第3話

 照りつける日差しに額から汗が噴き出す。風も音も無いこの空き地は、まるで時間が止まってしまったかのようだ。空だけが突き抜けるように高く吸い込まれていくようだ。

ハルさんがお祓いの準備に取り掛かる頃、私は胸ポケットから眼鏡を取り出しかける。眼鏡を掛けると急に周りが暗くなる。空を見上げると真っ黒い雲に覆われ今にも雨が降り出しそうだ。遠くでは稲光まで見えている。やはりそう言う展開なのだろう。想像はしていたがやはり今からひと波乱起きるのだろう。そう思いながら正面を見ると、突然目の前に家が建っている。

「えっ」

 私はつい声を漏らす。空き地だった場所に二階建ての立派な家が建っていたのだ。これが斎藤さんの実家だったのだろうか。

一階には大きな窓ガラスの付いた部屋が見える。リビングなのだろうか。家の中は暗く中の様子は解らない。一階は天井も高く解放感のある作りのようだ。二階は子供部屋なのだろうか、窓からは勉強机が見えている。外壁はこげ茶色で、当時としてはモダンな造りである。

私は突然現れた不気味な家に向かいお祓い道具を据える。彼女はその道具の前に立ち、呼吸を整えるため目を閉じている。彼女の後ろにパグ、唯奈さん、ベビーカーに乗った有紀ちゃんが並び、ベビーカーの隣に私が陣取る。準備が整うと彼女は静かに手を合わせ、真言を唱え始めた。

「オン アボキャ ベイロシャノウ マカボダラ マニハンドマ ジンバラ ハラバリタヤ ウン・・・」

 前回彼女の家を訪れたとき、真言の話を聞いた。真言とはサンスクリット語で「真実の言葉」「秘密の言葉」と言う意味らしい。彼女はどんな秘密が隠されているのかは教えてくれなかった。

真言が進むにつれ建物の方角から生暖かい風が吹き始めた。その風は鈍感な私でも禍々しく感じるほど、嫌な霊気を帯びている。

闇の霊気を帯びた風はだんだん強くなり、彼女の髪をなびかせ始めた。その時、リビングの窓に一人の男性が姿を現した。恐らく斎藤さんの父親だろう。顔は青白く私たちを睨みつけている。鬼の形相とは彼の表情を言うのだろう。

私はその父親と目が合う。全身に寒気が走り鳥肌になる。そのおぞましい妖気に触れ、体が硬くなり身動きできない。その時、胎蔵界様の声が聞こえてきた。

「ハル、気を付けなさい。襲って来るわよ」

 途端、家の中から数本の矢が飛んできた。矢は風を切り、ヒューという音を立てこちらに向かっている。その矢はスピードを速め、もう目と鼻の先まで迫っている。「矢が当る」避けようと思うが、体は固まり動かない。

彼女は胎蔵界様の聲が聞こえると同時に、素早く右手を上げ、光を帯びた指先で何かを描いている。青白く光る人差し指で描かれたのは、全員を囲むほどの大きな盾だ。その盾は薄いグレーで半透明になっており、迫り来る矢が透けて見える。

間にあうのか。そう思った瞬間、矢は盾に当たり「カン」と言う乾いた音が辺りに響く。矢はそのまま地面に落ちしばらくすると消えていく。私はほっと胸をなでおろす。どうにか間に合ったようだ。

それにしても彼女の指先からは色んな道具が描きだされ、その絵が現実の物になる。彼女の後ろでお祓いを受ける斎藤さん夫婦は、彼女の奇妙な動きに少し戸惑っているようだ。もちろん目の前で起きる出来事が何も視えなければ仕方がない。ただ、有紀ちゃんだけが、飛んで来る矢を目で追う仕草をしている。彼女には闇の世界が視えているのだろうか。

今度は家の中から数十本の矢が同時に飛んできた。放たれる矢の数が先ほどの倍以上に増えている。しかも今度は私に狙いを定め飛んできた。盾をよく見ると、私の身体が半分盾からはみ出している。盾の内側に隠れようとするが体の自由が利かない。恐怖のあまり足が竦み、体が動かない。迫りくる矢に私は慌てふためき、かろうじて開いた口で彼女に助けを求める。

「ハルさん、盾が私の所まで届いていません。早く盾を出してください」

私の声は裏返り必死に彼女に伝える。一番端のパグがこちらをのぞき込みながら不審な顔をしている。

彼女は顔を少し傾け私のいる場所を見ると「あらまあ本当だ」と落ち着いた様子で私に返事をする。ゆっくりしている場合ではない。矢はもうすぐそこまで迫っている。迫りくる矢に私はなすすべなく全身に力が入る。

やっと彼女の右手が動き出し、あっという間に盾を描くと私の前に差し出した。目の前に盾が来ると同時にカンカンと続けざまに矢が当る。どうにか間に合った。固くなった肩の力が自然と抜けていく。私はほっとひと心地着く。すると今度は心臓の音がやけに耳につく。ほんの数分の出来事で寿命が何年縮まったことか。

その後途切れる事無く家の中から矢が放たれた。立て続けに跳ね返る矢が地面に積もりはじめる。このままではらちが明かない。雨のように降り続く矢で盾にヒビが入り始めた。

「まずいわね」

ハルさんの心の聲が聞こえた。すると次に胎蔵界様の聲が聞こえてきた。

「ハル。テンを呼びなさい」

「はい、お母さま」

二人の話しに私は耳を疑う。手のひらサイズのテンが来たところで、この状況をどうやって打破するのか。雨のように降り注ぐ矢に当たって死ぬのがおちだ。日ごろ生意気なテンも、矢に当たって死ぬと思うとかわいそうになって来る。何か自分にも出来る事はないのだろうか。そうは思うが、未だに足がすくみ身体が動かない。まったく情けない。

「テン。あの矢をどうにかして」

 彼女はテレパシーでテンに話しかける。テンはもう来ているのか。頭を左右に振り確認するがテンを見つけられない。可愛そうに、テンはここで矢に当って死ぬ運命なのだろうか。そうだ、死んだらお墓を作ってあげよう。私に出来る事と言えば、その程度だ。

すると私の足元に影が動く。飛行機でも飛んでいるのかと思ったがエンジンの音は聞こえない。飛行機ではなさそうだ。空を見上げるが日の光が目に入り何が飛んでいるのか解らない。私は太陽の日差しを手で遮り空を飛びまわる黒い影に焦点を合わせる。

目を細め影を追うと黒い影が徐々にこちらに向かって来る。黒い塊が徐々に大きさを増す。

頭上数百メートルのとこで影は止まる。私たちはその大きな生き物の影にすっぽり包まれた。その影は翼を広げ優雅に空を舞う大きな鳥だった。その鳥は飛行機ほどの大きさをしており、現代に恐竜が蘇ったのかと思うほどである。

日差しにやっと眼が慣れ始め、生き物の姿がはっきりと見えるようになった。羽は赤く、光に反射し辺りが燃えているように見える。頭と体は鮮やかな瑠璃色で、頭は身体が大きいわりに小ぶりでシャープな感じである。顔に目を向けると、マナコは赤く金色の口ばしとトサカが神々しい。尾羽は黄色や緑、青など色とりどりの尾が長く伸び、優雅に風に揺られている。

綺麗だ。あれがテンなのか。私は慌てて頭を左右に振る。「まさかあれがテンのはずはない」と心の中でつぶやく。するとハルさんがテレパシーで「あれはテンよ」と伝えてきた。私は驚きのあまり、口を開けたまま顎が外れそうになる。かごの中のテンとは大違いだ。顎が外れかけた私は再び空を見上げる。

翼を広げ優雅に飛び回るその姿はまさに鳳凰である。テンは私たちの頭上で大な羽根を羽ばたかせる。空き地に小さな竜巻が出来た。この竜巻は現実世界にも表れており、砂ぼこりが上空に舞い上がっている。斎藤さん夫婦は舞い上がる砂埃からベビーカー守るため自分達の身体で覆いかぶさる。

一方、家から放たれる矢は、強風にあおられ大空に舞い消えていく。私は目の前で起きる出来事があまりにも現実離れし唖然とする。鳳凰となったテンは木に止まっているかのように同じ場所で羽ばたいている。次はいったい何が起きるのか。

 テンの登場により家の中から放たれる矢は私たちのいる所まで届くことなく、竜巻に絡めとられ上空に消えて行く。依然、テンは上空でゆっくり羽根を動かしている。羽を動かすたびに地上では砂ぼこりが舞い上がる。私は家に目を向けると、リビングの窓から青白い顔をした父親がテンを苦々しい表情で睨みつけている。

しかし静かな時間はそう長く続かなかった。家の中から今度は小さな黒い動物が列をなしこちらに向かって来る。なんだろう、まじまじと見つめると、どうやらハリネズミの様だ。鼠が出てくればやはり猫だろう。

するとすでに目の前には福先生が現れていた。先生は白い毛をなびかせ尻尾をピンと立て、ハリネズミの大群に向かって走っている。今まで気づかなかったが、先生の尻尾は五本ある。その尻尾をまるで孔雀が羽を広げ威嚇するかのように尻尾を広げ走り続ける。

すると走る先生の身体が二つ、三つとまるで分身の術を使うかのように増えていく。ハリネズミの大群と衝突する寸前には十匹にまで分身していた。先生は忍者なのか。

ハリネズミが走りくる先生めがけ飛びかかった。するとその瞬間、ニャンコ先生の両足がオレンジ色に光る。飛びかかるハリネズミたちを光る足で蹴とばしたり、突き刺したりすると奴らの体は真っ二つに裂ける。先生の足はまるで鋭い刃物になったように切れ味が鋭く、その足で鼠たちを切り裂く。しかし数に勝る奴らは先生の身体を覆いつくし、黒い塊が十個出来上がっていた。

ハリネズミは次から次へと家の中から現れている。奴らは先生が中にいる塊に次々と襲い掛かり、いまでは子供の象ほどの大きさに膨れ上がった。福先生負けるな、私は心の中で叫ぶ。

するとその黒い塊の中から一瞬オレンジ色の光が漏れる。数百匹の鼠がすし詰め状態のそれぞれの黒い塊から、オレンジ色の光が一斉に差し始める。その光は徐々に強さを増し、いつの間にか黒い塊がオレンジ色の光に包まれる。次の瞬間、先生を覆っていたハリネズミは、光に切り裂かれるように粉々になり黒い土となり地面に落ちていく。中から光に包まれた福先生が現れた。

先生の身体からオレンジ色の光が差し、襲い掛かる鼠はその光に触れるだけで粉々に砕け散っていく。十個の黒い塊は、今ではオレンジ色の光の球に変わり、中にではドヤ顔の福先生がいる。分身の術で十匹に別れた全員がドヤ顔になっており、その姿に私は笑いが込み上げる。

館からはいまなお大量のハリネズミが湧き出ている。上空ではテンがその様子を静かに見守っていた。しかしこのままではらちが明かないと思ったのか、羽を大きく開き館めがけ翼をはためかせる。すると突風と共に銛が空から降って来た。その銛は館の周りを囲むように降ってくる。銛は地面に刺さるとこちらもオレンジ色に光り始める。あっという間にオレンジ色の銛が館の周りを取り囲み、光の輪が出来上がった。その光に鼠たちが触れた瞬間、奴らは粉々に砕け黒砂に変わる。テンはオレンジ色に光る銛で館の回りに結界を作ったのだ。すごい。私は子供に返ったように心躍らせる。

いっぽう館の回りを取り囲む光の輪から抜け出していた鼠たちは、福先生から発するオレンジ色の光が届かない所を見計らい動きを止めた。前には福先生、後ろの館には光の輪が出来、行き場を失ったハリネズミ達。すると一匹のハリネズミが仲間を襲い共食いを始めた。すると周りにいた鼠たちも仲間を襲い始めその場は騒然とする。一体何が起きているのか。しばらくすると多くの仲間を食らった鼠は体が大きく膨らんでいる。強い物が弱い物を食らう。弱肉強食の世ではあるが同じ仲間同志で共食いをするとは。闇の世界の者たちは凄まじい。私は共食いする時、背中の針がよくのどに引っかからないものだと馬鹿な心配をする。

