第10話
14. 部屋 (The room)
──いったい、なぜこんな時間に。
イブキは神妙な面持ちで、トップ=スクワッドの居室がある5階へやってきた。もし誰かが見ていて、女の子の部屋を訪ねていたなんて後で妙な噂でも立てられたらかなわない。周りに誰もいないことを確かめてから、タエの部屋のドアホンを押す。
ドアが開き、タエが遠慮気味に顔を出した。しかしその表情は硬く、笑顔はない。
「こんなとこ、誰かに見られちゃ困りますよね。──早く入って」
イブキを部屋の中へ急いで招き入れると、タエは部屋のドアをガチャンと閉めて内鍵をかけた。
「鍵を? なぜ!?」
少しうろたえるイブキを横目に、タエは言う。
「何も知らなかったあなたに、いろんなものを押し付けてしまった。そのうえ気を遣わせたのに、顔を叩いたりして……ごめんなさい」
「そんなことはもういい。今日はなぜ僕を呼んだ?」
「──改めてあなたを信頼し、すべてを開示したくて」
タエはそう言うと、着ていたワンピースのジッパーを胸元から下まで一気に下ろす。その状況を頭で整理できなくなり、思わず1歩引いてしまったイブキの目の前で彼女はワンピースを脱ぎ捨て、躊躇なくインナー1枚の姿になった。
「え……!?」
「全部、見てほしいんです」
彼女の声には迷いがない。決然と言い切るその言葉と相まって、幾つもの大きな傷痕が容赦なく刻まれたその身体が、イブキの眼には不覚にも眩しく見えてしまった。
「私から何ひとつ説明もしないまま、一方的に秘密を押し付けてしまった……。罪滅ぼしにすらならないかもしれない。でも、もう隠していられないの」
そう言うと、タエは後ろを向いた。背中の大きな傷痕は、明るい光の下で見るにはあまりに辛い。過去にこれだけの傷を負って、いま生きていることが信じられないとまで思える。
反射的に眼を背けそうになるイブキの様子を察し、タエは言い放った。
「だめ。お願い、すべてを見て!」
極端に細身だが女の子らしく美しい身体の輪郭を、その傷痕は悪意をもって歪ませようとしているかの如くに見える。
「この傷を負ったときに何もかも失って、ずっと独りで生きてきたの」
──こんなものを抱えていながら、彼女は仲間の前では普通の女の子として、優しく明るく振舞ってくれていたのだ。
イブキは彼女を気遣うようにワンピースを拾って肩にかけ、羽織らせた。そして、再び自分のほうを向いたタエに、こう言ってしまった。
「──綺麗だ」
自ら言ったその一言が、張り詰めた細い1本の糸のようにどうにかして均衡を保っていた心を、激しく揺さぶっていく。
イブキの顔をじっと見つめるタエにも、彼の端正な切れ長の眼の奥にいつも宿している頑なな意思が、その瞬間揺らいだように見えた。
「不思議な人。あなたのこと、まだちっとも分からないのに……。すべてを許してもいいって、なんでかな……思ってしまうの。──戻れなくなっちゃうかも……だけど」
タエは忠告するようにそう言う。何も言わずに、イブキはうなずいた。その後、彼女の眼に光っていた涙を指先で拭ってから頬に手を触れる。
「構わない」
念を押すようにもうひと言告げたが、あとは彼女の瞳に吸い込まれるように顔を寄せていくしかなかった。
──互いに、その気になっている。やばい……!
