第4話

 私たちは最後の戦いに臨むため、彼の部屋を後にした。別れ際、彼は今後どんな困難に直面しても悪魔の聲に耳を貸すことなく、自力で立ち向かうと強く誓った。そんな彼にハルさんは優しく声を掛ける。

「悩み事や辛いことがあれば、一人で悩まず周りの人に相談してください。まずは相談できる相手をたくさん作る事が大事です。私達はいつでも相談に乗るので遊びに来てください。人は一人では生きていけないものです」

 彼女はそう伝えると彼に名刺を渡していた。彼は手渡された名刺をしばらく見つめていた。すると彼はどこか吹っ切れたような表情を浮かべた。次の瞬間、その表情は顎を撫でられた猫のような愛らしい笑顔に変わった。これが彼本来の姿なのだろう。その場にいた全員が彼の笑顔につられ頬が緩む。

 私たちは青山さんの家を後にして車で斎藤さんの自宅に向け走り出した。次から次に起きる摩訶不思議な出来事に私の身体は悲鳴を上げ、座席に座るとすぐに眠気が襲って来た。スピーカーから流れる心地よいピアノの音と共に、頭が左右にメトロノームの様にリズミカルに揺れる。私はいつの間にか深い眠りについていた。

すると夢の中で幣立神宮御主の声が聞こえてくる。

「さっきの戦いでは死にそうになっていたな。ワシが手を貸さなければ、とっくに死んでいたぞ」

 それにしても、夢のわりに御主の姿と聲がはっきりしており目の前にいるようだ。私は頭を掻きながら、御主に助太刀のお礼を言う。

「それにしても御主は見かけによらず力持ちなのですね」

御主は私の一言に気を良くし、小さな目をより細めはちきれんばかりの笑顔を見せる。

「ワシはスサノウの尊と取る相撲では負けたことが無いぞ。神階ではワシが一番力持ちだろうな」

彼が満足げに話していると今度は胎蔵界様が夢に現れた。

「一回も勝った所を見たこと無かったようだけど気のせいかしら」

すべてお見通しの胎蔵界様に彼は眉をひそめ高笑いしてその場を誤魔化す。私が何も知らないと思って適当に言っているのだろう。

それにしても今日の夢は豪華なゲストが登場し、これが初夢なら縁起のいいこと間違いなしだ。まあ、話の内容は別として。

私は眠っているにもかかわらず、二人のやり取りが妙に現実的だ。すると御主は私が聞いてもいないのに、タポタポな頬を揺らし話しかけてきた。

「あの蛇、ヤマタノオロチに比べたら小さかったな。一ひねりで終わってしまったわ。須佐能の尊が退治した大蛇は、山一個分を覆うほどの大きさだった。あれは大きかったな」

 御主は自分が退治した訳ではないオロチ退治を、なぜか自慢げに話す。考えてみれば先ほど御主は黒蛇に相当苦戦し、額からは大粒の汗が流れ落ちていた。稲妻のイカヅチで窮地を脱したが、状況は圧倒的に不利だった。上機嫌で話す御主にそのことは伝えず、私は夢の中で愛想笑いを浮かべる。それにしても山一個分の大蛇とはどんな姿をしていたのだろう。これから先、そんな化け物と出会わないことを祈るのみだ。

「小僧。次の相手は手ごわいぞ」

「御主は次に戦う魔物を知っているのですか」

 私の問いに胎蔵界様が横やりを入れる。

「九尾の狐でしょう。あの荒くれ者が再びこの地に現れるのね」

 すると先を越された御主は苦笑いをしながら話を続ける。

「そうじゃ、九尾の狐じゃ。徳川家康によりまつりごとが江戸に移されると、それまで動物たちの天国だったこの地に人間が大勢やって来た。多くの動物たちは人間達に殺され、残った者達も別の地に移り住まなければならなかった。そんな動物達の怨念が九尾の狐を生み出したのじゃ。奴が江戸の町に現れると瞬く間に街を焼き尽くし、逃げまどう人間どもを次から次へ喰らっていく。大火事で焼き出され亡くなった者のほとんどは九尾に魂を喰われ亡くなった」

 次の相手である九尾の狐は、江戸を追われた動物たちの怨念が作り出したものなのか。当時、人間どもは動物たちが幸せに暮らす江戸を奪い、我が物顔で暮らしていたのだろう。この地を追われた動物達は、その後見知らぬ土地でどんな生活を送ったのだろう。その怨念が作り出した九尾に、江戸の人たちはしっぺ返しをくらっていたのか。

そんな話を聞いていると、事の発端は人間が作り出したのかと寂しくなる。因果応報である。最後の戦いでその因果を断ち切らねばならない。

「そんな化け物相手に勝てるのですか」

 私が御主に訊くと彼はあっさり「負けるだろう」と話した。

「えっ。負けるのですか」

「そうじゃ。実力では九尾が上じゃ」

 夢の中とは言え御主の意外な答えに戸惑う。

「ハルは一パーセントでも勝てる望みがあれば勝負に臨む。彼女を馬鹿にした人間どものため命を懸けて戦うのじゃ。いま九尾をこのまま封印しても奴はいつか力を取り戻し必ず復活する日が来る。そうなったら東京は火の海になり数千人の命が消える事になる。それだけでおさまらず、奴が天変地異を起こせば数十万人の人間が亡くなる事になるだろう」

 数十万もの人が亡くなると聞き、私は夢の中でも金魚のように口をパクパクさせる。次に戦う九尾とはそれほどの力を持っているのか。

私はきっとここで死ぬことになるのだろう。今日何度目の死亡宣告になるのだろう。あの大蛇を倒すのさえ、御主の手を借りやっとの思いで倒したのに。ハルさんの勝機が一パーセントならなおさら確実に私は死ぬ。そう思うと夢の中でも全身の力が抜け、私はその場にへたり込んだ。それにしても妙にリアルな夢である。へたり込んだ私に胎蔵界様が微笑みながら話しかけてきた。

「大丈夫よ。屍はちゃんと拾ってあげるから」

 彼女の毒舌もいまは冗談に聞こえない。余計に落ち込む私に御主が声をかけて来た。

「勝負の行方は龍神次第だな。炎を自由に操る九尾の狐に対し、水を自在に操る龍神が手を貸してくれれば勝つことも可能なのだが。しかし龍神は気まぐれだからな。わしらが頼んでも聞く耳を持たん。しかしハルは彼らとも仲が良い。ひょっとすると手を貸してくれるやもしれん」

 そんな曖昧な話に私は命を懸けるのだろうか。せめて龍神さまの力を借り、勝負を五分に戻して戦いたい。仲の良いハルさんに話してもらい、龍神さまに助けてもらおう。

そう考えていたら、急に隣に彼女が現れた。やはりこれは夢の中なのだ。思ったことがすぐ現実になる。善は急げと私は御主から聞いたことを彼女に話す。

「九尾の狐退治には龍神さまの力が欠かせないみたいですよ。ハルさんは龍神さまと仲がいいと御主が話していました。力を貸してくれるよう頼みませんか」

 すると彼女は眉をひそめ溜息をついた。

「龍神さまは気まぐれでどこに居るのかさえ判らないの。頼みたくても頼めないのよ」

 彼女の曇った表情に私は戸惑う。どこに居るのか解らなければ頼みようが無い。一か八か運を天に任せるしかない。私の口元からため息が漏れる。それにしても私は九尾の炎に焼かれ死ぬのだろうか。そう思うと、なぜか夢の中で今までの人生が蘇る。

コロナで内定を受けていた会社から断られ運の悪い人生だった。しかし楽しい事もあった。楽しい事とは……、ん。思いつかない。

心ここにあらずの私を見かねた彼女が話しかけてきた。

「まだ負けると決まった訳ではないわよ。田辺君が水の結界を覚えれば九尾の動きを止めることが出来る。その間にテンと福先生が九尾と闘える。水の結界は簡単だから覚えなさい」

 つい先ほどまで死神に取りつかれ死の淵に立っていた私に、一粒の希望の種が蒔かれた。種は直ぐに芽を出し、ジャックと豆の木のごとき大木に成長する。私の頭の中は単純である。

しかしこの夢、リアルすぎて寝ているのを忘れそうだ。一度頬をつねる。しかしまったく痛くない。やはり夢の中らしい。掴んだ頬を離し彼女に目を移す。

「僕でもその水の結界が作れるのですか。どうすれば良いのですか」

 私は気が焦り早口で話すと彼女は頷き、さっそく結界を作る印を教え始めた。

「まずは手の型ね。四つの印を結ぶの。右手を軽く握り親指が見えるように人差し指に乗せるの」

 私は彼女の手を見ながら右手を握り、胸まで上げると親指を上にする。ジャンケンのグーである。

「二番目に親指だけを人差し指と中指の間に入れるの。その時親指の先がほんの少しこぶしから見える程度にするの。親指を出しすぎるとゲスなポーズになるから気を付けて」

「こうですか」

 私はこぶしの中から親指を出す。彼女はその様子を見て、親指は上からほんの少し見える程度に出すのよ、と注意される。私は慌てて親指を引っ込める。彼女は頷き次の印に進む。