つかの間、ハリネズミたちは共食いを終えると、最後の一匹はミニバンほどの大きさになっていた。奴は明らかにいままでのハリネズミと妖気が違う。その姿を見ているだけで後ずさりしたくなるほど強い妖気を放っていた。

福先生たちに目を向けると、いつの間にか分身たちは消え、体は軽自動車ほどの大きさになっていた。

両者、相手の出方を見るため、しばらく睨み合いが続く。眼鏡越しにその様子を見守る私の方が、緊迫した場面に喉がカラカラになる。すると先に動いたのはハリネズミだった。

仲間を食らい膨れ上がったハリネズミからブーンと言う風のような音が聞こえてきた。私は音のする方を見ると、お尻のあたりで何か震えている。目を凝らし見つめるとストローのような物が束になり、それを細かく揺すり音を立てている。あれは奴の尻尾なのか。闇の世界にブーンと言う不気味な音が響き渡る。

しばらくその音を聞いていた私は、突然目まいがするとそのまま地面が回り始めた。どうやらあの風の音は耳に入り平衡感覚を麻痺させるためのものらしい。まんまと相手の術中にはまった私はその場に尻もちを着く。

まずい、斎藤さん夫婦に怪しまれる。私は咄嗟に手を合わせ小声でデタラメな呪文を唱え始める。しばらくすると二人の視線も私から離れハルさんに集まる。どうにか誤魔化せたようだ。それにしても先生は微動だにせず立ちすくんでいる。さすが先生、これしきの術ではビクともしない。私はピンと張った先生の耳を見ると耳栓をしている。

「えっ、耳栓しているの」

私は小声でつぶやく。そう言えばもう一人あの音を聞いて凛と立ち続ける人がいた。ハルさんだ。私はハルさんに目を向けるとこちらも耳栓をしている。

「ハルさん、お前もか」

私はシェイクスピアの戯曲ばりにつぶやく。二人とも相手の術が解かっていたのだ。私はもちろん耳栓など用意していない。仕方なく両方の人差し指で耳を塞ぐ。するとそれまで回っていた地面がおさまり平衡感覚も戻ってきた。両方の指で耳をふさいだまま立ち上がると二人に怪しまれるため、私はベビーカーの影に隠れ、そのまま座禅を組み戦況を見守る事にした。

ハリネズミは先生が耳栓をしている事に気付き効果が無いと思ったのか、次の術を繰り出してきた。

奴は後ろ足で地面を蹴り、身体が前に傾くとそのまま勢いをつけ、再び後ろ脚を地面に叩きつけるように着地した。まるで子供が地団太を踏むような不思議な仕草を繰り返す。すると闇の世界では地面が揺れ始め私の身体も波打ち始めた。奴が地面を踏みしめるたびに地面が揺れ、私の身体はトランポリンの上に乗っているかのように前後左右に跳ねる。私は慌てて両手で地面を抑える。たまたまベビーカーの影に隠れているため転がりまわる私の姿は、二人に気付かれていない。体を両手で支え安定させると、それまで飛び跳ねていた体はようやく治まった。闇の者は予想外の術を次から次に繰り出してくる。

私は少し落ち着くと福先生に目を向ける。先生は何事も無かったように平然としている。地面の揺れを物ともしていないのか。私は不可解に思い、まじまじと先生を見つめる。すると先生の足は宙に浮いている。

「えっ、飛んでいるの」

 私が小声でつぶやくとハルさんがテレパシーを使い教えてくれた。

「福は自分で作った結界の中にいるのよ。だから空中に浮いている様に見えるの」

 そうなのか。先生は結界に包まれているのか。そう教えてもらい先生をよく見ると、薄い紫色の輪の中にいる。あれが結界なのかと小さく頷く。私は依然揺れる地面を両手で支え今度はハルさんに目を向ける。彼女も微動だにせずその場に立っている。彼女をよく見ると薄い黄色の輪の中に立っていた。彼女も結界を張り奴らの攻撃を防いでいたのだ。

「ハルさん、お前もか」

 今日二度目のセリフに、彼女は顔を軽くこちらに向け笑みを浮かべる。何も知らない私だけが右往左往している。そんな私を無視しながら戦いは続く。

ハリネズミは先生がピクリとも動かないため、後ろ足で地団太を踏み地面を揺らすのを諦めた。これでようやく私の身体も飛び跳ねるのが治まった。

立て続けに繰り出した術が先生に効かず苛立ちを隠せない奴は、今度は前足で地面をカリカリと鳴らし先生を威嚇している。福先生は真っ白な体に五つの尻尾を孔雀の様に広げ、余裕たっぷりの姿でハリネズミを見上げている。しばらくの間、両者固定されたように動かない。

闇の世界では遠くで光っていた稲光がすぐそばまで迫り、雷の音が辺りに響く。緊迫した気配の中、両者不動のままにらみ合いが続く。リビングのガラス戸からその様子を父親が固唾を飲んで見守っている。依然青白い顔をし、目が座り見ているだけで背筋が凍る想いだ。

突然、稲妻が福先生とハリネズミの間に落ちた。刹那、地面を揺らすような大きな音と稲光が広がる。私はその凄まじい音と光に度肝を抜かれ反射的に体がのけ反る。

稲妻を合図に両者は走り始める。ハリネズミは飛び上がると体を丸め得意の針攻撃で先生に飛びつく。体が大きいわりに身のこなしは軽い。すでに奴は先生の上にのしかかり抑え込んでいる。現実世界とはあべこべな状況に、私は座ったままこぶしを強く握りしる。先生の身体は地面にめり込むほど強く抑えられ針が体に突き刺さっている。鋭利な針は見ているだけで痛くなる鋭さだ。

上から抑え付けられている先生の真っ白な背中から血がにじみ出て来た。赤く染まった背中が徐々に紫色に変わっていく。どうやら針先に毒が仕込んであるようだ。先生の苦痛に満ちた表情からも状況は不利の様だ。

奴は丸めていた体を広げると先生の背中全体に自慢の針を突き刺す。奴が背中を動かすたびに先生の口からうめき声が漏れる。誰か先生を助けてくれ、と心の中で叫ぶ。

その時、福先生の五本の尻尾がするりと伸び、ハリネズミの首に絡みつく。途端、尻尾はピンと張られ奴の首を強く締める。ネズミは金切り声を挙げ先生の背中に乗ったままもがき始めた。先生は間髪入れずにミニバンほどの奴の身体を首に絡めた五本の尻尾で持ち上げ始めた。形勢は一気に逆転した。

宙に浮いたネズミは、声が出せないほど首を絞められ苦しんでいる。先生の尻尾は空めがけどんどん伸びている。とうとう上空でにらみを利かせているテンのいる所まで到達し止まった。

つぎの瞬間、奴の身体は先生の尻尾に引っ張られ空から勢いよく真っ逆さまに落ちる。上空ではリンゴほどの大きさに見えていた鼠があっという間に元の大きさに戻り、そのまま地面に叩きつけられた。裏の世界では大きな音と共に地面が揺れ土埃が舞う。すると表の世界でも同時に地震が起きた。裏の世界の戦いが表の世界に影響を与えているのだ。

震度三程度の地震に斎藤さん夫婦は慌てて有紀ちゃんの乗るベビーカーを支え三人は体を寄せあう。

土埃が治まり地面には大きな穴が出来上がっていた。私は立ち上がり穴の中を覗き込む。するとハリネズミの尻尾はだらりと伸び、体は動かない。しかし福先生は止めを刺すべくオレンジ色に光る前足でハリネズミの喉元を突き刺す。

「キィ―」と言う大きな鳴き声が裏の世界にこだまする。不気味な鳴き声に、背中に寒気が走る。

ハリネズミは切り裂かれた喉元から蒸発するように消え始めた。福先生とテンが力を合わせ闇の世界の者たちに勝ったのだ。

リビングに目を向けると、父親が苦々しい顔でテンと先生を交互に睨みつけている。私の視線を感じたのか、父親と目が合う。目を合わせただけでその妖気に圧倒され、全身に鳥肌が立ち知らぬ間に後ずさりしていた。彼は何をそんなに憎んでいるのか。実の親子なのに。禍々しい妖気に、今すぐその場から逃げ出したい気分になる。

ハリネズミの姿が完全に消えると、福先生は次に妖気漂う館に向け走り始めた。父は先生を睨みつけると、今度は家の中から数百本の矢が一斉に先生めがけ飛んできた。先生は五本の尻尾で体を覆い盾代わりにしながら館に突進している。

放たれた矢は尻尾に当ると跳ね返され四方八方に飛んでいる。その矢が、私たちのいる所まで飛んで来た。

「福先生、こんなところまで矢を飛ばさないでください」と心の中でつぶやく。すると先生から「うるさい、黙れ」と怒られた。

それにしてもかなり矢が先生から弾き飛ばされ私たちの所に飛んで来る。正面にはハルさんが書いた盾が有り問題ない。しかし頭の上にはさえぎるものが無く危なっかしい。私はその矢を避けながら突進する福先生を注意深く見る。

すると今度はハルさんが人差し指で何か描き始めた。描かれたのは弓と金色に光る矢だ。彼女は弓をしならせ金色に輝く矢を館に向け放つ。

ヒューと言う音と共に金色の矢は一直線に家へと向かう。父親は素早く盾を用意すると飛んで来る矢に向ける。しかしその矢は館の前までくると、急に角度を変え地面に刺さる。一体どうなっているのか。

地面に刺さった矢は、まるで生きているかのように地面にもぐり込む。すると見る見るうちに地面が音を立て裂け始めた。バリバリと音を立て地割れが伸びる。まるで館の回りを蛇が這うように建物の回りを取り囲む。調度その時、福先生は館の前まで詰め寄りそのまま体当たりした。ドスンと言う大きな音と共に一撃で館が傾く。

「えっ、館が傾いた。うそでしょう」

私の口から思わず声が漏れる。超大型のユンボでも、一撃で家を傾かせることは不可能だろう。私は目を点にし、その様子を眺めていると今度は上空からテンが現れた。

今度は何が起きるのか。目の前で起きる不可思議な出来事を、私は映画のスクリーンを見るかのように眺めている。

テンは館の真上まで来ると二階の屋根に留まった。地上に降りたつテンの大きさと煌びやかさに私の目は奪われる。翼を畳んで留まる姿は二階建ての館とほぼ同じ大きさだ。しかし翼を広げた姿は建物の三倍ほどの大きさにまで膨れ上がる。

その姿に目を向けると、頭や体は青い羽根に覆われ、鋭く尖る金色の嘴が少し開き顔つきをシャープに見せている。私達を見下ろす眼光は獲物を狙う鷹のように鋭い。羽は黄色や赤、青色などが綺麗に並び華やかである。これが癒し部屋にいたテンなのか。私は大きく口を開けたまま言葉を失う。

テンはしばらく館に留まり辺りを見渡すと今度は大きな翼をゆっくり広げ始める。もしかしてテンは二階建ての館を持ち上げる気なのか、と思うが早いか広げた翼を大きく羽ばたかせる。現実の世界では砂ぼこりが立ちあがり私は目を細める。現実の世界では雲一つない晴天だ。それまで風一つなかった空き地で起きる竜巻や砂嵐。それもこの空き地を起点に起きている。斎藤さん一家もいったいどうなっているのかと言う表情だ。しかしその表情からは、この空き地で何かが起きているのだろうと薄々感じているようだ。

テンは大きな翼を五、六度羽ばたかせると砂ぼこりが舞、地面が再び揺れ始めた。裏と表の世界で同時に地面が揺れる。その直後、館は地面から離れ宙に浮いた。私は目を疑った。これは現実なのか。私の頭の中は、踏みつけられた蟻の巣の中にいるように大混乱になっている。

テンは両足で家を掴んだまま、大空に羽ばたく。頼むから途中で落とさないでくれ。私は祈るようにテンの様子を見守る。そんな私の心配をよそにテンの姿は徐々に小さくなりとうとう見えなくなった。

実家は裏の世界でも空き地になった。空き地に残ったのは力尽き地面に座り込む父親とその正面に福先生がいるのみだ。すると父親の後ろで何か光る物が見える。ん、何が有るのか。私は体を横に傾けその光を見る。そこには例の青白く光る塔が建っていた。なんでここに闇の塔が建っているのか。私は不思議に思った。