そのときだった。部屋のドアホンが鳴り響き、スピーカーが聞き慣れた声で喋る。
『ちょっと、ちょっとタエちゃん! ごめん、洗面台借りてもいい?』
一気に現実に引き戻された2人は、焦って声が聞こえるほうに向かい振り返る。
「ま、待って! いま薄着だから、ちょっと着替えるね」
タエはそう言ってワンピースのジッパーを急いで上げると、ただただ動揺するイブキを問答無用でバルコニーに締め出した。
「ちょっとだけ、隠れててください。見つかったら大騒ぎになりますよ!」
タエは小声で言って、ベランダの掃き出し窓をピシャンと閉めてしまう。
「いいよリオナちゃん。入って」
「ごめんね、遅くに。こっちの部屋の給湯器が、ちょっと調子悪くて」
タエの部屋を訪ねてきたのは、隣室のリオナだった。
「そうだったんだ。それじゃ、ゆっくりしていいよ」
「ううん、5分くらい借りるね。お化粧落として、洗顔と歯磨きするだけだから。お風呂は外の共同浴室に入りに行くし」
「わかった。それじゃ、5分は洗面所から出てこないでね! 私も、少し部屋を片付けるから」
「いいよー」
リオナが洗面所に引きこもるのを見届けると、タエはベランダの窓を開け、隠れていたイブキの手を引いて強引に部屋へ呼び戻す。
「今のうちに帰ってください! 早く!」
そして言われるがままに、イブキはタエの部屋から廊下へまた締め出されてしまった。
──待ってくれよ。この気持ちのまま帰るのかよ……。
「あー、助かった。持つべきものは隣人だね」
リオナは自分が訪ねるまでの間に何が起こっていたか知る由もなく、気持ちよさそうにタエの部屋の洗面所から出てきた。
「さっき、何かバタバタ騒がしい音しなかった?」
リオナがそう聞いたが、タエは何事も無かった振りをするしかない。
「気のせいじゃない? 私も、窓開けたり閉めたりしてたし」
「それか。なるほど。──あれ? それと何かこの部屋、香りがいつもと違わない?」
そうだった。リオナの嗅覚の鋭さは、想定外だった。タエはさすがに内心焦ったが、なんとか平静を装うしかない。
「えっ……ああ、それ? さっき、消臭スプレーを撒いたの。私の香りと混ざって、変わったんじゃないかな」
「でも、現場の誰かの香りに似てるな……。誰だっけ? この匂い。──ま、いいや。偶然かも」
「そ、そう、偶然だよ! きょ、今日は部屋に、だ、誰も呼んでないし!」
──もう寝る時間なのに、今日のタエちゃんは妙に変なテンションだったな。午前の戦闘に出たときは、いつもより余計にカッコよかった割にさ。
リオナはそんなことを考えながら、自室へ戻ろうとタエの部屋を出た。廊下の床をふと見ると、何かが落ちているようだ。手を伸ばして拾い上げると、かなり使い込まれているボールペンだった。
誰かの落とし物だろうか。掠れて読みにくいが、軸にネームが入っているようだ。
『I.Nakazono』……。仮に持ち主がクルーなら、民間人として暮らしていたころの「旧名」だろう。ファーストネームのイニシャルが ”I” ? ──あっ、1人いるじゃん。そういうヤツ……。
タエの部屋に残っていた香りと、そのイニシャルが瞬時に符合する。リオナはタエの部屋のほうを振り返り、少しあきれて頭を抱えながらため息をついた。
「ちょっと待って、意味わかんないんですけど。なにやっちゃってんのよ、あの子……」
15. 負けない (I’m not a loser)
悪夢を見て目覚めたのは何か月ぶりのことだろう。起き抜けいきなりの頭痛に、イブキは辟易していた。
正直、寝た気がしない。それに、彼女と……タエと、昨夜あんなことが起こってしまったのだ。今日から、彼女の顔をどうやって見たらいい!? 未遂に終わった相手を想って眠れなくなるような恥ずかしい男が、その本人に合わせる顔などあるとは思えない。
出撃の可能性が想定されるときは、投与が可能な薬の用量も決められている。ずきずきと痛む頭を押さえ、97番機とのLAGに影響を及ぼさない範囲内の用量に注意しながら解熱鎮痛剤を飲み下した。なんとか身支度を整え、待機場所であるDスク専用のステーションに向かうべく自室を出る。
そして、宿舎棟の共用フロアに出たところで、背後から思わぬ相手に声をかけられることになるのだ。
「ナカゾノ・イブキ──って言う名前だったんだ、あんた」
驚いて振り返ると、トップ=スクワッドの中でも最悪に面倒臭そうな相手の顔がそこにあった。
「──2番機か。何の用だ」
「これ、あんたが落とした?」
手渡されたのは、確かに昨日から行方の分からなくなっていたボールペンだった。
「拾ったんだよねぇ。タエちゃんの部屋の前で」
「──あっ」
心当たりを匂わせてしまったせいで、2番機のオンボードはイブキに対して露骨に敵意を顕にするような表情に変わった。
