第33話
宿舎棟の3階と5階のワンルームを残しつつ、イブキとタエは最上階にある幹部向けの3LDKで暮らし始めた。クルー同士の結婚は本来推奨されているが、事実上の婚姻が成立したのは2人が初めてだ。過去にあったクルーの結婚話といえば大楠とミヅホ、そしてカズヤとユタカの2組だけだったのだから致し方ない。
「3階の部屋より、海がよく見える。つくづく、幹部はいい暮らししてやがったんだな、って思うな」
「その幹部でもないのに私たち、こんないいお部屋に暮らしてていいのかな。うふふ」
「家族向けの間取りがここしかないんだ。有難くお言葉に甘えておけばいい」
「5階の私の部屋よりも、ずっと眺めがいいよ。うふふ、嬉しい」
タエは、窓の外を眺めるイブキの横顔に目を遣った。彼の髪はすっかり薄墨の色へと変わり、瞳の中心には淡く虹が差している。
このひとをこう変えたのは、わたし──。
少しばかりの罪悪感が、胸をシクシクと痛めるのを感じる。しかし同時に、タエの心の奥には新たな決意が芽生え始めていた。それは、すべてを許し捧げた愛しいイブキにも、到底告げられないものだった。
タエはふと、孤独になるなというカズヤの忠告を思い返す。いま独りで決めたことを無かったものとすれば、このまま幸福に暮らせるのかもしれない。しかし、それは誰かに委ねることは難しく、自分独りの力に頼らなければ成し遂げられないものだ。そして、辿り着いてしまった以上はその決意から自分が逃れられないことも、とうに分かっていた。
──イブキ。ごめん、ありがとう。そして……。
リオナとシュウは、しばらく言葉を交わせず廊下のベンチに腰掛けている。自分たちにしては思い切った行動だったが、結果的に沈鬱な雰囲気を招いてしまった。
「ミヅホ……。あんなふうに、ずっとずっとひとりの男を好きでいられるのかぁ……」
そう独り言ちるように、先に口を開いたのはリオナの方だ。シュウは溜め息をつくリオナを横目で見ながら、少し遠慮気味に声をかけた。
「きみは、タエちゃんが好きなんだろ?」
「えっ!! うそ、……そんなことひと言も言ってないのに」
シュウがあまりにズバッと核心を突くものだから、リオナは焦って目をぐるぐるさせてしまう。
「わかるんだ。きみがタエちゃんに送る視線ってさ、あからさまに熱いもの。それに、彼女がイブキと一緒にいるときの顔──。なんだかいつもハラハラしてて、危なっかしい表情なんだ。きみさ、面白いね」
「面白いってなによ! そう言われてもあたし、こう見えたって一生懸命やってて……」
しどろもどろになるリオナの様子を見ながら、シュウはなぜか幾分余裕を感じさせる表情で話し始める。
「そんなことはわかってる。でもさ、現時点でタエちゃんがきみの方を振り向いてくれる可能性ってゼロだよね」
「……うん」
「きみからすればタエちゃんを奪っていった形になるのに、イブキのことだって許してるんだろ?」
「……うん。タエちゃんが、幸せそうだから……。アイツが、タエちゃんを喜ばせられてるんならいいかな、って思って」
シュウはパッと笑顔になり、リオナの背中をばんと叩く。
「えらい! 最高だね、きみ最高じゃない? ずっと思ってたけど、リオナちゃんって本当に仲間思いじゃん」
「そうかな……。女同士って、意外とそういう意味で助かるんだ。どっちかが恋愛や結婚の話になっても、簡単に切れない繋がりが持てて。お陰で今も、あたしはタエちゃんの親友でいられるじゃん? それは、有難かったなって。そう……思ってるんだ」
リオナは言い終えてからシュウに一旦笑顔を向け、そのあと海を見て目を細めた。シュウは彼女の視線が移る先を追うように、リオナの横顔を見つめる。
「リオナちゃんも、僕も『追う側』の人間なんだね。だからずっと隣を走り続けて、決して交差する瞬間は訪れない」