私は父親に目を戻すと、彼は魂が抜け落ちたように呆け下を向いていた。やっと戦いが終わった。私たちが勝ったのだ。それまで緊張の連続で肩に入った力が徐々に抜けていくのが自分でも分る。

ほっと息を付き、斎藤さん一家の無事を確かめるため顔を向ける。すると有紀ちゃんの頭に先ほど父親が放った矢が刺さっている。矢が刺さった場所をよく見ると肌の色が紫色に変わっている。しかし有紀ちゃんの表情に変わった様子はない。そのまま放っておくわけにもいかず、私は刺さった矢に手を伸ばした。

「バチッ」

私の手に電流が流れた。咄嗟に手を引っ込める。矢には電流が流れ、うかつに触れない。その音にハルさんが振り向き、近づいてきた。私はハルさんにこの矢の事を話す。

「矢に触れると電流が流れ触れることが出来ません」

 私がそう告げると彼女は伸ばしかけた手を止める。そして父親の方を振り返りテレパシーを使い話し始めた。

「お父さん、貴方のお孫さんに毒の付いた矢が刺さっています。これを抜くことが出来るのはあなただけですよね」

 彼女がそう伝えると、呆けていた父親は悪い夢から醒めたように表情が戻り、立ち上がるとこちらに向かって歩き始めた。父親は先ほどまでの禍々しい妖気をまとった表情から一変し、今は台風が去った後の空のように清々しい表情である。彼は有紀ちゃんの前まで歩み寄ると頭に刺さった矢をいとも簡単に抜いた。ハルさんの話した通り父親が矢に触れても電流は流れないようだ。彼は抜いた矢を真っ二つにへし折ると地面に捨てた。矢は地面に落ちる前に途中で浄化され消える。父親は矢が刺さり紫色に変わった頭にそっと右手を当てる。するとそれまで紫色だった肌はみるみるうちに元の肌色に変わっていく。

頭に手を添えられた有紀ちゃんは父親が見えているようで、ベビーカーからその様子を見上げていた。彼女はおびえる様子も無く、キョトンとした表情でおじいちゃんを眺めている。その表情に父親は笑みを浮かべる。父親は憑き物が落ちたように人が変わっている。これが本来の彼の姿なのだろう。私はほっと息をつく。

彼が大切に守っていた館が無くなり、本当に憑き物が落ちてしまったのだろうか。隣でハルさんもその様子を安堵の目で見ている。この様子が見えていないのは夫婦二人だけだ。傷口をいやした父親は孫に向かい話し始めた。

「すまない。私が間違っていた。許してくれ」

 彼の目には薄っすらと光るものが見える。彼は始めて孫に会ったのか、目元が息子に似ているとか、口元が小さい時の息子に似ているとかひとり言を言っている。肩を丸め、孫の様子を見つめる彼は、先ほどまで死闘を繰り返していた相手とは思えないほど穏やかな表情に変わっている。

斎藤さん夫婦は、いま何が起こっているのか分からず戸惑いながら彼女に話しかけた。

「土地のお祓いは無事に終わったのでしょうか」

「ええ。お祓いは無事終わり、お父様が今ここにいらっしゃいます」

 彼は驚き辺りを見渡している。突然、亡くなった父親がここにいると聞かされれば驚くのも無理はない。私には眼鏡が有るので裏の世界で繰り広げられる死闘を見ることが出来る。しかし眼鏡のない二人に、ハルさんの不可解な行動は理解できない。

するとハルさんは右手を父親の頭の上にかざし、左手は胸にあて念仏を唱え始めた。しばらくすると、上げていた右手の指を擦り始める。すると指先から銀色の粉が父親の身体を包むように落ちる。粉が父親の身体に触れると彼の身体は白く光り始めた。

ハルさんの指先から落ちる銀色の粉のおかげで、表の世界でも父親の姿を見ることが出来るようになった。目の前に突然あらわれた父親に二人は驚きのあまり声を失っている。

パグは亡くなった父が突然根の前に蘇りうろたえている。その様子がどこか後ろめたそうな眼差しで気になる。父が亡くなり直後に家を売りに出したからなのだろうか。そんな彼をよそに父親は私たちを見ながらゆっくり口を開く。

「私を元の姿に戻していただきありがとうございます。私は自分が建てた家への執着が強かったため闇の者の声に従い心も体も操られていました。いまではまやかしの家も無くなり執着も消え、私を操っていた者の気配もありません」

 そう言えば、家が消えた後、残っていた青白い塔が消えている。きっとハルさんが崩したのだろう。彼女は父親を見ながら口を開いた。

「お父さん。あなたに何が有ったのですか」

 彼女の問いかけに父親はうつむき、少しの間沈黙が広がる。彼は息子に目を向けると小さな溜息を吐きながら私たちに話し始めた。どうやら斎藤さん夫婦にも彼の声が聞こえているようだ。パグは父の言葉を、一言一句聞き漏らさないかのよう耳を傾けている。

「私の人生を変えたのは妻の死でした。妻が病気をするまで、私は仕事一筋の人生を送っていました。それなりの役職を得ながら充実した日々を過ごしていました。私はそんな生活がずっと続くと思っていました。しかし妻に病気が見つかり、余命宣告まで受け、私の人生が大きく変わりはじめます」

 父親はうす雲が心の中に広がる様な面持ちで話しを続ける。

「妻の病気を受け、私は会社を退職しました。その後は入院している病院へ毎日見舞いに行くことが私の日課でした。妻のいない家では、自分の服さえどこに仕舞ってあるのか分からず、笑いながら彼女に尋ねようやく生活していいました。そんな具合なので彼女に頼まれた着替えなど、何処に仕舞ってあるのか判るはずもありません。毎日家の中で、宝探しをしているように右往左往する生活が始まりました。彼女がいない日常がこれほど大変なものとは思ってもいませんでした。大袈裟なようですが、妻のいない家では一日たりとも過ごすことが出来ないそんな思いでした。それほど妻の存在が大きいものでした」

 この世代のサラリーマンはモーレツに働くことが美徳とされ、家には寝に帰るだけだったと先ほど車の中で話してきた。父親も同じ生活をしていたのだろう。まして、彼は新しい家を建て、余計に仕事一筋になって行ったのだろう。きっと奥さんも父親の事を理解し、夫に負担を掛けまいと家の事はすべて取り仕切っていたのだろう。

「妻は日増しに痩せていき、病状は悪化するばかりです。自然に病院へ向かむ足取りが重くなっていきました。亡くなるころには、目は窪み、体はやせ細りまるで別人の様でした。それでも最後まで意識ははっきりしており、彼女は最後に『ありがとう。幸せでした』と言い残しこの世を去って行きました。私は仕事にかまけ彼女のために何もして来なかった。それなのに彼女の最後の言葉は私への感謝の言葉でした」

 パグは真剣な眼差しで父親の話を聞いている。彼はこれまで、父親の心の聲を聞いたことは無かったのだろう。父親から初めて聞く話に眼には薄っすら涙さえ浮かべている。

「後悔先に立たずとはよく言ったもので、妻の死後私は魂が抜け落ちたようになりました。日中、何もやる気が起きず家の中でダラダラ過ごす毎日。当時の私は、なぜ自分だけ生きているのだろうと考え込む毎日でした」

 妻の死を受け、生きる希望を無くしてしまったのだろう。人は一人では生きていけない。些細な事でも会話し、共感してくれる人がいることで日々の生活に活気が出て来るのだろう。

父親の話を息子は食い入るように聞いている。彼は父親の最後を知ることなく亡くなり、その時の想いを聞いておきたいのだろう。

「その後私は、息子の勧めで施設に入りました。しかし自宅がある私が、なぜ施設に入るのか私には解りませんでした。だが、息子の指示に従い施設に入る事にしました。施設での生活もそれまでとあまり変わりませんでした。私の胸にポッカリ空いた穴を埋める人はいません。一日を施設の中で過ごす毎日は社会の中で不要の物とされているかの様で私の人生はいったい何のためにあったのだろうと寂しく思う毎日でした」

 仕事一筋で生きてきた彼にとって、仕事を失い妻も亡くし、ポッカリ空いた心の穴はどれほど大きいものだったのだろう。

「自殺当日、部屋で過ごしていると妙に寂しい思いに駆られ、私は施設を出て散歩に出かけました。外は青空が広がり、時折鳥の鳴き声が聞こえています。散歩途中に同年代の夫婦の姿を見つけました。彼らは歩きながら楽しそうに話をしています。そんな彼らを目にすると急に寂しくなり、妻と過ごした家が恋しくなりました。私の足は自宅に向け歩き始めました」

 気落ちしている彼は、仲の良い老夫婦の姿に自分の姿を重ねたのだろう。妻もこの世にいなくなり、叶わぬ夢が寂しさを増したのではないか。気持ちは良くわかる。

「施設から自宅まで歩いて四十分ほどの距離です。途中、疲れた私は公園のベンチで休憩することにしました。公園では小さな子供たちが親の見守るなか、滑り台をグルグルと駆けまわり遊んでいました。いつか孫と一緒に公園で遊ぶ自分を思い浮かべ、ベンチで汗が引くまで休んでいました。すると隣のベンチに二十歳ぐらいの青年座り声をかけてきました。彼は近くの友人の家から帰る途中、公園から聞こえる子供の声に誘われここに来た、と話していました。彼も小さい頃、母親と一緒に公園の滑り台で遊んでいたらしく、懐かしい思い出が蘇ったと話していました。しばらく私たちは子供たちの声が広がる滑り台を眺めていました」

 無邪気に遊ぶ子供の姿は、見ていて飽きない。

「私も息子が小さい頃、休みの日にはよく公園に遊びに出かけていました。しかし、新しい家を建てた頃から仕事が忙しくなり息子と一緒に過ごす時間は少なくなりました。息子には悪い事をしたと昔の事を思い出し子供たちの遊ぶ姿を目で追っていました」

 その青年と父親は、寂しさを紛らわすため公園で遊ぶ子供を眺めていたのかもしれない。もしかすると、どこか似た境遇だったのかもしれない。

息子の話が出たところで私はパグを見る。すると当時の事を思い出したのか表情が冴えない。そう言えば子供の頃、父親との思い出が少なかったと話していた。父親の話を聞きながら彼の表情が次第に曇り始めていることに気付いた。

「その青年は母親と二人で暮らしていたそうです。しかしその母も早くに亡くし、いまは一人で暮らしていると話していました。まだ若いのに寂しい思いをしているのだろうと思い、しばらく彼の話に付き合う事にしました」

 何のしがらみもなく、見ず知らずの人には自分の思いも口が軽くなる。どこか似た者同士の二人は知らぬ間に引き寄せられる何かがあったのだろう。

「しかし私はその後の記憶がなく、気が付くと自宅のリビングのソファーに座り寝ていました。どれくらい眠っていたのでしょうか、遠くで聞こえる男の声で目を覚ましました。『お前はなぜ生きている。何のために生きているのだ。日が昇ると目が覚め、日が暮れると寝る生活に何の意味がある。これか先も楽しい事など待っていない。誰からも相手にされず、寂しい生活があるのみだ』私は辺りを見渡しましたが誰もいません。不思議に思いましたが、彼の話がでたらめだとは思えませんでした。たくさんの人が集う施設の生活でも、いつも孤独を感じていました。妻を亡くし心の中に大きく開いた穴はいつも冷たい風が吹き抜けていました。私はこれから先も、この穴を埋める事は出来ないと思いました」

 雲行きが怪しくなってきた。ベビーカーに乗る有紀ちゃんもお爺ちゃんを不安そうに見上げている。その場にいる全員が、彼の話に固唾を飲んで聞く。父親の話は続く。

「そう考えていると再びどこからともなく声が聞こえて来ました。『死んだら何もかも忘れられ、楽になるぞ』その一言が私の心の穴に流れ込み、彼の言葉に体が勝手に反応し始めます。施設に移る際に使ったロープが目に止まり、気が付くとリビングの天井へロープを固定していました。その先は自分でも記憶がありません。気が付くと首を吊った自分の姿を、まるで他人を見るかのように横で眺めていました。私は死んで魂が体から抜け出ていたのです」

