第16話
タエはこのA形態に、いったい何をしたのだろうか。艦内を包む紫の灯りは彼女の微笑みのように優しいが、イブキの胸中には不穏な予感が過ぎっていた。
何かを覚悟すべきなのかもしれない。そう思い、ひと息深い呼吸をする。
──と、微かに嗅覚をくすぐる淡い香りに気づく。思えばこの艦内では、匂いというものを一切感じてこなかった。彼らには深海で暮らす限り、大気に触れる機会などほとんどないのだろう。普段からDEEPが人間のように匂いを意識した生活をすることがない以上、彼らに嗅覚など存在するのか、しないのか……。
微かな香りを逃さず感じ取ろうとしたイブキの脳裏で、かつてタエが自分に囁いた言葉が再生された。
『ね、匂い菫って知ってる? スミレは香る花ってイメージじゃないけど、とっても優しい香りなの』……。
いま感じているのは紛れもなく、タエがいつも纏っていた香りだった。その香りが途切れない方角を読み、迷わずイブキは走り出した。
“あなたを救い出しに、人間が1人こちらへ向かっているようですよ”
A形態に潜む「気配」は、余裕綽々といった調子でタエにそう伝える。
「彼を殺さないで」タエは挑戦的な眼で、壁を睨みつけながら言った。
“殺すもなにも……私達には、もう攻める手はありませんよ。今はあなたにこの機体を奪われ、指揮をとる権利を明け渡したのですから。私達には、あの人間に手を下す方法はもうないのです。ただ、あなた自身がこの船となり、怒りに駆られるまま動き続けるなら──ご自身の意思とは関係なく、あなたがあの人間を消してしまうでしょう”
それはある意味、タエ自身にも予想のできていた言葉だった。もう、感情の抑制など利かすつもりもなくなっていたのだ。周囲に張っているDEEPの機体すべてを破壊し、この船で深海の底に向かいDEEPの棲む街を滅ぼす。そして自分は父や母、弟のもとへ行ければそれでいい。その選択肢以外に、辿る道はないと思った。だから……。
「イブキ、お願い。ここへは来ないで!! 早く船から脱出して、仲間のところに帰って!!」
壁に向かって発したその声は、タエが願ったとおりイブキのもとへ届いていた。この船は既に、自身の命ずるままに動くようになっていることに、タエは改めて気づく。
「タエ? タエか! ──どこにいる!!」
「言えないよ……。私のところに来ちゃだめ」
「何を言ってる!? 連れ戻しに来たんだ。何が邪魔しようと、きみを仲間のもとへ返す」
「イブキ、死ぬよ!!」
わかっている。そう、イブキは言いたかった。ここに来ることを決めたときから、覚悟など決まっている。Dスクワッドの使命を、忘れたつもりはなかった。人々のために先頭に立って戦う女たちを、身を呈しても護るのが自分たちの役目だ、と。
──彼女を連れ帰ることができないのなら、最期まで運命を共にし、ふたり深海の塵と化すまで……!
「いまさら逃げる気などない。すぐに分かった、きみの力でこの船とLAGしたんだろう? ……だから僕は今、きみの中にいる。とても幸せな気分だ」
タエの居場所はわからないが、優しく紫に光る艦内のあらゆる場所に目を遣り、イブキは微かに口元を綻ばせた。
彼女が、それを選ぶというのなら。その選択に、寄り添って散るのもわるくはない。ただ、……。胸に仕舞ってきたこの想いを、せめてあの子の顔を見て、きちんとした言葉で伝えてから終わらせよう。
──本当はずっと、ずっと好きだった。初めてあの子の姿を目にしたその日から、ずっと。
菫の香りが強まる方向に向かい、イブキはやおら走った。
「来ないで、イブキ!! ……こんな醜い姿になってまで復讐の道を選ぶような女なんか、もう見放して!」
「無理だね。こちとら腐ったってDスクだからな。僕らの使命に、守るべきものの姿形なんて通用するか」
「やめてよ、死んじゃいやだ!!」
タエがそう叫んだと同時に、匿われていたこの部屋のドアロックが外から破壊される音が響いた。ドアを壊してそこへ飛び込んだイブキの目に映ったのは、怒りと憎悪と復讐心で全身を鈍い灰色に染めたタエの姿だった。
「なんで来たの! あなたに見られたくなかった、こんな私なんか……!」
大粒の涙を零しながら、それでも縋るようにタエはイブキを見つめる。イブキはタエから目を逸らすことなく、ゆっくり歩み寄り静かに言った。
「Gバリケードを解け」
タエは茫然と立ち尽くしたまま、言われた通り自分のオンボードスーツのベルトに仕込まれたスイッチをオフにした。
「愛してる」
イブキはそうひと言だけ告げると、言葉を失ったタエを力強く抱きしめる。その腕の中で、何が起こったかわからないまま息を呑んで戸惑うタエの唇は、目の前の男の唇でそっと柔らかく塞がれた。
「……!!」