「ん? なに、それ」
きょとんとするリオナに、シュウは少し切ない微笑みを返す。
「なあリオナちゃん。守るも破るも自由な緩い約束を、僕としてくれないかな」
「やだ、謎! 破ってもいい約束って何それ、なんなのよ」
そう言いカラッと笑うリオナの目の前に、シュウは右手を差し出して姿勢を直す。
「10年、20年経っても、……いや30年後も、かな。僕ら、この組織の現場を張ってるチームメイトでずっといような、っていう約束だよ」
リオナはシュウが差し出した右手を、両手でしっかりと握った。
「うん。そうしていたい。だってあたしたち、この現場以外に居場所って思いつかなくない?」
「だろ? タエちゃんは幹部昇格が確実だろうし、イブキも元々研究者だから開発に回ると思う。でも僕やきみは、現場を離れたくない方の人間だ」
「そっか、あたしもか。見抜かれてるんだ、ふふ……。じゃ、そういうことで!」
随分とカジュアルな誓いの言葉をリオナが投げかけると、シュウも釣られてふふふっと笑みを零した。
ユージとナナカ、シュウとリオナ、イブキとタエ。そしてジョシュアとミヅホ、ナナカとヌウス、タエとカズヤ──。それぞれの誓いと迷いを胸に抱き、その正体が明かされつつあるDEEPとの決戦に臨もうとしていた。
39. 眠れない夜 (Sleepless night)
「タエちゃんが、何らかの行動に出る? マジで?」
ユージは、目を丸くしてカズヤへそう訊き返した。カズヤは神妙な顔つきになり、戦闘工作室の窓からドックポートタワーを見上げてそれに答える。
「ジョシュアがそれを警戒している。タエの心の奥で募るDEEPへの憎悪は、もはや自意識で抑え込めるものではない所まで来ている。あの子はそう遠くないうちに、……独断で先方の拠点へ攻め入るかもしれない」
「タエちゃんの力で、それを……。そうなったら止められますか、俺たちに」
カズヤは言葉で答える代わりに、無言で首を横に振った。
「まず私たちには無理だ。本気になったタエがヴィオラを駆って破壊行為に及べば、おそらく東京湾沿岸の全土が消し飛ぶ」
「……そんな」
「事態を阻止するには、あの2人に動いてもらうしかない」
それを聞いたユージは、思わず両手で頭を抱えて俯いてしまう。
「それって、……イブキとヌウスの事を言ってるんスよね」
「そうだ。彼ら以外のクルーは、おそらくタエにとって相手になどならない。そして彼らがタエを止められるか否かにかかわらず、タエ自身の命が危ういことに変わりはない」
ユージは一瞬だけ愕然とするような表情を見せたが、すぐに緊張感を取り戻し毅然と答える。
「そうであっても、俺らはやりますよ。タエちゃんを止める、そして助ける」
そうはっきり口にすると、ユージはカズヤの目を真っ直ぐ見据え、左利きの敬礼で応えた。
「タエたちは、……起こるはずのない奇跡を起こしてここまで組織を引っ張ってくれた。私たちも、奇跡を引き寄せるときが来たのだと思おう。頼むぞユージ、そしてチームとしてすべきことを全うしよう。──おまえたちなら大丈夫だ」
言い終えるとカズヤもユージに向かって敬礼し、恭しく頭を下げた。
DEEPの幹部機を墜とした先の戦闘以降、いまだ新たな敵襲の兆候はない。これだけ長い間、戦う機会が訪れないことはこれまでになかった。
その日の午前の訓練では、タエひとりが孤軍奮闘していた。モチベーションの維持に苦戦している他のメンバーを差し置くような格好だ。
「タエちゃん、今日もお疲れ様。頼もしいけど、訓練であんまり根を詰めすぎると身体に良くないよ」
宿舎棟に戻ろうとするタエの背後から、ナナカはそう声をかけた。
「うん、ありがとうナナカちゃん。私もわかってるんだ……。気をつけなきゃダメだね。ここ何か月も、背中が全然痛まないから油断してるのかも」