 そんな些細な事で自殺までするのだろうか。話を聞いていると闇の者の気配が見え隠れしている様な気がする。隣で話を聞いているハルさんも、浮かない顔をしている。

「私はただ散歩に出かけただけなのに気が付けば死んでいたのです。その後、息子と施設の人が私を探し家にたどり着きます。そこで自殺した私を見付けてくれました。私は息子に向かい繰り返し詫びながら、こんなはずではなかったと詫びていました。しかし死んでしまった私の聲は、息子に届きません。警察の現場検証を終え葬儀に移りました。私の人生はあっけない幕切れとなったのです」

 自殺をするときの精神状態は、正常ではないだろう。しかし今回の自殺は本人も気づかないまま死に追いやられ、父親も何が起きたのか分からないようだ。気になるのは公園で出会った二十歳くらいの青年だ。彼に話しかけられる前までの父親に異変は感じられない。その後の父親の記憶も曖昧で、彼らの間で何か起きたことは間違いないだろう。父親はまるで彼に操られ自殺に追い込まれた様な気がする。父親の自殺には裏の世界の力が及んだのだろう。

パズルのピースはいまだ揃わず未完成のままである。このパズル、いつ完成するのか。私は出口の見えない迷路に迷い込む。

ハルさんに目を移すと、何か考え事をしているようだ。胎蔵界様と話しでもしているのだろうか。彼女のパズルもいまだ完成に至っていないようだ。

「葬儀の席でも私は繰り返し息子に謝っていました。しかし彼に私の聲は届きません。「すまん」の一言さえ伝えられず、私は土砂降りの雨の中に立ち竦むように心が暗く沈みます。葬儀を終えると息子はこの自宅を売りに出すと言いだしたのです。私は自分の耳を疑いました。この家は私が家族を守るため建てた城であり、生きた証だ。この家が崩されると、私の生きた証が無くなる。その時、心の奥底で怒りの炎が芽生えました」

 確かに亡くなってすぐ実家を売りに出すのはどうかと思う。パグは実家に愛着が無かったのだろうか。

「私は息子に繰り返しこの家を奪わないでくれと頼みました。しかし私の望みは叶うことなく、四十九日を待たず家は解かれてしまいました。私は怒りのあまりこの地を炎で覆いつくしました。するとどこからともなく声が聞こえて来ました。『お前の生きた証を奪う息子を恨み、この地に留まるのだ』私は自分の家を守りたいとは思いましたが息子を恨もうとは思ってもいません。すると今度は地の底から不思議な力が私の魂に入り込んで来ました。不意に意識が遠のき、気が付くと空き地だった私の土地に元の家が建っています。恐る恐る家の中に入るとそこは紛れもなく私の家でした。取り壊されたはずの私の家が再び蘇ったのです。これで心置きなくあの世に戻れるそう思った途端、今度は体が動かなくなり再び例の声が聞こえて来ました。『お前の望むものを用意した。家を奪った息子を恨みこの地を守り続けるのだ』すると私の魂は何者かに操られるように、息子への恨みの炎が燃え始めました」

 父親はこの地に建てた塔を守るため、闇の者に利用されたのだろう。彼は家を奪われ、心を打ちのめされていたところを、闇の者は利用しこの家を怨念の館にしたのだ。

何のため父親を操り、この地を守るのか、今は解らない。しかし、青白い闇の塔が建っていたのは事実だ。あの塔には何か意味が有るはず。そう思っていると胎蔵界様の聲が聞こえてきた。

『憎しみの塔を建てるためにこの地に留まらせたのよ』

「憎しみの塔」私は心の中でつぶやく。今度はハルさんがテレパシーで心に話し始めた。「憎しみの塔を建て何者かの復活を図っているの。その塔は結界を破るために建てられた塔なの」

私は二人の話があまりよく分からなかった。しかし何者かの復活のため塔を建て、父親はその守役として利用された事は解った。そんな父親は何もない空き地に目を移し、再び話し始めた。

「あの日以来、私はこの家を守り続けた。購入を希望する者達には、不吉な影を見せ購入を諦めさせた。二年が過ぎるころには、私もこの家も人々から忘れ去られていた。息子でさえ私の事を忘れていた」

 新興住宅街のこの土地が売れなかったのは父親が邪魔をしていたのか。これほど立地条件の良い土地が売れなかった理由が分かった。私は心の中で頷き父親の話に耳を傾ける。

「今度は孤独の殻の中に私は閉じ込められた。息子は命日も忘れる有様で、私は本当に生きていたのか、と思う日々が続いた。調度その時息子に子供が生まれた。可愛い女の子だ。新しい命の誕生に喜んでいると、闇の者の声が聞こえて来た。『息子はすでにお前のことなど忘れてしまっているようだ。お前が汗水流し働いたおかげで弁護士になれたというのに、薄情な奴だ。息子にお前の事を思い出させるためあの子に因縁を憑けると良い。あの方の復活にも新しい命が必要だ』と話します。復活とは何の事なのか。その言葉を不審に思いながらも、この孤独から抜け出すことが出来ると言う言葉に心が動きます。私は悪い事と知りながら、生れてきたこの子に因縁を憑ける事にしました。その日以来、この子は因縁の雲に覆われた」

 やっと因縁の原因が見えてきた。それにしても、父親はなんて身勝手なのだろう。何の関係もない有紀ちゃんに因縁を憑けるなんて。それに息子も墓参りを忘れるほど日々の生活が忙しいのだろうか。墓に行けなくても命日に自宅で手を合わせ、父親の冥福を祈ることくらいできそうだ。因縁を憑けるなら息子に憑ければよかったのに。

「その雲には彼女の生命力を抜き取り、抜き取られた力は誰かのもとに送られているようでした。私は間違いに気付き直ぐその因縁を解こうとしたのですが、一度憑けた因縁の雲は私の力で取り除くことが出来ません。その頃から私にも変化が訪れ自分自身をコントロールできなくなってきました。闇の者達の声に従い、私は周りに災いを呼び、いつしか生霊となってしまいました。薄れゆく意識の中、人々の怒りや憎しみの力を増幅させ、その怨念を自分の身体に取り込む姿はまさに鬼でした」

彼は心をコントロールされ、鬼となってしまったのだろう。それにしても死を迎えなお、心の隙間に入り込み鬼を作り上げていくとは闇の力は恐ろしい。

闇の者達は憎しみの塔を守るため手段は選ばないと言うところだろう。こうして有紀ちゃんに因縁が憑き憎しみの塔が出来上がった。今はまやかしの館も消え、憎しみの塔も崩され、闇の者に操られていた父親も正気を取り戻している。しかし有紀ちゃんの身体は、いまだに灰色の雲に覆われている。因縁は消えていない。ハルさんは不思議に思い父親に尋ねる。

「有紀ちゃんはなぜ、いまなお因縁の雲に覆われているのですか。あなたは今もこの子に因縁を憑けているのですか」

 父親はゆっくり首を振りながら答えた。

「私のかけた因縁はすでに無くなっています。この因縁は闇の者がこの子の持つ純粋な力を利用するため憑けたものです。おそらく誰かを復活させるためこの子の力が必要だったのでしょう」

 私は話の内容が良く理解できず、父親に訊いてみた。

「誰が復活するため有紀ちゃんに獲りついているのですか」

 彼は少し遠くを見る様な仕草をしながら話し始める。

「誰を復活させるのかは解りません。しかし、私を操っていた闇の者が関わっています。この雲には私を操っていた者と同じ気配を感じます。彼らは魔物の復活のため憎しみの塔を建てています。あなた方はすでに次の塔の場所を知っています。早くその場所へ向かって下さい」

 父親の話しにハルさんはうなずいた。

「その前にあなたを除霊し奥様のもとに戻します」

 彼は啞然とし彼女をまじまじと見る。

「こんな私が妻のもとに戻れるのでしょうか」

 彼女は子供に諭す様に優しい口調で話す。

「今回あなたは孤独と言う心の隙間に闇の者が忍び寄り、あなたを利用しました。その後、怒りに任せこの地に災いをもたらした事は許せませんが、闇の者達はどうしてもこの地に塔を建てる必要があったようです。そのため、あなたの心の闇を利用したのです」

するとそれまで一言も口を開かなかった息子が父親に話しかけた。

「父さん。実家を売りに出し本当に済みません。当時、私は新たに家を建て、実家と二件の家を維持することが出来ませんでした。家族の思い出が詰まった家を売りに出すことは私にとってもつらい事でした」

 彼の目は赤く染まり薄っすら涙を浮かべている。父親の目にも光るものが見える。

「解っておった。謝らなければいけないのは私の方だ。私は仕事にかまけ家を顧みなかった。小さかったお前の相手も出来ず、家の事は母さんに任せっきりだった。きっと寂しい思いをした事だろう。済まなかった」

二人は向かいあったまま言葉を失う。息子は父親の最後の言葉を胸の中で噛みしめているようだ。

裏の世界では、雲間から私たちを囲むように薄日が差し込んできた。私たちはその柔らかな光に包まれる。

ハルさんは手を合わせると真言を唱え始めた。父親をあの世に送るためだ。彼女の真言は父親を優しく包むように響き、父親の頬に涙が流れる。息子は父親の姿を目に焼き付けるため、その様子をじっと見つめている。父親の身体が少しずつ薄くなり始めた。すると今まで大人しくしていた有紀ちゃんが消えゆく父親に向かい手を上げ何か話している。

父親は消えゆく手を懸命に子供のもとに伸ばす。しかしその手は届くことなく消えていく。

最後に父は息子に向かい小声で何か伝えている。私が聞き取れた言葉は「ありがとう」だけだった。

銀色の光を放っていた父親の身体は解けてしまう様に消えて行った。私は彼が無事奥さんのもとに戻れますようにと目を閉じ祈った。

私は眼鏡を外し胸ポケットに仕舞う。空き地には暖かい風が吹きはじめ、空は晴渡っている。すると息子が鼻声交じりの声で話しかけて来た。

「ハルさん。お恥ずかしい所をお見せし、すみませんでした。これで父もやっと母のもとへ帰ることが出来たと思います。最後に父は仕事より家族を大切にし、私と同じ過ちを犯すなと話していました。私も父と同じ道を歩んでいるのでしょうね。最後まで父に心配をかけ、恥ずかしい限りです」

 彼はそう話しながら有紀ちゃんをベビーカーから抱きかかえた。

有紀ちゃんは上機嫌で、パグに抱かれると顔に手を伸ばす。ぬいぐるみの様な小さな手はパグの頬を撫でる。彼女の笑みがここにいる全員の心を和ます。

先ほどまでの禍々しい妖気は消え去り、いまはただの空き地に変わった。この地も浄化され元の姿に戻ったのだ。

 その後、私はお祓いの道具の片付けをしていると、三人は次に向かう場所について話をしていた。あのゴキブリが向かった先だ。

恐らくそこでも闇の者が待ち構え、奇想天外な戦いを強いられるのだろう。そう考えると私は軽いめまいがしてきた。

何もしていない私がこれほど疲れているのに、ハルさんは大丈夫なのだろうか。そう考えるとこれしきの事でへこたれている場合ではない。私は急いでお祓いの道具を車に運んだ。

 斎藤さんの車には、すでにみんなが乗っている。私は荷物を載せると、ワンボックスカーを何気に眺める。その姿が先ほど戦ったハリネズミにそっくりに見えてきた。

「早く車に乗って」

 ハルさんの声に、私は我に返り車に乗り込む。

車はゴキブリが向かった次の場所に向け走り出した。車の中にいる私は、先ほど戦ったハリネズミの腹の中にいるような気がして落ち着かない。そんな私を横目で見ながらハルさんは話しかる。

「疲れているの。まだなんの活躍もしていないようだけど」

 彼女はいたずらっ子のような表情を浮かべ話す。

「活躍など出来るはずないじゃないですか。あんな化け物が次から次に現れ、よくまだ命が有るなと自分でも感心しているくらいです」

 私がそう話すと幣立神宮御主の聲が心に直接話しかけて来た。

「次のところでは、ひと働きしてもらわんといかんのう。それまでゆっくり休むと良い」

「えっ。私は何も出来ませんよ。私を殺す気ですか」

 心の中でつぶやく。冗談じゃない。あんな化け物相手に、何もできないはずがない。獲りつかれ、最後は殺されるのが関の山だ。死んだらバイトどころじゃない。

あれ、なんで御主の聲が聞こえてくるのか。私は胸ポケットに手を当てる。ポケットは空だった。先ほど道具の片付けの際、ポケットから眼鏡が滑り落ちたので、手に取り掛けた事を思い出した。掛けた眼鏡を外すと御主の声は聞こえなくなった。

