うちのお嬢様が婚約破棄されただって?

駒野沙月

第1話

「はあああ!?婚約破棄ぃ!?」


 水色、空色、ターコイズブルーにマリンブルー。この部屋は、濃淡さまざまな青色と優しい色味の白で染め上げられている。

 爽やかで上品な色合いのこの部屋で優雅にお茶を楽しんでいるのは、ドレス姿のご令嬢。長い青色の髪と銀の瞳が印象的な、少女らしさと大人びた雰囲気を兼ね備えた美貌の少女である。


 その艶やかな瞳に映るのは、口を四角くして叫ぶ執事の姿。

 それが僕、グレイ・サリマンである。


「レイ、声を抑えなさい。執事長に叱られるわよ」

「…申し訳ございません」


 紅茶のカップを傾けたままの主にぴしゃりと叱られた僕は、彼女の正面で渋々ながらも頭を下げた。

 渋々なのは、叱られるのが僕だけなのが気に食わないから。いくら僕が幼い頃からの付き合いで、かつ身辺近く仕える執事であるとはいえ、婚約者でもない男と自室で二人きりになるような真似をする貴女も、いつかメイド長辺りに叱られるべきだと思うんだが。


(…って。違う違う、そうじゃない)


 婚約破棄。まさか、彼女からそんな言葉を聞くことになろうとは。


 今僕たちが滞在しているのはモンタベルク王国という、山に囲まれた小国だ。この国の第一王子にして王位継承権第一位の立場にある、エリオス=モンタベルクという男がお嬢様の婚約者(元)だったわけだ。

 見かけは赤髪緑瞳の美男子であるエリオス王子なのだが、その中身は女好きで浪費家、勉学嫌いかつ無能なくせに、プライドと気位ばかりは高い…という、教科書通りと言ってもいいクズ男なのである。

 今日はそのクズ王子から珍しくご招待があり、何故か目の敵にされている(別に何かした覚えはないのだが)僕の代わりに、お嬢様はメイドを一人連れて出席されたのだが。


 その結果が、婚約破棄これである。予測していなかったわけではないが、本当にやってしまうとは思わなかった。


「…お嬢様、今一度確認したいのですが」

「なにかしら」

「お嬢様が婚約破棄『された』のですか?婚約破棄『なさった』のではなく?」

「…あなたは私を何だと思っているのかしら?」


 …おっと。いかに寛容な我が主でも、これは流石に失礼だったか。

「これは失礼致しました」と、僕は主に向かって軽く頭を下げる。だが、彼女が言葉ほどは怒っていないのはその声色で分かっている。すぐに頭を上げても…ほらね、怒ってない。

 それどころか、現在の彼女はむしろ機嫌が良いようにすら見えた。淑女教育の賜物か、常に顔に貼り付けている微笑は普段と同じだが、今の彼女はどこか肩の荷が下りたような、さっぱりした清々しい表情になられたように思う。


「それにしてもまあ…やってくれましたねぇ、あの馬鹿王子」

「流石の貴方も、婚約を破棄してくるとまでは予想できなかったでしょう」

「ですね。あちらは一体どんな理由をでっち上げてきたんです?並一通りの理由では、貴女との婚約破棄など認められないはずですけれど」


 貴族の婚姻は家同士で交わされた大切なもの。ましてやそれが次代の国王の婚約ともなれば、よっぽどの理由でもない限りそう簡単には認められない。

 そう思ったのだが、呆れたような様子のお嬢様の口から告げられた言葉に、僕は思わず耳を疑った。


「他に結婚したいご令嬢がいる、だそうよ」

「…はあ?」


 この主を差し置いてまで結婚したい相手?

 美貌も頭脳も礼節も兼ね備えた、理想を絵に描いたようなこの主に、一体どんな不満があると?


 …いや、問題はそこではない。

 仮にも次期国王と定められている男が、"他に結婚したい相手がいるから婚約を破棄する"だなんて、何故認められる?この国からすれば、侯爵家(この国の公爵家には適齢期のご令嬢はおられない)のご令嬢でさえ、この主よりも優先する理由にはなりえないはずなのに。


「ちなみに、そのお相手というのは一体どちらのご令嬢で?」

「さあ?覚えてないわ」

「…そうですか」


 このお嬢様は元より、記憶力が良い。上位貴族の嗜みとして、この国の貴族たちの名前と顔もすべて記憶しているというくらいだから、その記憶力は相当なものである。

 そんな彼女が、そのご令嬢を"覚えていない"。ということは、その令嬢の身分が取るに足らないほどのものだったのだろうか。

 …それとも、覚えていたくもないような女だったのだろうか?