「あんた、タエちゃんのことどうしようっていうの!? 変な下心で近づこうなんて思ってるなら、あたしは許さないからね!」
「きみには関係ないだろう?」
さすがに、イブキも憤然とした表情になって言い返す。
「ほら、その態度だもの。──あたしは、あんたとは単にチームメイトとして一緒に戦ってるっていうだけ。あんたっていう人間のことは、まったく信用してない」
きっぱりとそう言われ、たじろぐイブキの顔を真っ直ぐ見ながらリオナはなおも続ける。
「あの子に取り入りたいんなら、全力で阻止するからね。いくらあの子がやさしくて優秀だからって、簡単に落とせるとでも思った!? ──ふざけないで!!」
──なんてややこしい話だ。こんな面倒なのが、彼女の取り巻きにいたのかよ。正直、相手にしたくない。いっそ、はっきり言ってやったほうがいいだろう。
「そんな気持ちじゃないことだけは言っておく。彼女は、生半可な覚悟じゃ守ってやれないような事情を抱えてることも知ってる」
何も言い返さずただ目の前の相手を睨みつけているリオナの表情は、憤然としたまま変わらない。
「それでも初めて、本気で守りたいと思ってしまったのが彼女だ。僕がそう考えることだって、自由じゃないのか? それのなにが悪いっていうんだ」
その言葉に2番機は、ヒュッと口笛を吹いてみせた。
「言うね。──余程、あの子のことを知ってるみたいにさ。あんたたち、もう結構なとこまで行ってるってことか……。一線は越えた? 越えてない? このあたしに黙って、御立派な度胸じゃん」
「きみは彼女のいったい何だ。保護者か」
「そんなようなものかもね。それくらい、あたしはあの子のことを大事に思ってる。だからあんたのことだって、この程度じゃ簡単に信用しない」
「きみが彼女をそう思うなら、思うのは結構だ。だが僕の信用問題にこじつけられても困るし、こっちはきみの思惑など知ったことじゃない」
イブキはもう付き合いきれなくなって、とっとと話を終えることにした。
「それ以上、こっちから言うことはない。ばかばかしい話に付き合って、損をした」
立ち去るイブキの背中に向かって、リオナは憎々しげにひと言を突きつける。
「あたしは負けない。あの子を、あんたになんか絶対に任せられない」
──あの2番機のオンボードの態度が、何故こんなに癇に障るんだろう。親友という存在のためだけに、あそこまでヒステリックに人に当たれるとか……。
かつての自分であれば、少しはその気持ちも分かったかもしれない。そう考えると、何故なのか余計に遣る瀬ない気持ちが込み上げ、イラついてしまう。──ボールペンを拾ってもらった礼はしていないが、そんなものは言いがかりをつけられた分でチャラだ。
今日はもう、空気のように大人しく過ごそうとイブキは思っていた。たぶん、能動的に何かをしたってろくなことが起こらないだろう、と。
Dスクとトップ=スクワッドの待機ステーションは、宿舎棟の最上階から渡り廊下を経由した場所にある。イブキはエレベーターのボタンを押し、扉が開くのを待っていた。
やがて開いた扉の向こうには、まったくの偶然だったがタエの姿があった。一瞬だけ2人の目が合ったけれど、互いの視線はすぐ遠慮がちに少しの距離をとる。
「……おはよう」と一言だけ小さく言い、タエはそのまま視線を真下に向けてしまった。
「ああ」
そう答えたイブキも視線を上の方に所在なく泳がせながら、エレベーターに乗り込む。
息の詰まる空気の中、最上階へ向かうエレベーターの階層表示を目で追いながら、次に口を開いたのはタエだった。
「……昨夜は、ごめんなさい」
「──もう忘れろ」
タエは何かを思い切って言い出そうとしているのか、すっと大きく呼吸をした。その息づかい1つも、イブキには愛らしく聴こえてしまう。
「不思議なの。誰かと話すときって、いつも頭で考えて穏便な言い回しを選んじゃうのに……。あなたとは、そうじゃない。私の心の中がね、そのまま言葉になってしまうの」
その言葉に、泳いでいたイブキの視線がタエに戻る。何かを迷いながらも微笑みを見せるタエだったが、意を決すようにもう一言付け加えた。
「だから私ね、もっとたくさん話をしたくなったの。……あなたと」
「僕もだ」
そこでエレベーターの扉が開き、2人を早く降りるよう促すかの如く電子音が響いた。
「──タエ」
イブキがそう呼びかけると、タエは初めて呼ばれた自分の名に驚き、ハッとして顔を上げた。
「……えっ?」
「行くぞ」
イブキの一言に、タエは少しはにかむような表情を見せ、うっすらと頬を染める。
「はい」
戸惑いと少しの安堵を含んだような微かな声が、淡いピンクのつややかな口元から零れた。
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