すると隣の席から「頼りにしているわよ」と微笑みながら声をかけられる。彼女の微笑みには叶わない。私は苦笑いしながら「がんばります」と短く答える。

 しばらく車を走らせると車内が急に静かになった。よく見るとハルさんと唯奈さんが寝息をたて眠っている。

後ろの席からは手持ち無沙汰の有紀ちゃんが私の頭を突く。遊び相手がいないようだ。私は振り返ると変顔で彼女の相手をする。すると有紀ちゃんは変顔の時には笑わず、普段の顔に戻すと喜んで笑っていた。「えっ」何もしない顔の方が面白いと言うのか。私は複雑な思いで彼女の相手をする。しばらくすると運転席からパグが話しかけて来た。

「ハルさんとはお付き合いされているのですか。二人はとても息も会ってお似合いのようですが」

 私は咄嗟にハルさんを見る。彼女はまだ寝息をたて寝ている。私はほっと胸をなでおろす。

「付き合っていませんよ。私はただの助手で荷物持ちですから」

「そうですか。それは失礼しました」

 パグの話しに私はなぜか動揺する。彼女を好きになったのだろうか。いやいや、それは無い。ただ、一人で闇の者達と闘う姿は尊敬に値する。手助けしたい気持ちは有るが、何もできない私はかえって足手まといになるだけだ。今度テンや福先生に力の使い方を教えてもらおう。私はいつの間にか裏の者達との戦いに、興味を持ち始めていた。

 しばらくするとハルさんが目を覚ました。私は事故現場で見た闇の塔と先ほど実家でみた塔が同じ物だったのか疑問に思い彼女に聞いてみた。

「確かに事故現場にあった闇の塔と実家に建っていた物は同じ物だったわ」

 もしかすると、事件が起きた他の場所にも塔が建っているのではないか。私はそう思い事故現場の印を付けた地図を取り出す。新たに実家とこれから向かう場所に印を付ける。地図には五か所の印が付けられた。その印を線で結ぶと綺麗な正五角形になった。

「ペンタゴン」

私はつい声を漏らす。彼女はその地図をのぞき込み話し始めた。

「正五角形の内角は百八度で煩悩の数とおなじ。それら五つの点を対角に結ぶと星形になるのよ。やってみて」

 私が五つの点を定規で綺麗に結ぶと、形の整った星が地図に現れた。しかしその星は上下、逆さまになっている。

「本当だ。綺麗な星形ですね。ただ星の形が上下逆さまになっていますが」

「その星の事を五芒星と言うのよ。五芒星は紀元前三千年のメソポタミアの書物にも書かれているほど古くから使われており、世界中で魔術の記号として使われているの。日本では安倍晴明が陰陽道で魔除けの呪符として用い、木・火・土・金・水の五つの意味があるの。ただ今回のこの形は逆五芒星と呼ばれ悪魔の象徴を意味するのよ」

 悪魔の象徴。私の耳に嫌な響きだけが残る。

「もしかして、悪魔がその印を利用して何かをしようとしているのですか」

「おそらくそうだと思う。その五芒星をよく見てごらん。何か気付かない」

 私は手元の地図に再び目を落とす。星形が上下逆を向いているが、その他は何も変わった所はない。

「あっ」

 私は思わず声を挙げる。全員の視線が私に集まる。

私は斎藤さんの自宅をあらかじめ地図に書いていた。その印が五芒星の中心に記されていたのだ。逆五芒星の真ん中に斎藤さんの自宅がある。私はハルさんに尋ねた。

「斎藤さんの自宅に何かあるというのですか」

 彼女はうなずきながら運転中のパグに話しかけた。

「斎藤さんの自宅に祠のようなものがありませんか」

 すると彼は即答した。

「家の角に小さな祠があります。土地を購入する際、前の持ち主からこの祠は絶対取り壊さないようにと言われ、そのままにしています」

「その祠に、何か書いてありましたか」

 ハルさんの問いに彼は首を振りながら「覚えていません」と答えた。

その祠の主が復活を目論み、一連の事件を起こしていると言うのか。私の中で何か引っかかる物を感じた。いずれにしても、今向かっている場所に事件の鍵があると思う。私たちを待つ者はいったい誰なのだろう。不安が募る中、カーナビの案内の声が響く。目的地に近づいているようだ。

 車は目的地に到着した。目の前には五階建ての焦げ茶色したマンションが建っていた。私は胸ポケットから眼鏡を取り出しかける。眼鏡越しに再び建物を見ると、マンションの一室に赤く燃える塔が視える。あのゴキブリたちの戻った先はここで間違いなさそうだ。

ハルさんは斎藤さん家族に、車で待つよう伝えると車を降りる。私も車で待っていますと彼女に話すと「なに寝ぼけた事言っているの」と凍るような瞳で返事が返ってきた。私にはその凍るような瞳が闇の者よりはるかに恐ろしい。背中に寒気が走り身を震わせ車から降りる。

 車を降りると赤い塔が視える五階に歩き始める。階段を登り彼女の横顔を観ると、緊張した面持ちで表情が硬い。今から向かう先には霊力の高い闇の者がいるのだろうか。私にその気配は解らない。

五階にたどり着く頃には、私の額から汗が噴き出していた。今までとは炎の色が違う。赤く燃え上がる塔が見えた部屋に到着すると、鉄の扉が自然に開く。彼女は誘われるまま部屋に入る。取り残された私は、慌てて彼女の後を追いかける。部屋に入ると正面に青年が手足を縛られ床に倒れている。どうやら気絶しているようだ。

「あの、すみません」

 私は間の抜けた声で青年に話しかける。すると私の声に気付き目を覚ましま。次の瞬間今にも泣き出しそうな表情を浮かべ「早くここから逃げて」と大声で叫ぶ。この部屋で一体何が起きているのか。手足の自由を奪われのたうち回る彼を見ながら私は部屋から逃げるため後ろを振り返る。すると鉄の扉が大きな音を立てひとりでに閉まる。私はドアノブに手をかけまわそうとするがビクともしない。部屋に閉じ込められてしまった。

私は振り返り部屋の中をみると、景色は一変していた。部屋は夜のとばりが降りたように真っ暗闇になっていた。私達は部屋から別の場所に移り閉じ込められたようだ。

「裏の世界に引き込まれたわね」

 彼女の声でここが裏の世界だと分かる。この世界は空気が重く感じ、体を上から押さえつけられているようだ。匂いも何かが腐ったような饐えた香りが漂い息苦しい。何より禍々しい妖気が部屋中に漂い、生きた心地がしない。暗闇の奥からスルスルと滑りながら近づく物音だけがする。時おり「シュルシュル」と舌をなめる様な音がしてきた。

あたりは真っ暗闇で何が近づいているのか分からない。闇の者はただならぬ妖気を発し私たちに近づいてきているようだ。私の体は強張り、固く結んだ拳の中は汗でグッチョリと濡れている。

目の前で服が擦れる音がしたと思うと、彼女の指先から赤々と燃える火の玉が現れ辺りは一気に明るくなる。炎は彼女の指先から離れ、ゆっくり上に登り始めた。まるで小さな太陽が現れたように辺りは昼間の明るさに戻る。その炎からは温かで穏やかな光が降り注ぎ、怯える私を勇気づけているかのようだ。

 明るくなると私たちの目の前に黒い塊が見える。その塊は細長い体をくねらせこちらに近づいて来た。

「黒蛇だ」

それも見たことないほど巨大な蛇だ。体の太さはマンホールの蓋より大きく、長さは十メートルをゆうに超えている。長崎くんちの龍踊に登場する竜のように長い。

黒蛇は頭を持ち上げ長い体を上手に使いスルスルと私たちに向かって来る。奴の赤いマナコはすでに私たちを獲物として捕らえ、片時も目を離さない。ときおり口元からは赤く長い舌を、出したり引っ込めたりして私たちを威嚇していた。

「よくもあの方の復活のため建てた塔を二つも壊してくれたな。代わりにお前たちを生け贄として血祭りにしてやる」

 私達が壊したのは先ほど実家に建っていた塔ひとつだけだ。そう言えば事故現場から車に戻る際、私は先にコンビニ戻り飲み物を買っていた。もしかしてその間に彼女は塔を壊していたのか。大蛇は目と鼻の先までの距離で止まる。

頭上で光る大きな目玉。改めて近くで見るとその大きさに圧倒される。体の表面を覆う黒いうろこは大人の拳ほどの大きさで、炎に照らされギラギラと黒光りしている。それにしても闇の者達は黒好きである。ゴキブリ、ハリネズミ、大蛇。すべて真っ黒い体をしている。しばらくビスケットのオレオは食べたくない。なぜなら奴らを思い出すからだ。

馬鹿な事を考えていると少し気持ちが落ち着いて来た。私に出来る事は無い。きっとここで死ぬのだろう。死を覚悟するとかえって肝が据わり、さらに落ち着いてくる。すると周りの様子もよく見えて来る。

彼女の顔つきは少し強張っているものの、黒蛇に対し闘志をむき出しにしており勇ましい。

するとハルさんの指先から光が差し、短い呪文を唱えると、あっという間に私たちは結界に包まれる。大蛇はその様子を赤い舌を出したり引っ込めたりしながら見下ろしている。その時胎蔵界様の声が聞こえてきた。

「ハル、その程度の結界では直ぐに破られるわよ。福を応援に呼びなさい」

「はい。お母さま」

彼女はそう答えると、すぐさま福先生を呼ぶ呪文を唱え始める。呪文を終えた彼女の様子が冴えない。

「福を呼べない」

闇の結界が強すぎて、この部屋には福が入れないようだ。

次の瞬間大蛇は結界に頭から突っ込んで来た。その衝撃と音が部屋中にこだまする。一撃目ですでに結界にひびが入った。

奴は大きな頭を再び高く持ち上げ結界めがけ再び突進する。結界からメキメキとヒビが入る音が聞こえる。結界にはすでに無数の亀裂が入っている。しかしまだかろうじて持ちこたえている。だが次の一撃で結界は破られるだろう。

私は何の手伝いも出来ず、その様子を見守る。棒立ちになる私の額からは大量の汗が流れ、背中はぞくぞくするほど寒い。

すると彼女は次の攻撃が来る前に、光る指先で銀色に輝く剣と弓矢を描き出す。剣は彼女が持ち、弓矢は隣で呆けている私の胸に押し付ける。私の手に弓と矢が手渡された。しかし生れてこの方、弓道などしたことが無い。手渡された弓矢をなすすべなく眺めていると、幣立神宮御主の少し苛立った声が聞こえて来た。

「弓を左手で持ち右手で矢を弦にかけろ」

 私は御主の話しの通り左手で弓を持ち、矢を弦にかける。すると再び聲が聞こえて来た。

「弓矢を掴んだ両手を頭の上まで引き上げ、左腕を突っ張りながら右手で弦を引きしならせるのじゃ」

 御主の言う通り弓矢を頭の上に持ち上げ降ろしながら弓を引く。しかし弓の張りが強く思う様に引けない。やはりテレビで見る時代劇のように簡単ではない。私は両足をすこし開き地面を踏みしめ、再び弓を力ませに引く。不格好ながらも今度はどうにか矢を胸元まで引くと、奴の頭に標準を合わせる。

「放て」

 御主の声に驚き、私は右手につかんだ矢を離した。矢はピューと言う音を立て大蛇に向け一直線に飛んで行く。

しかし矢は失速し、山なりに落ち始めた。目と鼻の先に居る奴の所までも届かない。その場しのぎの真似事ではやはり歯が立たない。

諦めかけたその時、矢が角度を変え大蛇めがけ猛スピードで向かう。バンと言う鈍い音と共に、矢は大蛇の首元に刺さった。首元に刺さった矢は、まるで生きているかのようにひとりでにめり込み、羽根の付いた所まで食い込んでいく。