「三つめは両手で水を掬うように親指以外の指先を合わせるの。掬った水は下から漏れ出るように開けておくの。親指は少し開いて人差し指に添えるの」

 私は彼女の手をまじまじと見る。今度は難しくない。両手の指先を合わせ、水を掬うような手の型である。もちろんこの印では指と指の間が空いており水は掬えない。印を組み彼女の顔色を伺う。大きく頷き問題は無い様だ。

「最後は一番目と二番目の印を組み合わせるの。左手で一番目のグーを組み、その手の親指を右手の小指で包むようにして右手は二番目の型を作るの」

「こんな感じですか」

 私は両手で最後の型を作ってみる。一番目と二番目の型の組み合わせなのでそんなに難しくない。

すると彼女は良くできましたとまるで子供をほめるかのように話す。褒められることに慣れない私は、頬を緩ませ小さい子供のように喜ぶ。そんな私を見ながら彼女は再び子供に話しかけるように「ぼく、もう一度最初からやってみようか」と言う。

私は我に返りちょっとムッとし、四つの印を順番に組んでみる。なんともぎこちない手の動きに、彼女の表情が険しい。私の背中に冷たい物が流れる。

彼女の顔色をうかがいながら十回、二十回、五十回、百回とひたすら練習を続ける。私の額からは汗が噴き出している。夢の中なのに、なんで汗まで出るのだろう。彼女の教え方はやはりスパルタだった。いったい誰に似たのだろう。きっとママンと呼んでいる胎蔵界様だろう。

どれくらい時が過ぎたのだろうか、ようやく滑らかに印を組めるようになった。彼女の表情も徐々に和らぎ、私はほっと胸をなでおろす。

「次に真言を覚えてもらうわよ。印を組みながら真言を唱え結界を作るの」

 真言。そう言えば前に彼女から聞いたことがある。確か「真実の言葉、秘密の言葉」という意味だった。

「これから唱える真言を覚えなさい。オン アボキャ ベイロシャノウ マカボダラ マニ ハンドマ ジンバラ ハラバリタラ ウン」

 彼女の言葉に私はぽかんと口を開け、声が出ない。何を話したのか、さっぱり分からない。もちろん日本語ではない。たしかサンスクリット語だと言っていたな。まだ、英語やフランス語の方が親しみやすい。私はこれだけ長い言葉を一言一句間違えずに言える気がしない。呆気に取られている私に、彼女の冷たい視線が降り注ぐ。

「そこに紙とペンがあるから私の言葉をその紙に書き止めなさい」

 彼女がそう言うと私の隣に紙とペンが現れた。さすが夢の中。どんな物もすぐ現れる。ドラえもんのポケットのようだ。彼女が真言をゆっくり唱え、私はカタカナで書き留める。その際、言葉の区切りを正確に書きなさいと彼女に言われる。

意味不明のカタカナだらけの文字が並び、まるでアリが行進しているようだ。とても意味が有る言葉に思えない。その文字をぼんやり眺めていると彼女がこの真言の意味を教えてくれた。

「この真言は光明真言と言って大日如来様へ願い事をするときに使うの。内容は大日如来さまにお願い致します。私たちの進む道を無量の光で遍く照らし出し、どうか成就するようお導き下さいと言っているのよ」

「そうなのですね。しかしあまりにも聞きなれない言葉が並び、願い事している様には聞こえません。また光明真言を一言一句間違えずに覚えるまでには相当時間がかかりそうです」

 私は正直に話すと彼女は「ここは夢の中だから時間は無限にあるのよ」といった。そうだった。今は夢の中だ。

リアルすぎる夢の中で光明真言を覚える特訓が始まった。一日が過ぎ二日、四日、六日。彼女のスパルタ指導はどんどんエスカレートし、食事中や寝ている時も私の耳元で真言を唱えている。私の頭の中は光明真言のカタカタでいっぱいになっている。おかげで鼻や耳など、穴が開いているすべての場所から文字がこぼれ落ちそうだ。

その後、二週間があっという間に過ぎた。ようやくイントネーションや言葉の区切り方などすべてを覚え、今では真言を書いた紙を見ることなく唱えることが出来るようになった。

彼女の話では寝言でも光明真言を言っていたらしい。それにしても夢の中は便利な修業の場である。時より彼女がママン化し冷たい視線が胸に刺さるが、それでも一緒に過ごせる。「ん」今何を考えていたのか。頭を左右に振るとその様子を彼女は不思議そうに眺め話しかける。

「最後の仕上げね。今度は真言を唱えながら同時に手で印を組むの。その時、水の結界を想い浮かべながら唱えるのよ」

 隣にいる彼女の横顔を見ると、私の顔が急に赤くなっているのが自分でも分る。私は彼女に気付かれないよう視線を逸らす。

 彼女はお手本とばかり印を組みながらしんごンを唱える。すると目の前に鮮やかな青色の結界が現れた。結界は水のカーテンを引いたように美しい。印を組んだ手を緩めたり締めたりすると結界は大きくなったり小さくなったりと変幻自在に変わる。この結界を自分で作るのかと感心して見ていると、彼女はそっけなく「やってみて」と話す。

印を組み一緒に真言を唱える。同時に二つの事を行うと片方に気を取られ途中で間違える。あれほどすらすら言っていた真言もどこかぎこちない。真言を唱えながら印を組む。さらに頭の中では水の結界を思い浮かべるなんて、本当に出来るのだろうか。私は出口の見えない不安に襲われる。

何度か繰り返し試してみるが上手くいかない。ふと椅子に座る彼女を見ると、これまでの疲れが出たのか頭が左右に揺れ舟をこいでいる。私は彼女の横顔をしばらくの間眺めた。ゴキブリ、ハリネズミ、大蛇と次から次へと闇の者を相手にし、相当疲れているに違いない。それに輪をかけ出来の悪い私の特訓に付き合ってくれているのだ。何とか水の結界を会得し九尾退治の手助けをしなくては。私は両手で頬を叩き気合を入れた。体に力がみなぎって来た。小さく深呼吸すると彼女を起こさないよう小声で練習を始める。

仕上げの練習もすでに四日が過ぎ、真言と手の動きは間違えることなく出来るようになった。ただし二つの事に集中するあまり水の結界を念じることがおろそかになる。

結局、今まで一度も水の結界は出来ていない。彼女が一度手本を見せてくれた。彼女の作る結界は水色の格子上になり、それは綺麗な水のオブジェを見ているようだ。いとも簡単に作り出す結界の大きさは変幻自在で、小さいものは買い物かご程度の大きさの物から、大きいものでは十階建てのマンションをすっぽり包む結界も作れる。それに引き換え私は、いまだに額から汗が流れるだけ、結界など全く現れる気配もない。

時間だけが過ぎ焦りを感じ彼女に結界を作るコツを聞いたが、自分の身体で覚えるしかないと言われてしまった。私は繰り返し練習を続ける。

しばらくすると突然三十センチほどの糸のように細い結界が現れた。その結界に彼女が触れると蜘蛛の糸のようにすぐ切れた。弱弱しい結界だが初めて目の前に現れた。私は少しコツをつかんだような気がする。印を組む時のスピードや真言を唱えるときの聲の強弱。その力加減で結界が出来たような気がした。この感覚を忘れないうちに、もう一度結界を組む。

今度は自分の背丈ほどの結界が現れた。太さも麻のロープほどの太さだ。二回連続で結界が現れ、その様子を見ていた彼女は自分の事のように喜んでいる。その姿は女子高生のように愛くるしい。つられて私も大喜びし、その場で飛び回る。調子に乗った私はさらに集中し、全身の力を両手に集めるような感覚で結界を作る。

現れた結界は一戸建ての家を覆うほどの大きさにまでなった。太さも電線ほどの大きさになりゴムのように伸び縮みし、少々の衝撃では切れそうにない。彼女は「すごい。すごい」と手を叩き喜んでいる。私は褒められて伸びるタイプだと実感する。きっと単純なのだろう。

その後、繰り返し水の結界が現れ、今では大きさや格子の太さも自由に作れるようになった。

夢の中ではすでに一カ月が過ぎようとしていた。

「もう大丈夫ですよ」と彼女に話しかけた途端、車が急ブレーキをかけ止まる。私の身体にシートベルトが喰い込み前のめりになる。つぎの瞬間、反動で再び体は座席に打ち付けられた。何が起きたのかと運転席を見るとパグが「急に猫が飛び出してきたので」と謝る。まさか福先生じゃないだろうな。そう思いながら私は夢から覚めた。目を覚ますと隣の彼女がささやくように私に話しかける。

「よく頑張ったわね。本番もその調子でよろしく」

 夢ではなかったのか。まわりを見渡すと斎藤さんの車の中だ。私は水の印の型を手元で組んでみた。スムーズに印が組める。次に心の中で真言を唱えると、こちらも滑らかに唱えることが出来た。

やはり夢の中で彼女と修業をしていたのは間違いない。しかし彼女は夢の中も自由自在に扱えるとは恐ろしい能力だ。

私は彼女の横顔を観ると先ほどより疲れた表情だ。よく見ると、目の下にうっすらクマまで出来ている。長い時間、私の修業に付き合ったせいだろう。「ありがとうございます」私はそう心の中でつぶやくと「どういたしまして」と心の中に直接返事が返って来た。私は改めて九尾の狐との戦いに力が入る。必ず勝って有紀ちゃんの因縁を取り払う、と心の中で誓った。

