休眠時間が短くなってきたところだ。無論、体調も病み上がりのような状態で万全とはいえない。

「ねえ母さん、ご飯だよ。どうしちゃったの……」

 その日も昼の食事を母の分まで準備し、ヌウスはミヅホに声をかける。

「なんでもないわ。色んなことを考えているだけ」

 また、同じ返事が返ってきた。ヌウスは思い切って、ミヅホにこう訊いてみる。

「母さん、DEEPの巣に行きたいのか?」

「──なぜそう思ったの」

「顔に書いてあるよ」

 ヌウスは驚きも怒りもせず、ミヅホに笑顔を向けて答えた。想定外の反応にたじろぐミヅホに対し、ヌウスはフラットなテンションのまま平然と続ける。

「向こう側に、好きな人がいるんだろ? もしここにいたなら、僕の父さん代わりだったかもしれない誰かが」

「知っていたの?」

「1-0《ユヌ=ゼロ》の近くに行ったら、回路の接続履歴を読めてしまった。母さんも、昔はオンボードだったんだね」

 ヌウスの能力なら、1-0の回路にも割り込んで記録された情報を感知することができる。それに気づいたミヅホは、ハッとして両手で口を覆った。

「そして今はもう、IGFには乗れないんだろう。ある日を境に、突然LAGできなくなったんだよね?」

 ヌウスは言い終えると、動揺を隠しているようなミヅホの目を容赦なく見据える。

 IGFの回路に割り込めば、LAGした乗り手の感情の軌跡までを読み取ることがヌウスにはできるのだ。

「僕も会ってみたい。母さんが愛したっていう、その人に……ね。向こう側に行くときは、言ってよ。1-0で、僕が母さんを連れて行くからさ」

「あなた、乗るつもりなの……1-0に」

「前にも言ったろ。僕は、アイコンブレイバーに乗りたいって。──乗ってみせる。目の前にどんな敵が立ちはだかっても、戦って勝ってみせる」

「たしかに、あなたなら乗れるのかもしれないわ。根拠なんかないけれど、私にもそんな気はする」

「ありがとう母さん。でも、これだけは聞いて。DEEPは、やっぱり僕らの敵なんだよ。たとえ母さんの愛する人であっても相手になるなら僕は戦うし、容赦するつもりもない」

「そう……。そうね、仕方のないことだわ」

 寂しく微笑んで俯くミヅホに、ヌウスはもうひと言を躊躇なく言い放った。

「ねえ。そうなっても僕を止めないでね、母さん」

 ヌウスの瞳の中心が、紫を混ぜたような紅色に光った。ミヅホは、その瞳孔の色に見覚えがある。相談のためにこの部屋を最も数多く訪れた、あの可愛い女性クルーの眼だった。

 ──あの娘とこの子は、やっぱり……。


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