「早く次の矢を放たんか」

私は茫然と眺めていると、御主が次の矢の催促をしてきた。私は急いで次の矢を手に取り大蛇めがけ放つ。

放たれた矢は前回同様失速するが、自動操縦されたように奴の首元に刺さっていく。

私が時間稼ぎをしている間、彼女は新たな結界を作る。

大蛇は再び私達めがけ突進してきた。私は矢継ぎ早に矢を放つが、奴は全く気にすることなく結界に頭突きしている。体が大きいので鈍感なのだろうか。もしくは結界に頭を叩きつけすぎて感覚が鈍っているのだろうか。

それにしても大蛇は諦めることなく何度も結界に突進してくる。その都度部屋の中は雷が落ちたような凄まじい音が響き、地面が大きく揺れる。奴も結界を破ろうと必死のようだ。

五本の矢を放ち終わると、大蛇の首のまわりに羽根だけが残った矢が並ぶ。その様子は、むかし一世を風靡したウーパールーパーの様で間が抜けている。

ハルさんは奴の首元に刺さる矢を見ると、何やら呪文を唱え始めた。

すると羽根の部分が突然光り始める。次の瞬間、矢が一斉に音を立て爆発した。打ち上げ花火が上がったような凄まじい音に私の体はのけ反る。

爆発で大蛇の首元の肉が飛び散る。奴はその場に倒れ込み、瞳孔がつかの間開く。しかし飛び散った首の回りの肉が、元の姿に戻っていく。どこかの漫画で見た光景が現実に起きている。

元通りに戻った大蛇は、怒りでマナコが赤く燃えあがっている。奴は再び体を起こすと、今度は今までよりさらに頭を高く持ち上げ、結界めがけ体当たりしてきた。

彼女の作る結界もこの一撃に耐えられそうもない。そう思い彼女に目を向けると、表情が冴えずかなり疲れた様子だ。顔色も青ざめ体力の限界に近付いているようだ。

状況はかなり悪い。少しでも時間を稼がなければ。私はもう一度矢を取り迫りくる大蛇めがけ力任せに放つ。今度の矢は音を立て一直線に飛んでいく。

奴の頭が結界のまじかに迫る。矢は突進してくる奴に勢いを増し飛んでいく。その矢は偶然奴の左目に命中した。奴はそんな事はお構いなく結界に突進する。奴の頭が結界に到着すると、ひと際大きい雷が落ちたように凄まじい音が辺りに響く。

その途端、結界はメキメキと音を立て崩れ始めた。奴は最後の仕上げに長い尻尾を振りかざし崩れかけた結界を攻撃する。ガラスが割れるような音と共に結界が粉々に砕け散る。

隣でハルさんが力尽き、その場にひざまずいた。肩で息をする彼女を初めて見た。今日三度目の戦いで力を使い果たしたのだろう。私や斎藤さん一家を守りながらの戦いは余分な力を使うことになる。何もできない私を彼女はずっと守り戦ってくれた。私が先に諦めるわけにはいかない。

私は矢を手に取り奴めがけ射る。矢が手から離れた瞬間、私の身体に衝撃が走る。いったい何が起きたのか。次の瞬間、私の身体は宙を舞っていた。大蛇が長い尻尾を振り回し私を吹き飛ばしていたのだ。このまま死ぬのだろうか。宙を舞う私の身体は地面に吸い寄せられる。

地面に叩きつけられると、束の間記憶が途絶える。どれくらい時間が過ぎたのだろうか。眼が覚めると体のあちこちが痛い。やっとの思いで立ち上がり、彼女のいた場所に目を移す。

するとそこには誰もいない。大蛇に目を向けると、尻尾でグルグル巻きにされ頭しか出ていない彼女が見える。奴はとぐろを巻いた尻尾を自分の目の前まで持ち上げると、彼女に話しかける。

「お前をまだ殺すわけにはいかない。あの方の復活の生け贄にしてやる。しばらくの間、私の毒で眠ってもらう」

ハルさんの身体は二メートルほど持ち上げられ、尻尾で締め上げられているのか、時より悲鳴が漏れる。

私が何とかしなくては。私は先ほどまで使っていいた弓矢を探す。しかし矢が数本散らばっているだけで弓は見当たらない。その時御主の声が聞こえて来た。

「あの剣を使いハルを助けるのじゃ」

 先ほどまで彼女が使っていた銀色の剣が奴の近くに落ちている。大蛇は彼女に気を取られ、私が立ち上がったことに気付いていない。奴に気づかれずに剣までたどり着かなければ。

私は物音を立てずに剣まで走り寄る。ちょうど奴の左目には、私が放った矢が刺さり、こちらは見えていない。こちらから右目は見えず、私が近づく様子は見えていないはずだ。渡しはどうにか剣までたどり着いた。

片手で一気に剣を掴み持ち上げる。しかし剣は意外に重たく、その重さにバランスを崩す。彼女はこんな重たい剣を使って戦っていたのか。そんな事を考えていると再び御主の聲が聞こえて来た。

「とぐろを巻く尻尾を切り落とせ」

 私は両手で剣を持ち直し、天を仰ぎ振りかぶると一気に大蛇の尻尾めがけ振り下ろす。

剣の切れ味は鋭く、大蛇の尻尾はいとも簡単に切り落とされた。彼女は尻尾に絡まったまま地面に落ちる。巻きつく尻尾から彼女は自力で這い出てきた。どうにか助かったようだ。

大蛇はやっと私に気付くと、右目で睨みつける。口元からは赤く長い舌を出したり引っ込めたりし、怒りに満ちた表情で私を見る。

私は無意識に後ずさりする。奴の赤いまなこが動いた次の瞬間、私に向かい関取の様な大きな頭で突進してきた。

私はとっさに持っていた剣を迫りくる奴に向け目を固くつぶる。奴の頭が近づいてくる気配だけがする。恐怖から剣を握る手が小刻みに震える。もう終わりだ。私の人生もここまでか、と観念する。

迫りくる大蛇の気配を感じた瞬間、剣に大きな衝撃が走る。私は必死で剣を握りしめる。奴の荒い鼻息が私の頭を撫でる。気持ち悪い。しかし今は生きるか死ぬかの瀬戸際。私は目を閉じたまま懸命に剣を握りしめる。大蛇の力は凄まじく、私の体は氷の上を滑るように後ろに下がっていく。このまま進めば結界の壁に激突し体は押しつぶされるだろう。

すると誰かの手が剣の柄を一緒に握り支えてくれている。途端、後ずさりするスピードが落ちる。ハルさんが一緒に支えてくれているのか。そう思ったが、目を開けると大蛇が目の前にいると思うと、怖くて目を開けられない。

生暖かい大蛇の鼻息が再び私の頭に降りかかり血の気が引く。

とうとう下がっていた体が止まる。どうやら一緒に支えてくれているハルさんのおかげで、大蛇との力が互角になったようだ。

私は怖々薄目を開ける。すると隣で支えているはずの人が見えない。「えっ」私が視線を落とすとそこには光り輝く頭だけが見える。その姿はどうやら老人のようだ。いったい誰だ。

見知らぬ老人の登場に、私は驚きのあまり支えていた剣の力が緩む。すると再び大蛇の力が勝り、後ずさりし始める。慌てて剣を握る手に力を込め両足で地面を踏みしめる。

彼が誰であろうと、私を助けてくれている事に変わりはない。それにしても背が低いわりに力が強い老人だ。その老人は私の視線を感じたのか、剣を支えたまま顔を上げた。

スイカの種のような小さい目。その目はたれ下がり見るからに好好爺である。小さな目とは対照的に口が大きく、きっと食いしん坊なのだろう。そんな事を考えていると老人に「もっとしかり支えんか」と叱られた。

その声はまさしく幣立神宮御主の声だ。彼女の家で最初に見た時と印象が違う。あの時の方が貫禄あり神々しく見えた。何が違うのだろう。

助っ人の登場で私は少し落ち着きを取り戻した。私は再び両足でおもいっきり地面を踏みしめ剣を支える。目の前では、奴の赤い目が私を睨みつけている。力比べは互角で、その場をピクリとも動かなくなった。

勝負の行方は解らない。その時、御主が何やら呪文を唱え始めた。

すると鼻先に刺さった剣から稲妻のような光が大蛇の身体を走り抜ける。一体何が起きたのか。稲妻は次から次に剣から放たれる。

奴の体はのけぞり、のたうちまわり始める。稲妻が体を縦横無尽に駆け抜け、痺れているのだろう。

私は知らぬ間に剣を放していた。今は御主一人で剣を支え稲光を放ち続けている。戦況は逆転した。

人心地ついた私は彼女が倒れていた場所へ目を向ける。するとそこには彼女を抱きかかえ解放する女性がいた。どうやら胎蔵界様のようだ。優しく抱きかかえる胎蔵界様の聲が聞こえる。

「ハル、しっかりしなさい。いま、御主が大蛇の動きを止めているわ。もう一人の役立たずもどうにか生きているわよ」

 胎蔵界様は相も変わらず、毒舌を遺憾無く発揮している。それにしても役立たずとは少し言い過ぎではないか。自分なりに彼女の力になりたいと頑張っているつもりだ。すると胎蔵界様は続けて話し始めた。

「子供の使いくらいにはなっているわ」

 結局、役に立っていないのでは。

「ハル。あの剣を爆破させなさい」

 胎蔵界様は彼女の身体を支えながら立ち上がる。彼女は両手で印をむすぶと呪文を唱え始めた。

「オン アボキャ ベイロシャノウ マカボダラ マニ ハンドマ ジンバラ ハラハリタヤ ウン」

 私は何を言っているのかさっぱりわからない。すると御主が説明してくれた。

「大日如来よ。偉大なる印を有する御方よ。宝珠よ、蓮華よ、光偉大なる印を有する御方よ。光明を放ち給え。そう言っておるのじゃ」

 要するに胎蔵界様に力を貸してくださいと言っているのだろう。御主の説明では余計に判らない。

彼女が呪文を唱え終わると、大蛇に刺さっている剣が光りはじめた。剣はすでに御主の手から離れ稲妻は流れ続けている。次の瞬間、剣先が真っ赤に染まり、大きな音をたて爆発する。想像以上の爆風に、私はその場で尻もちを着く。辺りには白い煙が充満し大蛇の姿が見えない。しかし、今まで感じていた禍々しい妖気は消えた。

しだいに白い煙がおさまり辺りの様子が見え始めた。

目の前には頭が粉々に砕け散り、黒く太い胴だけが横たわっている。飛び散った肉をよく見ると、その破片までも真っ黒だ。まるで辺りは黒の碁石を散らしたようになっている。闇の者たちは本当に黒が好きらしい。

私は尻もちを着いたまま大きく息を吐く。どうにかまだ生きている。安心すると今度は全身の力が抜け、その場に寝転がる。

終わった。私たちは勝ったのだ。隣で幣立神宮御主が小躍りしている姿が見える。スイカの種のような目が、今はさらに小さくなりゴマのようになっている。

元気な老人の神様だ。老人と言っても歳は一万五千歳だ。すでに老人と言うレベルではない。老人の次はなんて呼ぶのだろう。翁、白骨体、仙人、神。やはり神なのだろう。私の頭の中ではどうでも良いことが堂々巡りする。

彼女に目を向けると胎蔵界様に支えられ再び地面に座っている。胎蔵界様もあの毒舌が無ければ良い人なのだが。あっ、人では無かった神様だった。人の姿をして近くにいるので、つい神様だと言う事を忘れてしまう。もしかするとあの毒舌も私達への叱咤激励なのかもしれない。力尽きた彼女を支える胎蔵界様の姿からは、愛がにじみ出ている。本当の姿はやはり慈愛に満ちた神様なのだろう。

 私たちを閉じ込めていた裏の世界の壁が少しずつ崩れ始めた。日の光が徐々に私たちのもとに差し込んで来る。暖かい光だ。太陽の日差しがこれほど愛おしく思った事はなかった。日の光が届かぬ裏の世界は居心地が悪い。

裏の結界が完全に崩れ去ると、胎蔵界様と幣立神宮御主の姿も消えた。私たちはマンションの部屋の中で座り込む。

気が付けば目の前に青年が気を失い、倒れている。私は壁に手を付きやっとの思いで立ち上がる。ハルさんのそばまで行くと「大丈夫ですか。立てますか」と声を掛ける。彼女は頷きながら私が出した手を取り立ち上がった。