驚きで見開かれたタエの眼に、澄んだ光が再び宿ってゆく。私も……、という言葉を返す代わりに、目を閉じ両手を彼の背から項に回し、柔らかな後ろ髪を緩く弄ぶ。そして怒りの色に染まっていたタエの肌や髪は、徐々に元の色艶を取り戻していった。
長いキスを終えたあと、愛らしい薄桃色に蘇ったちいさな唇がそっと動く。
「……ね、帰ろう」
見つめ合うことをやめられず、イブキは視線でその言葉の理由をタエに問う。
タエの表情に、微笑みが戻った。
「イブキ、私たち帰れるよ。ヴィオラが来る。助けに来るよ」
「えっ!?」
22. 奪還・第2章 (The rescue! 2nd)
DEEP機の飛来が、ほぼ止んだ。おそらくこれは、母艦……あのA形態による指揮が完全に途絶えたことを指すのだろう。カズヤは、バイオソートのモニターを注視した。
A形態の動力系統からは、青も緑も検出されなくなった。つまり、動きを止めている。そして青色が居ないということは、イブキたちがあのA形態を制圧したことを同時に指している。
「勝ったぞ……」カズヤがつい洩らした声は通信に乗り、前線で戦っていたオンボードたちにも伝わった。
「ぅお、やったぜ!!」隣のユージは、思わずガッツポーズを見せる。
「喜んでる場合じゃないぞ。3人の救助に向かう」
カズヤがそう言うと、ヌウスの特別機に迎えられやってきたジョシュアが横槍のようにフォローを入れる。
「あー、カズヤ、大丈夫だ。もう救助の算段は整っているし、すでに1機が向かっている」
「え、私からの指令は……まだですが」
「カズヤ、きみはバイオソートのどこを見ているんだ。1機、強力なフィードバックを発して稼働中の機体がいるだろう」
そう言われ、カズヤはモニターを再確認する。強い緑色フィードバックを発しながら、A形態へ向かっていく1機のIGFが、確かにいた。
「IGF……? しかも人型、アイコンブレイバーか!」
驚くカズヤに、ジョシュアはこんな局面で何故かニヤニヤしながら言う。
「起こったんだよ。奇跡が、ね」
「敵襲が、なくなった……」
急に静まり返った現場に、若干拍子抜け気味になるリオナの目前。A形態に向かって飛び立ったはずの、ステラドミナS2が飛来した。
「お疲れ様。ボーッとしてどうしたの。きみたちが敵の侵攻を粘り強く食い止めていてくれて、助かった」
「シュウ、あんたS2で戻ってきたの? ……なんか変だね」
S2に乗っているのは、シュウ1人だ。量産機のカスタムを操るシュウの印象が強いせいか、見慣れない光景にリオナは思わず笑った。
「あたしがボーッとしてんのはねぇ、久しぶりに一生懸命戦って疲れてんのよ」
「それはそれは。僕らも、なんとかあのA形態を制圧できたんだ。タエちゃんとイブキも、無事だよ」
「ホントに!? よかった。あんたも、いつも通りよく働いたんでしょ」
「そうだね。僕はいつでも、いつも通りかもね」
シュウはそう言って、照れるでも図に乗るでもなく素直な笑顔を見せたが、リオナにはわかっていた。きっと、イブキがタエを無事に救い出せるよう、シュウはひたすら艦内の敵兵を掃討することに力を注いでいたのだ。
シュウは自身の強さをまったく表に出そうとしないが、Dスクの3人のなかで純粋に戦う能力はずば抜けて高い。攻撃よりも護衛を重んじるDスクにおいて、中規模ほどまでの敵襲なら単機で制圧できる力を持つのはたぶんシュウ1人だ。
「あ、言い忘れそうになった。あんたも無事帰って来れて、良かったね」
わざと意地悪にリオナはそう言うと、モニター越しのシュウに向かって親指を立て、ウインクをしてみせる。シュウは照れくさそうに黙り、困惑交じりの笑顔でそれに応えた。
「DEEPが何を考えていたのか、教えてあげようか」
隣のヌウスが、不意に話しかけてくる。戦いが一段落し、ナナカとヌウスは現場付近の小さな無人島に機体を停泊させてひと息つきながら、次の指示を待っていた。
「どういうこと?」
「なぜ、紫の子を狙ったのかってことさ」
相変わらず、不敵に微笑みながら話しかけてくるそのテンションは変わらない。ヌウスは顔立ちこそ少年のそれだが、表情にはいくつもの時代を超えてきたかのような達観が垣間見える気もする。その美しい立ち居振る舞いに気圧されている心持ちを否定できないまま、ナナカは彼の話に耳を傾けることにした。
「DEEPは元々希少種だけど、人間と同等の知的レベルを維持し生存できている人間以外の生き物は彼らしかいない。彼らがなぜ、人類のように個体数を増やしてコミュニティの拡大を図れないのか、少し想像できる?」
急に答えを求めてくるヌウスに、若干たじろぎながらもナナカは言葉を絞り出してみる。
「え、えっと……、け、経済活動ができない、とか?」
「さすが。でも惜しかったね。もう1つの手段のほうさ。DEEPには、政治を司る概念がないんだよ。彼らのなかに、そのことで危機感を覚えたものがいたんだろう。ゆえに為政者を求めて、人間に頼ろうとした。あの紫の子を連れ去って記憶を改竄し、DEEPの女王に仕立て上げるつもりだったんじゃないか……と思ってる」