 その後車は自宅に向け順調に走っている。私はぼんやり車の窓から外の景色をながめている。多くの車が行きかい、信号で止まると横断歩道をたくさんの人が渡る。東京にはこれほど多くの人が暮らしているのだ。

東京に限らず都市には大勢の人が暮らし、人は便利な世を作るため、自然を破壊し動物の住処を奪ってきた。九尾の狐は住処を奪われた動物の怨念だと聞いた。この先人間は、自分たちの都合の良い世界を何処まで追求していくのだろうか。またその姿を動物や木々はどう感じ見ているのだろうか。彼らから見ると人間はマジシャン、または魔物のように映っているのではないか。

彼らだけにとどまらず、地球も人間の進歩に戸惑っているように思う。地震や未曾有の自然災害などまさに地球の悲鳴のである。私は今の生活で十分便利な世の中だと思う。これ以上の利便性を求めると、必ずそれ相応のしっぺ返しを食らうのではないか。

事実、これから戦う九尾の狐は住処を追われた動物たちの怨念である。私はまだ見ぬ未来に不安を感じ外の景色を眺める。

 車が自宅に到着するころにはすでに日が傾きかけていた。長い一日はまだ終わらない。私とハルさんの二人が車から降りた。私はトランクに置いていたお祓い道具を手に取りドアを閉める。斎藤さん一家は近くのファミレスでお祓いが終わるまで待ってもらう事になった。有紀ちゃんが、九尾の影響を受けないためだ。

パグは運転席から降りると「この子の将来のため、九尾の狐を滅し因縁を払ってください。お願いします」とハルさんに繰り返し頭を下げていた。私はその様子を目にし親の愛情の深さを感じた。見かけは厳ついパグも、子供を見つめる頬には子猫の足跡のようなえくぼ浮かべ愛らしい。

わたしもいつか親になるのかと思い何気なく彼女に目を移す。彼女と目が合い、私の顔はなぜか急にスイッチが入ったように真っ赤になる。心を読まれないようにしなければ。彼女が有紀ちゃんへ目を向けると私の顔も次第に落ち着きを取り戻す。

その後私たちは、一家の見送りを受け、決戦の地である彼らの自宅に足を踏み入れる。

 車庫から階段で庭に上ると隅には不規則に積み重ねられた石が見えてきた。あれが祠なのか。家の隅で粗末に扱われているその祠に向かい私たちは歩みを寄せる。

近くまで進むと祠は白い四角い石の上に粗末な長方形の石が重ねられているだけのものだ。もう少し立派な祠をイメージしていた私は、雨ざらしの粗末な祠を目にし、少し気の毒にさえ思う。ここに妖狐の九尾が封印されているのだろうか。

私は胸に仕舞っておいた眼鏡を掛ける。祠は赤い炎で包まれ私の背中に虫唾が走る。封印されなおこれだけの妖気を発する祠に私は無意識に二、三歩後ずさりする。まちがいなくここに九尾の狐が封印されている。

二人は祠の正面に祓いの道具を置き準備を始める。私が祭壇を組み立てていると、彼女は祠を取り囲むように、一メートルほどの細長い棒を四隅に差しはじめた。

地面に差した四本の棒は緑色の炎で包まれている。結界を張るための物だろうか。次に彼女は四本の棒をしめ縄で結び、祠を取り囲む。一体何をするのだろうと思いながら私は組み立てた祭壇を縄の外側に据えた。それを見ていた彼女は祭壇も結界の中に据えてと言う。私は祭壇を抱え祠の目の前に据えた。

準備は整った。私たちもしめ縄の内側に入る。彼女は深呼吸をすると静かに手を合わせた。今から最後の戦いが始まるのだ。張り詰めた空気の中、唇が渇く。彼女は目を閉じると静かに真言を唱え始めた。

「オン アロリキヤ ソワカ」

 彼女は真言を唱え、両手を広げ大きな柏手を打つ。

「パァン」

静まり返った庭に、彼女の手から甲高い音が生まれ辺りに響く。するとその乾いた音と共に辺りの景色が一変する。私達が立っているしめ縄の内側だけが切り取られ、別の空間に移動したのだ。

周りは見渡す限り草原が広がっている。遠くに山が見え一見すると避暑地の高原の様だ。しかしそこに吹く風は生温く居心地は悪い。祠を取り囲むこの場所だけが、辺りの景色に馴染めず浮いている。どうやら私たちは裏の世界に移動したようだ。

表の世界で九尾の封印を解くと町中が火の海になりかねない。そのため状況は不利になるが彼女は裏の世界で九尾の狐と闘う事にしたのだろう。彼女は柏手を打った手を離すことなく、今度は私に教えてくれた真言を唱え始める。

「オン アボキャ ベイロシャノウ・・・」

すると祠に掛けられていた結界が、一つ、また一つと解かれていく。そして最後の結界が解かれた。私はその様子を、固唾を飲んで見守る。

すると、祠の石がゴトゴトと音を立て揺れ始めた。いよいよ九尾の登場か。そう思った次の瞬間、雲一つない空から突然雷が落ちる。稲光は祠の石を真っ二つにすると破片が辺りに飛び散る。突然空から落ちる閃光と雷鳴に驚き、その場に尻もちを着く。私は両手を地面に着いたまま空を見上げる。しかし曇はどこにも見当たらない。不思議な事に晴天の空から雷が落ちて来たのだ。

一瞬の出来事に開いた口をふさぐ間もなく、今度は割れた石の下から茶色い動物の背中がせり上がってき来る。どうやら九尾の狐のようだ。天空に浮かび上がった九尾はゆっくり地面に降り立つ。四本の足を踏みしめると、狭い結界に長く閉じ込められていたため、身体をくの字に伸ばしている。ピンと立った耳。目は眼光鋭く私たちを睨みつけている。口からはピンクの舌を伸ばし早く私たちを食べたいとでも言っているようだ。九つある尻尾はすべて天を仰ぎ、炎のようにゆらゆらと揺れながら私たちを威嚇している。

しばらくすると今度は九尾の身体が風船のように膨らみ始めた。一体何が起きているのか。私達は大きく膨らむ奴の身体に押しつぶされないようその場から逃げ出す。壊れた祠を飲み込み、奴の身体はとうとう彼女の住む二十五階建てのマンションほどの大きさにまで膨れ上がりやっと止まった。

見上げる九尾の身体からは、背筋が凍るほどの妖気が漂っている。あまりのおぞましさに私の身体は例のごとく棒のように固まる。

一方隣にいるハルさんも、想像以上の妖気なのか表情が硬い。巨大化した九尾は、狭い結界から抜け出し、天を仰ぎ見ている。生暖かい風が奴の栗毛色の背中に当たると、稲穂が揺れるように大きく波打つ。その姿はなぜか神々しくさえ見える。奴はそのまま天を仰ぎ野太い声で吠えた。奴の遠吠えは息の続く限り吠え続け、草原に響き渡る。九尾の狐が完全復活を遂げたのだ。

九尾の復活に気を取られ気付かなかったが、いつの間にか私たちの後ろに福先生が現れていた。また空を見上げるとテンが舞っていた。彼らの表情も硬い。それもそのはず、鳳凰のテンでさえ、九尾の身体の半分ほどしかない。福先生に至っては奴から見るとハツカネズミ程の大きさに見えるはずだ。

テンは翼を羽ばたかせ空から様子を伺っている。強い風が吹き地上ではあちこちで竜巻が出来る。福先生も二、三歩前に歩み出し戦闘態勢を整えている。

依然、九尾の狐は私達の事など気にする様子もなく、裏の世界に漂う妖気を楽しんでいる。その時、彼女がテレパシーで私に話しかけた。

「田辺君、今のうちに水の結界で奴の動きを封じテンや福の手助けをするのよ」

 私は彼女を見ながら頷く。しかし夢の中ではこれほど大きな結界など作ったことは無い。私の頭の中に不安がよぎる。しかし迷っている時間は無い。やるしかないのだ。

私は大きく息を吸い、大地を踏みしめ真言を唱える。真言に合わせ印を組む手もいつもよりスムーズだ。迷いはない。心の中で九尾を捕らえる巨大な水の結界を思い浮かべ、最後の言葉を力強く唱えた。すると目の前に九尾の身体をはるかに超える水の結界が現れた。その様子は室内用のペットゲートに閉じ込めたペットのようだ。すかさず彼女が叫ぶ。

「こぶしを強く握り結界を絞るのよ」

彼女の金切り声に我に返った私は、印を結んだ手を強く握り絞める。結界は急激に縮み九尾の身体を締め付ける。奴は結界の中でもがき苦しみ始めた。

私はさらに拳を強く握り締め結界を締め付ける。すると奴の身体も一緒に縮み始めた。九尾は水の結界に押しつぶされ体が縮み続ける。力の限り握りしめるこぶしが震え始めた。私と九尾の力比べだ。

先ほどまで、二十五階建てのマンションほどの大きさだった奴が、今では十階建てのアパートほどの大きさにまで縮んだ。

もがき苦しむ九尾は突然口から炎を噴き出し反撃してきた。火を噴く奴を見ながら、私は一瞬ゴジラかよと思う。

私は印を結んだ手を最大限に絞る。隣で彼女が一本の矢を取り出し念仏を唱えながら彼に向かい放つ。

矢は一直線に九尾へ向かい鼻先に刺さる。その後矢はオレンジ色の光を放ち、雷に形を変え九尾の身体に電流が走りのたうち回る。

しかし九尾の身体を走る電流は、水の結界を伝い私の身体にも流れ始めた。私は奴と同じく体に電流が流れ、髪の毛は総立ちとなる。しかし印を組んだ手はしっかり守り崩さない。