「ごめんねタエちゃん。頑張ってるところに、水を差すような出しゃばったこと言って」
タエは笑顔になり、そんなの気にしないで、と言って手招きをするイブキの方へ駆け寄って行った。ナナカは、後ろを歩いていたユージを振り返って話しかける。
「ねえユージ。タエちゃんさ、……なんだか頑張りすぎてない? そんなに身体が丈夫な訳じゃないし、少し心配だな」
「イブキとタエちゃんは結婚したのもあって、モチベーションは上がってるみたいだな。ジョシュアが2人の結婚指輪を作ってるらしいし、早く戦いを落ち着かせて祝ってやりてえよ」
「そっか。でも、タエちゃん……色んなこと、1人で背負ってるように見える。ねえユージ、私たちがタエちゃんの力になれることってないのかな」
タエが経てきた数奇な生い立ちのことはもう、第8条案件だと念を押されつつチームメイト全員が把握していた。そしてタエとイブキの2人が、人の身体と心を持ちDEEPの能力も備えた人ならざる存在であることも。
「いつも通り、明るく接してやってくれ。あの子なりの責任感で、この先の戦いに備えようとしてるんだ。タエちゃん、自分を厳しく律するところがあるだろ。少しでも、あの子の気持ちを楽にさせてやってほしい」
思い詰めて早まった行動に出てしまうなど、タエに限ってないだろうと思いたい。しかし、チームの中で孤立感を覚えさせるような雰囲気をわざわざつくる事は避けるべきだと思った。ユージは、タエが上層部からの警戒対象となっていることを敢えてナナカに伝えなかったのだ。
「わかったよ……。でもユージ、もしタエちゃんが危ない目に遭いそうになったら、私たち全力で助けようね」
ナナカはバイザーオンボードでもなく、適性値が飛び抜けて高いというわけでもない。ただ、カズヤも指摘していたように、誰より一歩先を読んで動くことに長けている。周囲を動かす切っ掛けを作り、チームワークを成果へと繋げるスイッチのような存在なのだ。
タエも組織に欠かせない逸材だが、別の意味合いでナナカもこのチームに不可欠だ。ユージはナナカに笑顔を向け、力強く言った。
「おぅ。チームメイトの危機は俺らの危機だかんな」
予感がしていた。どちらかというと、良くないほうの予感だ。
イブキやタエのように、敵襲の兆候を気配で感じることはできない。しかしナナカには、ここ数日のイブキやタエの表情、そしてヌウスが姿を現さないことが気になった。ヌウスはおそらく、カプセルの中で眠る時間が長くなっているのだろう。身体や心の疲れというより、急激な心身の成長による負担が大きいのかもしれない。
その夜は眠れず、心細かった。クルー・タリスマンでリオナにメッセージを送ってみたが、訓練の疲れで早寝してしまったようだ。ナナカは一旦着替えたパジャマから再びルームウェア姿になり、部屋を出て上りのエレベーターに乗った。
最上階に着き、静かな廊下を幾分緊張しながら歩く。──ふと、突き当たりの窓から外を眺める人影の存在に気づく。ナナカはその姿を確かめ、背後から声をかけた。
「イブキくん?」
「──1番機」
イブキは、突然現れたナナカに若干戸惑う表情を見せたが、すぐに状況を察してこう言った。
「プライマルを訪ねて来たのか」
ナナカは頷くに頷けず、黙ってイブキの顔を見る。
「──そうなんだな? そんな格好で……。僕が人のことを言える義理じゃないが、カズヤとそういう仲だったのか」
ナナカは顔を真っ赤にし、慌てて首を横に振った。
「ち、違うの。そんな仲でも何でもないけど、ただ……前に私、この仕事で心が折れそうになったことがあって。そのとき一晩泊めてくれて、励ましてもらっ……」
「と、泊まった!?」
イブキが漫画のような驚きぶりで、目をぐるぐるさせながら訊き返す。うっかり口を滑らせたナナカは、しどろもどろになりながら否定を試みる。