言葉を区切ったヌウスの様子を窺うように、島の砂浜を横切って緩い風が吹き抜けてゆく。それは、彼の話に凍りつく思いになったナナカの背中にも、ぞくりと冷たく吹き込んだ。
「どうして、あなたにそんなことが分かるの?」
「僕が27エキップに助けられて母さ……いや、ミヅホのもとで暮らし始める前は、DEEPに捕えられていたからさ」
ナナカは、目を見開いてヌウスの顔を見た。
「そんなこと、って……」
「もっとも、そこにいた頃までの僕の記憶の要点は、すべて消されているから曖昧だ。──あ、そろそろ、きみの仲間が戻るんじゃない? 僕はお邪魔だろうから、ここで失礼するよ」
ヌウスは踵を返して去ろうとしたが、1つだけ何かを思い出したように立ち止まり、振り返った。
「えっと……この話はたぶん、組織的には“第8条”案件だからね。きみの頭の中に押し留めておいてほしいのと、思い返すときの取り扱いにも注意してよ」
ヌウスはそのまま自分の機体であるレディバグS0.5に乗り込み、あっという間にドックポートへ戻っていった。
DEEPはなぜ人間のなかからタエを選別し、為政者として招き入れようとしたのか。そしてヌウスは、本当に27エキップにいて大丈夫な人間なのか、──。ナナカの頭の中は瞬時に疑問だらけになったが、まるごと肩透かしを食らってしまった気分だ。
少しは彼のことが分かりかけてきた気がしていたのに、これで余計に分からなくなった。ナナカは後ろ髪を引かれる心持ちのまま、仲間たちが待つ現場へ向かった。
「ジョシュア。あれが奇跡ですか……」
「そうさ。何が“あれ”を動かしているのか想像できるなら、如何に凄いことが起きているか分かるはずだ」
割り込むようにS1に移乗してきたジョシュアは、相変わらず得意げにニヤつきながらカズヤを上から目線で弄る。彼らの視線の向こうでは、搭乗者不明の3番機ヴィオラが全速力であのA形態に向け飛行していた。
「タエはA形態の艦内で救助を待ってます。ナナカとリオナは、それぞれ現場付近で待機中。アイコンブレイバーを動かせるオンボードは、他にいませんよ」
「あれとLAGしているのは、タエちゃんだよ」
カズヤがそれを聞いてモニター画面を拡大すると、確かにヴィオラの機体側面にはタエのサイファが緑文字で表示されている。
「しかし、タエは捕えられてA形態の艦内ですよ」
「まあ聞け。2人のオンボードが、互いの強い恋愛感情を肯定的に交錯させるとする。そうすると、遠隔箇所から自機へのLAGを可能とするほど、強いインターナルグルーヴを発する個体が稀に出現する。──そういうデータが、既に取れていたんだよ」
ジョシュアは、得意げにそう説明した。確かに今回、強力なインターナルグルーヴを内在する2人のバイザーオンボードが恋をしたことになる。そして、当事者には元々オンボードとしての能力も桁外れに高いタエが居た。ジョシュアの言う「奇跡」を生む要件は、ほぼ整っていたといっても過言ではない。
「そういうことは、早く言ってください! しかし、LAGはリモートでできても、操縦はどうします? そこに彼女が居ないのなら、現実問題ヴィオラを誰が操るんですか」
カズヤの問いに、ジョシュアは眼鏡の奥の瞳をいつも以上に輝かせながら答える。
「俄に信じるのは難しいだろうが……操縦者は、タエちゃんがイブキくんとの恋を実らせ生み出した、分身のような意識体──言ってみれば、ゴーストみたいなものだ」
「ゴースト……有り得ます? そんなこと。ゲームじゃないんですし」
「有り得ないから奇跡って呼ぶんじゃねえかコラ!」
ジョシュアが、半分キレ気味にカズヤの頭をポコッと叩く。エマージェンシーシートに申し訳なさげに収まっていたユージが、それを見てプッと吹き出した。そのついでに、目の前のモニター映像を3番機のものに切り替えてみる。
「まじかよ……。3番機のオンボード、確かにタエちゃんに見えるけど──めちゃくちゃ綺麗だ」
3番機ヴィオラのシートに着いているのは、間違いなくタエに見えた。しかしヘルメットは着用しておらず、長い黒髪を下ろしている。その表情も、少し大人びて感じられた。
一方、訳も分からずジョシュアに小突かれ、しばらく腑に落ちない表情のカズヤだったが、バイオソートの画面に目を遣り神妙な顔に戻る。
「A形態で、青色フィードバックが再び出現してる。倒された敵兵たちが、目覚め始めたかもしれないな……。ユージ、援護の指示を」
「了解!」ユージは長身をなんとかエマージェンシーシートに埋め、無茶な体勢のまま通信をオンにする。
「ナナカ、休憩中すまねぇ。あのA形態を、叩きに行ってくれ!」
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