身体を流れていた電流が治まると九尾はもう一回り小さくなり、テンと同じ大きさにまで縮まる。これなら戦える、そう思いガチガチに握った手を少し緩めた。すると奴は緩んだ結界の隙間から九本の尻尾を振り回すと、いとも簡単に結界を破った。しまった、そう思ったが時間は戻らない。目を白黒させながら再び拳を強く握るが結界は奴の尻尾に切り裂かれた。私は肩を落とし九尾に目を向ける。しかし奴の身体は縮んだままだ元の大きさには戻らない。

ほっと胸をなでおろすと、隣にいるハルさんは自分で使っていた弓矢を私の胸に押し当てる。これで九尾の狐を射抜けと言う事だろう。彼女の表情は相変わらず厳しい。

私の結界が崩れ去ると同時に、今度は福先生が奴めがけ全力で走り出す。いつもは柔らかくふっくらした先生の毛が逆立ち、針が刺さったように固くトゲトゲしい。

一方九尾は、走り来る福を目で追い三本の尻尾で振り払おうとかまえる。

刹那、福先生の体を覆う白い針が、ピストルの弾のように九尾に放たれる。その針は彼の腹のあたりに命中すると、そのまま体の中に潜り込んでいく。針はまるで生きているように九尾のお腹に消えて行った。

意外な展開に九尾も振りかぶっていた尻尾を体の前に並べ盾代わりにする。針の消えた腹の部分が紫色に変わりはじめた。あの針には毒が仕込んであったのだろう。

すると九尾は突然もがき始め、空に向け悲鳴を上げた。さすが福先生。

私も先生に続けと彼女から手渡された弓で矢を射る。一本目の矢は九尾に届く手前で失速し当らなかった。弓矢の扱いはまだまだ下手である。夢の中で、弓矢の練習もしておけばよかった。そう思いながら二本目の矢を取り出し、弓柄(ゆづか)を握り今度は弦(つる)を限界まで引き矢を放つ。

放たれた矢は一直線に彼の顔めがけ飛んでいく。今度の矢は失速せずに奴の鼻先に刺さる。鼻先に刺さった矢を確認すると、彼女はすかさず短い呪文を口の中で唱える。途端に矢は大きな音をたて爆発し、奴の鼻先が吹き飛ばされた。

そのころ福先生は九尾の足元まで近づいていた。突然の爆発に九尾の身体が傾き膝まずく。崩れ落ちる九尾に追い打ちをかけるべく、先生は紫色に変わるお腹に体当たりする。山嵐のような先生の毛が奴の腹に刺さると、そのまま横に倒れ苦しそうにもがき始めた。

息の合った連続攻撃で、戦は有利に進んでいる様に思えた。しかし奴は倒れたまま吹き飛ばされた顔を前足でなでた。すると彼の顔は元の姿に戻る。

横になったまま奴は怒りの眼差しで睨みつけると、私達めがけ口から炎を吐く。火柱が私たちに襲い掛かる。

二人は彼女の作る結界の中にいたため丸焦げにならずに済んだ。しかし結界の中にいても炎の勢いは強く、手で顔を覆わなければ炎の強さに耐えられない。凄まじい炎の勢いに私は無意識に頭をかばう様に縮こまった。炎が治まり辺りを見ると周りの木々が一瞬で炭になっている。もし九尾が表の世界で炎を噴けば、東京は一瞬で焼け野原になるだろう。江戸の町を焼き尽くした九尾の狐が、令和の世で再び暴れ出さないよう、ここで何とか滅せなければならない。

私はもう一度水の結界で彼の動きを封じようと印を組む。現れた格子状の結界は前回より太くなり頑丈である。これはいける、そう思いこぶしを握り絞め九尾を結界に閉じ込めた。

しかし今度はいとも簡単に二本の尻尾で結界を破ってしまった。結界は蜘蛛の巣のように二本の尻尾に絡まる。奴は何事もなかったように立ち上がると、再び口から炎を吐き続け辺りを焼き尽くす。今の彼に私の作る結界など蜘蛛の巣程度にしか感じないのだろう。尻尾に絡まる結界も痛くもかゆくもない様子である。

言葉を失う私の隣で彼女が再び印を組み真言を唱え始めた。すると目の前に銀色のクサビが現れた。クサビは尻尾に絡まった結界の上から地面に刺さり尻尾を地面に固定した。私は絡まった結界から尻尾が抜けないよう印を組んだ手を絞る。二本の尻尾は地面にしっかり押さえられ、奴の動きがと止まった。

その頃、九尾のお腹に張り付き毒を回していた先生は、五本の尻尾を伸ばし奴の後ろ脚を縛るように絡めた。急に後ろ足を縛られ九尾はバランスを崩しその場に横向きに倒れた。福先生の背中のとげからは、依然毒を出し続け、お腹が紫色に変わっている。

横倒れになった奴は、体に毒がまわり痺れているのか動きが不自然だ。

後ろ脚と尻尾を固定され動きを封じられた九尾は、上空から攻撃するテンにとって格好の標的となる。テンは大きな羽を奴めがけ羽ばたかせた。強い風と共に翼からは数十本の矢が九尾めがけ降って来た。どうやらテンは自分の羽根を矢に変え空から狙いを定めているようだ。矢の先は金色に光っている。羽ばたくたびに流星のような光の矢が空から降り注ぐ。

その矢は九尾の胸のあたりに集中して刺さっている。刺ささった矢はまるで生き者の様に奴の体の中に潜り込み消えて行く。恐らく奴の心臓目指し矢は進んでいるのだろう。九尾はたまらず残り四本の尻尾を使い身を守る。

テンは相変わらず上空で大きく羽ばたき雨のように矢を降らせている。盾代わりにしている四本の尻尾には無数の矢が刺さり、そのまま尻尾の中に消えていく。しばらくすると茶色の尻尾が紫色に変わって来た。尻尾に毒が回っているようだ。

九尾は顔をしかめ痛みに耐える。しかし痛みに耐えかね一声奇声を発した。その後、狂人の様に悶え始める。

テンは攻撃の手を緩めることなく空から矢を降らせる。四本の尻尾は完全に毒が回り、全体が紫色に変わっている。九尾は一瞬苦悩に満ちた表情を浮かべると、トカゲの尻尾切の様に四本の尻尾を付け根から切り落とした。切り落とされた四本の尻尾がその場で飛び跳ねのたうち回る。

怒りに我を忘れた九尾は、テンめがけ大きく息を吸い込み一気に炎を吐いた。炎は火柱となり凄まじい勢いでテンに襲い掛かる。その炎は、離れて見ている私達も熱で顔をそむけたくなるほどの暑さだ。

空から矢を放っていたテンは、炎を翼で受ける。それでも奴は炎を吐き続けた。するとテンはその炎に押され始めた。九尾は手を緩めることなく凄まじい勢いで炎を吐き続け、テンはその勢いに飛ばされている。とうとうテンの姿はキーホルダーほどの大きさになった。あまりの小ささに状況が良くわからない。しばらくすると九尾は口から吐き出していた炎を止める。上空からテンの姿が消えた。

次に九尾は体を起こし、結界と杭で固定された二本の尻尾を自ら切り落とす。奴は痛みに耐えかね悲鳴を挙げながら尻尾を切り落とす。

これで尻尾は残り三本になった。すると三本の尻尾が急に伸び始め、絡み合い一本の頑丈な尻尾となる。次の瞬間、その尻尾は福先生めがけゴルフクラブを振り下ろすように鋭く振り下ろされた。

一瞬の出来事で先生もなすすべなくゴルフボールのように綺麗に弧を描き飛んでいく。草原に飛んでいく先生を見ながら普段の私なら「ナイスショット」と冗談を飛ばす所だが、生きるか死ぬかの瀬戸際でそんな言葉も出ない。

先生が米粒ほどの大きさになり消えた。すると奴は私たちに目を移す。その目は怒りに満ちている。成り行きを茫然と見ていた私は、慌てて弓矢を握ると力任せに放つ。矢は音を立て九尾の顔をめがけ飛ぶ。顔に当たる瞬間、奴は私たちに向け炎を吐く。

矢は炎の中で瞬く間に消え去る。炎は私たちのいる所に一直線に向かって来る。

炎が結界に達する直前、彼女は結界をより強固にするため、結界の外側にもう一つ水の結界を作った。

炎が結界に到達すると、辺りは一気に白い水蒸気に包まれまるで雲の中にいるように視界が遮られる。それと共に結界の中の温度が急激に上がる。九尾は炎を吐き続けているのか、その熱を遮るため手で顔を覆う。彼女はそんな私を目にし、早く水の結界を作りなさいと叫ぶ。私はいつもの三倍の速さで私たちを囲む結界を作る。すると結界の中の温度がいきなり下がる。サウナの後の水風呂に入る心地だ。