「ち、違う、……何も、何もなかった、本当に何もないけど結果的に泊まることに……」
ナナカの焦りぶりに、イブキもなんとなく事情を推測できたようだ。
「そうか。あの人のことだし、部下相手に滅多なことはしない……か。でも今日きみがここに来たのは、彼とそうなる覚悟を決めてのことなんだな?」
言い終えると、イブキは少し余裕を湛えた笑みを浮かべてナナカを見た。さすがにユージやシュウよりも、この人の内面はずっと大人だ。人類の生物学的進化に直結するような大恋愛を経ただけはある。そう思ったナナカは、堪忍するように静かに頷いた。
「うん。そうなることも、想定の上で来た」
「前々から思っちゃいたが、きみはクソみたいに真面目な癖にやることは大胆な女だな。ま、カズヤのことだ。きみをどうするにせよ、責任のともなう行動をとってくれるとは思うが」
──クソみたいに、真面目……。少し前までのイブキの毒舌家な一面を久々に垣間見た気がして、ナナカはクスッと笑った。
「何かおかしいのか?」
「うん、おかしいね」
「は!?」
「外見だけはそんなふうにすっかり変わったけど、あなたって意外と変わってない。タエちゃんってきっと、イブキくんのそういうとこも好きなんだね」
「そうだと……ありがたいな」
イブキは少し目を泳がせ、照れ気味に頭をかいた。
「タエちゃん、元気にしてる? 同じフロアで会う事が少なくなったし、同僚としてはちょっと寂しくもあって」
イブキと結婚し最上階で暮らすようになったタエとは、気侭に会って話す機会も減ってしまった。そんなナナカやリオナの心境をイブキも察していたようで、幾分申し訳なさげな表情になる。
「彼女には、いつでも自由にきみたちと会って構わないと言っている。今は色々なことが起こって疲れているようだから、僕から言って身体を休めてもらっているんだ」
「今夜は、タエちゃんはもう眠ったの?」
ナナカの問いに、イブキは微笑みながら黙って頷いた。
「愛されてるんだな、タエちゃん。……よかった」
ほっと溜め息交じりにナナカがそう言うと、イブキはまたばつが悪そうに苦笑して外を見た。
「──照れくさいな。そして少し懐かしい。実は僕らも、タエの部屋へ僕が隠れて会いに行ったときから始まった」
「──それで、リオナちゃんに見つかったんだ」
「そうだ」
「あなたも、人のこと言えないくらい大胆よ」
釘を刺すようにナナカが言うと、イブキは堪らずプッと吹き出してしまう。
「そうだな。あのとき、2番機が間接的に止めに入らなかったら、たぶん彼女と最後までいってた」
「そう聞くと、尤もらしいけど。どっちみち、そう遠くないうちに最後までしたんでしょ?」
「否定はしない」
イブキはまた、苦笑交じりながらもきっぱりと言った。カズヤやジョシュアから笑わない男と言われていたことが、ずいぶんと昔の話のように思える。
「イブキくん、よく笑うようになった」
「僕も知らないうちにな。仲間ができて、愛した女性が恋人になり、奥さんになって。そして、友達もできた。みんないい顔で笑うから、釣られた」
イブキはまた窓の外の夜景に目を遣り、しばらく黙るとナナカに向き直って続けた。
「行けばいい。当然このことは秘密にするし、今後も何があったか詮索はしない。僕とは、ここで会わなかったことにしてくれ」
「う、うん。……ありがとう、イブキくん」
「大したことじゃない、礼になんか及ぶか。早く行け」
ナナカは、イブキに小さく敬礼で応える。そして、イブキたちの部屋の対面の角に位置するカズヤの居室に向かっていった。イブキは、ナナカが部屋を訪ねるのを敢えて見届けず、背を向けて自室に向かう。
──そこまで首を突っ込むほど、下世話じゃない。
そう、心で独り言ちながら。
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