顔は青白くなり、かなり疲れているようだ。私は彼女の手を取り部屋の奥に進む。リビングにはテーブルと椅子があり、彼女を一旦その椅子に座らせる。次に倒れている青年に近づき体をゆすりながら声を掛ける。

「大丈夫ですか。私の声が聞こえますか」

 すると彼の指先がかすかに動く。ゆっくり目を開くと私を見るなり急に取り乱した。

「この部屋には化け物の大蛇が居ます。早く逃げてください。奴は不思議な力を使い襲ってきます」

私はうろたえる彼をなだめ、大蛇はすでに退治したと話す。すると彼は座ったまま突然堰を切ったように泣き始めた。私はなすすべなくその場に立ちすくむ。するとリビングから彼女の声が聞こえる。

「自分で引き寄せた悪魔にもう少しで呑み込まれるとこでしたね。もう大丈夫ですよ」

 彼女の話しを聞くと、彼はさらにぽろぽろと大粒の涙を流しはじめる。静まり返った部屋の中で彼の鳴き声だけがこだまする。

しばらく泣き続けた彼は気持ちが落ち着いたのか、部屋は静まり返る。リビングでは疲れた顔をしたハルさんがこちらの様子を伺いながら、ゆっくり話し始めた。

「少し落ち着きましたか。この事件に巻き込まれ、今なお因縁が憑いている赤ちゃんがいます。その子の因縁を払い助けるため、あなたがこれまで行ってきたことを話してもらえませんか」

 彼女は小さい子供に話しかけるかのように優しく彼に話す。

「因縁の憑いた子供の事は知っています。その子に因縁を憑けたのも私です。正確に言うとあの大蛇が私の身体を乗っ取り子供に因縁を憑けました」

 青年はゆっくりとした口調で話す。

「そうでしたか。いま、その子と親御さんが近くにいます。一緒に話を聞いてもよろしいですか」

 彼はゆっくりうなずいた。彼女は私に斎藤さん家族を迎えに行くよう伝えた。私は立ち上がると体のあちこちが痛いのに気付く。残り少ない力を振り絞り、斎藤さんを呼びに車に向かった。

階段を降りる際、膝が笑いカクカクとロボットのような歩き方になる。大蛇との戦いで、地面を踏ん張りすぎて筋肉痛になっているのだろう。しかし実際あの大蛇を支えていたのは御主だった。きっと私は何の役にも立っていないのだろう。そう思うと余計に体に力が入らない。

どうにか駐車場までたどり着くとパグに事情を話し、みんなで彼の部屋に向かうことになった。

私は彼の部屋に戻るため階段に足を掛ける。すると思ったほど足が上がっておらず、一段目から躓き転ぶ。パグはどうしたのかと困惑の表情を浮かべた。私は何事もなかったように立ち上がり再び階段を登り始める。

思う様に足が上がらず手で交互に足を持ち上げ階段を登る。私の身体は自分でも驚くほど自由が利かず、操り人形にでもなった気分だ。後ろで唯奈さんが小声で笑う声が聞こえる。不思議と恥ずかしさは感じない。私は闇の者達との戦いで役に立たなかった。せめてこれくらい役に立たなければ、と思っていたからだ。もしかすると、私はもうこの世にいなかったかもしれないのだ。今頃、斎藤さんの父親と一緒に、三途の川を渡っていたかもしれない。これくらいで済んで神々とハルさんには感謝せねば。しかし青年の家も二階だったらよかったのに。よりによって最上階の五階までこんな歩き方をしなければならないと思うと気が滅入る。時間はかかったがどうにか彼の部屋までたどり着いた。

あらためて部屋の中を見ると綺麗に片付いていた。片付いているというより、この部屋には極端に物が少ない。テレビも無ければオーディオやタンスなども見当たらない。目に止まるのは冷蔵庫と電子レンジ、食器棚にはコップがまばらに置いてあるだけだ。かろうじてリビングにテーブルと椅子が四つある。

リビングの椅子には青年とハルさん、その正面斎藤さん一家が座った。私はテーブルの近くでフローリングの床に直接腰を下ろすことにした。座る際、膝がカクンと曲がり床に勢いよく尻もちをつく。おかげで全員の目が私に集まる。私は頭を掻きながら苦笑いした。

 全員がリビングに揃うとハルさんが青年に家族を紹介する。青年は立ち上がると集まったみんなに深々とお辞儀をしながら話し始めた。

「青山健司と申します。この度は大変ご迷惑おかけし申し訳ございません」

 彼の名前を聞くとパグは「あっ」と言う声を漏らし彼をマジマジと見る。その姿はお化けにでも出くわしたかのように目を皿のように見開いている。

「もしかして青山さんは十五年前に裁判を行った相手の子供さんですか」

「そうです。あの時裁判で負けたのは私の母です。あの事件が私たちの人生を大きく変えることになりした。当時、私は七歳でした」

すると青山さんは昔の事を思い起こし話し始めた。

「事件当日、母は遅くなると聞いていたので夕飯を済ませ寝ていました。夜中、玄関が開く音が聞こえ私は目を覚ましました。母が帰って来たと思いました。しかしその時、玄関から聞き覚えのない男性の声が聞こえ私はベッドから起き上がりました。廊下を歩く足音が不規則で、母と一緒に男の人も部屋に入ってきました」

 彼は当時の事を思い出したのか、瞳の中に恐怖の色が見えた。

「その後、母の寝室の扉が開く音がしました。私は怖くなり目をつぶり布団の中に潜り込みました。布団の中で震えていると急にトイレに行きたくなり、どうしても我慢で出来ず私は息を殺しトイレに向かいました。トイレには母の寝室の前を通らなければ行けません」

 知らない男性が部屋に上がり込み、彼は身の縮む思いでトイレに向かったのだろう。

「母の寝室の前を通り抜ける際、ドアが少し空いており隙間から男の人が母に馬乗りになっている姿が見えました。部屋の中は豆電球が付いており、何をしているのかは分かりません。私は母が殺されると思い、急に怖くなりそのまま自分の部屋に戻ると再び布団をかぶり震えていました」

 青山さんからパグに目を向けると彼の表情が曇り始めた。この事件は彼が入社二年目に担当した事件だった。その時の記録と、今の話しにどこか食い違っているのだろうか。パグは青年の話を食い入るように聞いている。

「どれくらい時間が過ぎたのでしょうか、再び玄関が閉まる音が聞こえ私は男の人が出て行ったのだと思いました。私は布団から飛び起き母の寝室に向かいました。すると母はベッドで寝息をたて寝ています。それまで早鐘のように鳴っていた心臓の音がよくやく治まりました。しかし母を見ると洋服ははだけ胸が見えています。その時は恐怖から解放され何も考えず、ベッドから落ちた掛布団を母に掛けると我慢していたトイレに急ぎ向かいました」

 当時、小学生だった彼は見ず知らずの男性が突然家に現れ、その不安と恐怖はただならぬものだっただろう。彼にとって母親意外に頼る人もいない。

「その後、母は裁判を起こしあの日母の身に何が起こったのか知ることになりました。今思えばあの時、母が泣き寝入りせず裁判で争った事はとても勇気のいった事なのだろうと思います。しかし当時の私に、その裁判の内容が十分わかっていませんでした」

 確かに七歳の子供に準強制性交等罪のことを説明しても理解できないだろう。

「裁判が新聞などで取り上げられ、母は会社や住んでいる所で白い目で見られるようになります。裁判も負けると勤めていた会社も辞め、その場から逃げるようにマンションも引っ越しました。私は母に「なんで引っ越すの」としきりに聞いていました。しかし母は悪いのは相手の男性だと言うばかりで一体何が起きているのか私には分かりませんでした」

 パグは昔を思い出し、重苦しい表情で話し始めた。

「強制性交等罪の裁判では、目撃者などの第三者がいないため、当事者二人の話と現場の状況のみが裁判の判断基準になります。また当時、女性に不利な判決が多かったのです。現在、スマホなどで現場の写真を残すことが出来、適切な裁判が行えるようになっています。あの裁判では、現場検証での証拠があまりにも少なく、七歳だったあなたの証言も曖昧だったため証拠としては認められませんでした」

 パグはやり切れない思いが表情に現れている。当時、強制性交等罪の裁判が難しかった事が伺える。その時ハルさんが青年に問いかけた。

「その時に闇の者と何か契約を結びませんでしたか」

 彼は痛みに耐える様な表情で話し始めた。

「おっしゃる通りです。裁判に敗れると、私たちの生活は一変して学校でも仲の良かった友達が急に私の周りから離れていきました。私はいつも通り学校に通っているのに。何も悪いことなどしていないのに。突然、みんなの心が手のひらを返したように変わり何が何だか分かりませんでした。最後はここから逃げ出したい一心で闇の者と契約を交わしました」

 周りの親が子供に裁判の事を話したのだろう。その際、子供にどう伝えたのかは解らない。しかし今後彼と遊ばないように言ったのだろう。初め数人の子供が彼を仲間外れにし、それが伝染していったのだろう。子供は無邪気な分、時に残酷な行動をとる。

「学校から帰り家で一人寂しく過ごしていると一匹の黒蛇が現れました。私は驚き急いでその場を離れようとすると蛇は私に話しかけてきたのです。『なぜお前がこんな目に遇わないといけないじゃ。理不尽じゃのう。一人で寂しいじゃろう。ワシが仲間外れにした者達に罰を与えてやろうか』そう言うのです。その聲は私の心に直接話しかけます。私は怖くなり家からすぐに逃げ出しました。しかしその後も蛇は私の前に現れ、一人で過ごす私はいつしか彼の聲に耳を傾けるようになりました」

 ハルさんの目は深い悲しみに満ちている。部屋に漂う空気も重苦しい。

「私は何も悪いことなどしていない。悪いのはあいつらだ。気が付くと私は彼の話に染まっていました。私は彼と契約を結びました。彼は私を仲間外れにした友人達に復讐を行い、私はその代り心と体を彼に貸すことになりました。それからしばらくすると、私を仲間外れにした友達が次々と怪我や病気をして学校を休む事になりました。思い描いた復讐が現実の物となり私は怖くなりました」

 実際、仕返しを考えたことが現実に起きれば恐ろしいだろう。それにしても闇の者は、心の弱った者につけ込むすべを知っている。

「その代償として、彼は寝ている部屋に現れると私の身体に入り込みました。すると寝ている部屋が急に草原に変わりました。彼は私の身体を使いその草原に青白い塔を建てました。建てられた塔は急に赤く光り出し、私の体も燃えるように熱くなります」

 おそらく最初に建てた闇の塔だろう。それにしても奴はなぜ彼を選んだのだろう。彼に特別な事情でもあるのだろうか。

「その後、気がつくと私は部屋で寝ていました。私は夢を見ていたのだろうと思い再び眠りに着こうとすると部屋の中で何か燃えたような匂いがしました。辺りを見渡してもそれらしいものは見当たらず私は気のせいだと思いそのまま眠りにつきました。それからしばらくすると母が急に引っ越すと言い出しました。引っ越した先の学校でも裁判の事を知る人がいて、再び学校でいじめられることになります」

 彼は負の循環から抜けだすことが出来なかったのだろう。ハルさんは「他にも闇の塔を建てませんでしたか」と問いかけると彼は「全部で四つの塔を建てました」と答えた。

「二つ目の塔は中学二年生の時です。いじめは中学に入ってからも続き、小学校の時より陰湿になり私は精神的に追い詰められていました。ある日の下校途中、私をいじめていた三人が前を歩いていました。私は彼らに気付かれないよう、後ろをゆっくり歩きました。するとその三人は同じクラスでいじめられていた男の子を取り囲むとお金を催促しています。その子は彼らにお金を渡すとその場を逃げるように走り去りました。私はその様子を見て、怒りを抑えられなくなります」

 今のいじめはより陰湿で相手を追い込むようないじめが多いように思う。SNSでのいじめや恐喝など、いじめられる側にすると拷問に等しい。私は眉をひそめ話の続きを聞いた。