九尾はなおも炎を吐き続けているようだが二人で作る三重の結界のおかげで私はどうにか生きている。辺りは依然白い雲に覆われ奴の表情が分からない。きっと苦々しい面持ちで睨みつけているのだろう。

しばらくすると水蒸気が治まり始めた。九尾は炎を吐くのを諦めたのだろう。

霧が晴れ辺りの様子が徐々に見え始めた。すると奴はこちらに向かいゆっくり歩いている。三本の尻尾はサソリの尻尾のような曲線を描き、先端は獲物を狙うかのように私たちを指している。その姿は生きてここから返さないとでも言っているようだ。風を受け優雅に歩み寄る九尾に私は唾のむ。

三本の尻尾の先端は相変わらず私たちを狙っている。よく見ると、その先に何か銀色に光るものが見える。そう思った瞬間、尻尾の先から三本の銀色に光る針が、私たちめがけ飛んで来た。風を切る音と共に銀色の針が飛んで来る。

私の体は、飛んで来る針から避けるため勝手に動く。銀色の針は結界に刺さり止まった。針は陸上の投てき競技で使うヤリほどの大きさで先端が鋭く尖っている。

ヤリは二番目の結界を突き抜けようやく止まる。あの槍をまともに食らったら、身体を貫き串刺しになるだろう。そのまま奴が吐く炎をくらったら、あっという間に焼き鳥ならず、焼き人間が出来上がる。そう考えると背筋が凍る。

三尾となった狐は目を吊り上げ、こちらに向かって来る。近づきながらさらに次の針が放たれる。

再び結界を突き抜け止まったが、今度は私が作る三番目の結界を突き抜け私の目の前まで止まった。

彼は四回針を放ち、結界には合計十二本の針が刺さっている。その中の一つは三番目の結果までも突き破っていた。

奴はもう目と鼻の先まで近づいている。あらためて奴を見上げると、その大きさに圧倒される。巨大な狐を見上げていると、夢でも見ているのかと目を疑う。これでも、最初に現れた時の半分以下にまで小さくなっている。

体を覆う黄金色の毛が風になびき収穫前の稲穂を思わせる。人間に虐げられ、この世を去った動物たちの怨念が作り出した九尾。その姿に私はどこか畏怖の念を抱かせる。

因果応報、身から出た錆。今回私たちは、人間が起こした過ちに報いる事になるのだろうか。奴は立ち止まると私たちを品定めするようにじっと見つめる。すると彼女に目線を合わせ話し始めた。

「お前を馬鹿にする人間どもをなぜ守る。お前も私たちと同じ心を持っているではないか」

ハルさんは臆することなく九尾を見上げ答える。

「人間は動物たちの住処を奪い、自然を破壊してきたことは認める。しかし今は木々を植え、自然や動物たちと共に暮らしている」

 九尾は眉間に皺を寄せ表情が険しくなる。

「お前たちは神だとでも思っているのか。人間が生まれてこのかた、戦争が無かった日は一日たりとも無いぞ。地球のどこかで人間どもは戦争を起こし殺し合い、動物や自然までもその犠牲にしている。命を大切にしない人間が、動物や自然を守ることなど出来はしない。人間のエゴは恐ろしい。地球も一瞬で破壊することが出来るほどだ」

 奴の話に私の胸が痛む。なぜなら事実だからだ。しかし彼女はひるむことなく立ち向かう。

「私たち人間は動物や自然と共に生きるため、みんなで知恵を絞り行動しています。決してエゴで動物たちの住処を奪い、自然を破壊してはいません」

 彼女の言葉に九尾は天を仰ぎ、笑いを始めた。

「人間は自分たちの欲を満たすため、なりふり構わず自然を壊し、動物たちを虐げ、この青い地球まで何も住めない砂漠を作り出してきたではないか。人間の欲が尽きない限り地球は蝕まれ、我らの仲間たちは滅びる。私はそんな人間からこの地球を守り、平和な星に戻すため生れて来たのだ。私の邪魔をするな」

 奴の言葉に迷いが生じる。間違った事を言っているとは思えないからだ。しかしいまでは環境保護に取り組み地球と共に暮らしている。何もしていないわけではない。彼女を見ると表情は硬く、張り詰めた緊迫感が漂う。九尾は畳みかけるように話しを続ける。

「地球が数百年かけ太陽と水と大地で作り出した森を、人間は一日で焼き払いそこに新たに街をつくる。この地球に人間だけが増え続け、森が次々と街に変わっていく。このままでは地球が悲鳴を上げ、いずれ滅びるだろう。私は破壊しか能のない人間どもを焼き払い、昔の姿を取り戻すため生れてきたのだ。なぜ邪魔をする。地球は人間のためだけにあるのではない」

 彼は話し終えると同時に三本の尻尾を大きく振りかぶり、結界めがけ襲い掛かった。「ピュー」と言う風を切る甲高い音が響き尻尾が迫る。

彼女は印を組んだ手を強く握りしめ、結界を破られまいと力を込めている。風を切り迫る尻尾が結界に当る。私は印を組んだ手を強く握り、目を固く閉じると結界が壊れないよう祈る。次の瞬間、バリバリと言う凄まじい音が辺りにこだまする。

恐る恐る目を開けると結界はすべて崩れていた。彼女に目を向けると、印を組んでいた手から一筋の血がながれている。結界を力の限り固く結び守ってくれていたのだ。

彼女は組んでいた印を解くと九尾をキッと殺気をはらんだ視線で睨みつける。反対に奴は彼女をあざ笑いながら、一本の尻尾を高く上げると私たちめがけ振り下ろしてきた。茶色の尻尾が風を切り私たちに迫る。彼女は無防備な姿で奴を睨みつけ、私は身体を固くし目を閉じる。

私はすでに勝負を諦め、蜘蛛の巣にかかった虫のようにじっとうつむいている。

次の瞬間、耳元でバシンと言う大きな音が聞こえた。

私の人生はこれで終わりだ、と諦めた。しかし尻尾があたった音はしたが、私の身体は棒立ちのまま何の変化もない。

こわごわ目を開けると私は先ほどと同じ場所に二本足で立っている。一体何が起きたのか。私は不思議に思い辺りを見回す。

すると私たちの右側に高い壁が出来ている。その壁をよく見ると、どうやら人の手のようだ。

私は無意識に壁を手で触れてみると、その壁は温かく柔らかい。やはり巨大な手に守られているのだ。

その手をつたい振り返ると赤地に金の曼荼羅模様の服を纏った神様の姿が見えた。その神様は空中に漂い、背後には眩しいばかりの後光が差している。私はその大きさに呆気にとられ口を開いたまま茫然と眺める。その大きさは奈良の大仏様よりさらに一回り大きい。

神様と目が合うと頬を少し緩め微笑んでくれた。私が彼女に目を移すと「大日如来金剛界様よ」と教えてくれた。

「えっ。この世の創造主ですか」

 私は素っ頓狂な声を挙げる。九尾の狐も金剛界様の登場でその場を後ずさり始める。奴との間合いが少しずつ広がる。

思いがけない金剛界様の登場に私はほっと胸をなでおろした。再び振り返った私は、金剛界様に直立不動の状態から四十五度の角度で丁寧にお辞儀をした。金剛界様はほおを一段と緩ませ笑う。

いっぽう九尾の狐は、頭を低くし金剛界様を下から睨みつけ、いつでも飛びかかれる体制を整えている。

彼女に目を向けると、ひとり言のようにブツブツ話している。金剛界様となにか話しをしているのだろうか。創造主が手助けしてくれるのならこの勝負、負けるはずはない。

すると途端に私たちを守る大きな手が薄くなり始めた。何が起きているのかと、私は再び金剛界様の方を振り返る。すると身体も透け始め後ろの景色が見えてきた。どうやらこのまま助けてくれるわけでは無いらしい。

またしても私たちは窮地に追い込まれる。九尾に目を向けると、先ほどまでの強張った表情から肩の力が抜け薄ら笑いを浮かべ私たちを見下ろしている。

反対に私は尻に火が付いたように慌てふためき、水の結界を作るため印を組む。しかし目の前に現れたた結界は細く薄っぺらで、奴は尻尾を一振りしただけで崩れ落ちる。

私は一度深呼吸をして再び水の結界を作る。今度は丈夫な結界が現れ、奴の動きを封じるため手の印を固く絞る。

するとすかさず九尾は口から炎を吐き結界は瞬きする間に破られた。あたりは白い霧に包まれ、一瞬奴の姿も視界から消える。

その時、地面が大きく揺れた。かなり大きい地震だ。私はバランスを崩しその場に尻もちをつく。すると今度は、私達と九尾を引き裂くように、地面に亀裂が入る。亀裂は九尾と私たちの間を裂くように一直線に伸びる。

次にその地割れから真っ白い雲のようなものが噴き出し始めた。いったい何が起きているのか。私は尻もちを着いたまま、口を開けその様子を見守る。

白い綿菓子のような雲は割けた地表から勢いよく吹き出し、頭上には雲が出来上がる。白い雲のおかげで九尾の姿がうっすら霞んで見える。その九尾も静かに空を見上げているようだ。

しばらくすると私たちの頭の上に大きな入道雲ができあがり、なお地面からは白い雲が吹き上げている。

見上げた雲の中では、時折激しく光るものが見える。おそらく雲の中では稲妻が光り荒れているのだろう。その雲はすでに空の半分を埋め尽くしている。辺りには風が吹き始め大粒の雨まで降って来た。