「レイ」


 静かな声に、執事服の襟元に手を伸ばそうとしていた手がぴくりと止まる。顔を上げれば、こちらをじっと見つめる主の姿がそこにあった。

 声と同じくらい静かにこちらを睨む銀の瞳と目が合えば、彼女は窘めるように言葉を紡ぐ。


「何をしようとしているか知らないけど、手出しは無用よ」

「…しかし」

「私の言うことが聞けないとでも?」

「…いえ」


 強い口調で窘められ、僕はのろのろと手を降ろした。

 膝に置いた手が震えているのが、自分でも分かる。こんな仕打ち、馬鹿にされたと言っても過言ではないのに。この主はそれでも良いと言うつもりなのか。


「…お嬢様は、同意されたのですか。こんなふざけた理由の婚約破棄など、貴女なら拒否することもできたでしょうに」

「ええ。元々そこまで乗り気じゃなかったし」


 僕の内心などお構いなしに、「むしろ好都合ね」とお嬢様はすまし顔だ。


「…そう、ですか」

「貴方としては、思う所でもあるのかしら」

「…いえ。お嬢様がお決めになられたことであるのなら、私に否やはございません」

「…そう」


 どこか不満そうに呟いて、お嬢様は「こんな話はもういいわ」と空気を変えるように首を振った。


「考えなければならないのは、これからのことよ」

「そうですね。…ああ、そういえば、お嬢様宛のお手紙が届いていましたが、ご覧になられましたか」

「ええ、見たわ」

「陛下は、何と?」

「簡単に言えば、『帰ってこい』ってことかしら。相変わらず、情報が早いわね」


 彼女はどこからか取り出した手紙を畳み、テーブルの上に置く。

 一度読んでしまったそれにはもはや興味はないのか、彼女はほんの少しだけお茶の残っていたカップに手をかけた。


「レイ、お代わりを頂戴」

「かしこまりました。…あっ」


 そういえば、缶の中の茶葉がもう残り少ないのだったと思い出す。

 婚約破棄の衝撃が強すぎて、すっかり忘れていた。


「あら、困ったわね。…そうだわ、この前お友達に頂いた茶葉がそこに」


 そう言って、お嬢様はソファからおもむろに立ち上がる。

 彼女の目線の先は、少し高い所にある戸棚の上。そこに、青を基調としたこの部屋にもよく似合う、落ち着いた色合いのお洒落な缶が置かれているのが見える。

 僕の背なら問題なく届くが、お嬢様だと背伸びしないと届かない。そんな高さだ。


「届くかしら…」

「お嬢様、私が取りますので」


 お座りください、という僕の言葉もお構いなく、お嬢様は棚の上へと腕を伸ばす。


「んん…届かないわ…。あと少しなのに」


 お嬢様は何度も手を伸ばすが、その手は毎回あと少しという所で届かず、空を掠めるばかり。

 そろそろ諦めて僕に任せるよう、場所を変わろうとしたその時、お嬢様の小さな指先が缶の角に触れた。真四角の形の缶が、棚の上でぐらっと揺れる。


「お嬢様っ!」

「きゃっ…!?」


 戸棚の端に置かれていた缶が倒れ、真下にいる僕たちの上に落ちてくる様子が、その時はスローモーションのようにゆっくりに見えた。即座にお嬢様を引き寄せ、落ちて来る缶から庇うように自らの身を投じる。


 ガシャンカラン、と音を立て、誰も居ない床に落ちていった缶は、蓋が外れて中身が零れる。見るからに上等そうな茶葉は零れてしまったが、ひとまずは怪我も無く大丈夫だったようだ。


 危ないところだったと息をついてから、腕の中を見下ろして…自分が何をやらかしたかを理解してしまった。


 腕に抱えた華奢で小柄な身体は、幼少期の一緒に遊んでいた時に比べれば当然成長なさってはいるけれど、あれからずっと背の伸びた自分からすればまだまだ小さく思える。それよりも、どこか柔らかな感触と温かさの方が、自分との違いを改めて自覚させてくる。