「その時どこからともなく黒蛇の聲が聞こえました。『あんな奴、死んでしまえばいいのにのう。ワシが殺してやろうか』私は怒りに任せ彼の言葉に従い三人を殺せとつぶやきました」

 二件目の交通事故で運転手が「三人を殺せ」と言う声がしたと言っていた。彼の声がテレパシーでドライバーの心に直接伝わったのだろうか。それにしても青山さんの怒りを上手く利用したものだ。闇の者はこの場所で生徒が恐喝する事を知っていたのだろうか。あまりにも話が出来すぎているように感じる。

「私がつぶやくと直後に一台の車が歩道を乗り上げ三人に突っ込んで行きました。車は三人を跳ね飛ばし店舗の壁に激突し止まりました。飛ばされた三人は地面に叩きつけられそのまま動かなくなりました」

これで二件目の事件が繋がった。青年の話をここにいる全員が固唾を飲んで聞いている。特にパグは自分の関わった事件の真相を知り顔が真っ青になっている。

「私は怖くなりその場を立ち去ろうとしました。その時、黒蛇が突然私の身体に乗り移りました。彼は私の身体を使い、再び塔を建てたのです。塔を建て終わるとすぐに私から離れました。その時の黒蛇の姿は前回見た時より体が二回りほど大きくなっていました。体の自由が戻ると私は急いでその場から逃げ去りました。結局私をいじめていた者達は全治一か月ほどの怪我を負い、死ぬ事は有りませんでした。その時私は失望とどこか心の中でほっとした気持ちが複雑に混ざり合っていました。怪我が回復すると彼らは何事もなかったように再び私をいじめます」

 二件目の事件の真相がわかった。残るは新宿の暴行事件と父親の家にあった塔だ。彼の隣に座るハルさんが気の毒そうに彼を見ながら話す。

「いろんな不幸が重なり辛い人生を歩まれてきたのですね。その後、三件目の塔はどこに建てたのですか」

 彼女の問いかけに彼はうつむいたまま話を続けた。

「次に建てたのは新宿です」

 やはり二年前に起きた新宿のバーの傷害事件の事だろう。私はあの事件の報告書を思い起こし彼の話に耳を傾ける。

「高校を卒業すると同時に私は一人暮らしを始め、新宿にあるバーで勤めることになりました。バーでは色んなお客さんと接することが出来、仕事を楽しんでいました。塔を建てた日はある大学生が店の中で喧嘩を始めそれをきっかけに塔を建てる事になります。その学生は店の常連で、彼女や友達とよく訪れていました。私もカウンター越しに何度か彼と話しをしていました。彼の家はお金持ちらしく何不自由ない生活を送っていた様です」

 お金持ちのボンボンなのだろう。お客なので話を合わせるのは仕方ない。

「ある日その学生が友人を連れ、この店を訪れました。その友人の顔を見て私は驚きました。その友人とは中学時代私をいじめていた三人のうちの一人で、車に引かれた同級生でした。私は二人に気付かれないよう仕事をしていました。店内は薄暗く、同級生は私の事に気付いていません。しかし追加の飲み物をテーブルに運ぶ際、彼は私の事に気付きました。彼の目の奥には嫌な光が宿り私はグラスを置くと急いでその場を離れました。その後二人は私の昔話で盛り上がっていました」

 ハルさんがどういう訳か彼の後ろを気にしている。私は眼鏡を掛けているが何も見えない。一体何が気になるのだろう。

「彼らが店を出るころにはお酒も回り目は座っていました。同級生はすれ違いざま私に虫けらと罵り、隣の彼は私を蔑んだ目で見ています。私の顔は凍りつき、握っていたピックで後ろから突き刺したいそんな衝動にかられました」

 相変わらず性格の悪い同級生である。恐らく死ぬまで変わらないのだろう。そのうち罰が当るに違いない。

「三日後、常連の彼は一人で店を訪れました。その日は付き合っていた彼女に振られひどく落ち込んでいました。私は前回帰り際に見せたあの蔑んだ目を思い出し彼の話をまともに聞く気にはなれません。彼はそんな私の態度が気に食わなかったのか、先日一緒に訪れた同級生の話を私にします。彼は中学の時のいじめを面白おかしく私に話すのです。私は耳を塞ぎたい思いでその話を聞く事になります。その後も彼はお構いなしに私の過去の話を続けます。私は怒りが込み上げ腹いせに心の中で別れた彼女の悪口を口走ります。すると彼は急に席を立ち上がり、周りを見渡すのです。もしかすると私の心の聲が彼に伝わったのかと思います。すると彼は隣のお客と目が合い、「今、お前が言ったのか」と叫び殴り掛かりました」

 新宿の事件の真相がわかった。意外な展開にパグは戸惑い、落ちつかないのか足元は貧乏ゆすりをしている。思いがけない事件の真相に驚いているようだ。彼は話を続けた。

「その後は警察が訪れ、騒ぎを起こした彼はそのまま警察に連行されました。仕事を終え、片づけをしていると店の中で青白く光る塔が建っていました。いつの間にあの塔を建てなのだろう。私は不思議に思いましたが塔を建てた覚えは有りませんでした」

 黒蛇が知らぬ間に彼の身体を借り闇の塔を建てたのだろう。

「家に帰ると意外な者が待っていました。あの蛇です。蛇の身体は一段と大きくなり私の部屋に納まらないほどの大きさになっていました。『今日は愉快だったな』と話しかけてきました。私はその話しを無視しました。部屋に入るといつの間にか窓の外に赤い塔が建っています。私は不審に思い彼に問いかけました。なんのために塔をいくつも建てているのかと。すると彼は少し考えるそぶりをし、こう答えました。『封印を解きあの方を復活させるためだ』あの方とは誰の事なのか、そう問いかけるとお前が知る必要は無いと怒鳴られました。ただ、彼は最後にもう一つ塔を建ててもらうと言います。私が断ると彼は不気味な笑い声を残し私の部屋から消えて行きました」

これで四つの塔の真相が明らかになった。パズルのピースは徐々に組上がって行く。

 残り一つは、おそらく父親の家の塔の事だろう。しかし、闇の者達は誰を復活させ、いったい何をするのだろう。私は不思議に思いハルさんを見ると彼女の目線は別の場所を向いている。胎蔵界様か御主とでも話をしているのだろうか。私は眼鏡に手をかけ辺りを見渡すがなにも見えない。

「翌朝目が覚めると、私の部屋に再び彼がやってきました。私は彼の話しに耳を貸さず、身支度を済ませ出かける準備をします。すると彼は私の身体に突然入り、体の自由を奪いました。私は意識があるものの身体の自由は利きません。私は奴に操られるまま電車に乗り、知らない公園へ連れていかれました」

 黒蛇は最後の塔を建てるため強硬手段に出たのだろう。

「小さな児童公園では親子連れが砂場や滑り台で遊んでいました。私はベンチに座らされ、その様子を眺めていました。すると一人の老人が公園に入ってきました。老人と言ってもまだ六十代くらいで足取りも軽く、私が座るベンチの近くに座りました。すると私の身体はひとりでに動き出し彼の隣に座ります。そこで二人は公園で遊ぶ親子連れを眺めていました」

 斎藤さんの父親の登場である。先ほど父親が話していた青年と話が一致している。

「私は体と心の自由を奪われ、黒蛇が代りに老人と話します。一人で生きて意味があるのか、とそう諭す様に彼と話しをしていました。同時に心の奥で黒蛇の呪文が聞こえてきました。するとその老人の様子が変わり何かを思いつめたような表情に変わりました。私はきっとその老人の心の隙間につけ込み術を掛けたのだと思いました。その後老人はうつろな目で公園を去って行きました。しばらくすると黒蛇は私の体から抜け、身体の自由が利くようになりました。去り際、彼のせせら笑う声が聞こえ、私は背中に虫唾が走りました」

 恐らく黒蛇は父親を操り自殺に追い込んだのだろう。悪魔のささやきに人の心はいとも簡単に染まるのか。

「体の自由が戻ったものの体が重く感じ直ぐに立ち上がる事が出来ませんでした。しばらく公園で親子連れの様子を目で追い休んでいました。仕事の時間が迫り駅に向かう事にしました。帰り道、ある一軒の庭から青白く光るあの塔が視えました。頭によぎったのは先ほどの老人です。私は家の中の様子を探りましたが物音はおろか、人の気配もしません。その時妙に嫌な気配が心の中に流れ込んで来ました。それはどす黒いドロドロとしたもので黒蛇のものです」

 奴が父親を自殺に追い込んだ妖気がまだ家の中に残っていたのだろうか。おそらく父親はその時すでに亡くなっていたのだろう。これで五つの塔が揃った。彼の話を聞き終えたハルさんは斎藤さん夫婦を見ながら話し始めた。

「おそらく五つの塔は、結界で閉じ込められた魔物を復活させるため敷かれた逆五芒星と言う魔法陣でしょう」

 彼女の話に合わせ私はカバンから地図を取り出しテーブルの上に広げた。ハルさんはその地図を見ながら話を続ける。

「逆五芒星とは五芒星の星形が上下逆さまになった形で通称デビルスターと呼ばれています。悪魔の力を持つとされるデビルスターで閉じ込められた結界を破るつもりだったのでしょう。その魔法陣とは別に、復活のため有紀ちゃんの力が必要となり因縁をつけたのだと思います。」

 パグは雷に打たれたように身体が固まっている。部屋の中ではしばらくの間、沈黙が支配する。やっと我に返ったパグは彼女に問いかけた。

「父を自殺に追い込み、私がこの家を買う事までを予想していたというのですか」

「いいえ。彼らは初めから作り上げたストーリーに沿いあなたとお父様、そして青山さんを動かし利用したのです。初めから斎藤さんは彼らの住処に家を建てるよう仕組んであったのです。その後、予定通り有紀ちゃんが生まれます。なにもかも彼らの予定通りに物事が進んでいたのです」

 闇の力も神様並みである。しかし私たちの人生は自分で選択している様で、実は不思議な力に導かれているのだろう。意外な展開に映画でも観ているようなそんな感覚に陥った。ハルさんは続けて話をする。

「塔を壊した今も有紀ちゃんの因縁は解けていません。このままでは一生因縁を抱え過ごすことになるかもしれません」

 唯奈さんの表情に不安と戸惑いの色が現れた。隣でパグも眉間に皺を寄せ表情が硬くなっている。

「私はこれから魔物が閉じ込められている祠の結界を解き、その者を祓い有紀ちゃんの因縁を解こうと思います」

 今度は私が慌てふためき口を挟んだ。

「待ってください。逆五芒星の陣を引いても破れないほどの力で封じている魔物を、わざわざ解き放つ必要があるのですか。ハルさんには魔物を祓う秘策でも有るのですか」

「秘策などないわ。しかし魔物がこの世に生きているかぎり再び同じような事が繰り返され、何の関係もない人々に不幸が訪れます。魔物は今、祓い滅する必要があるのです。有紀ちゃんを助けるすべはそれしか残っていないのです」

 彼女の瞳には、どんな厄介事も全部受けて立つ、そんな固い決意が現れている。魔物を払いこれまでの負の遺産を消し去りたいのだろう。私にこれ以上彼女を止めるすべはない。私は石臼の様に重くなった体を支えながら、先の見えない不安に駆られていた。部屋の中では再び沈黙が支配する。すると青年が顔を上げ彼女に向かい話し始めた。

「私のいままでの人生は、怒りや憎しみの感情だけで生きて来たような気がします。それもこれも私の心が弱く闇の者に頼ってきたせいでしょう。これ以上、僕みたいな人間を増やさないためにも必ず魔物を倒してください」

 彼の言葉にハルさんは頷き「負の連鎖は私が必ず止めます」と力強く答えていた。この部屋の中では三者三様の表情を浮かべている。斎藤さん夫婦は希望の光を見出したかのように微笑み、青年はいまだうつろな目をしている。ハルさんは有紀ちゃんを見つめ、その目には固い決意の炎が宿っていた。

窓から吹き込む風が心地よく、部屋に差し込む陽ざしを和らげてくれる。有紀ちゃんが眠りから覚め見知らぬ場所にとまどい鳴き始めた。私は最後の戦いを前に、泣きじゃくる彼女を見つめ決意を新たにする。

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