九尾の狐は用心深く入道雲を見つめている。目を凝らし入道雲を見つめると、雲の中でなにやら動物らしきものが見える。時おり雲間から現れる生き物は、表面に鱗の様な物が付いており日の光に反射しきらめいている。雲の中で大きな魚が泳いでいるのか。

いや違う。雲の中で動き回るその生き物は胴が異様に長い。大蛇か。形は蛇の様だが、垣間見える体には鋭い爪のような尖った物が見える。その生き物は雲の中で気持ちよさそうに泳いでいる。その動きに合わせ雲の形が変わる。ちらちらと雲間から長い胴体が見えるが、いまなおその正体は解らない。

隣で彼女は降りしきる雨や風から身を護るため、私たちの周りに小さな結界を作ってくれた。おかげで私は大粒の雨に濡れることなく、立ち上がり入道雲の中の様子を食い入るように見る。九尾の狐はその正体が解かり身の危険を感じたのか、徐々に後ずさりし始めた。

 どれくらいの時間が経ったのだろうか、地面から湧き上がる白い雲がやっと止まった。するとそれまで降っていた大粒の雨もあがり、空にはぽっかりと入道雲が浮いている。光が目に入り避けるように手をかざしながら入道雲を見つめる。

すると、不意に雲の中から生き物が飛び出してきた。光を背に受け真っ黒い影が大空を舞う。長い身体が雲の中から次々と伸びていく。ようやく尻尾が雲の中から現れた。

大空を悠々と泳ぐその姿は子供のころに見た鯉のぼりのようで気持ちよさそうだ。眼が徐々に光に慣れて来るとその姿がはっきり見え始めた。

「龍神様だ」

銀色に輝く体を大空でくねらせ気持ちよさそうに泳いでいる。

大空をひと泳ぎした龍神さまは私たちに向買い飛んで来た。大空にいる時は、連凧を上げているようで、さほど大きいとは思わなかった。しかし目の前に現れた龍神様はけた外れに大きかった。

胴体は新幹線ほどの長さで、頭に目を向けると、金色に輝く角は山の主である鹿の角の様に枝分かれし天を指している。口元の黒いひげは風に揺れ、相手を威嚇するかのように揺らめいている。目はワニのようにギョロっとしており黒い眼が私たちに向けられ、私はまともに目を合わせられない。頭を覆う銀色の髪は、風にたなびき神々しい。

龍神さまは彼女が念じ、呼び寄せたものだろうか。そう言えば、幣立神宮御主がカギを握るのは龍神さまだと言っていたのを思い出した。彼女は本当に龍神さまを呼び寄せたのだ。

彼女と龍神さまは友達だと御主が言っていた。私はあの厳つい姿の龍神様とは、友達になれないだろう。なにせ、あの先の尖った手で握手したら私の手は傷だらけだ。ハグしたら私の身体は粉々に切り刻まれるだろう。そんな龍神さまは彼女を見ながら話し始める。

「ハルがワシを呼んだのか。それにしてもここは居心地が悪い。九尾の妖気が辺りに充満しておる」

 彼は空中に漂いながら話す。

「龍神さま。力を貸してほしいの。九尾の狐を滅し、元の清らかな動物たちの魂に戻したいの」

彼女がそう話すと彼は不思議そうな顔で見る。

「ハルの霊力があれば九尾を元の魂に戻すことなど造作ないだろう」

「いいえ。残念だけど九尾の方が霊力は上よ。お願い、手を貸して」

 彼女はここに来るまで三度の戦いを終えて来た。しかも私への特訓まで行い、残る霊力は少ないのだろう。出来の悪い私への特訓は、特に力を消耗させることになっただろう。目の下に隈まで出来るほどだ。それにしても彼女は本当に龍神さまと友達だったのだ。まあ、神様と話しが出来るほどなので、龍神様が友達だとしても不思議ではない。

「ハルの願いを断ると後で胎蔵界様から叱られるからな」

 その時、九尾の狐が踵を返し走り出した。

私はすかさず声を挙げる。

「九尾の狐が逃げます」

 私の声に二人は一度九尾の狐に目を移す。しかし二人とも何事もなかったように話しを続けた。

「それはそうと、この頃表の世界の空もだいぶん濁ってきたようだが何か起きているのか」

「そのことは今度ゆっくり話しましょう。今は九尾を滅し、動物たちの魂を救うことが先よ」

 二人の話しが終わる頃には、九尾の狐は普通の狐の大きさに見えるほど遠く離れていた。見晴らしのよい草原なので見失う事は無いにしても大丈夫だろうか。

龍神さまは面倒くさそうに九尾に目を向けるといったん上空に舞い上がり一気にスピードを上げ九尾を追った。

すると五秒ほどで龍神さまは私たちのもとに戻り、二本の前足で九尾の背中を鷲づかみしている。龍神様はまばたきする間に風と共に帰って来た。早い。早すぎる。

頭上では九尾が手足をバタつかせもがいている。龍神さまは前足でしっかり奴をつかんだまま長い体を絡ませ動きを封じる。するとそのまま雑巾を絞るように長い体で締めつけ始めた。九尾の狐から甲高い声が漏れる。龍神さまはさらに体を絞り締め上げる。

もがき苦しむ九尾は最後にひと声吠えると頭をだらりとたらし動かなくなった。あっという間に決着がついた。恐るべし、龍神様。

すると九尾の身体が薄くなり始め、代わりに無数のガラス玉のような煌めく物が現れた。握りこぶしほどのガラス玉は日の光を浴び様々な色に光っている。私が空を見上げていると、彼女が「住処を追われ死んでいった動物たちの魂よ」と教えてくれた。私は目を白黒させそのガラス玉を見つめた。

千、二千。いやそんな数ではない。一万、二万。とても数えられない。

大空を漂う魂は黒や真っ白の者、燃え上がるように真っ赤な魂もある。その姿は大玉の花火が打ちあがったようにも見える。

なぜかその魂たちからは、怒りや悲しみが感じられる。しばらくの間、私は静かに陽の光に照らされる魂を目を細め眺めていた。

魂たちは行き場を無くしその場にさ迷っているように見える。その時、私の後ろで何かの気配がした。

振り返ると金剛界様が再び現れた。大輪の蓮の花の上に座り、背後には後光が差している。またその周りには炎まで纏っている。柔和な表情ではあるが目は鋭く、魂を見つめている。金剛界様は腰のあたりで組んでいた手を解き、魂に向かい右手をかざした。

すると、行き場を無くした魂たちが手の平に吸い込まれるように歩み始める。無数の魂たちは金剛界様の手の平に列をなし進んでいく。

先頭の魂が黄色く光り始めた。すると他の魂たちも次々と黄色い光を発し始めた。大空に黄色い光をまとった魂たちは、帰る家が出来たようでたのし気だ。私は無意識に手を合わせその様子を見守っていた。

幸せそうに輝く魂が一つ、また一つ金剛界様の手の平に消えて行く。私は彼女に「黄色はどんな感情を表すのですか」と聞いた。すると彼女は「黄色は喜びの色。魂が喜んでいるのよ」と教えてくれた。ふと、彼らはこれからどこへ行くのだろうと不安に思い、彼女に問いかける。

「動物たちは全員金剛界様が天国へ連れて行ってくれるわよ。しばらくそこで幸せな日々を過ごし、それから再び地上に戻ってくるの。動物たちの転生は早いから明生君の生きている間にもう一度出会うかもしれないわね」

「天国ですか。良かったですね。今度生まれ変わったら一緒に遊びたいですね」

 彼らとまた会える。彼女のその言葉が胸に刺さる。これから先の楽しみが一つ増えたようなそんな気がした。

「そうね。でも人間が今のまま自然を破壊し、動物たちの住処を奪っていけば第二の九尾を生むだけで堂々巡りになるわね。九尾が話していたように、人間はもっと動物や自然、地球と共に生きるすべを考えなければいつか必ず意趣返しを受ける事になるは」

 彼女の言葉が心の中で響く。しかし実際、動物や自然、地球のために何をすればよいか解らない。彼女に尋ねるとこう教えてくれた。

「難しく考えることはないわよ。動物たちが命を削って私たちに与えてくれた食事を『命を頂きます』と感謝して食べるとか。食事は残さず食べフードロスを無くすとか。また、ペットとして飼った動物は最後まで世話する事も大事だわ。今は飼っていたペットを途中で投げ出し保護された動物が殺処分されているのよ。大切な命は一つしかないの。私たちの身勝手な行動で大切な命を消してはならないのよ」

 そうか。難しく考えることはないのか。毎日の生活の中で自分ができる事から始めればよいのだ。彼女の話しは続く。

「また、自然保護のため募金する事は直接自然を守ることになるわね。地球に優しく、地球上に暮らす命と共に暮らしていく。解っているとは思うけど、この地球は人間だけのものではないのよ。このままでは第二の九尾を生むばかりか、地球が悲鳴を上げ地震や大雨などの自然災害を引き起こし、人間は手痛いしっぺ返しをくらうわ」