 きめ細やかな白い頬も、こちらを見上げる大きな瞳も、この距離では嫌でも目に入ってしまう。


 それらを見つめていたのはきっと、一秒にも満たない時間だったのだが。

 いつの間にか自分が、その小さな身体を抱き寄せてしまいそうになっていたことにふと気が付く。


 すぐに正気に戻り、長い睫毛に縁取られた月光のような銀瞳から急いで目を逸らしながらも、僕は彼女から手を離す。


「…お嬢様、お怪我は?」

「…ええ、大丈夫よ、ありがとう」


 軽く埃を掃って差し上げながら尋ねれば、お嬢様はか細い声でそう答えられた。

 ざっと見た感じでも怪我はないようで、内心安堵しながらも、僕はおどけたように答えてみせた。


「まったく…相変わらずお転婆なんですから」

「…もうお転婆じゃないわ」

「はいはい、お美しくなられましたね」


 さっきの衝撃で、日々手入れされているお嬢様の髪が少々乱れている。直してさしあげようかと手を差し伸べるけれど、お嬢様がびくっと体を強張らせたものだから、それはすぐに諦めた。


 ご自分で髪を直されているお嬢様を横目に、僕は落ちて来た茶葉の缶を拾い上げる。

 この惨状をこのままにしておくわけにはいかないが、誰か他の人に頼む訳にもいかない。今やこの屋敷の使用人たちの暗黙の了解と化しているとはいえ、二人きりの"お茶会"を直接見られるのは流石にまずいし、嫁入り前の主にあわや怪我をさせかけたなんて。

 もし明らかになれば、メイド長や執事長にこっぴどく叱られるに違いない。…いや、それだけでは済まないだろうか?


「…掃除用具を取りに行って参ります」

「…ええ」


 そして何よりも。この胸の高鳴りに、気づかれたくなくて。


 僕は、逃げるように部屋を出ていった。



 ◇◇◇



(あっぶなかったぁぁぁ…)


 部屋を出て数歩。僕は情けなくも、壁に縋りつくようにへたり込んだ。


 彼女の元に届いた手紙。その封蝋に刻まれるは、三日月とユリの花を象った意匠。

 これは、現在彼女が滞在するモンタベルク王国の隣に位置する大国、マリクレール王国を治める王家の紋章である。


 彼女のフルネームは"エレーナ=リコルネ=マリクレール"。


 マリクレールの姓が示す通り、彼女の真の身分はマリクレール王国第二王女。

 月明かりにも似た銀の瞳と、マリクレールの象徴とも言える海によく似た深い蒼の髪から"マリクレールの月光"と呼ばれ、国民にも広く親しまれる姫である。

 隣国のクズ野郎との婚約の話が出てからは、留学も兼ねてモンテベルクにやって来ていたが、


 一方、僕の生家・サリマン家はといえば、歴史こそ長い家柄ではあるものの、代々受け継いできた爵位は子爵。しかも僕はその三男で、当然跡継ぎになどなれるはずもない。

 何の因果か、こうしてお傍近くで仕えることになったが、この姫は本来、僕のような貧乏貴族には間近で拝見することすら叶わないようなお方。


 だからこそ、長い時と共に募ったこの想いは、心の内に秘めておかなければならないのだ。


(…本当に、お美しくなられましたね。姫様)


 いつの日か、主が心に決めた人物と結ばれ添い遂げるまで、一番近くで見守り続けること。

 それこそが、自分に課せられた役目なのだから。




 ◇◇◇



 専属の執事であり幼馴染でもある少年が退室した後。部屋では主の少女は何事も無かったかのように平然と腰掛け、少年の帰りを待っていた。

 しかし、その頬は微かに朱に染まっていることに、気づく者はいない。


 あの時、相手と自分の違いを自覚させられたのは、彼女も同じ。

 平静を装ってはいたものの、突如縮まった距離に胸を高鳴らせたのは、彼だけではなかったのである。


「…少しくらい、正直になってくれてもいいのに」


 ─レイのばか。


 少年と同じくらい、心に秘めた思いを拗らせた主は、ふくれっ面でそう呟いた。


 珍しく淑女らしからぬ表情を浮かべた彼女の姿を、彼が見ることはなかった。

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うちのお嬢様が婚約破棄されただって? 駒野沙月 @Satsuki_Komano

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