 今まで、地球に優しくする事など考えもしなかった。それにしても自然災害は地球の悲鳴とは知らなかった。そこまで人間は地球を追い込んでいるのだろうか。早く手を打たなければこれから先、もっと甚大な自然災害が起こるのだろう。最悪、地球が死ぬ事も考えなければならない。そうなれば人間も地球上から消えてしまう。

 話しをしている間も、帰る家を見つけ喜びに満ちあふれた魂たちは金剛界様の手の平に消えていく。その様子を私たち三人は静かに見守っている。

最後の魂が手の平に入る直前、辺りを八の字に飛び回り始めた。三回、四回と八の字に飛び回る。まるで私たちにありがとうと言っているようだ。つい先ほどまで死を覚悟していた事さえ忘れ、喜びに満ちた魂を微笑みながら見送っている。なぜか心の中がほんわか温かくなる。

隣にいるハルさんも、頬がゆるみ笑みがこぼれている。龍神さまに目を移すと、こちらは元が厳めしい目つきで、笑っているのか怒っているのか解らない。たぶんわらっているのだろう。そういう事にする。

私は楽し気に飛び回る魂に向かい、また地球で会おうと叫んでいた。最後の魂は、今度は黄色から紫色に変わりゆっくりと手の平に消えて行く。

「ハルさん。紫色はどんな気持ちを表しているのですか」

 私がそう尋ねると「愛を表しているのよ」と教えてくれた。人間の身勝手な振る舞いに振り回された動物の魂が、最後に私たちに愛を与えてくれたのだ。私には絶対真似できない。そう思うと自分がちっぽけな人間に思えて来た。実際そうなのだが。

最後の魂が手の平に消えると、金剛界様の体が薄くなり始め、あっという間に消え辺りは殺風景な草原に戻った。

すると龍神さまが大きな頭を大空に向け飛び立とうとしている。次の瞬間、龍神さまは青い空に向け泳ぎ始めた。

私たちの周りに突風が吹き、土埃が舞う。海のように青く大きな空を気持ちよさそうに泳ぎ回る龍神さま。その姿は瞬く間に小さくなりとうとう見えなくなった。

私たちの周りにはいまだに砂ぼこりが舞っている。彼女は疲れた様子も見せず、私に微笑みながら「帰ろうか」と話す。私は大きく頷く。心の中ではもう少し二人で勝利の余韻に浸りたかったが、有紀ちゃんの様子も気になる。早く戻って因縁の呪縛から解放された彼女を見たい。

彼女は手を合わせ、短い真言を唱える。

「オン・アロリキャ・ソワカ」

 彼女が柏手を打つと裏の世界から表の世界に戻る。日はとっくに暮れ辺りは暗闇に包まれ、斎藤さんの玄関先に明かりが灯る。表の世界では日はとっくに暮れ、空を見上げると真ん丸なお月様が顔をのぞかせていた。お月様は何事もなかったかのように、私たちを照らしている。

表の世界に戻ると、彼女は足元の祠に目を移した。私もつられて見る。すると九尾の狐を封印していた石の祠は真っ二つに割れていた。祠も役目を終え今はただの石に戻ったのだろう。先ほどまで漂っていた禍々しい妖気はもうそこにない。

ついさっきまで生死を掛け闘っていたとは思えないほど、この世界の夜は静かだ。隣ではハルさんが斎藤さんに連絡を取り、有紀ちゃんの様子を伺っている。漏れ聞こえる話し声からは、有紀ちゃんの機嫌は良く唯奈さんの腕の中で魚のように飛び跳ねている様だ。

十分ほどで斎藤さんが自宅に戻ってきた。私は真っ先に有紀ちゃんを見る。すると有紀ちゃんの身体にまとわりついていた灰色の雲はすでに消えていた。彼女に憑けられた因縁は解けたのだ。今はお母さんの腕の中で静かに寝息をたて寝ている。まるで天使の様だ。

パグは車から降りると矢継ぎ早に九尾との戦いについて訊いて来た。ハルさんはゆっくりとした口調で、すべて終わりましたと答えていた。

私は携帯を取り出し時間を見ると、すでに二十時を過ぎている。斎藤さんと別れ二時間ほどが過ぎていた。短い間に色んな出来事が起きた。生きて帰れたから良いものの、戦いに負け死んでいれば今頃天国にいただろう。能天気な私は、地獄ではなく天国に行くことにしていた。

斎藤さんはハルさんの話を聞くと、ほっと胸をなでおろし自宅に上るよう勧めた。しかし彼女は遅くなったのでそのまま帰ると話しをした。

帰り際、寝ていた有紀ちゃんが目を覚ました。するとハルさんに向け両腕を広げ抱っこしてと訴える。彼女が有紀ちゃんを抱きかかえると、もみじのような小さな手でハルさんの頬を撫で、何やらモゴモゴ話し始めた。まるで因縁を解き放ってくれたお礼を言っているようだ。見ているこちらも気持ちがほっこりする。有紀ちゃんは話し終えると彼女の胸に耳を当て心臓の音を聞いているようだ。まるでハルさんの魂の聲を聴いているかのようだ。天使のような笑顔でペタンと胸に耳を当てる姿は、見ているこちらも気持ちが和む。

彼女の魂の聲を十分聞き終えた有紀ちゃんは、次に私に向け両手を広げて来た。えっ。私にも天使が舞い降りるのか。そう思うと私は今日一番の笑顔で彼女を抱きかかえた。

すると今度は小さな手の平で私の頬をペタン、ペタンと叩き始めた。ハルさんの時とはまるで様子が違う。

つぎに有紀ちゃんは眉をひそめ、私に説教するかのようにモゴモゴ話しだす。話しの間も両手は私の頬を叩いている。その様子は、ハルさんに助けてもらいっぱなしの私に、まだまだ修行が足らんと説教されているようだ。私は眉を八の字にして「勘弁してください」と彼女に伝える。その場にいる全員から笑い声が漏れる。

十分説教を終えた有紀ちゃんは、最後に先ほどと同じように私の胸に耳をペタンとあて動かなくなった。その姿は天使そのもので、私は叩かれた頬の事など直ぐに忘れる。しかし天使に心の中を覗かれている様でちょっと恥ずかしい。何とも言えない幸せな気持ちが私の心に流れ込む。

天使は飽きやすいのか、幸せな時間はそう長く続かず母親に両手を広げ抱っこを求める。

私はいたずら心が芽生え、体をクルリと反対側に回すと、天使の視界から母親の姿が消える。すると天使はすぐさま悪魔に変わり、私の頬を再び叩き両足もバタつかせる。私は平謝りしながら悪魔を唯奈さんに手渡した。母親に抱かれた悪魔はすぐさま天使に戻ると、私に向かいブツブツ文句を言っている。私は頭を搔きながら天使にごめんなさいのポーズをする。周りからは再び笑い声が漏れその場は和やかな雰囲気に包まれた。

 返り際、家族は私たちに深々とお辞儀をすると、斎藤さんが改めて挨拶に伺いますと話す。ハルさんは微笑みながら「有紀ちゃんに会えるのを楽しみにしています」と返事をする。

彼女の高級セダンに荷物を積み、私は運転席に向かう。助手席にはすでに彼女が座っていた。私は見送る家族に頭を下げ、車に乗りエンジンを掛ける。ハルさんが窓を開けると、唯奈さんと有紀ちゃんが私たちに手を振り見送ってくれていた。彼女も手を振り二人に答える。ハイブリットの車はエンジン音をたてずに動き始める。隣の席では彼女がまだ手を振っている。バックミラー越しに家族の姿が見えなくなると彼女は窓を閉めた。

「さすがに疲れたでしょう」

 彼女の言葉に私は大きく頷いた。

「今日一日でこんなにいろいろな出来事が起きるとは思いませんでした。今まで全く知らなかった裏の世界に戸惑いの連続でした。今日一日が一週間、いや一か月の出来事の様でした」

 私は正直に答えた。彼女は頷きながら「これからもよろしくね」と話す。私は少し戸惑いながらも「はい」と返事をした。そして彼女に目を向けると「運転中は前を見る」と雷が落ちる。

 車はマンションに向け順調に走っている。車の揺れが心地よいのか、隣で彼女が船をこぎ始める。今日一日で四回も全力で戦い、疲労は相当な物だったろう。また、夢の中では私の修業にまで付き合ったのだ。出来の悪い私に付き合い、なおさら疲れが倍増した事だろう。

私は車を出来るだけ静かに運転することにした。ふと眼鏡をまだ付けていることに気付き、外そうと手を掛けたその時、胎蔵界様の聲が聞こえて来た。

「やっぱり私が見込んだ通り筋がよかったわね。幣立神宮御主はきっと途中で逃げ出すと言っていたけど最後まで逃げ出さずによく戦ったわね」

 すると今度は御主の聲が聞こえて来た。

「明生はいままで壁にぶつかったらすぐ諦め、最後までやり遂げることは無かった。ワシは今度もまた途中であきらめ逃げ出すとばかり思っておったわ」

 御主にそう言われ私はなるほどと頷いてしまう。確かに今まで行き詰ると簡単に諦めていた。今回はなぜ、最後まで逃げ出さずに頑張れたのだろう。すると隣の席から気持ちよさそうに彼女の寝息が聞こえて来た。ちょっとだけ彼女に目を移し再び前を見る。彼女と一緒に闘ったから最後まで頑張れた、そんな気がした。まあ、裏の世界から逃げ出すすべも持ち合わせていなかったし。

「まだまだ御主も人を見る目が甘いわね」

 満足そうに胎蔵界様が話すと御主の笑い声だけが響き渡る。

「電柱の張り紙を見ていた時、この子にハルの手伝いをしてもらおうと思ったのよ」

 張り紙?胎蔵界様の言葉に、私は記憶をたどる。そう言えばバイト募集の怪しげな張り紙があったな。えっ。あの時、胎蔵界様からすでに目を付けられていたのか。しかしハルさんとは偶然車をぶつけたことで知り合ったのだが。「ん」偶然なのか。そのことを胎蔵界様に聞くと「ホホホ」と笑いながら私に話しかけた。

「偶然な訳ないじゃない。私がそうしたのよ。あの日あなたは買い物をするためボロ車で出かけたわよね」

 ボロ車ではあるがちょっとムッとする。

「ハルにはコンビニがある信号で止まると、後ろから車が追突するから身構えときなさいと伝えていたの」

 えっ。伝えていたとは、最初から私が居眠りするのを解っていたというのか。胎蔵界様に聞くと「フフフ」と意味深な笑い声が漏れる。

「そうよ。私があなたの車の中の温度を調整し眠気を誘ったの。しかしあなたがなかなか眠らなかったから、最後は私が耳元で特別に子守歌を歌ってあげたのよ。そうするとすぐに眠り始めたの。そうそう、あの時、眠りを誘うための温度調整が難しかったの。だから龍神に手伝ってもらい雲を少し動かし、車に日差し入れていたのよ。そう言えば龍神にお礼を言ってなかったわ。今度会ったらお礼を言っとこう」

 胎蔵界様は弾む声で話す。そう言えばあの時、車の中に虫がいて耳元で飛び回っていた。もしかしてあれは彼女の子守歌だったのか。いったいどんな子守歌だったのだろう。ぜひ今度ゆっくり聞かせてもらいたい。もしかすると音痴だったりして。想像しながら私の頬が緩む。

それにしても車の温度を調節するため龍神さままで手伝わせ雲を動かしていたなんて、なんでもありの神様だな。私が心に中でつぶやくと胎蔵界様は「何でも出来るわよ」と話し甲高い、やや神経質そうな笑い声が再び聞こえて来た。結局私は彼女の手の平で踊らされていたのだ。

「しかし今回はよく逃げ出さずに最後まで戦ったな」

 今度は御主の聲が聞こえて来た。

「ワシは最初に起きたゴキブリの大群を見ただけで逃げ出すと思っていたのに誤算だったわ」

 確かにあのゴキブリの大群は今思い出しても胃から何かが込み上げてきそうだ。あの時は逃げ出そうにも部屋一面をゴキブリが覆いつくし抜け出す事が出来なかった。もちろん小心者の私はすでに足がすくみ動け鳴ったのだが。

御主があまりにも悔しがるので、私は少し誇らしげな気持ちで隣に座る彼女に目を移す。よほど疲れているのか、頭をくの字に折り曲げ寝ている。頭がいまにも落ちてきそうで危なっかしい。気持ちよさそうに寝る彼女を見ていたら、不意に眠気が襲ってきた。私は頭を一度振り御主に心の聲で話しかけた。

「御主様。これからも色んな魑魅魍魎が現れるのですか」

 そう尋ねると彼は鼻歌交じりの軽やかな声で「もっと凄い悪魔にたくさん会わせてやるぞ」と嬉しそうだ。私は「もうお腹いっぱいでこれ以上の悪魔はご遠慮します」と話した。すると御主は「これからが本番なので厳しい修行に励んでもらわんといかん」と言い残し気配が消えて行く。私は思わず「えええ」と声を挙げた。すると彼女がその声に反応し目を覚ました。

「どうかしたの。今何か話していたみたいだけど」

 私は何食わぬ顔で頭を振ると片方の手で眼鏡を外した。

しばらく車を走らせると、のどが渇いたと彼女が言うので近くのコンビニで車を止めた。

コンビニでは彼女が飲み物をおごってくれた。車に戻ると彼女は、少し寝てすっきりしたので運転を変わると言ってくれた。私はその言葉に甘え助手席に回る。

彼女は運転席に座りエンジンを掛ける。私は慌てて助手席のドアを開ける。その時スニーカーの紐が解けているのに気付いた。一旦飲み物を助手席に置きドアを閉めるとスニーカーの紐を結び直す。

紐を結んでいると目の前の車が音をたてずに動き出した。つかの間、私は何が起きているのか理解できず、スニーカーの紐を結ぶ手が止まる。

顔を上げるとそこにあるはずの車がない。「えっ。なんで」慌てて立ち上がり車を追いかける。彼女はドアの閉まる音で、私が車に乗ったと勘違いしたのだ。普通はありえない話しだが彼女の場合、胎蔵界様や御主との話に夢中になり、周りが全く見えていない時がある。

それにしてもそそっかしい人だ。しっかりしているのか抜けているのか解らない。走り去る車の後ろをあわてて追いかけ叫ぶ。

「まだ車に乗っていません。待ってください」

 車は車道に出ると一気にスピードを上げ走り出した。やばい。本当に置いて行かれる。とっさにポケットに手を当て財布を確認する。しかし財布もスマホも車の中に置きっぱなしだ。こんな場所で置いてきぼりをくらったら歩いて帰るしかない。ここから自宅まで歩いて帰ると何時間かかるか想像できない。

私は泣き出しそうな顔で、走り去る車を全速力で追いかける。しかし無情にも車はスピードを上げ離れていく。とうとう車は見えなくなった。

車が見えなくなると私は追いかけるのをあきらめ立ち止まった。仕方ない、歩いて帰るしかなさそうだ。そう思った矢先、背中を突風が吹きつけ私の身体が宙に浮く。

「えっ、今度は何が起きているのか」

私は慌ててポケットから眼鏡を取り出しかける。私はまたがり乗っている物に目を落とすと体は長く、背中は鱗の様なものがびっしりと覆いごつごつしている。正面を向くと頭には角が生え、金色の髪が揺れ口もとの髭が風になびいている。

どうやら私は子供の龍神さまに乗り空を飛んでいるようだ。子供とは言え、そのスピードは風のように速い。先ほど助けてくれた龍神様が私を見かねて、子供を使いにやったのだろか。ありがたい。あっという間にハルさんの乗るセダンが見えて来た。風を切り飛ぶ竜の背は気持ち良い。それにしても早い。もう彼女が乗るセダンを追い越しはるか後ろに車が見える。

「えっ。車を追い越した」

 私は思わず口走る。すると子供の龍神さまも気が付いたのか急ブレーキを掛ける。油断していた私はそのまま前のめりに地面に飛ばされ尻もちをつく。龍神さまは急に止まれるらしい。

「あいたたた」

 私がおしりを撫でながら顔をしかめていると、子供の龍神さまは笑い声を上げる。少し甲高いその声は可愛らしい。九尾の狐を倒した龍神さまの声とは大違いだ。大人になるとごつい声に変わる。

私の様子を見ながら笑っていた小さな龍神さまは、踵を返すと満月に向け飛びたつ。私は心の聲でありがとうとお礼を言った。

 彼女の乗るセダンが後ろからやって来る。いまだ私が車に乗っていない事に気付いていないようだ。よほど胎蔵界様や幣立神宮御主との話に夢中なのだろう。

私は向かい来る車に大きく手を振り合図した。すると車は無常にも私の前を通り過ぎる。「嘘だろう」そう叫び私は再び車を追いかけた。

すると車は急に減速しハザードランプを付け路肩に止まる。私は小走りで車に駆け寄り助手席のドアを開けた。するとハルさんが一言。

「そんな所で何しているの」

「何しているの、じゃないですよ。車に乗ってもいないのに、ハルさんが車を走らせたのですよ」

私がそう話すと彼女は悪びれた様子も見せず、ドアの閉まる音が聞こえからてっきり車に乗っていると思ったのよ、と話す。助手席にはコンビニで買ったペットボトルが、ぽつんと置いてある。私はお茶を手に取りブツブツ文句を言いながら車に乗り込んだ。

車はマンションに向け再び走り出す。やっと人心地つき、冷たいジャスミン茶を飲み始める。すると額から汗が噴き出してきた。

最後の最後まで騒がしい一日だった。ハンカチで汗を拭き、運転する彼女に目を向ける。目尻が下がり楽し気な表情だ。きっと胎蔵界様と何か話しをしているのだろう。それにしても女性はこうも話しに夢中になれるものだろうか。私が車に乗っていない事も気づかないほどに。

私は空を見上げると真ん丸なお月様と目が合った。すると、お月様が「これからもハルを助け頑張れよ」と話しかけてきた。まだ眼鏡をかけたまま助手席に座っていたのだ。私はおもむろに眼鏡を外し胸ポケットに仕舞った。

これから先も不思議な出来事が起きるのだろうか。そして、その都度私は命の危険にさらされるのか。私は目じりを下げ運転する彼女の横顔に目を止める。彼女は相変わらず胎蔵界様との話に夢中の様だ。私は小さく溜息をつき、こんな人生も悪くないかも、と心の中でつぶやく。車は満月に誘われる様に静かに走り続ける。


   つづく   

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ハルの時代  渡辺昌夫 @masao196907101122

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